頑張れ!「三部合唱」
これは、関茂里町と言う、とある地方の人口三万弱の山間部にある小さな町の小さな中学校で起きた出来事である。校名を「関茂里中学校」と言い、各学年二クラスずつで、一クラスにつき生徒数が三十人ほどの小さな中学校である。
夏休みが終わり、九月初旬の午後、関茂里中学校では職員会議が行われていた。
「え~、これは私からの提案です。皆さん、何を言っているんだろうと、お思いになるでしょうが……校歌斉唱大会なるものを実施したいと……」
発言しているのは、この中学の校長、山本欣治である。
「と、言うのは、私がこの中学に赴任して来てから三年間、生徒達の心のこもった歌い方をした校歌を聴いたことが、大げさな言い方かもしれませんが、一度も無い様な気がするのです。校歌というものを、多くの生徒が、ただ義務的に歌っていること……。これはこの学校において教職をとっている私たち教師にとっては実に寂しいことではありませんか? 皆さんの中にもお気付きの方はいらっしゃるとは思いますが、ここ数年の卒業式においては、校歌を満足に覚えていない卒業生も見受けられる次第でございます。三年間も歌ってきているはずなのに……。皆さんは感動という言葉の意味を当然のことながらご存知だと思いますが、私が思うに、皆が皆とは言いませんが、最近の子供達には、この言葉がどんどん薄く、更には遠くなって行っている様な気がしてならないのです。何に対しても機械的に物事をこなせばそれでいいと言う様なシラケた眼で物事を捉えている様に見える子供達の多いこと……。この学校の生徒達も、普段、私が観ている限り例外ではない様に思えるのです。つまりは、生徒達に対してこの学校は、ただ平々凡々と登下校の繰り返しをさせているだけであると……。私らが子供の頃は、学校という場所はいろんな感動を与えてくれる場所でありました。いろんなことがあって、泣いたり笑ったり、そして喜んだり怒ったり悩んだりもしました。そんな時、いつでも傍には学校の仲間達がいました。ですから、卒業式において校歌を歌う時は、そんないろんなことが思い出されて、涙する者、笑顔で思いっきり歌う者など、校歌斉唱の時は、殆どの生徒の歌に心がこもっていました。よく、今の世の中の仕組みが、今の子供達に感動という言葉を忘れさせていると言う大人達の言葉を耳にすることがありますが、これは、何も今の世の中のせいだけではないんじゃないかと……。ただ、皆さんと同じ教職に就いている私の立場から言わせてもらいますと、親からだけでは学び切れないことはもちろん、勉強以外にも大切な何かを、子供達自ら気が付いていける様なヒントを与えてあげなければいけない役目をしているはずの私達教職員の責任でもあると思います。あ、これは私の勝手な思い込みだけなのかも知れません。皆さんにはそう捉えられても構いません……。それでも私は、そう言う意味において、この中学が生徒達にとって忘れることのできない、そして一生心の中から消えることの無い、すばらしい学校であってほしいと願っております。たった三年の間ではありますが、この学校で、この関茂里中学校で、数え切れないほどの感動を経験してほしい。そして、そんな生徒達が自然に歌う、心のこもった校歌が、私は無性に聴きたいのです」
山本校長は、今年度限りで定年退職となる。
「今年は、特別行事としてクラス対抗校歌斉唱大会なるものが行われる。日にちが決まったからお知らせする」
竹下三郎がホームルームにおいて出席を取った後、教室で叫んだ。
三十代半ばの教師で三年一組の担任である。
「約一ヵ月後の十月一日だ」
校歌斉唱大会。
クラス代表の独唱でもよし、何人かのグループを組むのもよし、クラス全員での合唱でもよいという、それぞれのクラスで企画し、工夫した内容で取り組む、ちょっと風変わりな内容の校内行事として昨日の職員会議で決定したものであった。
殆ど山本校長の案そのままである。
三年一組。
三郎の言葉に、生徒達は今、全く無反応な状態である。
このクラスの大半の生徒は、三郎の言葉に、いつも無反応である。
三郎自身が教職というものをあまり深い意味に捉えておらず、生徒達に対してもいい加減な気持ちでいつも接していることに、このクラスの生徒達は前々から気付いていたということもあり、三郎の言葉には殆どの生徒が耳を貸さない。更に三郎は、この行事を単なる校長の気まぐれとしか捉えておらず、自分自身関心が無い。 ただ生徒達に義務的に伝えているだけであることから、当然生徒達も無関心を装っている態度を見せている。
このクラスにとっては当たり前のことである。
「どうすんだ。合唱か? それとも代表か? 誰か意見述べろ!」
校歌斉唱大会の内容を説明した後、三郎が叫んだ。しかし、誰一人として返事をする者がいない。
「山田、どうすんだ?」
三郎は、クラス委員長である山田雅彦に問い掛けた。
「え~、どうしてもやんなきゃいけないんですかぁ?」
雅彦が、いかにも嫌そうに答えた。
「しゃあねえだろ、校長がやるって張り切ってんだから」
三郎の答えも、かなりいい加減である。とても教師が生徒に言う台詞ではない。
少し考えて雅彦が答えた。
「相崎、田頭、脇田の三人の合唱ってことでいいんじゃないですかぁ……。 他の連中何かと忙しそうだし、暇そうなの、この三人だけですしぃ」
「あ~ん?」
三郎が渋い顔をした。
雅彦は、相崎秀雄、田頭信夫、脇田剛の三人の生徒の名を上げた。雅彦が指名したこの三人はというと、運動はまるっきりダメ、もちろん勉強面においても他の生徒達と比べるとかなり遅れていて、このクラスでは大半の生徒達に馬鹿にされ、まともには相手にされておらず、無口で目立たない存在の生徒達であった。
「それでいいよなぁ、みんなぁ?」
雅彦の問い掛けに、ごく少数の生徒を除いて大半の生徒が一斉に歓声を上げ拍手をした。
「決まりですね、先生」
三郎の普段のいい加減な態度に、生徒達は担任である三郎を完全になめきっていた。
生徒達の間で三郎には、そのいい加減な態度から「サボろう」というあだ名が付けられていて、陰ではそう呼ばれていた。
「おいおい、いくらなんでも相崎と田頭と脇田だけかぁ?」
「みんなで決めたことですしぃ……」
三郎の言葉に雅彦が答えた。
「分かったよ。それじゃあ、みんなで応援し、協力すんだぞ。くれぐれもクラスの恥にならない様にな」
そう言って三郎は教室を出て行った。
当の三人はというと。
窓際に席のある秀雄は、窓ガラス越しに外をボーッとした表情で眺めていて、殆ど話を聞いていない。
真ん中の列の一番前に席のある信夫は何が何だか分からない様子でキョトンとしている。
信夫と同じ列の一番後ろの席で剛は上半身を机にもたれたまま寝ていた。剛は中学生でありながら中学三年生の平均身長をはるかに超え、既に百八十センチメートルを超えていた。
剛はデカかった。
「おい、相崎。お前がリーダーだ、頑張れ」
雅彦はニヤけた顔で秀雄に近付き、いかにも馬鹿にしたような口調で声を掛けた。
秀雄はオドオドしながら、傍に立っていた雅彦の顔を静かに見上げた。
「クラスの代表だぞ、お前達。みんなに選ばれたんだぞ、すげぇーなぁ」
雅彦は、ニヤけた顔のまま秀雄の肩をポンとたたいて、またまた馬鹿にした様な口調で声を掛け自分の席に戻った。
放課後。
「お前達はクラスの代表なんだからぁ、ちゃんと校歌練習しておくんだぞぉ。分かったなぁ。じゃあな」
雅彦は、秀雄と信夫と剛の三人を集めて、相変わらず馬鹿にした口調でそう言うと、さっさと帰り支度をして教室を出て行った。
「ボク達、クラス代表で校歌、歌うんだと。しかも、学校のみんなの前で」
秀雄が囁くような声で静かに言った。
「クラスの代表っつったって……」
信夫がボソッと呟いた。
「お、俺、歌、下手くそだぞ。い、いいのかなぁ……」
剛は図体に似合わず小心者である。
「どう練習していいか、分かんないよぉ……」
また秀雄が不安そうに言った。
三人とも歌はまるっきりダメ。音痴である。いつも音楽の時間にこの三人が歌うと、クラス中、笑いの渦に巻き込まれる。メロディーもリズムもあったもんじゃない。
三人は、それから一言も喋らず、ただ、椅子に座ったまま俯いていた。
「こらっ! 何ショボンとしてんだっ! 男だろっ!」
教室内でそんな光景を見ていた、このクラスの女子生徒のひとりである高野マユミ(たかのまゆみ)が三人に声を掛けてきた。
マユミは、この三人が代表に選ばれた時、拍手をせず、歓声も上げなかった少数の生徒の内のひとりであった。
「相崎ぃ! 田頭ぁ! 脇田ぁ! お前ら三人はクラスの代表なんだから、胸張って頑張って練習しよっ! あたしが協力してあげるからっ!」
マユミは女子でありながら少々男っぽいところがあり、普段から男言葉と女言葉をごっちゃにして使う。そしていつも男子生徒の名前を呼び捨てにする。更に幼少の頃から負けず嫌いの性格が強く、いつも元気に振舞っている、そんな生徒であった。
その日から、放課後になると、校庭の片隅で三人の歌の練習が始まった。マユミの歌に合わせて三人が歌う。しかし、メチャクチャである。それこそメロディーもリズムもあったもんじゃない。下校する他の生徒達が薄笑いを浮かべて傍を通り過ぎて行く。
「ぎゃははははは! なんだぁ、あれは!」
中には大きな声で笑い、指差して馬鹿にして行く生徒達までいる。
そんな生徒達を目の当たりにして、ますます三人は萎縮し、声も小さくなり、やがて歌うのをやめてしまう。そんなことの繰り返しが何日か続いた。
「なんだよ! まったくもう! よしっ、場所変えよっ!」
マユミだけが元気である。
この町には、関茂里川という町のど真ん中を流れている大きな川がある。マユミは三人を引き連れて、この川原へと練習場所を変えた。
場所を変えても三人の歌は相変わらずである。
「俺達、やっぱダメだ。マユミさんみたいに上手く歌えないもん……」
秀雄が囁くような小声で言った。
「大丈夫! 何回も何回も、根気よく練習すれば、絶対上手になるから、そんなこと言わないっ!」
マユミは相変わらず元気である。
そんなマユミ達を川向こうからジーッと見つめている帰宅途中のひとりの女子生徒がいた。
マユミは、その女子生徒になんとなく気付いてはいたが、川向こうで顔もよく分からなかったせいもあり、その時は特に気になるという程ではなかった。
マユミは普段から人を馬鹿にしたり見下したりすることを物凄く嫌っていた。学校の生徒達みんなが平等でなければいけない。そしてみんなが仲良くなければいけない。いろんなことをみんなで助け合い、そして最後は笑い合えるような、昭和の学園ドラマみたいな仲間達で楽しく過ごす。それがマユミの理想としている学校生活であった。しかし、争いの嫌いなマユミはクラスのみんなに直接反論することはしなかった。
「クラスのみんなに普段から馬鹿にされて敬遠されているこの三人を、何か一つでもいい、何らかの形で認めさせてあげたい。この三人だって仲間なんだから……」
そんな思いから始めた歌の練習。しかし、正直マユミは不安であった。マユミの中で日増しにその気持ちは大きく膨らんで行った。数日経っても全然進歩が見られないのである。
そんなある日の放課後。
「私も協力していいかな……」
いつものように三人を引き連れて、練習場所である関茂里川へ向かうために教室を出ようとしていたマユミに、加藤美香が小声で、しかも、恐る恐る声を掛けてきた。
加藤美香。それは、川原で練習を続けているマユミ達を、いつも川向こうに立って見ていた女子生徒であった。
「もしかして、美香だった? 川向こうにいたの?」
「うん……」
