3.奥方への邪な愛情
「……あれはなんですか」
居室でぐったりと長椅子に寝そべるレダンにガストが唸る。
「言うな」
「いきなりシャルン姫を抱き上げて現れたかと思ったら、辺り構わず俺の物だ宣言ですか、そうですかごちそうさまです」
「そんなことはしてないぞ」
「してましたよ。挙げ句の果てに姫につれなくされてブチ切れるなんて、どう言う了見ですかレダン」
突っ込まれてレダンは腕を上げて顔を覆った。長年の付き合いとはいえ、自分がとんでもない顔をしているだろうと言う自覚はある。それでも、歯止めが聞かずにことばが勝手にこぼれ落ちる。
「……どうしようかな」
「聞きませんからね」
「どうしたらいいと思う、ガスト」
「聞きません」
「シャルン姫が欲しい」
「聞かないと言ってるでしょう」
「どうしたらいい?」
「何を血迷ってるんですか! あの姫はとっくにあなたの奥方ですよ!」
「だよなあ……なのに」
別れ際のシャルンのことばが引っかかっている。
「あれは明らかに意図的だよなあ」
「? 何のことです?」
「…ガスト、ちょっと調べてくれ」
ステルン王国ギース・ステルン・グラスタス、ラルハイド王国バックル・ラルハイド・シトラドル、ザーシャル王国サグワット・ザーシャル・アルドランド、ダスカス王国マムール・ダスカス・ドリスカス。
名前をあげると、ガストがじんわりと眉を寄せる。
「今までシャルン姫を破談にしたお相手ですね」
「破談の理由を知りたい」
「一応、あなたの理由をお尋ねしてもよろしいですか」
「さっき俺は彼女を抱き上げてたろ?」
「確認されずともそれ以外の何ものでもなかったですね」
正直度肝を抜かれました。
ガストは深々と溜め息をついた。
「今までお付き合いされた姫君とはダンスとお散歩ぐらいしかされていなかった国王が、みすぼらしい格好の下女を満面の笑みで抱き上げておられるばかりか、今にもベッドに連れ込みかねないご様子でしたので、ご乱心かと」
「絡むなよ」
レダンは苦笑いする。後々は妃を娶ってカースウェルの安泰をと繰り返し促されていたにも限らず、なかなかその気にならなかったレダンへの揶揄が刺々しい。
「お前から見ても、俺が彼女を気に入ったのはわかっただろう?」
「私だけではなく、お付きの侍女ですか、彼女もそう見ただろうし、誰がどう見てもあなたはシャルン姫をお気に入りでしたよ」
「ハイオルトは俺の求婚に応じたし、シャルン姫が今度こそめでたくカースウェルに落ち着くことは願ってもないことのはずなんだ」
「カースウェルが多少分が悪いぐらいですね」
「なのに、あのお姫様、俺に『嫌われよう』としたぞ?」
「は?」
ガストは訝しげに眉をあげた。
「………は?」
もう一度繰り返す。
「彼女は俺が不愉快だと伝えたことを、丁寧にもう一度やって見せたぞ」
「……どういうことですか」
「どういうことだかなあ」
今度はちょっと切なくなって、レダンは長椅子に起き直った。
「つまり、こう言うことですか、シャルン姫はあなたをお好みではない?」
「……気のせいかな、なんだかお前が嬉しそうに見えるんだが」
薄く笑ったガストに唇を曲げてみせる。
「まさか」
「本当か?」
「いくら普段から面倒ごとを押し付けられるからと言って、主が振られるのを望む従者などおりませんよ、ええ、この国のためにも」
応じながらガストはなお嬉しそうに相好を崩した。
「まあ、百歩譲って彼女が俺のことを気に入らなかった、としよう」
胸のあたりで小さくずきんと音が響いた気がしたが、今はあえて無視する。
「けれど、とりあえずは嫁いできてしまったんだから、俺を不快にさせても自分が困るだけだ、そうだろ?」
「ええまあそうですね。一般論で言えば、獣の前でふざける馬鹿はいませんからね」
「俺は今までシャルン姫の破談は、相手に問題があるんじゃないかと思ってたんだ」
どう言うことですか、とガストが目線で促すのに頷く。
「王家の求婚は気持ちとは無関係だ。必要性があっての婚姻、破棄するならそれなりの理由がいる。だから、今までのことは不幸な巡り合わせだったと考えていた。破談になってのシャルン姫は寝込んでしばらく床に伏すぐらいだから、彼女自身は嫁ぐことを望んでいて、けれど破談になってしまうのだ、と」
気づいた顔でガストが応じる。
「……肖像画ですか」
「確かに相手側の理由もあるだろうが、ひょっとすると、ハイオルト側にも何か考えあってのことかもしれないぞ?」
「…なるほど」
「彼女は多分見かけよりうんと『賢い』。少なくとも、俺が不快を示したことが何なのか、的確に読み取って、そこをもう一度突つくことができるほど」
「不愉快ですね」
ガストは表情を消して立ち上がった。
「ハイオルトは我がカースウェルを謀るつもりだと言うことですか」
つまり、初めから嫁いでくる気などなくて、何かの意図のために。
「……見舞金?」
「あり得るだろう?」
にやりと笑ったレダンに溜め息を返す。
「腹黒いあなただからこそ思いつくんですかね」
続いて、芝居がかってぽんと手を打って見せた。
「ああだからですか。そう言うことなら、何が何でもシャルン姫を娶っておいて、ハイオルトの企みを灰燼に帰してやろうと」
「あ、いや、それは」
「わかりました、このガスト、全力でシャルン姫を引き止めておくように頑張ります」
