5.離宮の住人
「どうしましょう…」
シャルンは溜め息をついた。
「レダン王が帰してくださらない…」
部屋にはドレスが数着準備されている。先ほどまでルッカと他数人の侍女がやってきて、あれやこれやと品定めをした挙句、このうちどれかをお選び下さいと申し渡された。
どれもレダンが気に入って買い求めたものばかり、しかも、もっと困ったことにシャルンも気に入ったものばかり、と言うより、買い求めたドレスの8割がた、シャルンが気に入ってしまったドレスで、まるでレダンに好みを見抜かれてしまってでもいるようだ。
しかも、揃えたドレスは全部着て見せて欲しい、それが済むまでに勝手に国外へ出て行かれては、ハイオルトまで追って行きたくなるとまで言われてしまった。
「1日数着、着替えていくとか…」
それはつまり、この部屋のドレスを今日中に全部着て、しかも毎回レダンに見てもらいに行かなくてはならないと言うことだ。
「…無理…っ」
買ってもらったドレスの1着を、ようやく身に付けて朝食に向かい、レダンの容赦ない間断ない賞賛としか言いようのない視線で眺められて、食事は碌に喉を通らなかった。
「どうしたら…嫌ってもらえるのかしら」
こんな難しい相手に今まで会ったことがなかった。
「んんん……」
眉根を寄せて悩んでいると、ルッカがやって来て来客を告げた。
「お客様?」
「ガスト・イルバルディ様です」
「まあ」
ガストといえば、レダンに常に付き従っている執務官ではなかったか。
「ひょっとしたら、ガスト様がお断りを伝えに来られたのかもしれない」
呟いてふと、胸が痛むのに気がついた。
願っていること、望んでいること、今の今までどうしてそのように仕向けられるかと悩んでいたことだ、なのに。
「姫様?」
「あ、いえ、お通しして」
「かしこまりました」
「失礼いたします、奥方様」
ルッカが引くのと入れ替わりに、ガストは穏やかな物腰で部屋に入って来た。拝跪の礼を取ろうとするのを押しとどめる。
「いいえ、あなたの主人はレダン王のはず。どうぞ、そのままで」
大丈夫、覚悟はできているわ。
シャルンは胸の中で一つ頷き、ガストに向き直る。
こうしてみると、ガストもまた品のある顔立ちをしていた。レダンの容貌とは違った端正な顔立ち、静かな茶色の瞳はまっすぐにシャルンを捉えていて、今は何の感情も読み取れない。
「お退屈ではございませんか」
「いいえ、とても楽しく過ごさせて頂いています」
「…なるほど」
無造作に部屋に掛けられたドレスに視線が動く。与えられた寵愛をいいことに、好き放題に国家の金を無駄遣いする悪妃、そう思われているのかもしれない。
「お忙しそうですね」
冷ややかな声に好意は持たれていないと確信した。
レダンが動いてくれないのなら、ガストからと言うのは可能だろうか。
シャルンはできる限り名残惜しげにドレスを見やった。
「ええ、時間はいくらあっても足りません。美しいものを愛でるのは本当に嬉しいものです」
「…奥方様がご満足いただけているのなら何よりですが……ただ一つ」
「何でしょう」
さあ、何を不快だと伝えてくるだろう。
「私からお話しした方が良いかと思われることがございます」
「はい」
「主はお伝えしにくいでしょうし」
いきなり距離が近くなり無作法になった。いよいよかもしれない。
「どうぞ、何なりと、ガスト樣」
「……ガスト、で結構です」
一瞬奇妙な表情になったガストは、気を取り直したように口を開いた。
「ここで過ごされたのは、奥方様が初めてと言うわけではございません」
「はい」
「以前、お住まいになられていた方のこと、王が心より愛された方のことです」
ああそう、そうに違いない、だってそうでなければ、これほど美しい場所を激務の合間に保つ必要があるわけがない。
「ぜひ…」
シャルンは微笑んだ。
「お聞かせください、『ガスト樣』。夫のことは全て知りたいのが妻と言うものです」
『夫』のことばが僅かに震えてしまった。
「今日はどちらへ」
尋ねるガストにレダンは猛烈な勢いで書類を片付けながら答える。
「夕方になるけど、国境に出かけてくる」
「シャルン姫とですね」
「他に誰がいるんだ?」
「国境と言うと」
ガストは通常の数倍の速度で積み上げられていく書類に目を細めながら、
「ルシュカの谷ですか」
「…」
ぴたりとレダンは手を止めた。
「あそこの治水は確かに難題ですけどね」
ガストは書類を点検しながら続ける。
「わかっておられると思いますが、もしシャルン姫が他の国に嫁がれたら、ルシュカの治水が難航していてカースウェルはこれ以上農作物を増産できないと知れ渡りますよ」
「…」
「そんなことはしないなんて甘いことを考えておられないでしょうね」
ガストはなおも追及してくる。
「何と言っても『出戻り姫』なんですからね。これまで4つの国が彼女の受け入れを拒んでいるんですよ?」
「ガスト」
手を止めたまま、レダンは顔を上げる。どう反論されるのかと身構えた相手に、手元の書類を指差す。
「ここの数値が間違っている」
「えっ」
「珍しいな、寝不足か」
笑いながらレダンは書類をガストに渡した。受け取りながら、なおもガストは物問いたげにレダンを見つめている。
「寝不足にもなります。我が君は本気でシャルン姫を受け入れられるらしい」
「協力すると言っただろ?」
「サリストア王女はどうされるんですか」