美香は、成績は優秀なのだが、普段おとなしく、他の生徒達ともあまり喋ることも無く、クラスの中では目立たない存在の女子生徒であった。
美香もマユミと同じく、拍手もせず歓声も上げなかった生徒の中の一人であった。
「私の家、ピアノあるんだ……」
美香が、また恐る恐る小声で言った。
「ピアノあるんだぁ、凄げぇ! 音楽室さぁ、あたし達のクラスだけ特別に使わせてもらえる訳なかったし、それにあたし、ピアノ自信無いんだぁ。だから伴奏無しでやっちゃおうかなって思ってたんだぁ」
マユミが言うと、「私……、ピアノ弾いてもいいよ……」と、またまた恐る恐る美香が小声で言った。
「やったぁ! 美香、ピアノ凄かったよね。いつか音楽の授業の時、弾いてたの憶えてるもん、あたし! しかも上手だったし、綺麗だった!」
マユミが喜んだ。
「そんなことないよ。ただ、ちっちゃい時から習ってるから、ちょっとは弾けるかな……」
美香が今度は、ほんの少しではあったが笑みを浮かべながら言った。
半ば断られるんじゃないかと不安な気持ちでマユミ達に話し掛けた美香は、マユミが明るい表情で、しかも元気に自分を歓迎して受け入れてくれたことに、それまでの緊張感が解れてきていたのである。
傍で、信夫と剛がキョトンとしているのに対して、何故か秀雄だけが顔を真っ赤にして、独り照れていた。
その日から、マユミ、秀雄、信夫、剛の四人は、美香と共に美香の家で練習をすることになった。
美香の父親は東京でいくつかのファミリーレストランの経営をしている。
そして東京において単身で生活をしており、年に片手の指で数えることができる位しかこの家には帰って来ない。
美香はこの町においては他の生徒達と比べてかなり裕福な生活をしていた。
美香の父親には美香が生まれた時から『娘を、自分が育った様に、人口の少ない空気のいい田舎で、のびのびと、健康的で元気な子に育てたい』という強い願望があった。
美香は小学校へ上がる時に東京からこの町に母親と共に引っ越して来て、父親の生まれ故郷であるこの町に住む様になっていた。現在、母親と父親の両親と四人でこの町に住んでいる。しかし、美香は父親の願望とは裏腹に、好んで外出することも無く、学校から帰って来るといつも自分の部屋に入ったきりということが多く、たまに外出をしても独りで行動することが殆どで、小学校からこれまで、友達と呼べる者が一人もいなかった。
敷地五百坪の中に百坪くらいの広さで美香の家は建っていた。
家の周りは、一流の職人さんが手入れしたと一目見て分かるほど花や植木が綺麗に整えられており、誰が見ても、心の底から美しいと感じ取れるほどの、本当に綺麗な日本庭園となっていた。小さなこの町には他に例を見ない、いかにも大資産家という雰囲気をかもし出している家の造りであり庭の造りであった。正直、美香の家は、この町には不釣り合いな大邸宅であった。この家の二階の、広さ二十畳はあるフローリングの部屋が美香の部屋である。
「うわー! 凄げぇ! 美香の部屋!」
マユミが驚いて声を上げた。
そこには全て、今のマユミ達には縁遠い高級な物ばかりが置いてあった。
グランドピアノがある、最新式のワイド画面のテレビがある、最新式のパソコンがある、羽毛布団が掛けてあるベッドがある、大きな本棚には数々の参考書と単行本や小説本がびっしりと詰まっている。
他にもいろいろと、マユミ達にとっては簡単には手に入らないような物が、この部屋にはいっぱいあった。
「この部屋に家族以外の人が入ったのは初めてなの……」
美香が小声で言った。
秀雄と信夫と剛は緊張して固まっていた。
「いいの? あたし達みたいなのが入っちゃって……」
「私……、小学校の時から、ずーっとマユミさんに憧れていたんだ。いつも明るいし、スポーツも万能で、誰とでも仲良く出来て……。ずーっと前から、お友達になりたかったの。でも、なんか、私みたいな性格の子は、マユミさんには受け入れてもらえない様な気がして……。でも、今のマユミさんと相崎君達見ていて、無性に仲間に入りたくなったの……。こんな気持ちになったのは初めて……。だから、ちょっとだけ勇気出してみたの……」
マユミの言葉に美香が、また小声で答えた。
「なに言ってんの。前からあたしにとっては、みんなが友達。でも今日から美香は、もっと友達っ!」
マユミは元気だ。
そんなマユミに美香は嬉しそうに微笑んでいた。
二人のやり取りを見ていた秀雄と信夫と剛も、微笑とも言えない何だか訳の分からない笑みを浮かべてニヤニヤしていた。ただ、美香も練習に加わってくれたことに対しては三人共、嬉しかったのは確かであった。
三人は緊張感が少しずつ解れてきていた。特に秀雄は他の二人に比べて余計に嬉しそうな顔をしていた。そして何故か、またまた顔を真っ赤にして独り照れていた。
美香がピアノを弾く。校歌の伴奏だ。マユミも混じって、秀雄、信夫、剛、ひとりひとりに音楽の先生が教え込むように歌う。
それでも相変わらずである。マユミ以外の三人はピアノの伴奏があっても、リズムもメロディーもメチャクチャだ。
そんな日が何日も続いた。
美香の母親である美千代は物凄く喜んで毎日四人を歓迎してくれていた。内気な性格で一人も友達のいなかった美香に新しく友達が出来て、しかも家にまで連れて来ている。初めてのことだ。既に四十歳半ばを過ぎている美千代は、誰が見ても実際の年齢より遥かに若く見えるであろうと思われる容姿をしていた。しかも美人だ。
秀雄、信夫、剛の三人は、美千代がお菓子や飲み物を運んで部屋に入って来ると物凄く緊張した。
歌の練習中はそうでもないのだが、美千代が入ってくると、まるで上官に「気をつけ!」と号令を掛けられた軍隊の兵隊さんみたいに直立不動の姿勢で固まった。
「面白い子達ねぇ」
笑顔がまた素敵であった。その笑顔に、三人は揃って顔を真っ赤にして「気をつけ!」をしていた。
「いらっしゃい」
美香の祖父母である精一と昌枝もマユミ達が来るたびに満面の笑顔で迎えてくれた。
とても優しい笑顔であった。
校歌斉唱大会が、おおよそ二週間後へと迫って来ていた日の夕暮れ時の出来事である。
「じゃ、また明日」
マユミが玄関で美香に手を振った。美香の家から出てくる四人を、停めた自転車にまたがったまま、気付かれない様に離れた場所から見つめているひとりのクラスメートがいた。
たまたま近くを通りかかった雅彦である。
美香が練習に加わっていたことを雅彦は知らなかった。マユミだけが三人の練習に付き合っていたと思っていたのである。
小学校の時から、ずっと美香に対して特別な想いを寄せていた雅彦は今、それを知って、嫉妬心から少々不愉快な気分になっていた。
次の日の朝のホームルーム。
「相崎、田頭、脇田。校歌の練習は上手くいってるかぁ?」
三郎が三人に問い掛けた。
「クラスのみんなに協力してもらってるって山田から聞いてるぞぉ。あと何日もないんだから最後の頑張り見せろぉ。みんなの期待に応えるんだぞぉ」
相変わらずいい加減な言い回しである。
三人は、オドオドしていて何も答えられないでいた。
「サボろうのやつ、なんも知らねぇで……。バッカじゃねぇのか、まったく」
生徒のひとりが小声で隣の席の雅彦に言った。
雅彦は下を向いて薄笑いを浮かべていた。
マユミは雅彦を睨みつけていた。
雅彦が適当にそんな嘘を三郎に吐いていたことを、マユミは今、初めて知ったのである。マユミは事実を大声で叫びたかった。が、それをすればクラス中、嫌な雰囲気に包まれるのが目に見えて分かっていた。このクラスはそんなクラスである。
マユミはそれが嫌だった。
雅彦は、そんなマユミの性格を把握していた。だから雅彦は堂々と三郎にこのような嘘を吐けるのである。
ホームルームが終わって三郎が教室を出て行った。
授業開始までにいくらかの時間、いわゆるインターバルというものが少なからずあった。
「なあ、みんなぁ。クラス代表の猛練習の成果をさぁ、聴いてみたいと思わないかぁ?」
雅彦が叫んだ。
「うおーっ! そりゃいいや、やれやれー!」
誰かの声にクラスの人数の大半の生徒が拍手と歓声を上げた。
「ちょっ……、ちょっと待ってよ!」
マユミが叫んだ。そしてマユミと雅彦の言葉のやり取りが始まった。
「なんだよぅ」
「まだ、ちゃんと歌えてないし、今ここでって……、だめだよ……。やめようよ、そういうの!」
「クラスの代表なんだぞ。代表がどこまで出来てるのか、クラスのみんなに知る権利ってのがあるだろ。今後、協力してあげる都合もあるしさぁ」
そう言う雅彦ではあったが、雅彦には協力する気など、はなっから毛頭無い。
「なぁ、みんな、そう思わないかぁ?」
雅彦の問い掛けに、また大きな拍手と歓声が上がった。
男勝りのマユミは、そんな雅彦を思いっ切りぶん殴りたかった。が、争いの嫌いなマユミは必死に堪えていた。
その時美香は自分の席にすわったまま俯き、すすり泣いていた。
雅彦は強引に秀雄、信夫、剛の三人を教室の前へと引っ張り出した。
「さあ、クラスの代表、みんなにすばらしい歌を聴かせてくれよ。いっぱい練習したんだから、うんと上手く歌えるだろ」
雅彦が三人に嫌みを込めた口調で言った。
三人は、相変わらずオドオドしながら、マユミに眼で助けを求めていた。
「やめようよ。ほんとに、ダメだって、こんなの」
マユミは必死にクラスのみんなに訴えた。
そんな時、ふと、秀雄の眼に泣いている美香の姿が映った。そして突然、「や、やるよ。う、歌うよ……」と、秀雄がポツリと言った。
一瞬、教室が静まり返った。
「ほぉ~……」
雅彦は内心驚いて声を発した。
雅彦だけではない。クラスの殆どの生徒が驚いていた。
普段無口で自主的に発言することや行動をとることなど全く無かった秀雄が、自ら歌うと言い出したことに。
*
実は秀雄の心の中に、美香は大きな思い出を作っていたのである。
小学校三年生あたりまで、秀雄は元気で明るくお喋りな子だった時期がある。
勉強が出来なかったせいで授業時間は物凄くおとなしかったが、結構休み時間とかは元気に振舞っていた。
同じクラスの他の生徒達とも、ふざけ合いながら上手くやっていた。
ある日の昼時間、給食を食べながらいつもの様に近くに席のある生徒達に話し掛けながら、ペチャクチャペチャクチャお喋りをしていた秀雄に、生徒達と一緒に教室内で給食をとっていた男性担任教師が真顔で少々怒ったような口調で言った。
「おい、相崎秀雄! 少しは静かに食えないのか! 授業中はいるかいないか全く分からないくらい静かなくせに、こんな時だけ、いつも馬鹿みたいに元気でやかましい! 勉強も、それぐらい力を入れてやってみろよ。まったく!」
すると、他の生徒達が「そうだ、そうだ。授業時間はおとなしいのに、こんな時ばっかりぃ」と、騒ぎ出して笑い始めた。
ついさっきまで秀雄と一緒にお喋りをしていた生徒達も一緒になって。
それでも最初はいつもの様にニコニコと愛想笑いをしていた秀雄だったが、担任教師が真顔で自分を睨んでいることに気が付いた秀雄はその時、悲しそうに静かに俯くしかなかった。
担任教師はその日、何か訳があって不機嫌だったのかも知れない。秀雄に当り散らしたのは、そのせいでたまたまなのかも知れない。しかし、小学校の三年生あたりまでの子供達というのは、教師の言うことに集団で簡単に同調してしまう様なことが結構多くある。そのため、教師のほんの小さな一言が一人の子供を簡単に傷つけてしまう。それが自分の担任なら尚更である。
秀雄はショックだった。
秀雄は、それから学校内ではだんだん無口になって行った。そしてやがて、休み時間も給食の時間も何も喋らなくなってしまっていた。と、言うより、周りに大勢の人がいると喋れなくなっていたのである。
