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8.甘い拘束

 振り返ると、いつからそこに居たのか、背後の壁に凭れていた体を起こすレダンの姿があった。

「どうしてここへ?」

「あ、の」

「それに、どうしてそんな姿で?」

 私がいなかったのに?

 静かに詰られ、慌てて身を翻したのに逃げる間もなく背後から抱きしめられてシャルンは震えた。

「このドレスを着てくれるのは、俺のためだと思っていたのに」

 背中の素肌に直接当たるざらつく感触に、レダンは外出着のままだと気づいた。

「い、いつ、お帰りに」

「つい先ほど。あなたを迎えに出向いたら、部屋にいなかった」

 静かな声は耳元で淡々と響く。

「あなたはどこに居たのかな」

 私の妻なのに?

「…それほど、私は嫌いなのかな」

 呟かれた声が迷子になった子どものように頼りなげで、思わずシャルンは首を振った。

「違います」

「でも、あなたは居なかった」

「『陛下』をお迎えに出たのです」

「ルッカは? 侍女達も連れずに?」

「っ」

 すうっと首筋に吸い付かれて固まる。

「あ、あの」

「ん?」

「っ…」

 唇を当てたまま唸られてくすぐったさに体を捩りたくなったのをシャルンは堪える。

「ハイオルトに、向かわれたと、聞いてっ」

「うん」

「正当な、婚儀の、手続きと…っ」

「うん」

 きゅ、と抱きしめられたが唇はそれ以上進まない。むしろそっと離されて、肩口に額を押し当てるように静かに抱かれ沈んだ声で尋ねられる。

「あなたが、なぜ俺を嫌うのかの理由を探しに出かけた」

「え?」

「ハイオルトに誰か愛しいものを残して来たのか、とか」

「…」

「離れがたい大事な場所があるのか、とか」

「……」

「父母との優しい想い出を失いたくないのか、とか」

「…………」

「そうであったらいいな、と思った」

 くす、と小さな笑い声が響いてシャルンは訝る。自嘲のように聞こえたからだ。

「でも、そうじゃないみたいだ」

 声は低くなり切なげに苦しそうに紡がれた。

「あなたは俺を不快がっている」

「あ…」

「あなたが嫌っているのは、カースウェルではなくて、俺」

「あの…」

「それが辛いだけだよ、シャルン」

「っっ」

 胸が震えた。心が揺れて、視界が滲んだ。

 今までの求婚者とは違う。ハイオルトではなく、シャルンを望んでくれている。

 でも、本当に?

 かつて一度も試したことがない欲求にシャルンは身体を竦ませた。

 もし、ハイオルトのミディルン鉱石がなくなりつつあるのだと伝えたら、レダンはどう応じるだろう。一気に突き放されて冷たくなるのか、それとも。

「…『陛下』……私は…」

 脳裏をハイオルトの人々の笑顔が駆け抜ける。不安そうな父の顔、響いてくる声が耳元で鳴り響く。

『良いか、決して、決して相手に気に入られてはならぬ』

 今までは苦労などしなかったのに。

『ゆめゆめ、気に入られて正当な婚儀に持ち込まれてはならぬ』

 ステルン王国のギースの瞳は陽の光を弾いて綺麗だった。ラルハイド王国のバックルは異論があっても最終的にはシャルンの意見を受け入れる度量があった。ザーシャル王国のザグワットは数ヶ月の軟禁でシャルンの生活に不自由はさせなかった。ダスカス王国のマムールは食事の時に政治の話題を避け彼には興味のなさそうな芸事の話をシャルンに振った。