「ちょっと違うんだが……まあいいか」
いそいそと居室を出て行くガストを引き止めかけて、レダンは呟いた。
「けどなあ…いくら国策だからって、嫁いだ先で嫌われるように振る舞い続けるって辛くないのか……?」
「危なかった…」
シャルンは居室に戻って、大きく深く溜め息をつく。
確かに本当に危なかった。シャルンはとっくにレダンに気持ちを引かれていたし、きっとそれがこぼれかけたのだろう、愛しく思って欲しいと言う願いを読み取ったように優しくしてくれるレダンの姿があって。
落ちそうだった、何もかも捨てて。
だから、レダンが不愉快がることを見つけられて、本当によかった。
あのままだったら、シャルンは全身でレダンに応えたくなってしまう。レダンの望みと願いを満たし、自分も満たされたいと思ってしまう。
そうしてハイオルト王国は餓死してしまうのだ。
「忘れないようにしなくちゃ」
小さな声で呟く。
「私の役目は嫌われること。嫌われて、ちゃんと破談になること」
「…なんですか、姫樣」
片付けをしていたルッカがふと振り返って尋ねてきた。
「なんでもないのよ、ルッカ」
「…お疲れですね、美味しいお茶をご用意致しましょう」
いたわるような声に少し微笑み返す。
嫁いできたのだから、早々に城の一角に部屋を与えられ、一ヶ月後には行われるはずのお披露目式の手筈やそれまでの過ごし方、ひょっとするとカースウェルの妃としての再教育やそれこそ床入りの指導などがあるのかと思っていたが、準備されていたのは城から近い離宮の一室。
『ここは今は誰も使っていません。まずはしばらくお好きなようにお過ごしください、おいおいお話しして行きましょう』
静かに、けれど素っ気なくレダンから伝えられて慇懃に案内された離宮は、花々の庭園に囲まれた美しい場所だった。それとなく遠ざけられたのかと思っていたが、色とりどりの花は丁寧に世話をされていて、誰も使っていないこの場所が、大事に保たれていたのだとわかる。
「いろいろなものがよく揃っておりますね」
お茶を運んできながら、ルッカが溜め息混じりに報告した。
「お部屋も家具も小物類も、まるでつい最近までどなたが住まわれていたかのようなお手入れぶり…っ、申し訳ございません!」
途中ではっとしたように話を止める相手に、シャルンは笑って見せた。
「大丈夫よ、ルッカ」
過ごしやすいわ、本当に。
お茶を一口含み、穏やかな日差しを浴びる庭園を窓越しに眺めながら、光を跳ねさせてきらきら光る調度類に目を細める。
「きっとここにおられた方は大事にされておられたのよ」
そういう場所を使わせていただいているのに、感謝しなくては。
続けると、ルッカが辛そうに眉を寄せ、
「失礼いたします、もうお召し物が届いたかもしれません。見て参りますね」
ルッカが言い訳しつつ涙をこらえてばたばた遠ざかるのに、シャルンはほっと力を抜いた。
いつもならルッカが居てくれるのが心強い。あからさまに値踏みされ、がっかりされ、仕方なしにと言いたげに豪奢な部屋やドレスや宝石を与えられ、けれど結婚相手の王とはほとんど碌に話すことも一緒に過ごすこともなく、半端な期待が落胆に代わり、希望が絶望に落ち込み、我慢と忍耐が怒りと暴言に変わるまで待ち続けるその中で、ルッカだけが気持ちを支えてくれるのだから。
けれど今は。
「…」
お茶の表面に映る自分の顔。鏡でみれば、薄赤く頬を染め、まとまりきらぬ巻き毛をぼやぼやと乱して瞬きしているおどおどした顔は、さぞかしつまらないものだろう。
けれど、あの顔は。
「……」
頬が熱くなり、そっとまた一口、お茶を飲む。
下女の支度部屋で見た一所懸命なレダンの顔。自分を見下ろした藍色の綺麗な瞳。軽々抱き上げられて驚きよりも嬉しさが勝った、まるで自分のもののように扱ってくれるではないか、と。
「…好きにならない人がいるのかしら」
『もう少し、こうやってあなたを抱いていたかったのに』
よく通る声が甘やかに囁かれた。
「…っ」
ふいに視界が曇る。
ぽた、とお茶に涙が落ちた。
「…あり…がとう……ございます……」
小さくて囁く。
ありがとうございます、あんな状況で、こんな私に、そんな優しいことばをかけてくださって。
ありがとうございます、いずれは嫌われて放り出される私に、一瞬の夢を見せてくださって。
ありがとうございます、多分この先ずっと、あれほど愛おしそうに抱きしめてくださる方には出会えないでしょう。
たくさんの、たくさんの、胸に溢れるほどの、お礼を伝えたかった。
あなたが『最後の人』であれば嬉しかったけれど、そういうわけにはいかないから。
ありがとうございます、そのことばが不快だと伝えられてなお、重ねた。
思いやりなんかじゃない。
礼儀なんかじゃない。
あれは心底、本当に、シャルンに向けて捧げられた宝冠、かけがえのないただ一つの宝物。
そんなことはわかっている、あの支度部屋で見たときから。
「ありがとうございます」
ぽたぽたと涙が落ち続けるお茶のカップを必死に支えた。
「本当に嬉しいんです、私、レダン王…」
こんな私でも、人を好きになることができるのだとわかったから。
「なのに……ごめんなさい……」
なおも涙が溢れて止まらない。
「……あなたを傷つけることしかできない……」
ひっく、と小さくしやくり上げる声を聞くものは誰もいなかった。