6.谷の香り
レダンの突然の訪問にも外出の誘いにもシャルンは驚いた様子を見せなかった。ただ笑顔でにっこりと、嬉しゅうございます、と応じられて、彼女がどれほど傷ついているのかわかった。
屠殺場に引き出された獣のような瞳。
次第に切り取られていく命の時間を感じているような、どこか遠くて静かな瞳。
谷に向かって馬を走らせながら、すがりついてもこない小さな体が大切で愛おしくてならなかった。
どれほど怖いだろうに、今から切り捨てられると知っているのは。
どれほどすがりつきたいだろうに、ここで許して、帰してくれと訴えるために。
けれどシャルンはただじっと、レダンの胸に収まっている。
きっと同じことがあったのだ、何度も。
何度も、何度も。
この荒馬のような運命に嬲られることを受け入れて、夜の闇に座っていたことがあるのだ。
『理由がわかりませんよ』
ガストは報告と同時に不愉快そうに唸った。
『国民を救うための時間を何と引き換えにしろと言うのか、ザーシャル国王は』
ガストにしては珍しい、とシャルンがきてから幾度思ったことだろう。無表情で沈着冷静で、暴走しかけるレダンを引き止める役割の男は、いつ何時でも敵を無闇に作らないし、感情を元に話すことはないはずだった。
なのに今、ガストはザーシャルでのシャルンの扱いに明らかに苛立ち憤っていた。
それだけシャルンが気になり始めている、つまりは気に入り始めているのだろう。
ザーシャルのサグワット・ザーシャル・アルドランドは昔から神経質で不安定なお子様だ。齢30を越えようと、気質は変わらない。
シャルンが輿入れしようとした時、ハイオルトの国境付近で未曾有の大雨があったと言う。小さな村で十分な対応もできないまま、村人もろとも荒れた川に飲み込まれかけていた。シャルンは付き従っていた配下を全て避難に回し、村人全員が退避し終えるまでその場を動かなかった。
『それだけで十分じゃありませんか、何も持たない姫なんだから』
ガストのぼやきはレダンの心中と同じだ。
どれほど怖かっただろう、茶色く濁り家々を飲み込む激流を目の前に、婚儀のための衣装を濡れそぼらせて見守っているのは。彼女の采配一つに人の生死が定まり村の存続がかかるのだ。
どれほど辛かっただろう、その衣装を辛うじて乾かしただけで輿入れ先に向かったのは。事情を説明しても、ザグワットは聞く耳を持たなかったと言う。王族の義務やら人としての信義やら愚にもつかない正論を並べ立ててシャルンを罵り、挙げ句の果てに数ヶ月、婚儀を正式に行うつもりもないまま自国に留め置いた。
『…シャルンは…抱かれたのかな』
『……存じません』
口さがない者は、慰みものにされたのではないかと噂していたようですが。
『ザグワットは潔癖症だったよな』
『毎夜寝る直前にベッドを新しいシーツで整えるような』
『そう言う奴が、出戻りを繰り返す姫を望むか?』
『いいえ』
あからさまですね。
『あからさまだな』
シャルンではなくミディルン鉱石を望んでいると。なのに、輿入れしたシャルンを自国に留め置き、噂が立つまで放置した意図は露骨だ。
『非礼をネタにハイオルトを揺さぶっていたか、それともシャルンを貶めたかったか』
『両方でしょう』
ちっ、とガストが舌打ちして、失礼いたしました、とすぐに謝罪した。
『あの赤髪を掴んでひきむしってやるか』
『すでにカツラだそうです』
ちっ。
「っ」
思い出しての舌打ちに、シャルンが体を震わせた。空を見上げていた瞳はそろそろとこちらへ向けられる。
薄闇に輝く淡い瞳。
今夜伝えてしまおうか、あなたが欲しいと。
今夜奪ってしまおうか、不安そうな小さな唇を。
泊まるはずのささやかな建物にレダンは胸の中で首を振った。
だめだだめだ、こんなところで。
もっとちゃんと十分な設備が整い、心から寛げる場所でゆっくりと、身も心も解れて乱れて欲しい。
それでも堪えきれない熱に呟く。
「明日の朝まで二人きりです」
馬から下ろしたシャルンはこくりと唾を飲み、またにっこりと微笑んだ。
「……では、お聞きしたいことがあります」
静かな声音で、けれども一歩も引かない力強さで続ける。
「離宮に住まわれていた方のことです」
今ここで、それを聞くのか。
レダンは胸が絞られるほど辛くなった。
自分が煌びやかな男ではないのは知っている。甘い囁きも不得手だし、乙女の心を奪うほどの詩も歌えない。
