382.痛みだけが服従の証ではない
ウラノスが顔を背ける。悲鳴が牢内に響き渡った。一度に千切るほど親切ではない。びりびりと紙を破くように、耳と顔が剥がされた。
赤い血がぬらぬら光りながら首を伝い、拘束された女の体を染めた。半分ほど千切ったところで手を離す。絶望を与える拷問は中の上程度、アスタルテはそんな生易しい女ではなかった。
赤く濡れた指先をぺろりと舐めて、吸血鬼の始祖は小首をかしげる。まるで悲鳴など聞こえていないように、無邪気な笑みすら浮かべた。この悲鳴の原因となった耳を、つんと指先で突く。揺れるたびに激痛が走り、エルフは半狂乱だった。
この場にヴィネがいたら、想像を絶する激痛に気絶しただろう。エルフ族にとって長い耳は誇りだ。それは耳が特徴的であるという以上に、実用性の高い部位だからだった。音が聞こえるのはもちろん、エルフが得意とする森や緑を操る魔法は、耳というアンテナを通して広がる。
古代種であるハイエルフが、通常のエルフより強い魔法を使えるのは、耳の長さが影響していた。そしてアンテナとなる耳は、あらゆる神経が集まる敏感な部位だ。たとえ恋人同士であっても触れるには許可が必要になる程、全身の中で最も敏感な場所だった。
片方の耳が千切れれば、エルフとして価値が半減する。半狂乱で涙と鼻水、血に塗れたエルフは許しを乞うた。どんなに見苦しくとも、耳を千切られる激痛と屈辱には勝てない。
「た、すけ……ぁ、やめ……っ! 痛ぃ、話す、はな、すか、ら」
耳が落ちないよう必死で覆う手は赤く、助けを求める声は途切れて掠れた。全身が痛みに震え、必死で縋る。
「話を聞くより、千切る方が楽しそうだが?」
くすくす笑いながら、狂人めいた発言をする。どうせ大した情報は持っていないのだろう。だからお前を甚振る方がいい。そう突き放して手を伸ばそうとすれば、尻で後退りながら悲鳴を上げた。
「な、でも……話す! はな、す……耳は、やめっ……ろ」
「命令できる立場ではなかろう? やはり落とすか」
指を切り落としても、顔を裂いても、女は話さなかっただろう。だが耳だけは誇りであり、失えない魂の拠り所だ。もっとも弱い部分を突き、痛みによる絶望ではなく、助かりたいと希望を持たせることは――上の下。さあ、ここからが腕の見せ所だ。
赤い血に濡れた指先で、ルージュを引くように唇を赤く染める。アスタルテは笑みを浮かべたまま、提案した。
「痛むのは中途半端に耳が残っているからだ。切り落としてしまえば、楽になれる」
震えながら首を振るエルフの耳の先を、そっと撫でる。恐怖と混乱で失禁したエルフに、残酷な吸血鬼はわずかな希望を見せた。
「だが――その耳を治す方法もあるぞ」
希望を持たせるのではなく、希望を具体的に突きつける。完全に絶望した場所から這い上がる術を、目の前に投げてやればいい。選択肢は必要なく、助かる為ならどんな方法でも飛びついた。こうなれば、仲間を売ってでも生き残ろうとするのだ。洗脳の応用だった。
かつての魔王軍がもっとも恐れたアースティルティトの強みは、他者の痛みを知りながら絶望に落とし引き上げる。その手法にあった。狂うほどの激痛に、エルフは鈍った思考能力を放棄して頷く。
「な、でもしま、す。耳は……」
まだ完全に落ちていない。エルフの顎に手をかけて瞳を覗き、アスタルテは次の手を打つことにした。




