2.暁の星
「いい加減になさっていただきたいもんですよ」
ルッカがぶつぶつ唸りながら荷物をまとめる。
昔から付き添ってくれている乳母のようなもの、嫁いでは出戻ってくるシャルンを案じていつも同行してくれる侍女だ。
「ええ、ええ、そりゃあ、あちらこちらへ旅行に行ったと思えばよろしいんです、珍しいものを見て変わった景色を眺めて、まあこりゃすごいあら大変だわとか言ってればいいんですけど、姫様がどれだけ傷つかれるかってことを、全くお考えにならないあたりが!」
「ルッカ…」
苦笑いしながらシャルンは荷造りの手を止める。
半年も経たず返される、もしくはもっと早く戻ってくるのだろうと思っているから、荷物もだんだん簡素に少なくなって来た。必然、荷造りの腕も上がってしまう。
「私はね、情けのうございます、姫様」
ルッカがお仕着せのエプロンを掬い上げて顔に押し当てた。
「姫様のどこがいけないんですか、お優しくてお情け深くて、いつも一所懸命に尽くそうとされるじゃありませんか、どんなクソミソな王樣にだって!」
「ル、ルッカ…」
ふくよかな体を震わせて嘆くルッカをシャルンは慌てて嗜める。そんなことを誰かが聞いていたら、ルッカが厳しく咎められる。
「王妃様がご存命でいらしたら、国王様もこんなことをお考えにはならない、いえ決してこんなことを繰り返されなかったはずでございますよ!」
「そう……かもしれない、わね」
ハイオルトの王妃、ラクレス・ハイオルト・エリクシアは10年前に亡くなった。
シャルンは詳細を知らない。それほど幼かったはずはなく、けれどどうして母が亡くなったのかは誰からも語られず、ある日突然母が病に伏したと知らされ会うこともできなくなり、数ヶ月もせずに没したと聞かされた。覚えている光景は、母を失ってからの父親が何をする気力もなく、毎日呆然と玉座に座り込んで居た姿だけだ。
触れてはならないことが起きたのだ。そう推察したのは、母親の死について説明してくれようとした侍女が辞めさせられ、代わりにルッカが入ったからだ。
ルッカは明るく楽しい女性だった。身動きできない呼吸さえままならないような父娘の暮らしに慰めを与えてくれた。そのルッカまで失うわけにはいかない。シャルンはそれから、母親について尋ねたことはない。
『スティ……可愛い私の宝石』
耳の底にシャルンの幼名を呼ぶ声が戻ってくる。抱きしめて愛しんでくれた優しい腕も甘い香りも忘れていない。それでいい、それで十分だと思うようにはして来た。
けれどふと。
「いつまで……続くのかしら」
呟いた途端にハッとしてルッカを振り返った。
エプロンから顔を上げたルッカが再び涙を溢れさせる。
「姫様…」
「あ、ごめんなさい、大丈夫、大丈夫よ。さ! さっさと仕上げてしまいしょう!」
「は…はい…っ。ええ、もちろんお任せ下さい! 頑張りましょうね、今度こそ生涯を共にと望んでいただけるように!」
「え…ええ…」
グッと両腕を振り上げるルッカに、シャルンは引きつりながら笑みを返した。
なのに。
なのに、カースウェル王国へ着くや否や、これだ。
「はいはい、さっさとそこで服を選びな! ぐずぐずしてると仕事に遅れる! 遅れたら飯抜きだからね!」
雨上がりの湿った空気を吹き飛ばすように、鋭い声がせきたてた。
「あ、あの…」
「まだそこにいんのかい!」
「きゃっ」
シャルンより数倍の体重と腕力をもつらしい女性に、エプロンで乱暴に拭き取った掌でがつりと襟首を掴まれ吊り上げられた。そのまま下女の支度部屋らしい扉を開かれ、投げるように放り込まれる。どすんと尻餅をついたシャルンを、本当にグズだねえ、そんなことじゃここじゃ使いもんにならないよ、早くしな、となおも睨みつけて、女性はさっさと厨房に戻った。
「…どう…しましょう…」
困り果ててシャルンは周囲を見回す。お仕着せらしい粗末な衣服が掛かり、確かに洗濯は済んでいるようだが、それも穴が空いていたり繕ってあったりとみすぼらしいことこの上ない。
だからと言って、今の姿は下着一枚と言っていいほどの薄い上下、ルッカが何とかピンで止めてくれたからずり落ちなかっただけの、より危なっかしい衣服だ。
「…きっとこれより…こちらの方がましよね…?」
どうしてこんなことになってしまったのか。
選びながら、シャルンはカースウェルに入るまでのことを思い出す。
荷物は少なく荷物持ちは数名、侍女は付き添いただ一人。
4回も輿入れを繰り返しては破談になる姫に、国民の歓声も見送りもなく、どちらかというとあまり騒がないでいてあげて、後々戻ってくる時にも辛くないようにしてあげよう、そういう配慮の感じられる数人の臣下の視線に見守られて国を出て、カースウェルに入った途端に大雨に降られた。