「自分は勉強が出来ないから授業時間中は活発になることが出来ない。だからと言って他の時間にはしゃいでいると、また同じことを担任教師に言われそうで……。それに合わせて、他の生徒達が、また……」
秀雄の頭の中には同じ光景が繰り返されていたのである。やがて、今まで秀雄と一緒になって騒いでいた生徒達も、だんだん以前のように元気にはしゃぐこともなく、喋らなくもなってしまった秀雄を遠ざける様になっていた。
そんなある日の授業中、教室内で秀雄はオシッコを漏らしてしまったことがある。それまでの秀雄なら、いくら授業時間中はおとなしくても、こんな時には元気に「先生、オシッコ!」と大声で手を上げ、急いで教室を飛び出してトイレに駆け込み、クラスの生徒達を笑わせていたものである。しかし大勢の生徒達の前では喋れなくなっていた秀雄は一生懸命我慢をしていた。そして、とうとう我慢しきれなくなりお漏らしをしてしまったのである。
同じクラスの他の生徒達は泣いている秀雄を「うわーっ、汚い、汚い」と大騒ぎしながら遠巻きに見ている。担任教師は「なぜ、ちゃんとオシッコって言わないんだ!」と、怒鳴る。更に、わざわざ廊下に出て「相崎秀雄君が、オシッコ漏らしたぞぉ!」と叫ぶ生徒までいる。
そんな時だった。
同じクラスだった美香が、何も言わずに秀雄のオシッコで汚れた床を、教室の後ろに掛けてあった、放課後に毎日行われる掃除用の雑巾を持ち出してきて、涙を流しながら、たった独りで静かに拭き始めたのである。
担任教師を含め、クラスの生徒達も驚いて、大騒ぎしていた教室がその瞬間、シーンと静まり返った。
ただ泣いているだけで何も出来ないでいた秀雄も驚いた。成績優秀でおとなしく、幼いながらも美人で綺麗な美香が、こんな自分の足元でひざをついて、しかも自分が漏らした汚いオシッコを拭いている。
秀雄にとってその日の出来事が、大きな、とっても大きな記憶として残り、秀雄の頭の中、そして、心の中から消えることは、今までずっと無かったのである。おそらく今後も消えることは無いであろう。
*
美香は、そんなことは憶えてはいないかも知れない。しかし今、そんな美香が自分のせいで泣いている。
「自分のせいで……」。
秀雄にはそう思えたのである。
「田頭君、脇田君……、う、歌おうよ……」
秀雄の声に戸惑いを見せる信夫と剛。
「い、いくぞ。さん、はいっ……」
力無い秀雄の掛け声だったが、信夫と剛はその掛け声に釣られる様に歌いだした。
しかし、メチャクチャである。三人が三人共、バラバラに勝手にリズムとメロディーを作っている。
「ぎゃはははははは!」
クラス中が笑いの渦に巻き込まれた。
しかし、三人は歌うことをやめなかった。
何かが吹っ切れた様に見えた秀雄に釣られる様に信夫も秀雄と一緒に更に大きな声で歌い続けた。ただ、剛だけはトーンがそのままで、俯いたまま、何故か寂しそうな顔をして歌っていた。
「ぎゃはははははは!」
クラス中の笑い声も更に大きくなって行く。
「や、やめよう。ね、ね、やめよう……」
マユミが三人に代わる代わるすがりついて、歌うことをやめさせた。
クラス中の笑い声が騒めきに変わった。
秀雄と信夫は俯いて泣きじゃくり始めた。
そんな中で、また剛だけが涙を見せずに、泣いている二人を、ただ寂しそうな顔をして静かに見つめていた。
「いよっ! すっばらしい! 三部合唱!」
男子生徒の一人が、思いっきり冷やかしの意味を込めて大声で野次を飛ばした。
「ぎゃはははははは……!」
再び、クラス中が笑いの渦に巻き込まれていく。
「いい加減にしろ! てめえら!」
マユミが大声で怒鳴った。
マユミは怒ると、完全に男言葉になる。
ついにマユミの怒りが爆発したのだ。
今にも殴りかからんとする勢いで、マユミが野次を飛ばした男子生徒の席に向かって猛然と走り出した。
その時だった。
事が始まってから今まで泣き続けていた美香が、急に立ち上がってマユミに駆け寄り、マユミを強く抱きしめた。そして何も言わず、そのまま泣き続けた。
そんな美香に抱き留められて、マユミの勢いが止まった。
次の日、剛が学校を休んだ。その日は剛抜きの四人で練習は行われた。
その次の日も剛は学校を休んだ。
マユミは、一昨日の出来事の中で剛が寂しそうにしていたのを、何となくだが、感じ取っていた。
「他の二人が泣いているにもかかわらず、同じ様に小心者の脇田は、一粒の涙も見せずに、どうしてあんな顔していたんだろう……?」
マユミは剛のことが心配だった。
マユミはホームルーム後に職員室に戻ろうと教室を出た三郎を追いかけた。そして廊下で捉まえ、訊いてみた。
「脇田君、二日間学校に来てないんですけど体調でも崩したんですか? 家からなんか連絡とかありました?」
マユミは目上の人間には常識を弁えている。だから敬語を使う。
「ないよ。無断欠席だ」と、三郎。
「脇田君の家に連絡して尋ねてみたらどうですか?」
「風邪でもひいたんだろ。風邪なら二、三日は休むだろう」
「でも、心配じゃないんですか? 先生は。何の連絡も無しに二日間続けて休んでるんですよ、脇田君……。風邪じゃないかも知れないし……」
「あのなぁ、高野。俺だってなぁ、公私共に何かと忙しいんだ。脇田ごときに構ってられないんだよ。そんな余計な仕事を増やせるほど暇じゃないんだ俺は。一週間も来なかったら、その時は家に連絡してみるつもりだ。ま、そのうち脇田の家から連絡あるかも知れないしな。お前が心配することはないって」
マユミの言葉に三郎は面倒くさそうな顔をして答え、その場を足早に立ち去った。
マユミは呆れていた。
「あんなやつが教師で、しかも担任かよ。あたしの前には武田鉄矢も中村雅俊もいやしない。あーあ……」
マユミは心の中で呟き、嘆いた。そしてマユミはその日の放課後、美香の家に練習に行く前に自分独りで脇田の家を訪ねてみようと決めた。美香には訳を話して今日の練習に遅れることを告げて。
剛の父親、速人は大工である。身長が剛と同じくらいデカい。マユミが作業場の前に来ると速人はハッピを着てマンボズボンに地下足袋姿で材木にカンナをかけていた。それが今風の電動カンナではなく手動式の古い形のカンナである。いかにも古い伝統ある昭和初期の、優れた大工の技術を受け継いでいるプロ意識の強い職人さんという感じで、マユミには腰を入れてしっかりとカンナかけをしている速人のその姿が、物凄くカッコ良く思え、ほんの数分間ではあったがマユミは立ち止まり見とれていた。
速人がマユミに気が付いた。
「な、何かぁ……?」と、速人。
剛と同じ極太の低い声である。
「剛君に用事があって……」と、マユミは答えた。
その瞬間、速人は口をあんぐりと開け、持っていたカンナを自分の右足の甲に落とした。
ガツッ!
「あっ! 痛ぇっ! ちくしょっ! コノヤロッ!」
履いていたのが地下足袋なので、かなりの衝撃を受けた速人は、誰にという訳でもなく、そう怒鳴ると右足首を両手で押さえ、片足でピョンピョンと飛び跳ね始めた。
速人は驚いたのである。自分の息子に女の子が訪ねて来ることなんて、今の今まで一度も無かったこと。
「だ、大丈夫ですか?」と、慌てて速人に近付くマユミ。
「だ、だいじょんぶ……だぁ……です」と、痛さと緊張感が入り混じって、しどろもどろにメチャクチャな言葉で答える速人。
マユミは両手で抱えた速人の右足の甲を心配そうに覗き込んだ。
すると速人はマユミを心配させまいと、右足首から抱えていた両手を離し、今度は何事も無かった様なそぶりをマユミに見せ、両足でピョンピョンと飛び跳ね始め「ほらほら見てみぃ、俺の足は鋼鉄のように頑丈だぁ。がははははは!」と、豪快に笑い始めたのである。
マユミはチョコンと頭を下げると、心配そうな顔をしたまま速人の前から静かに離れた。
作業場を通り過ぎると剛の家の母屋があり、玄関には母親さく子が出てきた。
「同級生の高野マユミと言います。剛君、いますか?」
「剛なら、まだ帰って来ていないけど……。放課後、友達の家で歌の練習があるからって、ここんとこ毎日暗くなってからしか帰って来ないの。たぶん今日も七時頃になると思うよ、帰って来るのは」
「えっ……?」と、マユミ。
マユミの腕時計の針は午後四時を指していた。
「何か……? あなたは剛と一緒に歌の練習している子ではないの?」
さく子の言葉にマユミは一瞬、戸惑いを見せた。
「い、いえ、ちょ、ちょっと剛君に聞きたいことがあったもんだから……。剛君、先に帰っちゃったから。それじゃ……歌の練習してるとこ、行ってみます。すいませんでした。さよなら」
とっさに出た言葉だった。マユミはさく子に一礼して背を向けると駆け足でその場を離れ、母屋を後にした。
再び作業場の前に来ると、また速人が両手で右足首を抱え、片足でピョンピョンと飛び跳ねていた。かなり痛そうな顔をしている。
マユミに気付いた速人は、またまた両手を右足首から離し、「鋼鉄、鋼鉄!」と言いながら自分の右足の甲を指差し、マユミに笑顔を見せ、さっきと同じ様に両足で飛び跳ねて見せた。
あきらかに無理をしている。
マユミは、また駆け足で母屋に戻ると「お父さん、足にカンナ落として痛がってます」とさく子に告げ、またまた駆け足で剛の家を後にした。
「脇田、家では学校に行ってることになってるみたい……」
練習に遅れて来たマユミは美香にそう話した。
「脇田君、どうしちゃったのかなぁ……。なんか心配……。相崎君も田頭君も、脇田君がいないとテンション下がるみたい。なんか練習に身が入らない……」と、美香。
「うん、昨日もそうだったしね」と、マユミ。
そしてマユミが言葉を続けた。
「あいつ、いつも七時頃帰って来るってお母さん言ってたから、あたし、七時近くなったらあいつの家の近くで待ち伏せしてみるよ」
「私も行く」と、美香。
「いいよ、あたし独りで。美香は家の人が心配するから家にいなよ。脇田んち行く途中の住宅地には、まだ七時頃とはいえ、人通りが少なくなるから時々変質者みたいなもん出るって聞いたことあるし、住宅地過ぎると辺りには家が無いし真っ暗だから、更に物騒だしさ」
「だったら尚更マユミさん独りじゃ……。相崎君と田頭君、一緒に行ってあげられないかな……?」
心配そうに美香は秀雄と信夫に問い掛けた。
「ボク……、臆病だから……、変質者、怖いもん……。変質者出ても、マユミさん助けられない……」と、秀雄。
「ボクも……、変質者……、怖い……」と、信夫。
「大丈夫だって。心配要らないよ。何かあってもあたし独りなら大丈夫。あたし陸上部で短距離やってたし、百メートル走、県大会出場権をかけた地区予選第四位の実績もあるし、逃げ足は速いから。それに、いざという時は独りのほうが逃げやすいから。結果はあとでちゃんと電話で報告するから」
元気に答えるマユミ。
「四位って……、しかも地区予選……。県大会、行ってないじゃん……」
美香の脳裏には「?」マークが浮かんだが、マユミの元気さに負けた美香は、とりあえずマユミに従うことにした。
午後六時五十分。
マユミは剛の家から百メートルぐらい離れた剛の帰り道にいた。剛の家は住宅地から離れた所に一軒だけポツリとあり、田舎道なので周りは田んぼと雑木林で、電柱が立っている所にだけにしか街灯がない。 その場所以外は真っ暗である。マユミは、その灯りの下、電柱に背中から寄りかかって剛の帰りを待っていた。
「おお、ブレーネリ、あなーたのぉ、おうちは土管♪」
マユミの耳に変な歌が聴こえてきた。かなりハズレた音程と極太で低音の歌声。
剛が帰って来たぁ!
