第一話
駅から徒歩七分。住宅地に建てられた十階建ての中高層型マンション。
鉄筋コンクリートでできた建物の五階。その五○四号室に俺は住んでいる。
福峰秀二。
年齢は二十一歳の大学三年生で、現在就職活動の準備で大忙し。
趣味はこれといったものはなく、大学では登山サークルに加入している。
現在十二月十二日。季節は冬。
そのため登山サークルはお休み。
することもないので、この時期はいつもバイトの数を増やしながら、来年最後となるサークルの活動資金を貯めている最中なのであった。
時刻は午後七時ごろ。
バイトから帰ってきた俺はリビングに置いているテレビをつけ、煙草を吸いながら時間を潰していた。
その時、呼び鈴が鳴った。
この時間に訪れる人は珍しい。
可能性があるとすれば、結香ぐらいだろうか……。
俺は煙草の火をもみ消すと、すぐに玄関へ向かいドアを開けた。
当然、ドアチェーンはかけたまま。
「こんばんは」
透き通るような声。耳に優しく、どこか温かみを感じさせるその美声に、俺は思考が停止するほど驚いてしまった。
わずかに開いた扉から顔を覗かせた彼女は、この寒空を忘れさせてくれるほどの美しい笑みを見せてくれた。
「あっ、えっと……お隣の……」
「すみません突然。えっと……今、お時間大丈夫ですか?」
「え、ええ……もちろん。全然大丈夫ですよ。いつも暇しているようなものですから」
俺の咄嗟に出た軽いジョークに、彼女はふふっと上品に笑ってみせる。
その仕草がたまらなく美しく、それと同時に俺の心には少しだけ余裕が生まれた。
彼女は俺の隣、五○五号室に住んでいる男——『エンドウマサカズ』の恋人。
『エンドウ』は扉の表札で『遠洞』と書くことは知っているが名前は知らない。
彼女はその遠洞と言う男性と現在同棲生活をしている。
名前は『ネネ』と言う……らしい。
らしい、と言葉を曖昧にしたのもそのはずで、俺は今回、彼女と初めてまともな会話をする。
いつもはすれ違うたびに挨拶を交わす程度で、彼女の名前も朝出かける時に、遠洞と言う男が彼女へそう呼びかけている場面を目撃したからに過ぎないのである。
整った目鼻立ちに、透き通るように白い肌。流れるように伸ばした焦茶色は先端が内側へと軽くウェーブしている。
今着ている服も白いニットに、薄ピンク色のロングスカートと上品で、足元に至っては少し出かける程度だからなのか、可愛らしいサンダルを履いていた。
「今開けます」と言って、俺は一度ドアを閉めると、スマホのカメラで自分の容姿を素早く確認した。
バイトに行ってきたばかりなので、それほど髪型は崩れていない。
ワックスでふんわり決めた黒髪が、いい感じに決まっている。
閉じたスマホをズボンのポケットに押し込むと、俺はすぐにドアチェーンを外し、扉を開けた。
「あの……どうされたんですか、こんな時間に。あいや、別に迷惑ってわけじゃないんですけど、あまりにも突然だったので、本当に驚いてしまって……」
俺はドギマギしながらも、彼女の急な来訪の訳を訊ねた。
ずっと横目で見る程度だった女性が、突然俺の家を訪ねてきたのだ。嬉しいは当然あるが、それ以上に今は戸惑いが優っている。
彼女はもじもじとしながら、軽く頭を下げた。
「えっと……私、雪原寧々と言いまして……」
——寧々と言う名前は知っていたが、そうか……苗字は雪原と言うのか……。
雪のように白い彼女にはぴったりな苗字だと思った。
彼女は頭を戻すと、俺の顔を真正面に見つめ、真剣な眼差しへと変えた。
眉をくっと傾けた表情はなんとも美しく、俺の鼓動はどきりと跳ね上がった。
「ご夕飯はもう召し上がられましたか?」
「えっ……」
いきなりの変化球をかけられた質問に、俺の思考が一時混乱を見せる。
俺の混乱を見て気がついたのか、彼女は慌てて言い添えた。
「あのすみません。その、つい先ほど玄関を開ける音が聞こえたので、それでその……もしまだ夕飯がお済みでないのなら、その……」
彼女は気恥ずかしそうに視線を下げる。
その姿が可愛らしく、つい見惚れてしまう。
「実は今、マサカズさんが出張でしばらくいなくて、それで私……そのことを忘れて夕飯を作り過ぎてしまって、その……よろしければ食べていただけませんか?」
そう言って彼女は俺の顔を見上げた。
上目遣いの瞳が、俺の目を真っ直ぐに見つめ返している。
俺の答えは決まっていた。
「も、もちろんです。是非是非いただきます」
大喜びで了承した俺に、彼女はパッと表情を明るくさせると、
「本当ですか。よかった……実は断られたらどうしようかと思っていたんです」
両手を合わせて同じように喜びをあらわにした。
彼女は「すぐに持ってきますね」と、隣の五○五号室へ一時戻ると、すぐに大きなタッパを携えて帰ってきた。
中には茶色いカレーが並々と入れられている。
「味はその……あまり自信はないんですが、その……よろしくお願いします」
彼女は頭を下げながら俺に差し出した。
「はい。こちらこそ、喜んでいただきます」
俺の方も深々と頭を下げてそれを受け取る。
それから俺はもう一度お礼を言って帰っていく彼女の後ろ姿を見送った後、早速炊飯器の電源を入れた。
彼女から貰ったタッパは電子レンジへと投入する。
数十分後。
皿にご飯をよそい、温まったカレーをタッパから移す。
それでもカレーはまだ、もう一杯分ぐらいは残ったが、とりあえず俺はスプーンを手に一口頬張った。
「……ん?」
彼女から貰ったカレーは……とても不思議な味がした。
不味くはない……のだが、何と言うんだろうか。
とても口では言い表せないような、何とも難しい味が口に残った。
このカレーはポークカレーだろうか……。
肉にしても、いつも食べているものとは何かが違うような……そんな気がして、俺は二口目にありついた。
やはり……何か変……。
しかしその理由がわからないまま、結局俺は一皿分全て平らげた。
平らげて尚、一風変わった後味に首を傾げるばかりだった。
「まあ、家庭の味は人それぞれだもんな……」
俺はすぐに考えるのをやめた。
残ったカレーはまた明日の朝にでも食べようと、タッパごと冷蔵庫へとしまった。