けれど嫁いできた相手とただ二人、人のいない初めての穏やかな夜に肌を寄せ合いながら、昔の女性のことを持ち出されて不愉快にならない男がいるだろうか。
それをシャルンはわかっている。
傷ついただろうガストとの面談を、またもやこんなことに使おうとしてくる。
そこまでして、レダンに好まれるまいと努力する。
「…あなたは…」
「はい」
確信犯的な微笑みに、思わず目を外らせた。
「そうですね、お話ししましょう、お互いのために」
「はい、是非、『陛下』」
「…」
呼ばれて一層苦しくなる。こんなところで克己心を試されるとは。
四阿風とは言え、数室ある部屋はどれも清潔で綺麗に整えられていた。
よく見ると女性が好みそうな小物も、それぞれの部屋に備えられていて、シャルンはここにもまた離宮の主人が来ていたのかと考えた。
「少し冷えるでしょう。こちらへ」
テラスに置かれた長椅子に座り、レダンが招いている。小さな明かりが数カ所置かれ、長椅子の上には厚めの布が数枚、示されて隣に座るとレダンがすっぽりとそれで体を包んでくれた。
長椅子に座って気がついた。かすかにツンとする、不思議な香りが漂ってくる。
見回してみると、置かれた明かりは同時に薄く煙を立ち上らせていて、単なる光を得るためだけではなく、何かの香料を燃やしているらしい。
「…何の香りですか」
「レグラム草です。野獣はこの匂いを嫌うのですよ」
「そんなに臭いとは思いませんが」
「体に付きやすいんです。この匂いが付くと狩をしにくくなる。居場所がバレて獲物が取れなくなってしまう」
「まあ面白い」
思わず笑ってしまった。
他国へ嫁いで良かったのはこう言うところだ。ハイオルトに居ては見かけもしない草木や動物、行ったことのない祭祀、聞いたことのない風習に出会う。
この先の人生を、シャルンはこうして使い尽くしていくのだろう、縁談がどこからも申し込まれなくなる年齢まで。あるいはハイオルトにはミディルン鉱石など、とっくの昔になくなっているのだとわかってしまうまで。
けれど一人で消えていく晩年には、こうして見聞きした全てのことがシャルンを慰めてくれるだろう。不思議で見たことのない光景や、他人事だが優しい関わりや、珍しい生き物達の仕草が。
風がふわりと香料の煙を揺らせて光が瞬く。
この香りもまた、この暖かな夜を思い出させる記憶の一つとなる、そう思うと嬉しかった。
「面白いですか」
「はい。見たことのないものや珍しいものがたくさんありますから。でも、ルサラはここにもあるんですね」
来る途中に見た蔦の名前をあげる。
「ルサラ?」
「はい、長くて切れにくい蔦です。来る途中にたくさん木々に絡んでいました。古いのも、新しいのも、いっぱい」
「ああ、ビンドスのことかな」
「ビンドスと言うのですか」
名前も違うのね、面白いこと。にこにこ頷いて、優しく覗き込むレダンの瞳にはっとする。
いけない、なんだか和まれているような、喜ばれているような気がしてきた。慌てて訝しげな表情を浮かべたところを思い出し、シャルンは会話をつなぐ。
「あれだけたくさんあるならば、是非国に持って帰りたいものです」
これほど甘やかな雰囲気に、自分ではなく野生の蔦に興味を示し、しかも持って帰りたいなどと奇妙なことを言い出せば、きっとうんざりされるだろう。少なくともマムールはそうだった、と思い返しながら、レダンを見上げると、相手はさすがに顔をこわばらせている。
「お望みならハイオルトに送らせるが……しかし、なぜ?」
レダンは眉を寄せて首を傾げる。
「そう言えば、さっきもおかしなことを言っておられたな、古いのも、新しいのも、と」
「え? ええ、はい?」
不快がられるばかりか、逆に興味を示されてシャルンは困惑した。
「カースウェルでは新しいものしか使わないのですか」
「使う?」
ますます首を傾げるレダンは小さな子どものようで無性に可愛い。汗で濡れてしまったのか、いつもなら軽く巻き上げてある前髪が額に落ちているせいかもしれない。
「どうやって?」
「え、あの…」
シャルンは戸惑った。相手の興を削ぐどころか、逆にじりじりと距離を詰められ焦る。
「新しいものは荷運びの紐に使いますし、古いのはそれこそ、十分伸ばして乾かしておけば、中身が抜けて良い水管になりますでしょう?」
「スイカン、とは?」
「水を通す管です…」
何か間違ったのかもしれない。妙に、興味を持たれてしまっていないか…?