剛はマユミに気付かず、マユミの前を通り過ぎようとしていた。
「こらぁ! 脇田剛っ!」
マユミが怒鳴った。
「ふぇ~っ!」
驚いて振り向いた剛は、口をあんぐりと開け、電柱に寄りかかって自分を睨んでいるマユミに気が付いた。
「驚くと口をあんぐりと開けるのは父親譲り、しかもそっくり……」
マユミは、そんな剛を見て、そう思った。
「ぶぁ~っ! マ、マンユミさん……」
「マンユミじゃない! マユミだ!」
またまた怒鳴るマユミ。
「な、なんでマユミさんが、こ、ここに……?」
ビクビクしながら、ボソボソとマユミに問い掛ける剛。
「美香も相崎も田頭も、そしてあたしも、みんなで心配してたんだぞ! そんであたしが代表でここに来たんだ! うちには学校に行ってるって嘘吐いて何やってたんだ、脇田剛っ!」
怒鳴るマユミに俯く剛。
その後、二人の間に数分間の沈黙があった。
デカい体の剛は俯いたままである。
やがてマユミは、そっと剛に近付き、剛の顔を見上げてみた。
ふたりの間にはかなりの身長差があるので、剛がどんなに俯いていても、見上げるマユミからは街灯の下、逆光ではあるが剛の顔の表情がとりあえず確認できる。
何かを悩んでいるというより、マユミに見つかって不味そうな……。俯いている剛の顔から、マユミにはそんな風に感じ取れた。
「学校行かないで、ホントにどこで何やってたんだよ、脇田剛っ!」
マユミの言葉に、剛がボソボソとした言い回しで口を開いた。
「こ、公園の便所の裏にある土管の中で寝てた……。あそこ、ひ、昼間でも誰にも見つからない……」
「なんじゃあ! それで、あな―たのおうちは土管♪……か」
「でへへ……、わ、分かったぁ?」
「分かったぁ? じゃないよ、まったく! それにブレネリのおうちは、土管じゃない! お前の昼間のうちだろ、それはっ! ブレネリに失礼だぞ!」
二人の会話は続いた。
「まさか一日中ずっと土管の中じゃないだろ? あと何してたんだよ?」
「ゆ、夕方は、小学生が学校から帰って来て、公園に遊びに来るから、い、一緒に怪獣ごっこしてた。お、俺、怪獣……。でへへ……。そんで小学生帰った後は、また土管の中」
「あっちゃー……。まったく何やってんだか」
「でへへ……」
「どうしたんだよ。何で学校来ないんだよ?」
「……」
「黙ってないで、ちゃんと訳話せ」
「……」
俯きながら口を閉ざし始めた剛。
「怒るぞ、こらぁ!」
目を吊り上げるマユミに、剛はビクビクしながらボソボソと再び口を開き始めた。
「お、俺、何やっても……ダ、ダメだから……」
「はぁ……?」
「マ、マンユミさんや美香さん、あ、相崎君や田頭君、みんなに迷惑かけてんの分かってっから……。お、俺は、ガキの頃から、そうだったから……。お、俺が一生懸命になると、いつも誰かに迷惑かかる……。」
「マンユミじゃないって! それに、お前は今だってガキだろ! 未だにそんなグズグズしたこと言ってんだから、もう!」
「お、俺、でっけぇもん……。ガキじゃないもん……。チンコに毛も生えてるし……」
剛の言葉に一瞬顔を赤らめるマユミ。
「ガキの意味が違うよ、まったく……。そんなことより、お前が一生懸命やってんだったら、あたしも美香も迷惑なんて思う訳ないよ。相崎だって田頭だって、そうだよ」
「お、俺、どんなに練習したって、絶対上手くなんてなんないもん。あ、相崎君と田頭君だけのほうが、マ、マユミさんだって美香さんだって、教えやすいんじゃないかって思って……。お、俺、みんなと最後まで一緒に何かやったってこと、今まで無かったし、いつも途中で、馬鹿にされて仲間外れにされて終わりだった。な、慣れてるもん、こういうこと……。 そして、お、俺の味方してくれた人にも、お、俺、結局最後までなんも出来ないままだから、いっぱい迷惑かかった……。マ、マユミさん達に迷惑かけたくない……」
そんな剛の言葉にマユミは思った。
「そっかぁ……。やっぱり脇田は脇田なりの悩みを抱えていたんだぁ……。よしっ! あたしがここでこいつを勇気付けなきゃここに来た意味が無い!」
そして次の瞬間、マユミは叫んだ。
「何言ってんだ! 美香も相崎も田頭も、みんな、お前のこと待ってる! お前はあたし達の仲間なんだぞ! 絶対に迷惑だなんて、あたし達の中では、誰一人として思っちゃいない! そんなこと言わないで、また一緒に頑張んなきゃダメだろ! 無駄な時間を過すことほどバカバカしいことは無い! 時間は待ってはくれないんだ! 今のこの時を大切に生きて行こう! 決してお前は独りじゃない!」
マユミは「決まったぁ! 今のセリフ。ユーチューブで観た昭和の青春ドラマの中で中村雅俊が言ってたセリフに似ている様な気がする。うん、決まったぁ!」と、心の中で自分の発した言葉に酔いしれていた。
そして「ごめん……、俺みたいな者を、そこまで……」と、剛が涙ながらにそんな風なセリフを返して、明日から、また学校に来て歌の練習を再開してくれる。
そうマユミは期待していた。
その後、数分間、二人の間にまた沈黙があった。
「お、俺、学校、や、辞めようと思ってる……」と、剛がまたボソッとした口調で突然と真顔で言った。
「はぁ~……?」
期待外れの訳の分からない意外な返事にマユミはガックリと肩を落とした。
「あのなぁ、脇田ぁ。学校辞められる訳ないだろ。まったく」と、マユミは呆れて答えた。
「え……? だってさぁ……、い、いとこの兄ちゃん……、この間、こ、高校辞めたぞ……」
「高校と違って中学はなぁ、義務教育なの。だから辞められる訳ないの。法律で決まってんの!」
「え? ほ、法律で決まってんの……? 法律で決まってるってことは、中学校は、辞めたら、ほ、法律違反になってしまうのか……?」
「そう!」
「ほ、法律違反ってことは、が、学校辞めたら、警察に捕まるぅ……」
「そんなことはないけど……」
「いや、父ちゃんが言ってたぁ。ほ、法律違反は、警察に捕まるってぇ……」
面倒くさくなったマユミは答えた「そうそう、警察に捕まるぞ!」
「そ、それは、やべぇ、警察に捕まるのは嫌だ。お、俺、明日から、ちゃんと学校行くことに決めたぁ……。け、警察、怖ーい……」
剛はデカい体を震わせながら、そう言った。
「こいつ、ホントにどこまで悩んでいたのか分かんないよ、まったく……。でも単純なやつで、ホント、よかったぁ。おとといのことでいくらか心に傷が……なんて、心配して損しちゃったよ、あたし……」
あっさりと学校に戻る気になった剛に拍子抜けしたマユミは心の中で静かにそう呟いていた。
「じゃあ、帰るよ、あたし」
そう言って帰ろうとしたマユミ。
その時である。
剛が帰ってきた方向から複数の人間が走って近付いてくる足音が暗がりの中、マユミと剛の耳に突然不気味に聞こえてきた。
「やべっ! 変質者か? 変質者は一人ではなかったんだ! 脇田、逃げろ!」
叫ぶマユミ。
そして二人は剛の家の方向へ向かって全力で走った。
「マユミさーん!」
美香の声だ
立ち止まるマユミ。
剛は止まらず、デカい体で地響きを立てながらドタドタと、一応全力で走り続けている。
マユミが後ろを振り向くと、電柱の街灯の下に美香と秀雄と信夫が必死に走って来る姿があった。そして、秀雄と信夫の片手には、来る途中で拾ってきたと思われる種類の分からない木の棒がしっかりと握られていた。
マユミの前で立ち止まる三人。三人共「はあはあ……」と息を切らしている。
「美香! それに相崎も……田頭も……」
マユミは驚いた。
「やっぱりマユミさん独りは心配だったから……」と、美香。
「美香さんが、独りで行くって言うから、ボク、勇気出した」と、秀雄。
「ボクも、勇気出した」と、信夫。
マユミは嬉しかった。
「昭和の青春ドラマじゃない。これ、現実だ」と、心の中で自分に語り掛けるマユミ。
マユミは物凄く嬉しかった。
ふと、マユミは傍に剛の姿が無いことに気が付いた。
剛は走り続けている。暗闇の中、マユミ達に剛の姿は見えなくなっていた。
「脇田―! 美香達だぁ! 戻って来―い!」
大声で叫ぶマユミ。
やがて剛がドタドタと、また地響きを立てて走って戻ってきた。
「あんれれれ……」と、美香達を見て驚く剛。
剛と別れて帰路に着くマユミ達。
マユミと美香が並んで歩く。その後ろから秀雄と信夫が並んで着いて来る。
「おお、ブレーネリ、あなーたの、おうちは土管♪……か」
突然小さな声で歌いだしたマユミ。
「ははは……、何、それ?」と、美香。
「なんだろね……。ははは……」と、マユミ。
次の日から剛は、また学校に来る様になった。二日間休んだ理由は「頭痛」と三郎からホームルームでクラスの生徒達に説明があった。
三郎が教室を出て行った直後、雅彦が席に着いている剛へと近付いて来た。
「おう、脇田よぅ。お前、どこ悪くて休んでたんだってぇ?」
雅彦の問いかけに「あ、頭ぁ……」と、オドオドとした態度で答える剛。
「ぎゃははははは! じゃ、お前は一生休んでなくちゃいけないじゃないかよ。ぎゃははははは!」
雅彦の言葉と笑いに釣られるように「ぎゃははははは!」と、クラス中が笑いの渦に巻き込まれた。
「でへへ……」と、剛もみんなが笑っているので笑った。
「お前よぅ、意味分かって笑ってんのかぁ? ははははは!」
「ぎゃははははは!」
雅彦が笑っている剛に向かって言った言葉に、更にクラスの笑いが大きくなった。
その光景をジッと見ていたマユミは、バンッ! と両手で自分の机を思いっ切り叩くと、おもむろに立ち上がった。そして雅彦を鋭い眼光で睨みつけた。
その時、自分の席の椅子に座っていた美香は立ち上がる構えを見せた。
「またマユミさんが走り出したら、また自分が止めなきゃ……」と、美香はそう思ったのだ。今回の美香は泣いてはいない。
ここ数日間、マユミ達と歩んできた時間の中での出来事と、マユミ達との間に生まれてきた信頼感からくる絆が、いつの間にか、少しずつ美香を精神的に強くしていたのである。
マユミの行動にクラス中が一瞬にして静まり返った。
そしてやがて「ヒソヒソ……」と、何やらマユミに対して、あきらかに悪口と取れるような会話がそっちこっちで囁かれ始めたのである。
マユミは、そんなことは気にせず平常心で静かに椅子に座った。そして美香に笑顔で小さくピースサイン。
「走らないよ。安心しな……」
マユミのピースサインを、そう受け取った美香はホッとした表情を浮かべ、自分もまた静かに椅子に座った。そして美香も笑顔でマユミに小さくピースサイン。
その日の放課後、美香の部屋には剛の姿が無かった。
「脇田のやつ、何で来ないんだよ、まったく」
マユミが不機嫌そうな顔をして言った。
「ボク達、脇田君誘ったんだよ。でも脇田君、いいからいいからって言って、さっさと帰っちゃったんだ」
寂しそうに話す秀雄。
「しょうがない。今日もとりあえず、あたし達だけで練習しよっ。あいつはこのままじゃダメなままで終わってしまうから、いずれ、絶対あたしが何とかして連れて来て、本番には間に合うように練習させるから」
マユミの言葉に、この日も四人だけでの練習が始まった。
実を言うと、その頃剛は美香の家の敷地内には居たのである。剛は、本当は練習に参加したかったのである。昨夜のマユミ達の行動に剛は剛なりに心を打たれていたのである。自然と剛の足は美香の家へと向かい、剛自身、気が付いた時には美香の家の外にいたのである。剛にとって、今まで自分のために一生懸命になってくれた人間がいたかというと、親以外にはいなかったし。正直、剛はマユミ達と一緒に居たかったのである。しかし自分はみんなとは違う。いくら練習しても自分だけは上手くなれない。秀雄や信夫も今は自分と同じレベルでも、いずれは自分より上手くなる。幼い頃からみんなと一緒に何かやっても、進歩のない自分が一緒にやってきた人達に迷惑をかけ、やがて、みんなが自分から離れて行く。そして最後は自分だけがいつも取り残されてしまう。多くのそんな経験が剛の心の中に傷跡として残っていたのであった。今の剛にとって「自信」と言う言葉は無縁であった。
剛は美香の家の敷地内、家の周りをゆっくりと歩いていた。家の裏に回ると、そこには小さな畑があった。美香の祖父母である精一と昌枝が野菜作りをしている家庭菜園である。畑には精一と昌枝がいて、畑の土を綺麗に均していた。その光景を、立ち止まったまま、ボーッとした表情で自分達を見つめている剛に昌枝が気付いた。
