病名は
テオドールが顔色を悪くしている頃、ナタリアは自室で医師の診察を受けていた。
医師は辺境伯の十歳年上、ナタリアは幼少時から世話になっている。
室内にはナタリアと医師の他、ディアーズと専属護衛がいる。
「今日はナタリア様とか?珍しい。どうなさいました?」
「ナタリアが昨日、ボート遊びの最中に胸を抑えてしまい、心配したお相手が私達に話してくださったの」
ディアーズがナタリアの代わりに話し出す。
「ボート遊びの最中?お相手というと、お見合い相手かな?」
「その通りです。王都では近衛騎士をしていて、今年の平和祭りでは護衛隊長です」
「立派な方のようですな」
「肩書だけではなく、人間性も素晴らしい方ですわ。ナタリアにぴったりの方が、ようやく現れました」
ディアーズの熱のある話っぷりに、ナタリアは恥ずかしげに俯いていた。
「ほう、今、護衛がいるということは、その時の話を聞けるということかな?しかし、その前に体の調子を見させてもらおうか」
医師はナタリアの手を取り、次に首元に手を当て慎重に確認する。
「では、話をしてもらおうかな」
医師はナタリアからその時の状況を聞くことにした。
「たいしたことはないんです。その時一度きりだったし」
「まあ話してください。何かわかるかもしれませんよ」
「そうですか?ええと、確かお互いの婚約破棄の話をしていて、相手の幸せを喜ぶなんて優しいですね、とかなんとか話をしていた時ですね」
ナタリアは、若干誤魔化しながら話す。
「テオドール様が、あの、話しながら微笑まれた時に、胸が、ドンっていうか、ドクンっていうか、何か衝撃のようなものを受けたんです」
「成程、それは初めて?」
「はい。初めてだったし、それ以降もありません」
ナタリアは大切な言葉は言わずに、それでもその時の話をする。
ディアーズはなんだか嬉しそうに『それで?』と続きを促すが、それ以降はこれといって何もないので、ナタリアは医師を見て、答えを求めるように口をつぐむ。
「護衛のお嬢さん、見た感じはどうだったかな?」
「はい、概ねナタリア様が仰った通りです」
「概ね?」
「はい。何を話していたのかまではわかりませんが、クレメンス様の微笑みは、今まで見たどの笑みよりも嬉しそうな、と言いますかとても幸せそうな感じに見えました」
「成程ね」
「先生、原因はおわかりになりますか?治りますか?」
ナタリアは話の方向がおかしくなりそうな気配に、医師に答えをせがんだ。
「これは、ディアーズ様は経験お有りですな?」
「はい、勿論ございますわ。ナタリア、初めてだったのね」
「お義姉様、一体何なのでしょう。お義姉様は治ったんですか?」
「これはね、治らなくても平気なのよ。ね、先生」
「そうですな。治らなくても全く問題ないどころか、場合によっては幸せなことだな」
「······わかりません。どういうことなんですか?」
「もう、ナタリアったら本当に?先生、教えて差し上げて」
「はっはっ、ナタリア様。これは恋煩いですな。いや、恋に落ちた瞬間だったのかな?」
「えっ?恋に?」
「そう、お相手に恋したんでしょう。この病は私よりディアーズ様の方が相談相手として相応しいかもしれませんよ」
「先生、ありがとうございます。ナタリアったら可愛いわ。これからは何でも私に相談して。ちゃんとアドバイスしますわ」
どうやら自分はテオドールに恋をしたらしい、そう考えると途端に恥ずかしくなるナタリアだった
ナタリアは自室に残り、医師は辺境伯夫妻の元へ、ディアーズはケネスの執務室へ向い、専属護衛は護衛として廊下で待機していた。
専属護衛は早く仲間に話したいが、今は勤務時間中、あと三時間後に交代になる。それまで一人だけ心の中で歓喜していた。
ディアーズはケネスの執務室に入るなり、パチパチと拍手をしてしまった。
「ディアーズ、どうした?」
「ケネス様、ナタリアはテオドール様に恋してます。たった今、先生のお墨付きもいただきましたわ」
「そ、そうか。···とうとう。それで、それはテオドールには?」
「流石に伝えていません。今どちらに?」
「いないのか?それなら紹介所で恋愛相談してるんじゃないかな?」
「恋愛相談?まあ、初心でいらっしゃる。でも、ケネス様、私は伝える気はありませんよ」
「そうだな、自分の力でナタリアを捕まえて欲しいからな」
「胸を押さえたのは、なんともなかったということで押し通しましょう」
ケネスとディアーズは見守ることにした。
同じ頃、医師は辺境伯夫妻と面会していた。
当然、ナタリアの病名について話す為に。
「結論から申し上げますと、恋煩いですな」
「えっ?恋煩い?じゃあ相手はクレメンス公爵令息?」
「私はお相手まではわかりませんが、前後の話からいくと、その線が堅いでしょうね」
「まあ、そうなんですか。ありがとうございます」
「ナタリアは、その恋をしていることに気がついたのだろうか」