馬車はぬかるみ崩れた道ですぐに使い物にならなくなった。シャルン達は荷物を降ろし馬車から離れようとしていた。そうこうして居るうちに、カースウェル側からの出迎えがくるだろうと皆が考えていた、その矢先、間近で落雷があった。
緊急避難で借りた宿には無宿者らしい荒くれた男達がたむろしており、それでもルッカが頼み込んで城へ遣いをやったところ、迎えのものは行き違ったらしく、既にこちらへ向かっているとのことだった。
雨もようやく止んで、けれど荷物も服もびしょ濡れで、宿の気配も怪しいし、加えて刻限に遅れているからとなんとか濡れていない衣類を身につけ、一本道だからどこかで会うだろうとルッカと共に外へ出たのが間違いだった。
やって来た馬車は粗末なもので、迎えにしては妙だと思ったのは乗り込んだ後のこと、城には確かに入ったが、どうやら下働きの女達を集める馬車だったらしく、そのまままっすぐ厨房へ送り込まれて現在に至る。
「……どうしてこんなことに…」
溜め息をつきながら、さてここからどうしてあの剛力な女性に身の証を立て、レダン王のところまで連れて行ってもらうか、シャルンは悩んだ。
「…ルッカも探さなくちゃいけないし……でも、まず王様よね……?」
扉の向こうが急にざわざわし始めた。ひょっとすると、シャルンがあまり遅いので、あの女性が様子を見に来たのかもしれない。
手前にあった膝丈ドレスと分厚いエプロンを無理やり被る。シャルンの体格がもっとよければ、あちこち擦れてかなり痛い思いをしただろう。ごわごわした布を引き伸ばし、エプロンの紐をくくりつけ、気がついて雨に濡れてくるくる巻き上がり跳ね放題に跳ね散らかした髪に、掛けてあった布を被って端を結ぶ。
「こんな…感じ……ちょっと足元がすうすうするけど」
吐息をついた途端、ばあん、と背後の扉が開け放たれてびっくりした。
「ここか!」
苛立った激しい男の声が聞こえて、とっさに近くの衣装の隅に飛び込む。
まさかとは思うが、さっきの荒くれ者達が追いかけて来たのかもしれない。
「おい、誰かいるか!」
はっきりした通りのいい声にそろそろと隙間から覗いた。
くるりと振り向いたのは黒くて艶のある長い髪をリボンで一つに纏めた後ろ姿。ブラウスにズボン、いかにもこの場所に不似合いな襟元に輝く宝石と腰の剣。
「誰もいないのか!」
不安そうに苛立った顔で眉を寄せる、その顔立ちに見惚れた。
「やさし、そう…」
何かをひどく心配している。薄く汗が滲んだ額、陰った藍色の瞳、わずかに紅潮した頬もぐいと拳で顎を擦った仕草も、必死そうで誠実そうで。
あんな風に見てもらえたら。掛け替えのない大事なものを探すように、走り回ってもらえたら。
「誰だ!」
「っ」
気配が動いたのか、的確にこちらを振り向かれて息を飲んだ。
真正面から見据える、猛々しいほどの瞳に射抜かれる。
「あ……っ」
「お……っ?」
ごめんなさい、隠れているつもりはなかったの。
謝って飛び出そうとした足は、たくさんの衣類を吊り下げた棚にたやすく引っかかり、それらを押し倒しなぎ倒すように男の前に転がり出した。
暁の星が落ちて来た。
みすぼらしい衣類の波の中から、いきなり転がり出したのはくしゃくしゃに縺れてなおも輝く金色の髪。慌てて見上げて来るのは白くて小さな顔、赤く染まった頬に薄水色に瞬く瞳、二つ。
「…」
レダンはしばらくぼんやりと相手を見下ろしていた。
まわりのぼろぼろの衣類のせいか、彼女自身の粗末な衣装のせいか、それとも自分の目がどうにかしてしまったのか。
なんでこんなに綺麗なものが、なんでこんなところに無防備に転がってるんだ。
細い手足には衣服は大きすぎて、ぎゅっと締めたエプロンが衣服のあちこちをたるませている。両腕をついて見上げて来る白い首筋、がさがさした布に押し込められて、柔らかい膨らみが窮屈そうだ。
ふと視界の端を鼠が走ったのに気づいて、レダンは総毛立った。
「えっ、あの…っ」
「シャルン姫でしょう? 間違いないですね?」
戸惑う相手に駆け寄り、一気に抱き上げる。ばさりと広がる分厚い布が自分と彼女を隔てているのが不愉快でむかつく。
「なんでこんなものを」
思わず口走って、しまったと思ったのは、今度は見下ろす形になったシャルンがみるみる瞳を曇らせたせいで。
「あ、あの、ごめんなさい」
曇っただけではなく潤み始めた瞳に思わず舌打ちした。
「あの…ごめんなさい、私が悪いんです、ごめ、」
ことばが続かなくなった彼女が振り落とした涙が頬に落ちて、一瞬蕩けそうな感覚に揺れた。
一雫の涙だけで、これほど気持ちいいなら。
薄く笑う。
そうだ、自分はもっと、と望める立場にいるのではなかったか?