 けれど。

 シャルンがたとえ一瞬でも望もうとも、相手方から望まれたことがなかったのに。

『是が非でも呆れられ驚かれ、こんな姫は妃にふさわしくないと心底納得されて、見事破談になって戻ってくるのじゃぞ』

 大丈夫です、お父様。

 いえ、大丈夫ではない、これほど心がかき乱されて、いま包まれているこの腕に甘えることしか考えられなくなっていくというのに。

 それとも、父はそういう迷いを予見していたのだろうか。

 レダンに抱きしめられて望まれて、見えてくるのは愛そうとして諦めた数々の胸の傷み。

 そしてまた、こんなにも望んでくれるレダンを、シャルンは拒まなくてはならないのか。

「…っ」

 そろそろと両手を上げて、自分を抱きしめているレダンの手に重ねた。驚いたように息を吐くレダンに、密やかに囁く。

「お伝えしなくてはならないことがあります」

 声はもう震えなかった。

 レダンは誠実で温かな人だ。たとえハイオルトにミディル鉱石がなくなり始めていると知っても、近隣諸国に吹聴することはないだろう。それでも、それは、シャルンを断る理由には十分なものになるだろう。

 涙に曇った目で顔を上げる。

 目の前の美しい肖像に微笑みかける。

 どうかこの方をお護りください、アグレンシア姫。

 胸の中で祈る。

 この方の孤独をお慰めできる、素晴らしい姫をお与えください。あなたは既にこの世界にはおられない。けれど、この方はまだこの世界に必要な方、これからもこの世界で生きていかれる方。ですからどうか、この方をお支えするにふさわしい、掛け替えのない伴侶を。

 もっと深い胸の奥で、微かな声が響く。

 私であれば、良かった、けれど。

 そうしてシャルンは気づく、自分こそがレダンをかけがえなく大事に思っているのだと。こうして自分の痛みを殺しても、レダンを振りほどくことができるほど。

「…十分だわ」

 もう一度微笑むと、涙が次々と頬を滑り落ちて行った。

「もう、十分」

 ハイオルトに戻されたら、父に進言しよう。カースウェルに知られてしまった、だからもう、シャルンには何の価値もなくなりました、と。その代わり、髪を短く切り、ドレスを全て捨て、国のために身を捧げる一兵士として果てましょう、と。

 シャルンにとってレダンが最後。

 そういう選択肢もまたあるだろう。

「シャルン?」

 尋ねるレダンにしゃくり上げかけたのを堪え、一つ大きな息を吐いて口を開く。

「実は、ハイオルトには、もう」

「ミディルン鉱石が、ない?」

「っっ!」

 静かに耳元で囁かれてぞっとした。

「…レ…ダン…」

「ああ、ようやく」

 満足そうな吐息が首筋に零れた。

「ようやく、あなたに触れられたか」



「知って……?」

「うん、と言うか、厳密には調べた、と言う方がいいな」

 深くなる夜の中、愛しい少女は身体を震わせながら自分の腕にすがりついている。

 レダンはより強くシャルンを抱きしめかけて、自分の状態に気づき、少しだけ腕の力を緩める。せっかくこれほど距離を縮められたのに、いきなり猛々しい要求を突きつけるわけにはいかないだろう。

 それでも体の奥から滲むような溢れるような喜びに、もう一度シャルンの首にキスをした。

「しらべた…?」

 シャルンは呆然とした声で尋ねてくる。

「昨日からの、お出かけは」

「ハイオルトに出向いて、その、ちょっと入り込んで」

 微妙に歯切れ悪い物言いになったのは、正当な手段ではなく、地方を回る行商人として入り込んだせいだ。

『まあ、心配はしていませんが』

 手はずを整えてくれたガストは不機嫌そうに唸った。

『安定するまで日常茶飯事でしたしね』

 カースウェルも国が落ち着くまではいろいろとあった。あちこちの国々は、気候が良く、安定した産業が発展しつつあるカースウェルをなんとか支配下に入れられないかと画策していたし、王が亡くなり女王となってからは、なおも苦労が続いた。

