第三話
あれから三日たった十六日。
寧々さんとの関係は現在も続いている。
時刻は午後七時ごろ。
いつも通りならばそろそろ彼女が新しい料理を持ってきてくれる頃合いだ。
俺はいつにも増して楽しい毎日を送っていた。
呼び鈴が鳴った。
俺は玄関へ飛びつき、チェーンを外して玄関を押し開く。
「はい。待ってましたよ」
「えっ……」
しかしそこにいたのは、あの美しくも可憐で、透き通るような肌をした女性ではなかった。
——いや、確かに肌は白いのだが、彼女のように健康的ではなく、病的なまでに無駄な脂肪を削ぎ落としたかのような女の子。
声も寧々さんとは似ても似つかず、妙に甲高く、耳に痛い……。
「どうしたの秀二。そんな……もしかして誰か来る予定だった?」
目を丸くして首を傾げる彼女の名前は花桐結香。——俺の恋人だった。
肩にかかる程度の黒髪ストレートのセミロングに、ピンク色のメッシュが入った前髪。顔は小さく、目は大きい。唇は薄く、耳には二つ三つピアスをつけている。
彼女とは同じ大学に通う同級生で、サークルも同じ。
俺が一年生の時に加入したタイミングで彼女もやってきたのである。
細身で小顔、大きな瞳が特徴的で、サークル内では可愛い子が入ってきたと、いっとき話題にまでなっていた。
そんな彼女と俺は今、恋人関係にある。
突然の彼女からの告白に、大学デビューを果たしたばかりだった俺は飛び上がるほどに喜んだものだ。
童貞も驚くほど早くに捨てられた。
寧々さんと出会ったのはそれから一年が結果してのことである。
「いや、別に……誰も待ってないよ。それより、どうしたんだよ急に。今日来るなんて言ってなかっただろ」
動揺を声に出さないように努めながら、俺は彼女へぶっきらぼうに答える。
幸い彼女には気づかれなかったようで、結香はここへきた理由を話し始めた。
「うん。実はその……今日家で秀二が勧めてくれた恋愛映画を観たんだけど。それで、その……無性に秀二の顔が見たくなったって言うか……何と言うか……」
もじもじと体を揺らしながら、恥ずかしそうに話す結香。
最後の方の言葉は尻すぼみで上手く聞き取れない。
俺はそんな彼女にやや苛立ちを感じ始めていた。
時刻はすでに七時十分。そろそろ隣から寧々さんが現れてもおかしくない時間だ。
「ああそうか。ならもう満足だろ。俺、これから予定があるから。じゃあな……」
そう言って扉を閉めようとした瞬間、ガッと飛び出した手がそれを抑え込んだ。
「ちょっと待ってよ」
結香の手だった。
「ねえ秀二、今日泊めてくれない? お泊まりセットも持ってきたからさ。それにこの間のゲーム? の続きも見たいし。ねっ、いいでしょ?」
「ダメだって。予定があるって言っただろ。悪いけど、今日はもう帰ってくれ」
ドアを閉めようとする俺と、無理矢理にでも中へ入ろうとする結香。
二人が拮抗する中、突然結香の体がグラついた。
高いヒールの靴を履いていたためだろう。足を挫いてバランスを崩してしまったのである。
俺は咄嗟にドアを引いていた手を離した。
すると結香は今だ——と、扉を持つ手に力を込めると、無理矢理押し入ってきた。
「おい、結香——」
「えへへ、侵入成功」
結香は何事もなかったかのように、笑顔で扉を閉める。
「どう秀二、この服。今日買ったばっかりなんだー」
セーターの上に着た水色のダウンジャケットを、彼女は自慢するように見せびらかす。派手な色をしたピンク色のミニスカートがヒラリと舞う。
「ああ、いいんじゃない?」
俺は時計を確認する。
時刻は七時十五分をとうに過ぎていた。
「さっきもね、ここへ来る前に隣の大学生にいやらしい目で見られたんだあ。私の足をこう……ギラギラした目で見てきてね。ああ、思い出しただけでも鳥肌が立つ。私の体は秀二のものなのにいいって——」
彼女は両腕で自身の体を抱きしめながら、大袈裟に身震いして見せる。
「隣か……」
彼女が言っているのはおそらく五○三号室の方。
名前は確か……『コタニオサム』だったかな。
『コタニ』と言う漢字が小さいに渓と書いての『小渓』だったので、珍しい苗字だなと思って覚えている。
その部屋の人も確か同じ大学生で一人暮らし。
年齢は二つほど下で、黒髪のスポーツ刈り、ぽっちゃりとした体に丸々とした鼻が特徴的だった。
おそらくアニメオタクなのだろう。たまに隣の部屋から、アニソンと思しき曲が聞こえてくることがある。
しかし今大事なのは五○三号室のことではない。
反対側の五○五号室。
時間はすでに三十分近く経過している。
早く彼女を追い返さなければ、寧々さんと鉢合わせしてしまう。
そうなれば一巻の終わりだ。
俺は玄関の前にでんと立ちはだかって、結香の更なる侵入を防いだ。
するとさすがの結香も不信を抱き始めたのか、疑惑の目で俺を見上げた。
「どうして入れてくれないの?」
「だから予定があるって言っただろ」
「何の予定?」
「別にいいだろ、何でも。さっ、帰った帰った——」
俺は右手で払いながら、結香の退散を促す。
しかし彼女は頑として動こうとしない。
「やだ、帰らない」
「何でだよ」
「だって、今日の秀二おかしいもん」
「おかしいって何がだよ」
「全然中へ入れてくれないし、秀二が勧めた映画見たって言ったのに全然感想聞きにこないし……。秀二、何か隠し事してない?」
「え……」
結香はこの時はっきりと俺に疑いの眼差しを向けてきた。
——まずい……。
俺は心の中でそう直感したが、しかしそれでも俺は寧々さんとの用事を優先させたかった。
「何も隠してねえよ。映画の感想もまた今度聞くから、とにかく今日はもう帰ってくれ」
「いやだ、帰らない」
「いいから帰れ」
俺はもう埒が明かないと、無理矢理に結香を反対に向かせて、玄関のドアを開けた。そして結香を半ば強引に家の外へ押し出した。
「どうして秀二。ちょっと、待って——」
「じゃあな結香。泊まりはまた今度」
そして扉を、今度こそ手を入れる隙さえ与えないように素早く閉めた。
「開けてよ。開けてよ秀二——」
家の外では彼女が必死にドアを叩く音が聞こえる。
俺は用心のためにドアチェーンをかけた。
結香の声はしばらく続いた。
がしかし、それも二十分経たないうちに外は静かになった。
ようやく帰ったか……。
俺は安堵からのため息をこぼした。
時刻はすでに八時前にまでなっている。
その時だった。家の呼び鈴が再び音を鳴らしたのは……。
俺は同じ失敗を繰り返すまいと、慎重にドアスコープを覗き込む。
ドアの前に立っていたのは、白いタートルネックにカーディガンを羽織った雪原寧々だった。
いつものようにタッパを手にしている。
俺はすぐにドアチェーンを外すと、扉をゆっくり開いた。