7.夜の過ごし方
「………」
「何をされているのか、お尋ねしても?」
「…」
うろうろと自分の居室の中を歩き回っていたレダンは慇懃無礼なガストの物言いにじろりと目を光らせて立ち止まる。
「簡単なことじゃありませんか、病床を訪れ、大丈夫か、と声をかければいいだけです」
「もし、シャルンが眠ってたら?」
「戻って来ればいいでしょう」
「苦しんでたら?」
「医師をお呼びください」
「泣いてたら?」
「どうして泣いていると?」
「………畜生」
はああっと大きく息をつくと、レダンはどすりと椅子に腰を下ろした。
「行かないんですか?」
「仕事をくれ」
「ありますけどね、山のように」
「今なら何でもするぞ、国境警備にも加わってくるし、アルシアに国策への協力を打診しに行ってもいい」
ガストが顔を引きつらせて動きを止めた。
「何だ」
「国境警備は趣味だからいいとして、アルシアに行くとまで仰るとは……驚きました」
「シャルンが泣くのを見るぐらいなら、サリストアと一戦交える方が気が楽だ」
「……相手が嫌がりますよ」
レダンはふくれっ面のまま手を振って、早くよこせとガストに書類を催促する。
サリストア・アルシア・レルンとは幼馴染だ。姫君とは名ばかりの男勝り、いや男性を凌駕する膂力と剣技の持ち主で、アルシア王国を継いだ姉のミラルシア共々、アルシア=カースウェル王国を作らないかと誘いをかけてきている。レダンとサリストアの婚儀も想定されたが、気性的に不可能だろうとはお互いの意見の一致を見た。もっとも、このままレダンが独り身を通すぐらいなら、虫除けをかねて『どう』か、とは提案され続けている。
溜め息まじりにガストが机に未決済の書類を積み上げていくが、その高さなど全く苦にならない自分が居て、レダンは我ながら呆れ返った。
脆い。
自分はこんなに脆い男だったのか。
『あ、の…』
勢い任せの無理やりな口付け、それでも無体を強いたつもりはなかったのだが、唇を離した途端に目を見開かれたままぼろぼろ泣き出されて、レダンは血の気が引いた。
『わ、たし…』
『す、すまない、その、不快、だったか』
誠実なことばは確かに届いている、なのに、シャルンは必死に唇を噛み、涙を堪えつつ、小さく一つ頷く。一度頷くと癖になってしまったかのように、繰り返し頷きながら、けれど一所懸命にレダンの胸元を掴んでいる指は緩むことがなく。
『ふ、ふかい、でし…た…っ』
掠れた声で訴えた。
『お、ど…ろ……て…き、もち…わ……わる……っ……』
言いたくないことばを絞り出すように言いかけたが、限界だったのだろう、苦しそうに俯き咳き込む姿に、もういい、としか言えなかった。すまなかった、と謝り続けるしかできなかった。
そんなことはしなくていい。
というか、もう無駄だ、と言い聞かせられなかった。
どれほどシャルンがレダンを拒もうとも、どれほどシャルンがレダンにとって不愉快なことを重ねようとも、それを上回る速度で魅かれていくのだから仕方がない。
シャルンはことごとく、レダンの予想を超えていく。
それが面白くて楽しくて、愉快で興味が湧いて、そうか人を好きになると言うことは、こんな風にのめり込んでいくことなのかと初めて知った。
ダスカス王国のマムール・ダスカス・ドリスカスはそうではなかったのだろう。シャルンを拒むのに、自分のためだけに生きられないのならシャルンの存在意義はないと言い放ったそうだから。なるほど、生まれた時から絶対君主として育てられた男だけある、他人は全て自分に跪くものだと思い込んでいるのだろう。何度も破談を繰り返すシャルンを哀れんで、慈善事業のように拾ってやったつもりだったのかもしれない。
それともその実マムールも、シャルンが自分を望んでくれることを強く願いすぎて暴走したのか。彼女の瞳に自分だけを映しておきたくなったのか。
「ガスト」
「はい」
「シャルンに直接聞くべきかな」
「……出戻りの理由を、ですか」
「……嫌われようと頑張っている理由を」
それは俺の自惚れだと。
「そう言われたら、おしまいって感じがして竦むんだが」
「……そんなに泣かしたんですか」
「……」
泣き出したシャルンをなだめながら一晩抱いて眠らせて、翌朝早々に谷を発ったのは、いろいろ我慢の限界だったのと、シャルンがあまりにも憔悴してしまったからだ。
戻ってみれば案の定、シャルンは発熱して寝込んでしまい、もう3日になる。
少しずつは回復していると聞いたし、今日は比較的元気で食事もちゃんと摂ったらしいし、体調の心配はしなくていいのだが。
「キスで泣くなら……その先はどうしたもんだか……仕事の方がよっぽど手軽だよなあ」
「いろいろ非常識な発言ですが、お忘れでなければ、公務中です、奥方を襲う算段は、きちんとお見舞いに行かれてからの方がいいのでは?」