「……さあて、終わったな」
レダンは立ち上がった。
「レダン王」
「なあガスト?」
呼びかけるガストに肩越しに視線を投げる。うっそりと笑う目にガストがわずかに姿勢を正した。
「お前、離宮の主のことをシャルンに話したろ」
「……」
「だからルシュカに行く羽目になったんじゃないか」
くすくすと笑う声はこの前のような楽しげなものではない。
「ひょっとすると、シャルンがお前を救ってくれるかもしれないぞ?」
くるりと背中を向けて去っていく後ろで、ガストがぼそりと呟いたのが聞こえた。
「……本気なんですね」
「寒くないですか?」
「はっ、いえっ、あのっ」
「頷くだけでいい、舌を噛みますよ」
「っ…」
寒くないも何も、シャルンはすっぽりレダンのマントに包まれて速度をあげる馬の背で抱きかかえられている。轟く胸だけで十分に熱い。
出かけましょう、とレダンが誘って来たのが、もうすぐ日暮れという時刻、ましてや馬で国境近くまで出かけると聞いてなお驚いた。馬に乗れません、と訴えれば承知しています、と明るく笑い飛ばされ、あれよあれよと言う間に比較的軽装のドレスに着替えさせられて、案じるルッカを離宮に残し、どれほど道を進んだのか。
すでに日は落ちつつあって、さっきまで赤く染まっていた空は、少しずつ青く深く澄み渡り始めている。だが風は爽やかで、ハイオルトのように体温を奪う冷たさを宿さない。
「あ…」
「何?」
「星が…」
「目が良いんですね」
微笑んで覗き込まれると、温かな香りに包まれる。目的地が近いのか、さっきよりは速度が落ちて来たようだ。小さく吐息をつくと、宥めるように強く抱きしめられた。
「もう少しですよ」
「はい」
「……残念だけど」
「っ」
囁かれて髪にキスが落とされ、驚いて縮こまる。レダンは気づいていないのだろう、シャルンに対して初めてそう言うことをしていると。きっとわかっていないのだろう、今まで一度も愛されたことがない娘が、その扱いにどれほど怖がり不安になるかなど。
『この離宮には、一人の女性がおられたのです』
ガストのことばが蘇る。
『名前はアグレンシア・カースウェル・パラスニア様』
『……』
どうして考えなかったのだろう、シャルンでさえ5回目の婚儀、レダンが初婚だとは限らなかったのに。
『お綺麗な方でしたか』
思わず尋ねてしまっていた。一瞬驚いたように目を見開いたガストが、苦笑いしながら、
『気品溢れる方でした』
当然だろうとのことばの響きにすとんと何かが身内をすり抜けた。
レダンが求めるのは気品なのだ。ならば、それが伴っていなければ、この結婚はすぐに破綻する。
『そう、ですか』
思ったよりも簡単なことだった。考えていたよりもずっと容易く達成できる。
シャルンには元々気品など、ほんの僅かもありはしなかったのだから。
『その方は、今』
『既にこの世を去っておられます』
なおさら容易い、と頭の中に広がった冷えた霧が教えてくれた。
いなくなってしまった至上の恋人に、現世の何者が勝つことができよう。
『…それではお寂しいでしょうね』
にっこりと笑って見せた。
『私がお慰めできればいいのですけど』
ガストは忠臣だ。レダンのことも、国のことも、本当に大事に考えている。考えているならばこその、この独断に近い面談は、おそらくレダンは知らぬことだろう。
かけがえなく愛した妃を失い、心痛の、けれども有能で魅力的な王が、国のため国民のため、ドレスや飾り物を野放図に買い求め、身につけるものを選ぶのに日々を過ごすような愚かな女を妻にしようとしている。食い止めねばと思ったのだろう、我が身を断じられるとしても。
ならばその忠誠を、愚かな姫は色恋のぬるま湯で弄ばなくてはならない。真摯な国への想いを本能の迷いで曇らせねばならない。
レダンがシャルンを手放さないなら、ガストから働きかけてもらえばいい。
『「陛下」はどんなお楽しみがお好きなのでしょう』
ガストの顔色があからさまに変わった。吐き捨てるような冷ややかな声が応じる。
『あなたにはとてもお分かりになりますまい』
『それは残念です。では、直接「陛下」にお尋ねしましょう』
舌打ちをかろうじて堪えてガストは部屋を去った。
「もう直ぐですよ」
囁かれて我に返る。
蹄の音が静まり返った世界に響く。見上げる星空が徐々に狭くなる。
小さな谷に入ってきているのだと気がついた。
カースウェルの国境近く、小さくて狭い谷は豊かな地下水脈で溢れていると聞いたことがある。それにしては空気は湿っていないし、走る大地が沈む音を立てることもない。
速度が急速に落ち、やがて馬はゆっくりと止まった。
「着きましたよ、シャルン姫」
声をかけられ、そっと抱き下ろされる。
「今夜はここで泊まります」
示されたのは谷の片隅に作られた小さな四阿のような建物、侍女もおらず側仕え一人見当たらない。
「明日の朝まで二人きりですよ」
「……では、お聞きしたいことがあります」
微笑みながらレダンを見上げる。
もしここがルシュカと呼ばれる谷ならば、レダンがシャルンに何をさせようとしたか想像はつく。ザーシャル王国での経緯を、あの有能なる執務官が伝えずにいるはずがない。
レダンの信頼を、自分に向けられた思いやり深い理解を感じる。
ならばこそ、シャルンはこれを聞かなくてはならない。
「離宮に住まわれていた方のことです」
「…」
レダンの顔が少し歪んだ。