「あら、美香のお友達だったよね。休憩かな? 歌の練習」
優しい笑顔で問い掛ける昌枝。
「は、はい……」
嘘をつく剛。
「ところで、名前……、何て言ったっけ?」
またまた優しく微笑んで問い掛ける昌枝。
「わ、脇田剛です……」
緊張して答える剛。
「前から思ってたけど、あなたは美香と同じ中学生なのに、随分と大きな体してるよね。だから強そうに見えるねぇ」
微笑みながら剛を褒める昌枝。
「は、はい、デ、デカいです……。でも……、よ、弱いです……」と、剛。
「ははははは。そんなことないでしょ。何食べると、そんなに大きくなれるのかな?」
本当に優しい笑顔の昌枝。
「ご、ご飯……」
「ははははは!」
剛の答えに大笑いする精一と昌枝。
何で精一と昌枝が大笑いしているのか意味が分からなかったが、釣られて剛も大笑いした。剛の緊張感が完全に解れた。そして、優しい精一と昌枝に安心したかの様に剛は心を許し、自ら話し掛ける様になった。
「な、何してんですかぁ?」
剛は昌枝に問い掛けた。
「だんだん寒くなってくるからねぇ。畑も今年はもう終わりなの。だからお世話になった畑にはお礼を兼ねてね。それで綺麗にしてあげてんの。そのあとは来年もよろしくねって、お願いもするの」
昌枝は笑顔で剛にそう答えた。
「お、お世話になったら、は、畑でも、お礼しなきゃ、ダメなの?」
「そんなこともないけどね。でもね、私は、人に限らず本当にお世話になったと思うものにはね、ありがとうって、心の底から感謝することにしてるの」
「こ、心の底から、ありがとう……か」
剛と昌枝がそんな会話をしていた中、突然「グーッ!」と、かなり大きな音を立て剛の腹が鳴った。
「あらら、お腹が空いているのかな?」
そう言って、昌枝は笑顔のまま剛に二本のキュウリを差し出した。
「今、この畑には何も生ってないけど、今年はね、トマトもキュウリもいっぱい採れたんだよ。このキュウリはね、他のキュウリと違って、育ちが遅かったから、今まで採らないでおいたんだよ。やっと育ったから、今採ったばかり。ほら、食べていいよ」
昌枝が剛に手渡した二本のキュウリは、それぞれ形がまるっきり違っていた。
一本は、スーパーで売っている様な真っ直ぐで形のいいキュウリ。もう一本は昔の電車に付いていた吊り輪の様にまん丸に曲がったキュウリ。
手に取ってはみたものの、食べるのをためらっている剛に昌枝が言った。
「なんだ、キュウリは嫌いなのかな?」
「ううん、お、俺、何でも食える……。でも、お、おじいさんと、おばあさんが、一生懸命作った、キュウリ。しかも、こ、今年、最後のキュウリ、お、俺なんかが食ったらバチ当たるぅ……」
そう言う剛に昌枝が相変わらずの優しい笑顔で言った。
「あなたは優しい子だねぇ。優しい子は弱くなんかない。本当は強いんだよ。そのキュウリだってね、あなたのような子に食べられたら、きっと喜ぶよ、ホントに」
「お、俺に食われて……、キュ、キュウリ、喜ぶの?」
「うん、絶対喜ぶ。ほら、早く食べてちょうだいって、キュウリの声が聞こえるだろ?」
「う、うん……」
剛は、形が真っ直ぐに育ったキュウリにかぶりついた。ボリボリ音を立てて美味そうに食べる剛。
「いいねぇ。それだけ豪快に食べてもらうと、キュウリだけじゃなく、作った私達も嬉しいよ。ねえ、おじいさん?」
昌枝は相変わらず微笑んでいる。
精一も優しく微笑んで頷いている。
一本のキュウリを食べ終わった剛に精一が言った。
「もう一本食ってもいいぞ」
「え……、い、いいの?」
「ああ、食ってみい」
「こんな、まん丸キュウリ、み、見たのも食うのも、は、初めてだぁ!」
剛はもう一本のまん丸キュウリにさっきと同じようにかぶりついた。同じようにボリボリと音を立てて。
「ん……。お、おんなじ味だぁ……」
口の中に噛み砕いたキュウリを含んだまま剛は言った。
「当たり前だよ。見かけは違っていても、中身は一緒だもん」
昌枝は剛の言葉にそう答えた。
「ん……?」
剛は昌枝の言葉に一瞬不思議そうな顔をした。
「ん? どうかしたのかな?」と、不思議そうな顔をした剛に気付いた昌枝が剛に訊ねた。
「に、人間も、お、おんなじかなぁ……?」と、剛。
「どうしたの? 何か悩んでんのかな?」と、昌枝。
「に、人間も、あ、頭いいやつと、お、俺みたいに、アホで、マヌケで、バカチョンなやつと、カ、カッコいいやつと、お、俺みたいに、デカいだけで、カッコわりぃやつと、な、中身は、お、おんなじかなぁ……?」
突然、そう言って剛はボロボロと涙を流し始めた。
口の中には噛み砕いたキュウリが詰まったままである。
「あなたさぁ……、何があったか知らないけど、人間だって、みーんな中身はおんなじさ。見かけや、やってることはそれぞれ違っていても、誰だって胃袋はあるし、だから腹も減る。形が違っていたってキュウリはキュウリの味だろ。だからキュウリはみーんな仲間なんだよ。人間だっておんなじさ」
意味がよく理解できないような台詞ではあったが、昌枝は、右手に半分になったまん丸キュウリをしっかりと握ったまま涙を流している剛の左手を両手で強く握り、優しく剛に、そう語り掛けた。
「み、美香さんも、マンユミさんも、お、俺と中身はおんなじ……?」
泣きながらそう言う剛に「ああ、おんなじだ!」と、昌枝は力強く答えた。
美香の部屋では剛を除いた四人での練習が続いていた。
そこへ突然、剛がノックもせずに、のそのそと部屋に入ってきた。
「あーっ! 脇田くーん!」
嬉しそうに剛に駆け寄る秀雄。
「脇田君が、来てくれたぁ!」
信夫もまた、嬉しそうに叫んだ。
「マ、マンユミさんも美香さんも、あ、相崎君も田頭君も、そして、お、俺もキュウリだから……。キュ、キュウリがキュウリを裏切る訳にはいかない……」
ボソボソと話す剛。
「おお、脇田が戻って来たぁ! また、チームが全員揃ったぁ! まずは、めでたしめでたしだ! また、みんなで練習続けられるぅ。ところで、あたしはマンユミじゃないからね! 前にも言っただろ! あと、部屋に入るときはノックぐらいしろよな!」
元気にはしゃぐマユミ。
美香は、そんなマユミの傍で嬉しそうに笑いながら小さく拍手をしていた。
仲間という意味をキュウリに例えた剛の言葉の意味がよくは理解できなかったマユミではあったが、「裏切る訳にはいかない」と言う剛の言葉の中に、剛の中で自分達との仲間意識、いわゆる絆が強くなってきていることが確かなものとして、その時のマユミの心の中には、「ホッ」とした安心感として芽生えたのであった。
改めて剛を交えて練習を続けていると、突然美香の部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「美香。開けるぞ」
大人、しかも中年らしき男の声だ。
「お父さんだぁ!」
美香が急いでドアを開けると、部屋の外にはマユミ達にとっては見たこともない、正にナイスミドルと呼ぶにふさわしい風貌の中年男性が立っていた。
「ただいま」
美香の父親、光明である。
「お帰りなさい……。」と、小声ではあったが、驚いた様に美香。
そして「どうしたの? 突然……」と、美香は部屋に入って来た光明に問い掛けた。
「美香の友達に会いに来た」と、光明。
そして、一呼吸おいて光明は言葉を続けた。
「美香が初めて友達を家に連れて来て、毎日毎日、今までに無かったぐらい元気に嬉しそうにしてるって、電話で母さんから聞いたんだ。そしたら無性に美香の友達に会ってみたくなった」
「こ、こんにちは……」
どんな時でも、いつも元気だったはずのマユミが、珍しく緊張して小声で挨拶をした。
マユミにとって光明は、大ファンである俳優の三浦友和みたいにカッコよく見えた。こんなダンディーでカッコいい中年男性を直接目の当たりにするのは全く初めてのこと。こんな中年男性は関茂里町では絶対に見かけることは無い。
だからマユミは緊張していた。
秀雄と信夫と剛は、もっと緊張して言葉も出せずに震えていた。
「お前らも挨拶ぐらいしろよ!」
そんな三人を見て、つい、いつもの調子で叫んでしまったマユミ。
「あ、やべっ……。あ、あなた達も、挨拶……しちゃおうよ……」と、慌てて言い直すマユミ。
「ははははは! 君がマユミさん!」と、光明は笑いながらマユミの両手を強く握った。
そして今度は「君が、脇田剛君だ!」と、剛の両手を光明はマユミと同じように微笑みながら強く握った。
「でへへ……」と、照れ笑いする剛。
光明の自然な笑顔に剛の緊張感は不思議と短時間で解れていた。
「で、ごめん。どっちが相崎秀雄君で、どっちが田頭信夫君かな?」
光明は、みんなの名前を知っていた。マユミは女子で剛はデカいから、この二人はすぐに分かった様だ。
「ボクが相崎秀雄です。こんにちは」
「ボク田頭信夫です。こんにちは」
そして代わる代わる秀雄と信夫の両手を同じように強く握る光明であった。
「明日、ここにいるみんなで海行こう!」
また一呼吸おくと、突然、光明は美香に向かってそう言った。
明日は秋分の日で学校は休みである。
「えっ……?」
驚くマユミ達。
「そのつもりで帰って来たんだ。母さんから、毎日毎日夕方から遅くまで、一生懸命、五人で歌の練習してるって聞いてるよ。たまには骨休みしなくちゃな。泳ぐことは出来ないけど、人の少ない九月の砂浜もまたいいぞ。広ーい海と砂浜に押し寄せる波見て、気持ちのリフレッシュだ。今日、レンタカーだけどマイクロバス借りてきた。私が運転して行く。私にとっても久しぶりの休暇だし。楽しみだなぁ」
美香をはじめ、マユミ達に頼もしく語る光明であった。
「おお、い、いいぞぉ~。たまには、ほ、骨休みだぁ~、骨休みぃ~……」
ボソボソと、いつもの口調で剛が言った。
「ははははは! お前が言うな」
笑いながらマユミは、思わず剛の尻をひっぱたいた。
「でへへ……」と、剛。
次の日の昼近く、マユミ達は山間部にある関茂里町からはクルマで二時間ほどの、とある海岸の砂浜にいた。この砂浜は毎年、夏の間は海水浴場となっており、シーズン中は大勢の人で賑わっている。しかし、海水浴シーズンがとっくに過ぎているこの日の砂浜は、そんなせいもあって人影が疎らである。
この日も残暑と呼ばれるほどに気温は高かったが、九月の半ばを過ぎているので海の水は既に冷たくなっていた。しかし、そんなことはお構いなしに、美香、秀雄、信夫の三人は、砂浜で楽しそうに裸足で波と戯れている。押し寄せる波には逃げ、引いていく波は追いかける。そんなことを何回も何回も繰り返しながらはしゃいでいる。砂浜ではよく見受けられる光景である。
そんな美香達の傍を、剛が昌枝をおぶって、はしゃぎながら、これまた裸足で走りまくっている。
その傍では精一が微笑んで立っていて、昌枝をおぶって、はしゃいでいる剛を嬉しそうに見つめている。
剛のたっての希望で昌枝と精一も一緒に、この海に連れて来られていたのである。
「剛君、あんまり無理すると疲れるよ」と、休まず嬉しそうに走りまくる剛の背中で恥ずかしそうに微笑む昌枝。
最初は剛におぶられることに対して、ためらいを見せていた昌枝であった。
「お、俺、ちっちゃい時、毎日毎日、ばあちゃんの背中に、おんぶしてもらっていたんだぁ。幼稚園の時、デッカくなったら、お、俺がばあちゃんをおんぶするって、ばあちゃんの背中で約束したんだぁ……。お、俺が、デッカくなったら、ばあちゃん、もう、いなくなっていた……」
そう言って、昌枝をおぶりたいとせがむ剛に、優しく微笑みながらも、いつしか昌枝の目からは静かに涙がこぼれていた。そして気が付くと昌枝は剛の背中にいたのである。
その時マユミは、美香達から少し離れた所で光明と美千代と並んで座り、そんな光景を三人で眺めていた。
「美香が他の子達と一緒に、あんなに楽しそうにはしゃいでいる姿見るの、初めての様な気がする」
美千代が嬉しそうに言った。
「ホントだ……」と、光明。