「あの、謝罪します、ごめんなさい、私、大変なご迷惑を、あの」
「いいえ、こちらこそお詫びしなければ。お迎えもせず、こんな所に押し込めたりして、失礼を重ねてしまいました」
抱え上げていた体をそのままに戸口へ向かう。
「ご事情は後ほど。とにかくここには鼠がいる。別の部屋にお連れしましょう…ついでに着替えも」
ごくり、と喉が鳴ったのを聞かれたかとひやりとしたが、シャルンは体を震わせて余計に怯えたようだ。
「鼠…? 着替え…?」
「あなたが来られるのをお待ちしておりました」
用意していたおざなりの社交辞令に熱がこもるのを感じた。
「私のかけがえのない姫になってくれるのだとね」
この柔らかな体をベッドの上で堪能できる権利をレダンは持っている。それがこれまで成し遂げたどんな功績よりも得難い物のような気がした。
「あの、でも、私」
何事か訴えようとするシャルンの頭を抱え、戸口を屈みこんでそっとくぐり抜け、下ろす気も全くないままに通路を歩きながらもう一度見上げる。揺れる金髪に引っかかっていた布がばさりと音を立てて落ちて行く。ふわりと広がった髪が一気に膨れ上がって光輪のように顔を飾り、また少し見とれてしまった。
「ひょっとしたら、ご期待に、添えない、かもしれなくて」
おどおどと話す声は密やかで優しい。かすれて甘い。
「大丈夫ですよ」
レダンは笑った。
もちろん大丈夫に決まっている、本能が叫んでいる、この姫を手放すなと。肖像画なんて嘘っぱちだった、100分の一、いや1000分の一も彼女のことを描いていない。
「髪の色と目の色だけは合ってたか」
「え?」
「いいえ、送ってくださった肖像画の画家は馘になさったほうがいい」
「肖像画?」
「ご存知ない?」
「ええ…はい」
ふうん、とすると、あれも一つの企みだったのか。
頷きながら、これまでシャルンが断られた国々が急に気になった。
肖像画は求婚の申し入れ時に送り届けられる。それだけを見て断っているならまだしも、彼女は少なくとも1週間は滞在しているはずだ。それらの国々は肖像画だけでは断る気がなく、シャルンを手に入れるつもりだった。なのに、間違いなくどの国も彼女を送り返している。
これほど見事な宝石を、どうして手放す気になったのだろう。
「…調べ直すか」
「え?」
「いや……こちらの話」
「あの、そろそろ下ろしていただければ………私歩けますし…」
遠慮がちにシャルンが申し出るのをどう断ろうかと考えるうちに、
「姫様!」「レダン王!」
前方からわらわらと人を引き連れて、半泣きになった太った侍女とかなり苛立ったガストが走り寄って来るのを見つける。
「残念だな」
「はい?」
「もう少し、こうやってあなたを抱いていたかったのに」
ぼやきながら、仕方なしに下ろすと、真っ赤になったシャルンが小さな声で呟いた。
「あ、ありがとうございます」
「…は?」
ありがとうございます?
訝しく相手を見やると、忙しく瞬きをしたシャルンが微笑む。
「あの、思いやってくださって、ありがとうございます」
「思いやって…?」
丁寧に返されてひやりとした。
これを思いやりだと? この舞い上がるような、溢れるような、とめどなく彼女を抱いていたい気持ちが、作られたものだと?
「…不愉快だな」
気がつくとシャルンを睨みつけていた。
「私は思いやりなんかで話していないが」
「あ、の…」
降ろされたシャルンがみるみる顔色を青ざめさせた。
しまったと思い、泣き出されたら慰めようと思って差し伸べたレダンの手は、虚しく空に浮く。
シャルンが青ざめた顔のまま、突然にっこりと笑ってこう答えたからだ。
「いえ、優しく思いやってくださって、本当に嬉しいです、ありがとうございます、『陛下』」