シャルンはひんやりとしながら答えた。
レダンはさっきと打って変わって鋭い瞳でシャルンを見下ろしている。
「水を通す、のですか?」
「は、はい。ルサラは乾燥すると、表面の皮を残して中身が粉になって抜け落ちます。いくつか繋いで、高い所にある水源から垂らすと、中を伝って水が下に運ばれて……あっ」
シャルンは息を呑んだ。
「ひょっとして、この谷には地下水脈だけでなく、高所に湖があるのですか」
「……それをどうしてご存知ですか」
レダンが静かに尋ねてくる。
「確かにこの谷は地下水脈はあるものの、湧き水はうんと下流にしか存在しない。この少し上に湖があって、そこには降った雨が溜まるのに、そこから流れ出す川はなく、水は全て地下を流れる。だから、湖から湧き水の場所までの土地は、水不足で農作物がうまく育たない。湖から川を作るには大規模な土木工事が必要だし、湧き水から水を汲み上げるには多くの人手が要る。だから、この土地はカースウェルにとっては悩みの一つだったんです」
とさり、と背後に倒れて、初めて押し倒されたと気づいた。
「お気付きですか、シャルン姫」
「何、を」
そうだ、気づいている。シャルンは今、レダンの恐らくは長年の悩みを解決してしまっている。それでもわからぬふりをして瞬きをすると、くす、とレダンが唇を綻ばせた。
眉を寄せて困ったような、甘く優しい苦笑い。
「あなたは今、俺の腕の中にいる」
「っ」
俺、と呼称が変わった瞬間、激しい光が藍色の瞳に満ちた。
「御礼をしなくては」
「い、いえ」
「確かに湖から、あなたのルサラ、の水管を通し、所々に貯水場を設ければ、ここは一変するでしょうね」
「…貯水場…」
シャルンは呆然と呟いた。
それは考えていなかった。ハイオルトにあったのは、水場から水場を繋ぐルサラの水管のみで、確かにそうだ、あちらこちらに貯水して、そこを繋いでいけば、複雑な入り組んだ街中にも隅々まで水が行き渡る。けれどルサラはハイオルトにおいては貴重品で、それほどたくさんは自生していない。
「持ち帰り…たいです」
思わず訴えた。
「ここのルサラ、少しだけでもいいので頂けませんか」
「……あなたは…」
悔しそうにレダンは顔を歪めた。それから小さく息を吐き、突然にやりと笑った。
「わかりました。ここの気候があっているのでしょう。繁茂領域を確認して切らさないようにしましょう。ハイオルトにも送りましょう、だから」
「だから?」
「褒賞を頂きます」
「褒賞…?」
「……俺は随分我慢したんだ」
「…っん」
近づいてきたレダンの顔に目を閉じると、唇が柔らかく覆われた。拒む前に今度はぺろりと唇を舐められ、目を見開く。薄赤くなった顔でレダンが囁いた。
「次はもう少し、深くまで」
「あっ、のっ」
「口を開くなんて、いけない人だ」
欲しいと誘われているように思う。
囁きは既に舌に乗せられ、唇の内側に押し込まれた。