「……決めた」
突然立ち上がったレダンにガストは眉を寄せる。
「まだ終わっていませんが」
「帰ってから片付ける」
「では、お見舞いに」
「いや、ハイオルトを非公式訪問する」
「えっ」
さすがにガストが凍りついた。
「ちょっと待ってください、準備も何も。ハイオルトへの通達も」
「すぐに走らせろ。ああ、その時、5人目の婿から是非にハイオルト王に確認したいことがあると伝えておけ。会わないとは言えないだろう」
薄笑いすると、ガストが頭痛を堪えるような顔で唸った。
「せめて1日時間を下さい。ダフラムと全面戦争になりますから」
「? どうしてダフラムが関わってくる?」
「…最初にお話ししたでしょう。ダフラムも動いています、と」
「……ミディルン鉱石が枯渇しだしたか」
「急激な工業発展の裏には無理があったのでしょう」
「ならなおさらだ」
レダンは笑った。するべきことがはっきりして気持ちが軽くなってきた。
「シャルンはカースウェルが貰う。彼女の破談には相手側だけじゃない、多分別の意図がある。その原因をはっきりさせてやる」
「それって一般的には略奪、と言うんじゃないでしょうか」
「カースウェルの名誉がかかってくるだろうなあ、よろしく頼むぞ、ガスト」
「……ええ、はい、まあ、やりますよ、何とかね」
ガストは深く深く溜め息をついた。
あれは何だったんだろう。
シャルンは夢現に思う。
小さな谷は静まり返っていた。遠くで一度獣の声がしたが、レダンの言った通り、近づいてくる気配はなかった。
夜更けても寒さは強まらなかった。テラスの長椅子からシャルンを部屋に運び込んでくれたレダンは、泣きじゃくった彼女をベッドに入れてくれ、自分も上着を脱いだだけで隣に転がり、再び優しく抱きしめてくれた。
レダンの体からはレグラム草の香りが漂う。シャルンもまた同じ香りをさせているのだろう。
二人の間には厚い布があった。直接触れ合っているのは、燃えるような頬に当たるレダンの冷えた額。吐息が顎から首筋にかかり、唇が時々そっと肌に当たった。
抱きしめられていると言うよりは、レダンがすがりついているような、シャルンの体を媒体に何かに祈りを捧げているような、不思議な感覚。
夜半、背中に回されていた手が、胸にふわりと載せられた。
抱かれるんだろうか。
過熱した頭で思いながら、ゆっくり瞬きしつつ闇に目を凝らしていると、ふう、と吐息をこぼしてからもう一度掌は背中に回って腰に滑って、シャルンの体をできる限り自分に近づけたいと願うように引き寄せられて。
今度は胸に顔が埋められた。
布を通して呼吸が届く。
熱っぽく早まる息遣い。
きっと突き飛ばせば嫌われる、怒られる、呆れ果てて捨てられる。手立てとしては十分だ。
わかっているのに、両手ごと抱きしめられたまま、じっと呼吸を感じていた。
厚い布が邪魔だった。
遠い感触が苦しかった。
陛下ではなくレダンと呼んで、何もかも望まれるままに明け渡してしまいたかった。
あれは何だろう。
朝目覚めれば、レダンがいろいろ支度を整えてくれていて、昨夜のことなどなかったことのように、ルサラをどのくらい準備してどう配置するかを二人で相談して、それでも一瞬触れた指先にシャルンばかりではなく、レダンも顔を赤らめて目を外らせ、その横顔にまた息苦しくなって、何を食べたのか何を飲んだのかさえ覚えていない。
あれは何。
「姫様」
声をかけられてゆっくり目を開いた。
心配そうに覗き込むルッカに微笑んで見せる。
「おはよう」
「如何ですか」
「ずいぶんと楽……起きた方がいいかしら」
「いえいえ、起きたくなられるまで、そのままおやすみ下さい」
ルッカは目を真っ赤にしている。数日付き添ってほとんど眠っていないのだろう。
「ルッカこそ休んで。私はもう大丈夫」
「…夜を過ごされたのですか、レダン様と」
ためらった後の問いに少し笑う。
「いいえ、大丈夫、そんなことはあり得ないから。この離宮におられた方は…気品ある方だったらしいわ。私にはそんなもの備わっていない。だから大丈夫よ、ルッカ、ちゃんとハイオルトに戻れるわ」
「……」
「ルッカ…?」
「……昨日の朝早く、レダン様がハイオルトに向かわれたそうです」
「えっ」
シャルンは飛び起きた。衝撃でぐらぐらする体を何とか支える。
「どう言うことなの」
「正当な婚儀の手順を確認しに、自らお運びになられたとか」
「正当な…婚儀……」
繰り返しながら、夢の中で味わっていた甘い感覚が見る見る削ぎ落ちていくのがわかった。
「だめよ……だめ……そんなこと、だめだわ」
どこで間違ったのか。何を間違ったのか。