「マユミちゃん達のおかげ。マユミちゃん達がうちに来る様になって、美香、どんどん明るくなっていく。毎日毎日、その日のマユミちゃん達との出来事、楽しそうに私に話すのよ。それまでの美香からは考えられないこと。いつも学校から帰って来ると、すぐに自分の部屋に入って、ピアノ弾いていたり、本を読んでいたり。友達と呼べる人がいなくて、いつも独りぼっち。そんな毎日だったもの。ホントにありがとうね」と、本当に嬉しそうにマユミに語り掛ける美千代。
「美香、小学校の時から頭良くて、なんでも独りで出来ちゃったし、いつもおとなしくて、いろんな人が話し掛けても、あんまり喋んなかったし、それで、みんな近付きにくかったのかも知れない……。でもね、今回、美香のほうからあたし達に近付いて来たんですよ。あたしボンクラだから、美香にとって近付きやすかった相手なのかもね。本当は美香、元々みんなと一緒にいろんなことやりたかったんじゃないかなぁ。引っ込み思案の美香は、そういうチャンスを今まで自分から作れないでいたのかも……。あたし、もっと早く気付いてあげればよかった……。美香が、あんなに元気にはしゃぐ子だなんて知らなかった……」
美千代に、そう答えるマユミ。
「美香に初めて友達が出来たって母さんが言うし、小さい頃からおとなし過ぎるほどおとなしい美香だったから、どんな友達かなと思って、内心、心配で来てみたけど、あなたをはじめ、相崎君、田頭君、脇田君。みんな純情で、いい子達じゃないか」
そう光明はマユミに言うと、再び、はしゃいでいる美香達の姿を嬉しそうに眼を細めて見つめていた。
「ところで、五人で校歌の練習してるんだって? なんか、大会があるからって」
はしゃいでいる美香達を見つめたまま、また光明がマユミに話し掛けた。
「はい……。でもなかなか上手くいかないんです……。みんな一生懸命なんだけど、なかなか……」と、マユミは答えた。
そして、マユミと光明の言葉のやり取りが始まった。
「ははは……。なかなか上手くいかないか……」
「はい……」
「そうかぁ……。でもね、上手く行かないからこそ、尚更一生懸命になれるってこともあるし」
「今のあたし達、そうかも知れない……」
「一生懸命を続けていると、そのうち、間違いなく今まで見えなかった何かが見えてくるよ。一生懸命に無駄は無いから、そのままみんなで頑張り続けてね」
「はい、頑張り続けてみます。美香だって、相崎君達だって、あきらめるつもりはさらさらないみたいですし。それからですね、いつの間にかあたし達には不思議と深い絆が芽生え始めているんです……。うん、間違いなく」
「そうか、そうかぁ。うんうん、美香の初めての友達が本当にあなた達でよかったぁ。私は安心して東京へ戻ることが出来る。ありがとう。これからも美香のことよろしく頼むよ」
マユミと光明のそんな会話が続いていた時である。
「マユミさんも、おいでよー!」と、突然の大声。
マユミに向かって美香が手招きしながら叫んでいる。
その傍では相変わらず剛が昌枝をおぶったまま走り続けている。今の剛にとって、疲れという言葉は全く無縁のようである。
「オッケー!」
マユミは立ち上がって光明と美千代に一礼をすると、美香達に向かって走り出していた。
昼過ぎになってマユミ達は、国道沿いにある、丸太小屋をモチーフにしたと思われる造りの、しかも海が一望できるステーキハウスに光明に連れて来られて食事を取っていた。
みんな、楽しそうに明るい笑顔である。
「私はこんなに食べられないから、剛君、半分手伝ってくださいな」
剛の隣りに座っていた昌枝が、剛の皿に半分に切った自分のステーキを移していた。
「おお……、い、いいのぉ?」
「どうぞ。私をおぶって一生懸命走って疲れたでしょ。いっぱーい食べて、もっともっと大きくなりなさい」
「ありがと……。お、俺、肉好きだから、いっぱい食べられるぅ……。でも、これ以上デッカくなったら、か、怪獣だぁ!」
昌枝と剛のそんな会話に突然秀雄が口を挟んだ。
「脇田君、今でも怪獣みたいだから変わんないよ」
「でへへ……」と、剛。
全員、大爆笑。
食事の後は、みんなで水族館に寄った。
美香の希望であった。
美香がおねだりするのは初めてのこと。光明も美千代も嬉しかった。
美香は特に水族館に興味があった訳ではない。ステーキハウスに貼ってあった水族館のポスターを見て光明にねだったのである。
実を言うと美香は、このまま帰ってしまうことがもったいない様な気がしてならなかったのである。まだ時間があったし、今のこの楽しい時間を早く終わらせたくなかったのである。
秀雄、信夫、剛はいろんな魚をはじめ、海の数々の種類の生物に、眼を真ん丸くして喰入るように観て歩いていた。
「脇田! どきな! 後ろのちっちゃい子が見えないってよ!」
美香と並んで秀雄達の後ろからついて来たマユミが叫んだ。
「でへへ……」
鮫のところで立ち止まっていた剛は、頭をかきながらしゃがんだ。剛の後ろには小学生ぐらいの男の子が立っていた。どう見ても低学年の子みたいだ。
剛はデカい。しゃがんでも男の子には剛が邪魔である。全然見えない訳ではないが邪魔である。しかも今日は祝日とあって、他にカップルやら家族連れなどを含んだ数人の大人達もいたので男の子には鮫が見えづらい。剛もガラスの向こうで悠々と泳いでいる鮫が気に入ってしまい、その場から離れたくなかった。
「お、俺に乗っかれ……」
剛は男の子に言った。
男の子はデカい剛が怖かったのか、首を横に振った。それでも鮫がもっと見たいらしく、男の子は他の場所に行こうとはしなかった。
「この人、見かけはこんなんだけど、全然怖くないからね」
突然、秀雄が男の子を抱っこして、しゃがんでいる剛の肩に乗せた。
「そうそう、こんなんだけど怖くないよ」と、信夫も男の子に言った。
「でへへ。見えっか……?」と、笑顔の剛。
「うん!」と、男の子。
一見、デカくて怖そうに見えても、そんな剛の自然な笑顔と振る舞いが男の子には優しいお兄ちゃんに見えてきたのであろうか、しゃがんだままの剛に肩車をされた男の子は嬉しそうに頷いた。そのまま剛が立ち上がると、どんなに他の大人達がいても、男の子からは、しっかりと鮫が見えた。
剛はデカい。男の子はご機嫌であった。
「すいません……。ありがとうございます」
その傍で、男の子の両親が秀雄達に笑顔で頭を下げていた。
マユミと美香はそんな光景を微笑ましく見ていた。
「やるなぁ、あいつら」と、マユミが美香に言った。
「うん、なんか頼もしいね」と、美香が剛達を見つめながら微笑んだ。
美香、秀雄、信夫、剛にとって、家族以外の仲間達と、こんなに楽しく過ごした時間を経験したのは初めてのことであった。光明が運転する帰りのマイクロバスの中、本来は疲れているはずなのに、この楽しい時間を惜しむように誰一人としてウトウトするものは無く、美香の家に着くまで精一や昌枝も混じってワイワイガヤガヤが続いていた。
「ありがとうね……、仕事、忙しいのに」
運転席の光明に助手席の美千代が小さな声で、そっと言った。
光明は、そう言う美千代に微笑みながら優しく頷いていた。
帰り道、バスの窓から見える真っ赤な夕焼けが、やけに綺麗だった。
学校では、いつからか、秀雄、信夫、剛の三人に、『三部合唱』というあだ名が付けられていた。
「いよっ! 三部合唱! 頑張れよ!」
三人が揃っていると、明らかに馬鹿にしていると分かる掛け声が、どこからともなく発せられる様になっていた。
校歌斉唱大会がニ日後へと迫っていた放課後、雅彦は秀雄、信夫、剛の三人を校舎の屋上へと連れ出していた。
それは、美香に思いを寄せている雅彦の嫉妬心からの行動であった。
「お前らよう、加藤美香の家へ行って練習してんだってなぁ」
雅彦の言葉に三人は、頷きもせず、また、何も言わず、怯える様に直立不動状態で立っていた。
「何回練習したって上手くならねえだろ、お前らはよう! それにお前ら、みんなに馬鹿にされて、冗談半分で代表に選ばれたのだって、自分達でも気が付いてんだろっ!」
雅彦は怒鳴る様に言葉を続けた。
「もう行くんじゃねえぞ。これから加藤んち行ったら、ただじゃおかねえぞ! お前ら練習したって頭悪いんだから意味ねえんだよ! 練習なんか無駄! 本番では、学校中の生徒みんなに笑われて終わり。それだけでも目立つんだから一時的にスターだ。お前らはそれでいいんだ! 分かったか!」
それから、ここにいる四人に数分間の沈黙があった。
「お前ら、さっきから黙ってけどよぅ、分かったのか!」
何も喋らない三人にしびれを切らした様に、突然雅彦が怒鳴った。
「な、なんで……? マユミさんも美香さんも、ボク達みたいなもんに一生懸命なのに……」
秀雄がビクビクした口調で言い返した。その身体は震えている。
秀雄は今まで他人に逆らったことなど全く無く、いつも人の言いなりになってばかりいた。しかし、校歌斉唱大会の練習を始めてからマユミ達との今までの出来事が、知らず知らずのうちに秀雄の心に少しの変化をもたらしていたのであった。
「なんだぁ、お前は!」
雅彦は、そんな秀雄に少しの驚きを見せたが、すぐさま秀雄の頭を拳で小突いた。
突然、剛が二人の間に割って入って来た。
「や、やめろよ、山田君……」
低い声でそう言う剛。デカいその身体も震えていた。
「な、なんだぁ! お前、やるのかぁ!」
雅彦は剛の胸ぐらを両手で掴んだ。
剛はデカい。下から睨みつける雅彦。
「お、俺、たぶん……、ほ、本気になったら、喧嘩強いかも……。首絞めたら放さない……、たぶん……」
剛が、また低い声で言った。大きな身体はまだ震えている。そして、その目には今にもこぼれ落ちんばかりに涙が溜まっていた。
「山田君、や、やめたほうがいいよ。普段おとなしいけど、脇田君、泣いちゃったら強いよ……」
剛と秀雄の後ろで信夫が小声で言った。そして、更に小声で言葉を続けた。
「ボク、小学生の頃、二人の中学生にいじめられていたとこ、通りかかった脇田君に助けてもらったことあるもん……」
*
それは、剛と信夫が小学六年生の頃の出来事であった。
学校からの帰り道、いつも途中にある公園のトイレによって小便をして帰るのが、その頃の剛の日課となっていた。
ある日、いつもの様に剛がトイレで用を足していると、トイレの裏側から犬の鳴き声が聞こえてきた。
「ワンッ、ワンッ……」
「あんれぇ? い、犬がいるぅ……」
用を足し終えた剛がトイレの裏側に廻ってみると、そこにはランドセルを背負ったまま四つんばいになって犬の泣き声を真似ている信夫の姿があった。しかも信夫は泣いている。
傍には二人の中学生がいた。そして、その二人の中学生は信夫を見下ろして笑っている。
剛は信夫が中学生にいじめられていることを、泣いている信夫からすぐに感じ取ることが出来た。
「あーあ、中学生が、しょ、小学生を、いじめちゃ、ダーメなんだぁ、ダメなんだぁ、センセーに言ってやろ、父ちゃんにも言ってやろ♪」
そして、剛は小学生とは言え、高学年にもかかわらず低学年の生徒がする様な仕草をしながら歌か喋りか分からないような言葉を発していた。
すると二人の中学生は剛にゆっくりと近付いて来た。そして片方の中学生が剛に向かって言った。
「なんだぁ、おめぇは。でっけぇ図体してランドセルなんか持って、小学生かぁ? あ~ん?」
剛は体がデカ過ぎるためランドセルを背負えない。いつも片腕にぶら下げて家と学校を往復している。
「お、俺は小学生だもん。ご飯いっぱい食べるから、デッカくなったんだもん」
剛がそう言うと、その中学生はもう片方の中学生に言った。
「こいつ、もしかして馬鹿じゃないのか?」
「ははは! そうみたいだな」と、もう片方の中学生。
すると、間髪入れずに最初に声を掛けた中学生が、ニタニタと笑いながら剛に言った。
「いいか、小学生はなぁ、中学生のお兄ちゃん達の言うことを、ちゃんと聞かなくちゃなんねんだぞ。おめぇも犬の真似して見せろや」
「や、やーだもん……」と、剛。
「こらぁ! 犬の真似しろって言ってんだろっ! 早くしろっ! この野郎っ! ひっぱたくぞっ!」
いきなり凄む、その中学生。
「は、はい……。で、でも、ちゅ、中学生が、しょ、小学生いじめちゃ、ダ、ダーメなんだ……。うっ……うっ……」
元々小心者の剛は怖くなって、半ベソをかきながらも、言われた通り四つんばいになった。
「余計なこと言ってねぇで、早くワンって吠えろ、この野郎っ!」
バシッ!
