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始まりはここから

奥館(おくだて) (こよみ)と申します。

本作は春の推理2023という企画で『隣人』をテーマに書いた作品です。

総文字数はだいたい15000文字の短編小説で、たぶん……読みやすい、です。

限られた時間をこの作品へ割いて頂けることに最大の感謝を——。

 今、室内は驚くほど静まり返っている。


 近くを通る車の音や、遠くから鳴る救急車のサイレンが聴こえるだけで、この部屋から発生する音は一つもない。


 暗がりの中、一人の女性が床にへたり込んでいる。

 室内は凍り付くように寒く、女の吐く息は白い。朦朧とした意識のまま、床に投げ下ろされた腕に力はない。


 手元には灰皿。

 黒いシミをつけたガラスの塊がフローリングに転がっている。


 口をポカンと開け、力なく開いた瞳で、床にあるものをじっと見つめる。


 女の前には男性が横たわる。

 うつ伏せに倒れ、腕をくの字に折り、足はぐにゃりと曲がっている。

 頭には液体がこびりつき、カーテンの隙間から漏れた光がそれをぬらりと照り返している。

 口は歪に歪み、目玉が飛び出しそうなほどに開かれた双眸は「なぜ、どうして?」と訴えかけているようだった。


 女は呆然とした意識の中で男を見下ろしている。


 どうしてこうなった……。

 こんなことをするつもりではなかった……。

 私はただ……ただ……。


 動かなくなった男を見つめながら、ようやく女は自分の犯した過ちを再確認する。


 テーブルに置いてあった灰皿を咄嗟に掴み取り、男の背後から思いっきり振り下ろした。

 ゴンッという鈍い衝撃が女の腕に伝わる。

 男は床に倒れ伏すと、小刻みに体を痙攣させたのち、それっきり微動だにしなくなった。

 そして女はそこへ、もう一撃……。


 一時間以上はこうしているだろうか……。


 現実味のない、曖昧な記憶。今こうしている自分は偽りで、ある瞬間唐突にベッドで目が覚めるのではないかと期待している自分がいる。


 だが、腕に残った重い衝撃が、これが夢ではないと囁いている。


 鈍い音と引き換えに、何かを奪われてしまったかのような空虚感。

 魂の一部を悪魔にでも売り渡したかのような、あの心にポッカリと開いてしまった空洞。


 そうだ……。そうだ、悪魔だ——。


 これは悪魔の仕業なのだ。私じゃない。

 私は悪魔に取り憑かれ、悪魔は私の体を使い彼を殺したのだ。

 そうだ——。だからこれは、私のせいじゃない。


 女の瞳に、徐々に光が蘇る。


 ぼんやりと空いた空洞に、何かがゆっくりと注がれていく。

 だらりと垂れた腕に、自然と力が込められていく。


 しかし、他の人がそれを信じてくれるだろうか……。


 私は悪魔に取り憑かれていた。でなければこんなことをするはずがないのだ。

 私は彼を愛していたし、彼も私を愛してくれていた。


 悪魔さえいなければ、私がこんなことをすることは絶対になかった。

 全ては悪魔のせい。


 ——ではそれをどう説明する?


 実態のないものを説明するにはどうすればいい……。


 女の頭は今、先ほどでは考えられないほどのフル回転を見せていた。


 だが……。


 ダメだ。もう少し時間が欲しい。

 時間さえあれば、きっと……。


 大丈夫、時間ならまだたっぷりとある。

 明日、明後日、明明後日。

 私にはまだ、膨大な時間が残されている。


 それでも問題があるとすれば、それは……。


 女は真っ黒な眼差しで、再び目の前に転がる死体を見下ろす。


 そうだ……これがあるからダメなんじゃないか。これさえなければ、そもそも証明さえ不要になる。

 結果が存在しなければ、原因を求める必要もなくなる。

 原因を求める存在も、いなくなる……。


 ——これを処分しなければ……。


 女は濁り始めた瞳で周囲に目を走らせた。

 リビングにダイニング……。そしてキッチンへと……。


 ——あれは……。


 女はキッチンに置かれている、大きな鍋に目を止めた。

 物々しい見た目をした、真っ黒な、魔女が使うような大鍋。


 そうだ。あれを使えば……。

 少し手間はかかるだろうが、それぐらいならばお風呂場でも十分できる。

 すぐに切れ味のいいものを買いにいかなければ……。


 でも、自分一人で本当にできるだろうか……。

 用意自体はたぶん自分一人でもできる。

 問題なのは処分の方……。誰か、誰かもう一人いれば、もう少し……。


 その時ふと、女の頭に一人の人物が姿を現す。


 そうだ。あの大学生なら……。

 隣に住むあの子なら、きっと協力してくれるはず……。


 顔を合わせるたびに、あの子は好意的な眼差しで私を見つめていた。

 私が頼めば、彼はきっと協力してくれるだろう。


 準備ができ次第、すぐに持っていこう。


 一人暮らしの彼のことだ。

 きっと喜んで……(⚫︎)(⚫︎)(⚫︎)(⚫︎)(⚫︎)(⚫︎)(⚫︎)(⚫︎)


 女は早速取り掛かるべく、足に力を込めて立ち上がった。

 頭の中には一人の男の姿が浮かんだまま……。


 そう言えば、あの子の名前は何と言っただろうか……。


 ここへ来る際、よく顔を合わせる彼……黒髪で……よくすれ違う……。


 えっと、名前は確か……しゅう……。

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