ああ、ひょっとして、あの谷の夜、もっとシャルン自ら誘惑しなくてはならなかったのか。そうして、こんな女は妃にふさわしくないと切り捨てられなくてはならなかったのか。
「どう、しましょう」
「城内の噂では、婚儀の準備は早急に進められているそうです。レダン様は姫様をことのほかお気に入りで、いっときも離したくないとまでおっしゃっているとか。ですから、私はてっきり」
「いいえ、いいえ、まだ、なの、そんなこと、まだ一度も」
けれど、世間的に夜を過ごしてしまえば、そう言う流れになってしまうのなら、シャルンが誘惑して及んでしまったら、もっと取り返しがつかなくなってしまうのではないか。
「どうしたら、いいの」
シャルンは眉を寄せて考えた後、きっと顔を上げた。
「姫様?」
「レダン様が戻られたら、すぐに知らせてちょうだい。お願いルッカ」
「か、かしこまりました」
「それまで私はもう少し休むから」
「お食事は」
「必要ない…いえ、そうね、軽いものをお願い」
「はい、ただいま」
急いで出て行ったルッカが銀製の盆にスープとパン、果物を少し添えてくれ、シャルンはそれらを丁寧に食べた。美味しいはずだが、味などほとんどわからない。けれど、戻ってくるレダンを迎えるために、そこから相手を不快がらせるために、しっかり食べておかなくてはならなかった。
食べ終えると、ベッドから出て、衣裳部屋に向かった。
あれかこれか。
あの日、あれほどどきどきしながら選んだ衣装を丹念に見回り、一枚を選ぶ。
胸元の開いた、鮮やかな紅の、たくさんのレースとリボンで飾られた、目の眩むように派手なドレス。胸元だけではなく、背中も大きく空いていて、首の少し下から腰の上まで素肌を見せることになる。レース仕立ての両袖、足元もレースに切り替えてあり、膝上まで脚が透ける。我ながらひどい趣味のものを選んだと思う。首に巻く艶やかな黒いリボンにはレースで作られた紅の大輪の花が飾り付けられていた。同じものは足首にも巻くようになっており、髪飾りも同じ造りの花が揃えられている。
「……ルッカが見たら目を回しそう…」
姿見で一瞬体に当てて見ただけで、恥ずかしさで顔が真っ赤になった。
それでも、それを手に部屋に戻り、準備だけ済ませて横になった。
どんな顔をレダンはするのだろう。
離宮の主と全く違う、頭の空っぽな浮ついた女に見えてくれるといいのだが。
うとうとしたのは数時間だった。
起こされるまでもなく目を覚まし、身支度をして椅子に腰掛け、ルッカを待つ。王国の姫なら、自ら支度をすることなどありえないが、シャルンは別だ。一人でしなければならない時が多すぎた。
なのに待てど暮らせど、ルッカはやってこない。
「……今夜もお帰りにならないのかしら」
だんだん一人で待つのが心細くなって、シャルンは立ち上がった。
居室を出て、うろ覚えながら離宮の正面入り口に向かって歩いていく。暗くなり始めた屋敷の中では、燭台に明かりが灯され始めていた。光が壁に飾られた掛け物や古めかしいけれど上品な調度を照らし出す。天井には花々が象られ、並ぶ柱にも蔦の絡む意匠が施されていて、明かりに柔らかな陰影を浮かばせている。
昼間とは違った光景に、ついつい目を奪われていて、曲がるべきところを通り過ぎてしまったらしい。ここだと思って進んだ廊下は、庭園に面した小部屋に続いていた。気になったのは、その小部屋だけが明かりが灯されておらず、かと言って冷たく閉ざされているのではなく、扉が開け放たれていたからだ。
「ここは……」
シャルンは昼間の姿を思い出そうとしたが、どうにも思い浮かばなかった。記憶違いでなければ、今まで一度も入ったことがない部屋ではないだろうか。
「…」
ためらったが、シャルンは一つ頷いて部屋に入り込んだ。
もし、ここがシャルンが入ってはならない部屋ならば、好奇心旺盛な無作法な姫として、レダンに嫌われることができるのではないか?
扉の隙間から滑り込むと、中は思ったよりも暗かった。廊下に灯る明かりがちょうど入り込めない角度なのだろう、目を凝らしていても、間近に近づかなくては置かれた椅子やテーブルを避けられない。
注意深く進んでいるうちに目が慣れてきた。少し離れた場所に窓を見つけてほっとする。とにかくその側までと歩み続け、ふいに『それ』に気づいた。
「……ああ…ひょっとして…」
窓辺から庭園を見渡すような位置に飾られた一枚の肖像画。
濃い瞳の色はレダンと似ている。凛とした気配の、背筋を伸ばして微笑んだ、黒髪も美しい一人の貴婦人。真紅のドレスが鮮やかに描かれているが、それに勝る華やかな姿は今を盛りと咲き誇った大輪の花のようだ。確かに気品溢れる、この館の主人にふさわしい女性。
「この方が、アグレンシア・カースウェル…」
「パラスニア」
「っ」
背後から突然声が響いて、シャルンは息を呑んだ。