その中学生は半ベソをかきながら四つんばいになっている剛の頭を怒鳴りながら、いきなり平手でひっぱたいた。
「ワ、ワン……」
半ベソのまま、剛は犬の泣き声を真似た。
「おめぇ、でっけえから馬のほうがいいなぁ。馬やれ、馬!」
そう言うと、その中学生は剛の背中に跨いで乗っかった。
「さあ、走れっ!」
バシッ!
そして今度は剛の尻を、また平手で思いっきりひっぱたいた。
「うわーっ!」
その時である。突然、半ベソが大声の泣き声に変った剛が急に立ち上がった。
暴れ馬が前足をいきなり上げて乗っている人間を落とす光景、全くそのままである。
「この野郎っ!」
剛の背中から転げ落ちたその中学生は、慌てて立ち上がって怒鳴った。すると、剛はその中学生の首をいきなり両手で絞めると、公園のトイレの壁に力強く押し付けたのである。その中学生の自分に対する連続したその行動によって、剛の心の中では更に怖さが増していたのである。よく熊が突然人間に出くわすと、自分の身を守るために凶暴になり、人間に襲い掛かってくると言われている。動きは暴れ馬であったが、その時の剛は、正にその熊状態であった。
首を絞められて暴れる中学生。しかし、剛の力は強かった。なかなか首から手が離れない。もう片方の中学生が「この野郎っ!」と叫びながら剛の背中をおもいっきり拳で殴ったり蹴ったりしても、剛は首から手を離さない。
*
「泣きながら脇田君、片方の中学生に何回殴られたり蹴られたりしても、もうひとりの中学生の首絞めたまま放さなかった……。首絞められていた中学生、だんだん暴れる力が弱くなって来て……。たまたま公園のトイレに来た大人の人が気付いて止めなかったら、どうなってたか分かんない……」
言葉を続ける信夫の身体も震えていた。
信夫の話を聞いた雅彦に不思議な恐怖心が芽生え始めた。
今まで、本当に雅彦をはじめ、クラスメート達の言いなりにばかりなっていたこの三人が初めて言葉を返して来たのだ。
「や、山田君だって、キュウリだぞ……。お、俺、キュウリの首、ホントは絞めたくない……」と、いつもの様にボソッと話す剛。
「な、何、訳の分かんないこと言ってんだ……、お前はよう……」
恐怖心が徐々に膨れ上がってきた雅彦は、そう言うと、剛の胸ぐらから静かに手を放した。
「マユミさんも美香さんも、ボク達のために一生懸命なのに、ボク達、練習やめる訳にはいかないよ」
秀雄が、また雅彦に向かって静かな口調で言った。しかし、先程の様にビクビクした口調ではなくなっていた。信夫と剛の行動が秀雄に更に勇気を与えたのだ。
校歌の練習を始めてから今まで、いろんな出来事があった。それらが、本人達も気が付かないうちに三人の絆をより一層深くし、精神面でも逞しくなっていたのである。
「ど、どうせお前らは道化もんなんだからな!」
雅彦は吐き捨てるように言うと、独り足早に屋上から立ち去って行った。
その頃、マユミと美香は屋上へと階段を駆け上っていた。
雅彦が秀雄達三人を屋上へ連れ出したということをクラスメート達が話しているのを耳にしたのである。
途中、ふたりは階段を駆け下りて来る雅彦とすれ違った。
「おい、山田! お前、相崎達に何かしたんじゃないだろうなっ!」
立ち止まり、心配顔で雅彦を睨み付けながら怒鳴るマユミ。
一瞬立ち止まり、雅彦はマユミと目が合った。
マユミと美香は驚いた。
雅彦の顔が真っ青なのである。
そして雅彦はマユミ達に背を向け、再び階段を駆け下りて行った。
真っ青な雅彦の顔を見たマユミと美香は、秀雄達が更に心配になり、急いでまた階段を駆け上り始めた。
屋上へと飛び出したマユミと美香。
そこには大声で笑い合う秀雄達三人の姿があった。
剛が怪獣の物真似をしているのである。
マユミと美香に気付いた剛が、ドタドタと、相変わらずの地響きを立ててマユミ達に駆け寄って来て笑いながら言った。
「あ、相崎君ね、うんと大きな口開けて笑うから、の、喉チンポコが、まーる見え、まーる見え。だははは!」
「の、喉チンポコ……? チンポコって……。違うぞ、それ」と、マユミ。
傍で美香が真っ赤な顔をして俯いた。
そして、ついに大会当日が来た。
体育館に全校生徒と全教師が集まっている中、次々と各クラスの発表が行われていく。
クラス全員での合唱や代表数人による合唱、そして代表による独唱と、一年生から三年生までの各クラス様々である。
間もなく三年一組、秀雄達の出番である。
三人は、順番待ちのステージの陰で今にも心臓が張り裂けんばかりにドキドキ。どの様に表現していいのか分からないほど緊張していた。
「次は、三年一組の代表三名による合唱です」
司会役担当の生徒の声が体育館内に響いた。
さあ、順番が来た。
「がんばぁ……」
これからステージに出て行く秀雄達三人の傍にいたマユミが、笑顔で小さく一言だけ声を掛けた。
三人にとって、その笑顔が物凄く輝いて見えた。『まるで天使の様な……』という言葉をよく耳にすることがあるが、普段は男勝りのマユミであっても、計り知れない緊張感に包まれていた三人にとって、その時のマユミの笑顔は、正に『天使の様な笑顔』であった。不思議と三人は、先程までの異常なほどの緊張感が、その一言と笑顔によって解れたのだ。
ステージに設置されたピアノの椅子に美香が静かに座る。そして、ステージ中央に立てられた、たった一本のスタンドマイクの前に、三人は寄り添うようにして立った。
「いよっ! 待ってましたぁ! 三部合唱!」
どこからともなく大きな声で野次が飛んだ。おそらく三年一組の誰かだろう。
「ははははは!」
体育館内に大勢の笑い声が響く。一、二年生を含め、他のクラスの生徒達も、何日か校庭の片隅で練習していた光景を見ているので、三人のことは知っている。
秀雄も信夫も剛も、ステージ横の幕の陰で自分達を見守っているマユミに眼をやった。
マユミは何も言わず、ただ先程と同じ笑顔で首を静かに横に何度か振っていた。
「気にすんな……」 三人には、そう感じとることが出来るマユミの仕草であった。
三人にとって、それが今度は大きな勇気に変わっていった。
美香によるピアノの伴奏が静かに始まった。
その数秒後である。体育館内に驚きのざわめきが起こりはじめた。
なんと、本来の校歌のメロディーとは明らかに違うメロディーを美香は奏でているのだ。
三人が美香の伴奏に合わせて歌い始めた。いきなり最初からハーモニーである。しかも今まで誰もが聴いたこともないくらい美し過ぎるハーモニーである。
その瞬間から、体育館内が何事も無かったかの様に急に静まり返った。伴奏が始まってからの驚きのざわめきは、どこかへ消えてしまっていたのである。
三人の歌声は、美香の奏でる、歌声を引き立たせ様とする静かなピアノの音色と共に体育館内に心地よく響き渡って行った。
三人のハーモニーは更に続く。言葉では言い表せないくらい美しく、本当に心が癒される、すばらしいハーモニーである。
優しく、真剣な目でそれを見つめていた山本校長の目には、いつしか涙が浮かんでいた。そして、その涙はやがて頬に静かに伝わり始めた。
「私が聴きたかったのは、これだったのかも知れない……」
山本校長が静かに呟いた。しかも涙声である。
担任である三郎の顔が涙と鼻水でクシャクシャになっていた。
相崎秀雄、田頭信夫、脇田剛がクラスメート達から馬鹿にされ、いつもオドオドしていて、他の生徒達の言いなりになってばかりいたことを、三郎はこのクラスを受け持った時から既に知っていた。しかし、教職に就いたら生徒達と一体となって楽しく、そして充実した毎日を過ごすという自分が抱いていた教職のイメージと現実とのギャップに、三郎は教師と言う職業に対する熱意を失い、ここ数年、適当にあたりさわり無く、その日その日を過ごしていたのである。そのため、秀雄達に対しても事件にならない程度のいじめを受けているならそれでいいと身勝手に自分を納得させ、関心を持つことは無かった。
その三人が今、ステージで必死になって綺麗なハーモニーを体育館内に響かせている。
三郎は今、底知れぬ感動に浸っていた。
あれほど三人を馬鹿にし、いじめ続けてきた雅彦の顔も、いつしか涙でクシャクシャになっていた。
雅彦もまた、三郎同様、底知れぬ感動に浸っていたのである。
教師達、生徒達、体育館内にいる全ての人間達が、静かに、しかも真剣に三人のハーモニーに聴き入っている。
音楽というものには不思議とそういう力がある。
そして、三人の歌が終わった。
その後、ほんの数秒間だけだが、三人の歌の余韻に浸る様に体育館内がシーンと静まり返っていた。
やがて、それが信じられない位の大きな歓声と拍手に包まれ始めた。その歓声と拍手に、驚きと新たな緊張感が重なって、三人は直立不動の姿勢で立ちすくんでいた。
三人とも顔は真っ赤だ。
美香がピアノの椅子から静かに立ち上がり、三人の横に並んだ。そして、美香が静かに教師達、そして生徒達に向かって深々と頭を下げると、三人もそれにつられる様に、バラバラにではあったが、美香と同じく深々と頭を下げた。
時間にしてどの位だろう、しばらく拍手は鳴り止まずに続いていた。
マユミが舞台の袖で誰にも気付かれない様に、そっと独りで泣いていた……。
校歌斉唱大会が終わって、その日の放課後、三年一組の教室には全員が戻っていた。
「すばらしかった。本当にすばらしかった。相崎、田頭、脇田が、ここまでやるとは思ってもみなかった。すばらしいハーモニー、そして、すばらしい歌だった。歌、しかも校歌というものが、こんなにも人の心を打つものとは今の今まで気が付かなかった。メロディーなんかどうでもいいんだ。相崎達の歌は、校長はじめ、聴いていたみんなに感動を与えた。これは、このクラスのみんなが協力してくれた賜物だと先生は思う。こんなすばらしい三年一組のチームワークの良さに先生は物凄く感動した。みんなありがとう。先生は自分がいい加減だったことが恥ずかしいよ。反省してる」
三郎が生徒達に深々と頭を下げた。
「協力したのは……、高野と加藤……だけです……」
静まり返った教室に雅彦の力無い小さな声が響いた。
「はぁ……?」
三郎は、何が何だか分からないといった戸惑いの表情を見せた。
そして雅彦が言葉を続けた。
「クラスのみんなで協力したなんていうのは、嘘です……。頑張ったのは、高野と加藤と相崎と田頭と脇田だけです……。俺はじめ他のみんなは馬鹿にしていました。頑張ったのは、この五人だけです……」
「ど、どういうことなんだ?」
三郎が雅彦に問い掛けた。
「だからぁ、今回のことに一生懸命だったのは高野と加藤だけで、他のみんなは誰も協力なんてしていないって! みんなそれぞれ勝手でチームワークなんて、まるっきしありゃしない。それが今の三年一組なの! 前々から先生だってそんなことぐらい気づいてたでしょ。何偉そうなこと言ってんだよ、まったく。自分だっていい加減だったって認めてるでしょ!」
