5.ルーポト
「…ルーポト…」
それは魔道士長やレイムル師に聞くまでもなく誰でも知っている名前だった。アールスは困惑と呆れがないまぜの表情になったが、しばらくしてやっとの事で言葉を押し出した。
「…『悪い子はルーポトに食わせるぞ』のルーポト?」
『ルーポト』は軽く目を見開きアールスを見つめ、そしてクックと小刻みに笑った。
「ルーポトの名は子供の躾に使われているのか!これはよい」
ルーポトはいかにも楽しそうに笑った。その挙措は気品のようなものがあり、邪気もなく、殺気や攻撃性を感じる事が出来なかった。
しかし本当にルーポトであれば、この男は数百年前の「厄災の時代」の中心的な存在、魔王そのものである。言い伝えられる数々の逸話は恐ろしい物ばかりである。
「まさかな…アンティノキアには多い名前なのか『ルーポト』は?」
同じ名前を持つ者など人間同様いくらでもいるのだろう。そう思い、というよりそれを期待してアールスは尋ねた。魔王そのものがここにいるなどあまりにも非現実が過ぎる。しかし『ルーポト』の答えに背筋が凍った。
「ルーポトは2人といない。『ルーポト』は名前とともに地位を表す。すなわち『王』だ」
「…王…アンティノキアの?」
「そうだ」
アールスはごくりと唾を飲んだ。嘘だ…ありえない。
「なら…魔王ってことになる」
「その通りだ」
ルーポト_魔王_はあっさりと答えた。
「…」
アールスは混乱していた。
語り継がれる歴史によれば魔王ルーポトは残虐非道。一片の慈悲もなく人々を殺戮し、人間にとって恐怖というのも生易しい、終わりのない天災のような存在であった。200年経った今もなおアンティノキアの住むノマダスは監視や警戒を緩めることができないほどの存在だ。現にノマダスは未だにどこの国とも国交を結んでおらず、鎖国状態が続いている。そんな国の王がこんなところにいるわけがない。いや、それよりも魔王は英雄イプロスによって倒されたはずなのだ。
「あんたが本当に魔王という証拠があるのか?」
ルーポトを「あんた」呼ばわりしても良いのかと背筋が冷えたが、今更改めるのも卑屈過ぎる気がした。どのみちこの実力差である。どんな奇跡が起こったところで覆せるものでもない。危害を加えないとは言われたものの、完全に命を握られているのは確かだ。アールスは半ば開き直りその口調のまま続けた。
「証拠か…難しいな。ノマダスに同行すればわかると思うぞ。歓迎するが」
ルーポトが穏やかに言った。冗談ではない。殺されに行くようなものだ。
「生きていたという事か?イプロスに倒されたはずだが…」
この国の英雄が魔王を倒した。それがシュマルハウト王国民の何よりの誇りであった。その自負がこの国をここまで繁栄させたと言ってもいい。その魔王が倒されていなかったとなると…よくわからないが何か大事な芯が失われるような気分だった。
「イプロスか…」
ルーポトは遠くを見るように視線を上げ、微笑んだ。
アールスは呆然とルーポトを見た。
「どういう事だ…。あんたはイプロスとの戦闘を生き延びたという事か?それとも新しく魔王になったという事か」
「ふむ…」
ルーポトは顎に手をやり、どう答えるべきか思案しているようだったが、やがて言った。
「話すと長くなる。とりあえず新しい魔王が私だと思うがいい」
簡単に信じられる話ではないが、ルーポトを自称するこの男の実力は確かであった。
「魔王がここに本を読みに来るなんて与太話を誰が信じる。国を襲いに来た、世界征服でもしにきたと考える方が自然だぜ。一体何が目的だ」
ルーポトはアールスを見て静かに言った。
「平和だ」
「ふざけるな!」
魔王とは最も縁遠い答えにアールスは思わず声を荒げた。
「本当なんだがな。それに世界、人間の世界を滅ぼしたいなら、私がもしそう決心したならもうとっくにやっていると思わないか?」
「ど…どういう事だ?」
ルーポトが気軽に放った、あまりにも恐ろしい問いかけにアールスは驚いて返した。
「この国は魔道の国と呼ばれ現在この大陸の中でも一番の栄華を誇るシュマルハウトだ。その国の重要書物庫に私はいつでも入れる。ここは最も警備が厳重な場所、言うなれば世界で最も侵入の難しい場所の一つだ。私はいつでも好きな時にここに来ることができる。そしてその気になれば今から宝物庫だろうと王の寝室だろうと即座に行く事も可能だ。今のわたしに行けない場所など無い。それは世界征服を果たしたも同然ではないかな」
ルーポトは平然と答えた。
「…」
アールスは唖然とした。
確かに個人が圧倒的な力を持っていれば軍勢など使わずともそれが成り立つのかと、慄然とする思いだった。そしてそれが不可能ではないということを身を以てルーポトは証明していた。
「ところで…」
ルーポトがふとアールスに向き直る。
「お主はここに来た目的はなんだ? 泊まりがけでこの書物庫に来る者はめったにいないぞ」
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