 レダンは肖像画に微笑みかける。

 地位を隠し姿を偽って諸国の情報を得ることを許してくれたからこそ、レダンは適切な判断と助言を行え、国を安定させることができた。

 今も暇ができるとふわふわとどこかの国に入りたがるレダンにガストはいい加減にしろと説教する。姫でも娶り、子でも産まれれば落ち着くだろうと考えている。

「入り込んで…」

「あ、ああ、その、入り込んで、いろいろと話を聞いて」

 レダンは当たり障りのない部分に限って話を進めようとした。まさか娼婦宿や下町の酒場までうろうろしていたとは説明しにくい。ついでに仕事の伝手を探していると、北の鉱石の切り出し現場に入ろうとしたなどとは。

 けれど、そのあちらこちらで見た衰退と疲弊の光景に、もしやと察するものはあった。

 食物が足りていない。資材が足りていない。それらを補う動きがどこにも見当たらない。

 ミディルン鉱石ばかりに気を取られて各国が見過ごしていたもの、ハイオルトにはミディルン鉱石以外の産物は何もないに等しく、今にも破綻してしまいそうだと言うことがわかった。

 北の採石場であわや警備に捕まりそうになって、さっさと姿を眩ませたが、戻りながら頭を占めていた想いはすぐに興奮に変わっていった。

 シャルンがこの状況を知らないはずがない。

 ハイオルト国王ももちろん、国の行く末を案じているだろう。

 繰り返される破談とシャルンへの多額の見舞金。

 情報が伝えるように、これまでの王達が全く愚かな者ばかりなら、ハイオルトに多額の見舞金などよこさないだろう。

 シャルンはカースウェルで振る舞ったように、素知らぬ顔で巧みに王達に拒まれ破談されるように仕向けている。彼女を国に戻した後に気づいた王達が、罪悪感とともに少しの未練を上乗せして見舞金を支払っているのだ。

 カースウェルも同じ状況だ。このままではシャルンを失うしかないだろう。

 けれどただ一つ、他の王とは違うものがある。

 レダンはおそらくどの王よりも性格が悪い。

「シャルン?」

「はい…」

 不安げな声に微笑む。

 こんな際どいドレスを着て待っていてくれた愛しい姫に、何を与えるかなんて決まっている。だが、それより前に、逃れようがないのだと教え込んでおかねばならない。

「あなたはミディルン鉱石がなくなりかけているのを知っていたね?」

「…はい」

「なのに、カースウェルに嫁ぐつもりだった?」

「………ええ、はい」

 一瞬押し黙ったシャルンは、一つ息を吐き、淡々と答えた。

「カースウェルがミディルン鉱石を必要としているのを知っていながら?」

「ええ。あなたを騙して婚儀を行い、」

 く、といつかの泣きじゃくりに似た小さな呻きを漏らし、それでも、シャルンは気丈に続ける。

「うまくいけば、カースウェルの国力でハイオルトを保たせるために。もしだめだったとしても、あなたは優しいから、傷ついた私にお見舞いをいただけるでしょう?」

 ぴんと背筋が伸びていく。腕の中で抱きしめて崩せそうだった体に張りが戻り、レダンの腕に自らの腕を重ね、シャルンはレダンに凭れるように仰け反った。

 押されて体を引き、見上げてくる小さな顔に輝く二つの瞳を見下ろす。涙に濡れた頬、けれども今、瞳は曇りも霞みもしていない。暗闇でどこから光を集めてくるのだろう、輝きを増す二つの星。

「それが、私の、のぞみでした」

 紅潮した目元、今にも再び泣きそうで、けれど決して緩まない厳しさをたたえて、まっすぐにレダンを射抜いてくる。ここまで来ても、国のためとは言わず、自分の望みだと言い切る潔さに惚れ惚れする。

 食いしばった小さな唇に、堪えきれずにキスを落とした。

「…っ」

 驚きにびっくりして見張った目がうろたえる。みるみる真っ赤になってくる顔にレダンは苦笑いした。

「君はさ、俺を侮ってるよな」

「…え?」

「俺がどれだけ君が好きなのか、わかってないよな?」

「……え?」

「だから、どちらの願いも叶えない」

「………え、え…?」

 あ、あのっ、あのっ。

 どもりながらシャルンは慌ただしく肖像画とレダンを見比べる。顔だけではなくて、桜色に染まってくる体の隅々を堪能できるのはいつだろう、と切羽詰まってくる感覚に耐えながら、レダンは宣言する。