三郎の問い掛けに雅彦が怒鳴って答えた。半分涙声にも聞こえる様な怒鳴り声であった。
「なん……」
三郎は言葉に詰まった。
「ちょっ、ちょっと待ってください……」
三郎と雅彦のやり取りに、マユミが口を挟んだ。
「協力、ありました。私達だけでは、あんなすばらしい校歌になる様な練習なんて思い付かなかったし、出来ませんでした」
マユミの言葉に、三郎と雅彦、そしてクラスのみんながマユミの方へと眼を向けた。
みんな不思議そうな顔をしていた。
「な、なに言ってんだよ……。嘘ついて、俺達、かばうつもりかよ……。いい子ぶんなよ……」
力なく雅彦がマユミに向かって言った。
そんな雅彦の言葉に、マユミが静かな口調で答えた。
「三部合唱……って、ヒントくれた……」
*
実は、大会の前日にこんなことがあった。
いつもの様に、マユミ、美香、秀雄、信夫、剛の五人は美香の家で練習をしていた。
「だめだぁ、美香。全然同じで進歩が無いよぅ……。どうしよう……。明日だよ、もう……」
練習の休憩時間、秀雄、信夫、剛が、美千代の持ってきたお菓子に夢中でむさぼりついている時に、マユミが美香に小声で、しかも、めずらしく半ベソをかいて言った。
「マユミさん……」
美香がピアノの椅子に座ったまま、傍に立って俯いているマユミの両手を握った。そして、しばらく二人に数分間の沈黙があった。その間も秀雄達三人は、相変わらず夢中でお菓子にむさぼりついている。
「マ、マユミさんも、美香さんも、た、食べないのぉ? 食べないんだったら、お、俺……もらってもいいかなぁ……?」
剛が、いつもの様にボソッとした口調でマユミと美香に向かって言った。
「ははは……、いいよ」
マユミと美香が力なく笑って答えた。
「マユミさん……、諦めないで、ぎりぎりまで頑張ってみよう。今から大会が始まる訳じゃないし、明日まで、まだ時間あるし、何とかなるよ。頑張ろう。ね」
「うん、分かった。ごめん……、あたしらしくなかったね。ごめん……」
美香の言葉にマユミが頷いて答えた。
三人がお菓子を食べ終えて一呼吸ついた後、また練習が再開された。
「ね、ね、マユミさん」
何回か練習を繰り返しているうち、美香がマユミに突然何かに気が付いた様に話し掛けた。
「うん? なぁに?」
「あのね、相崎君も田頭君も脇田君も、それぞれみんな別々だけど、それぞれいつも同じメロディーで歌っているよ。本来の校歌のメロディーとは全然違うけど。さっきから同じメロディーだよ」
「えっ、うそ……」
「ホントだよ。ね、ね、それぞれ独りずつに歌ってもらおうよ? ね、マユミさん、そうしてみようよ」
それから二人はピアノの伴奏無しで、三人に別々にソロで歌わせてみた。そして、それを何回か繰り返してみた。
「ね、そうでしょ」と、美香。
「ホントだ。気が付かなかったよ、あたし……」と、マユミ。
何回も練習を重ねているうちに、いつの間にか三人の中で、それぞれ独特のメロディーが出来上がっていたのだ。
「ね、ね、しかも、三人とも、なんか、心が癒されるような、優しいメロディーになっていると思わない? 私だけかな……、そう思うの……」と、美香。
純情で心の汚れを知らない秀雄、信夫、そして剛は、自分達はもちろん、マユミ達も気が付かないうちに、聴いている者の心が癒される様な優しいメロディーをそれぞれ自然に作り上げて口ずさんでいたのである。
それから更に美香は言葉を続けた。
「私なりに思い付いたんだけど……」
「なぁに……?」
「三人共ね、リズムさえ合えば綺麗なハーモニーになりそうなメロディーの様な気がするんだ。ホント、そんな感じがするんだ……」
「ん……?」と、不思議そうな顔をするマユミ。
「クラスの人達が言ってた三部合唱にならないかなぁ……」
「そっかぁ! い、いけるよ、これっ! しっかりとクラスの連中からヒントもらっちゃったぜぇ! ざまぁー見ろ!」
美香の言葉に、マユミが興奮して答えた。
「美香のお父さんが言ってた。一生懸命を続けていると、今まで見えなかった何かが見えてくるって……奇跡……。奇跡もその中の一つ……これかぁ!」
マユミの興奮度は高まっていた。
それから二人は、三人のリズム合わせに練習を切り替えることにした。
メロディーが綺麗と褒められ、今まで人に褒められたことの無い三人は、しっかりとその気になっていた。そして今まで以上に必死に頑張り始めたのである。
練習は深夜まで続いた。美香の母親美千代がそれぞれの家に連絡を入れ、みんなその日は美香の家に泊ることになった。
やがて、三人のリズムが揃い始めたころに美香がピアノを弾き始めた。
「すげー美香。天才だよ、ホント、すげーよ美香。すぐ、そのメロディーでピアノ弾けるなんて、すげーっ!」
また、マユミが独りで興奮していた。
秀雄と信夫、そして剛。ハーモニーによる三人独特の校歌が出来上がった瞬間であった。
「ホントに三部合唱、出来ちゃったよ! クラスの連中、馬鹿にして言ってたけど、逆に感謝だぜ! だははははは!」
マユミの興奮度が頂点に達した。
「これならOKだよ、マユミさん。ホントに三部合唱! しかも綺麗……」
美香もうれしそうにマユミに向かって言った。
秀雄達三人は、何事が起きたのか分からず、ただキョトンと立ちすくんでいた。しかし、やがて、マユミと美香を喜ばせたのは自分達だと気が付いた三人の顔は笑顔へと変っていった。そして、それが三人の心の中に、本気で一生懸命頑張れば自分達の様な者でも人を喜ばせることが出来る『自信』と言うパワーとなって植え付けられたのであった。
*
校歌斉唱大会が終わって月日は流れ、新しい年も明け、既に関茂里町は三月。暖かな春を迎えていた。
今日は、関茂里中学校の卒業式。
卒業証書授与式終了後の出来事である。
答辞を、なんと秀雄が読んでいた。
雅彦が強く推したのである。
それは決して校歌斉唱大会のメンバーを選ぶ時の様なおちょくりでも何でもなく、雅彦の本心からの希望であった。雅彦は校歌斉唱大会の時のマユミ達に深い感動を覚え、それまでの自分の取った行動を反省し、そして、自らマユミ達に歩み寄って来ていたのである。好意を寄せている美香に近付きたいという思いも内心いくらかはあった。が、雅彦はマユミ達に心の底から本当に感動していたのである。本来なら、後輩達にバトンタッチするまで生徒会の会長を務めていた者が毎年答辞を読むのが関茂里中学校の慣わしとなっていた。が、雅彦の熱意に同調した三年一組の生徒全員が全校生徒や生徒会に掛け合い、そして、その熱意と校歌斉唱大会の時の秀雄達三人に対する他の生徒達の記憶が全校生徒ならびに生徒会の心を動かし、同意を得たのである。更に三年一組の生徒全員の気持ちを汲んだ三郎が、全力を尽くして教師達に掛け合った結果、教師達全員の同意も得たのである。
たった一つの出来事がきっかけとなってチームの和が広がることがある。今の三年一組が正にそうなっていた。秀雄達三人を馬鹿にする生徒は三年一組にはもう誰一人としていない。校歌斉唱大会以来、秀雄は昔のお喋りな秀雄に戻っていた。信夫も剛もクラスの仲間達と毎日和気藹々と過ごしていた。
答辞の文面は、マユミと美香、そして雅彦が協力し合い作成されていた。
壇上で山本校長と向き合って、それを読み上げる秀雄。
「今日、私達は、この関茂里中学校を卒業し、これからの新しい人生の階段を、一歩一歩力強く踏みしめて……」
突然、秀雄の声が詰まり、秀雄は答辞を読み続けることをやめた。
そして秀雄は静かに両手を下げた。答辞が書かれている用紙は右手に握られている。
会場内に騒めきが起きた。
「相崎! 頑張れ!」
雅彦が大声で叫んだ。
「頑張れ!」
マユミと美香、信夫と剛、そして三年一組の生徒達全員が不安そうな顔をしながらも心の中で叫んでいる。
沈黙状態が少し続いた後、秀雄の口が静かに開いた。
「ボク……、関茂里中学校で、本当に良かった……」
そう言うと、秀雄は左腕で繰り返し何度も何度も涙を拭いながら泣き出したのである。
そっと秀雄に歩み寄った山本校長は、そんな秀雄を無言で静かに抱きしめると、秀雄の背中を軽くポンポンと叩きながら何度も何度も無言のまま頷いた。
そんな二人の姿に、会場内のざわめきは、生徒達と教師達、そして父兄達の涙と笑顔と共に、いつの間にか大拍手へと変って行った。
秀雄のその一言は、どんな立派な文章よりもすばらしい答辞であった。
そして生徒達全員と教師達全員の校歌斉唱。
関茂里中学校の今年度の卒業式が幕を閉じたのであった。
関茂里川のほとりも、暖かな日差しを浴び、ふきのとうが恥ずかしそうに芽を出していた。
そんな関茂里川のほとりに、卒業式を終え、卒業証書や後輩達からもらった花束を持った六人の卒業生が横一列に並んで座り、川面を見つめている一つの光景があった。
そう、マユミ達が一時期、校歌の練習をしていたあの関茂里川のほとりである。
マユミ、美香、秀雄、信夫、剛、そして、雅彦の姿がそこにあった。
校歌斉唱大会以来、この六人は特別に仲が良くなっていた。
六人それぞれ卒業後の進路も決まっていた。
マユミと雅彦は関茂里町内の同じ県立高校へ進学。
美香は東京にある全寮制の名門私立女子大学付属の高校へ進学。
秀雄は隣町にある私立高校へ進学。
信夫は寿司職人見習いとして、叔父の営む東京の寿司屋へ就職。
剛は大工見習いとして、大工である父親の元へ弟子入り。
「こうやってさぁ、みんなで一緒に会えるのってさぁ、これから、めったに無いんだよなぁ……」
マユミが寂しそうにポツリと言った。
「やっぱり、私……、マユミさん達と同じ高校にすればよかった……」
美香も寂しそうだった。
「おいおい、なに湿っぽくなってんだよ。一年に一度か二度でもいいから、またみんなでここに集まりゃいいじゃん。加藤なんか、すげぇー頭いいんだから、頭のいいやつが揃う学校行って当たり前なんだからさ。俺らも少しずつ成長していかなくちゃなんねんだからよ。いつまでも寂しそうにしていられねぇんだからな」
そんな二人を勇気付けようと、元気そうに雅彦が言った。しかし、本来の雅彦の元気な口調とは、どこか違っていたのをマユミと美香は感じ取っていた。
雅彦だって、本当は寂しかったのである。
「ボク、少しでも早く一人前になって、みんなに自分でにぎったお寿司食べさせてあげたい。もちろんその時はお金なんかいらない」
信夫が突然そんなことを言った。
「わあー、それ楽しみだぁ!」
マユミが笑顔を見せて喜ぶと、他の四人も笑顔で、しかも手をたたいて喜んだ。
すると今度は剛がおもむろに口を開いた。
「お、俺も早く、一人前の大工になって、み、みんなに家を建ててやるよ。お、俺もその時は一円もお金いらない」
マユミ達、大爆笑。
「でへへ……」と、剛。
関茂里町に落ちる夕陽が、いつしかそんな六人を色鮮やかに照らし出していた。
六人の眼には、それは今までに無く、しかも、何にも例えようがないほど、とても素晴らしく綺麗な夕陽が映っていた。
終