「たった今、診断名で伝えたので、頭の中はそのことでいっぱいだろうよ。可愛いお嬢様だな。初恋らしいぞ」
「そうか、今頃初恋か」
「婚約破棄の後、お嬢様の気持ちを優先して来たようだが、どうするおつもりか?さっさと両家の間で婚約を決定してしまっても、ナタリア様は受け入れるだろうが」
「ううむ。ここまで待ったのだから、ナタリア自身が選んだという形は取りたいが、のんびりしているとやっぱり止めようと言われかねないな」
「今年はいつもと違う、と町中では噂になっているがな」
「噂か」
「案ずることはない。好意的なものばかりだ」
「噂か」
辺境伯は五年前を思い出していた。
ナタリアが王女に婚約者を寝取られた、という噂があっと言う間にドーレ領全域に広まった。
そしてソナモンドへ属するべきだ、との声が彼方此方で湧き上がる。
辺境伯の耳に入った時は、ドーレの民が武器を買うために武器商人を呼んだタイミングだった。
辺境伯は王城へ早馬を出し現状を知らせ、また、自分には国に対し翻意などないことも伝えた。
ナタリアはホークムーンから始まり、ドーレ全域に足を運び、ドーレから離れたくないから婚約を破棄して良かったと言って歩いた。
ケネスはそれを殿下に伝え、少し様子を見てほしいと伝える。
結果、ナタリアの言葉が一番効いたようで、一ヶ月以上掛かったが民は武器を取ることはなかった。
ドーレに居たいから、との理由で結婚しないでいるナタリアを、領地民は皆で守るからそれで良い、と言っていたのに、最近ではナタリアにも誰か良い人ができて欲しい、という意見が多くなってきた。
タイミング的にはちょうど良いのかもしれない。
殿下の選ぶ見合い相手が、ナタリアがドーレから出なくて良い人ばかりを選んでいるという噂は、王家に対しては怒りが燻っていても、殿下には比較的好意的に感じる民も増えつつある。
ところが、今年は結婚したらドーレから出る相手だし、結婚しないなら王太子妃付の侍女になるのでドーレから出ることにる。
どちらを選んでもドーレから出る将来しかないが、それならば結婚の方が領地民は喜ぶのではないだろうか。王太子妃付の侍女にするためにドーレから出るとなると、王家はまた反感を買いかねない。
ならばと両家でさっさと婚約を決めると、ナタリアの意志を無視して婚約させた、と辺境伯が反感を買うだろう。
ナタリアの意志で結婚する。
その公表ができれば一番良い。
「うちの領地民は、ナタリアを好きすぎるな」
辺境伯の溜息混じりの言葉は、夫人にはしっかりと聞こえていて『嬉しい限りですわ』と笑われた。
皆が退室した後、ナタリアはフワフワとした気持ちに困惑していた。
あの時のあの胸の衝撃は恋に落ちた時だ、との医師の言葉に、それを否定しない『経験者らしい』ディアーズの態度に、それが正解なのだと遠くから誰かの声が聞こえてくる。
恋に落ちたというのなら、クロノスの時も経験していたのではないだろうか。しかし、ナタリアはいくら考えても、そんなことがあったことなど思い出せない。
ではクロノスには恋をしていなかったのか?
いや、好きだったと思っている。あの時までは確かに。
あの好きだと思っていたのは何だったのか。
どんなに考えてもナタリアは答えを見出すことができない。
そして、ディアーズは何でも相談するように、と言っていたが、何となくこのことは言えない気がした。
う〜ん、と頭を悩ませて、あっ、と相談相手を思いついた。
「明日、ジュードに聞いてみよう」
そう決めたナタリアは、もうこのことを考えるのは止めた。
次に考え始めたのは、明後日来るラトリッジ商会のこと。
今回は冬用の服や靴などの見本を持ってくるはずだ。
ただ商会の仕事で来るだけなのかもしれないので、余計なことは考えず、仕入の品を決めた後は卸値を適正にする提案をしよう。
そもそもなぜベイジルが来ると聞いただけで、皆が警戒するのかわからない。見合いなら昨年断った。それで終わりだ。
ナタリアは明後日のこともこれ以上考えるのを止めた。
そうすると、もう何もすることがない。
夕食までも時間がある。
「こんな時はレイソンと遊びましょう」
ウキウキしながら兄一家の元へと向かった。
今ならディアーズの私室にいるはずだと向うと、やはりレイソンはそこでディアーズと遊んでいた。
妊娠初期のディアーズはソファに座り、レイソンが積み木で何やら作っているのを見ていた。
「リア」
レイソンがナタリアの元にやって来る。考えても答えの出ない現状に落ち込んでいたナタリアに、癒やしを与えてくれる正に天使だ。
抱っこをしてあげると、レイソンは窓を指差す。
窓際へ向うと、レイソンは窓から外を見る。
窓からは遠くに町が見える。ちょうど日が沈んだ頃で、町は少し暗くなり始めていた。
レイソンと黙って外を見る。
静かで穏やかな空間が過ぎていった。
更新は毎日12時を予定しています。
読んでいただき、ありがとうございました。