「あなたを欲する」

「…」

 もう一度見上げてきたシャルンの口が、ぽあんと開いた。

 ああもう、なんて顔をするのかな。

「カースウェルはあなたを望む」

「……」

「婚儀を正式に行い、あなたはカースウェルの、レダン王の妃となる」

「っ」

 シャルンの顔が悲痛に歪む。

「だめです、そんなの、だめっ、アグレンシア様もお認めにならない…っ」

「ここでそれを出すのか」

 うーん、なかなかやり手だねえ、と突っ込むと、詰まった顔になったシャルンが新たにぼろぼろ泣きだした。

「認めるさ、俺が何を望んでも何をしようとも、俺さえ幸せならいいって笑うさ」

「そ、それほど、豊かな愛情をお持ちなら、余計に…っ」

「昔っからそうなんだよ、母上は」

「……へ」

「へ?」

 いきなり間抜けた声が応じて、レダンは瞬きした。見下ろしたシャルンの顔は驚きすぎて無防備すぎて、今なら何をしても許されそうで、つい、また唇を啄む。

「んっ」

「ああ、ごめんな。けれど今のはそっちが悪いから」

 レダンは苦笑した。

「けどなあ、そうか、そんなことを考えていたのか」

「何…っ」

「あのねえ、アグランシア・カースウェル・パラスニアは俺の母親。前カースウェル女王、夫亡き後荒れかけた国を建て直した偉大なる女性で、俺の幸せを何より望んでくれた人」

 もう一度、キスをする。

「だから、彼女のことを想ってくれるなら、俺のところでおさまってしまいな?」

「でっでもっ、ハイオルトはっ、国民はっ」

「はいはい、そっちも国王と話をつけて来たから」

「…………は、い……?」

 シャルンは小首を傾げた。心底わからないという顔だ。

「あなたをハイオルトから奪う代わりに、ハイオルトの産業振興やミディルン鉱石の今後の管理なんかについて、協力することにしたんだよ。父上は渋っておられたけど………まあ」

 レダンは少しシャルンから目をそらせる。

「国は大事だからねえ」

「…陛下?」

 あの、父に何を話されたんですか。

「ああ、そこを突っ込んでくるんだ、鋭いなあ」

 レダンはくすくす笑って、少し離れてしまったシャルンをくるりと回し、もう一度今度は正面から抱きしめる。

「俺は腹黒いそうだよ、ガストの評価によると」

 シャルンが居心地悪そうにもじもじするのに気づいて、囁く。

「あのさ、俺のことを嫌ってないなら、あなたからも俺を抱いてくれると安心するんだけど」

「……は、い」

 そろそろとシャルンが手を抜き出し、レダンの首にすがりつくように巻きつけてくれる。押し付けられる胸と温かな体、天然なお誘いに熱い息を逃しながら、レダンは苦笑いを重ねた。

「あなたのこれまでの婚儀をね」

「はい」

「意図的なものだと諸国に説明して回ることもできるとお話ししたんだ」

 すぐに納得してくださったよ。

「…陛下……それは脅迫、と言うものでは」

「そう言う表現もあるなあ」

 レダンは潤み始めた視界にもう一度息を吐いた。

「ところでシャルン、あなたは今獣の前に居るんだけど、無体なことをしたくないと頑張っている男に、ちょっとご褒美を頂けないかな」

 キスを。

 囁くとシャルンが頷く。

「この前よりも、もっと深いキスを」

 何度も頷くシャルンの顔を上げさせる。

「あなたから、俺に」

「…っ」

 一気に赤くなったシャルンが涙目になりながら頷き、レダンは喉を鳴らして笑った。


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