雨の日のアジサイ
ぽつりぽつりと雨が降る。
ぱたりぱたたと傘が歌う。
梅雨前線は週末まで居座るらしい。お天気お姉さんは今日もかわいかった。
湿気で重くなったスカートを蹴り上げて、ぽんと水たまりは避けて歩く。
いつもと同じ帰り道。
少しうつむいて、水たまりを避けながら、時折すれちがう人たちにぶつからないよう注意する。
晴れの日ももちろん好きだけど、実は雨の日のほうが好きだったりする。
靴に水が入ったりするのはかんべんだけど、なんたって今日は長靴だし。オフホワイトに紺の水玉もよう。お気に入り。
とりとめなく考えて、思わずふふっと笑いをこぼした。
少しあわてて、でもゆっくりと周りを見る。
よかった、近くに人はいないみたい。
いきなり笑い出すとか、どうやっても怪しいし。
ほっとしていると、数十分ぶりに頭を上げたせいで、首が少し痛んだ。
もう少し歩いたら信号だし、赤だったら、少し肩でもほぐそう。
ふいーと息を吐きだして、傘を持ちなおす。
「んや?」
ふと上げた視線の先、信号より一つ前の曲がり角。
青く染まった花を、こんもり咲かせた紫陽花に埋もれるように、小さな看板が一つ置いてあった。
『 喫茶 アジサイ 』
矢印は左。路地の奥を指している。
「新しいとこかなあ」
ほとんど毎日通る道だけど、昨日もこんな小さな看板が置いてあったか、ちょっとあいまい。
少し気になって路地を覗いてみると、ちょっと奥の角に同じ看板が見えた。
この辺りは、表通りは新しい家もあるけど、奥に行くと古民家みたいな家が多くなって、道が入り組んでわかりづらい。
「んー」
少しだけなら。
とりあえず底の看板までなら、迷うことはないだろう。
そうして、水たまりをそっと避けつつ、看板へ。
『 喫茶 アジサイ 』
矢印は、右。
ためしに、裏を見てみると、『 お帰りはあちら 』 と描かれていた。
表通りへと折れ曲がった矢印もついている。
「おー。よし」
行ってみることにした。
水たまりを避けるのも面倒になって、ぱしゃり、ぱしゃりと踏んづけて歩く。なんたって長靴だし。
ふんふんと鼻歌を歌いながら、矢印どおりに右、左。
大きな水たまり。ステップステップ、ジャンプ。
はっと気づく。
まずい、友達。いや、他人に見られたら、まず間違いなく笑われる。
辺りを見回す。誰も居ない路地裏は静かで、雨のせいもあってか、人の気配は感じられない。
「ふふっ」
誰も見ていないことにほっとするも、少し残念で。でも、それと同時におかしかった。
「あ」
矢印を辿った先。今までより少し大きな看板に顔を上げると、そこには、薄い青紫色ののれんの掛かった家があった。
『 喫茶 アジサイ
いらっしゃいませ 』
看板は確かに、目的地を指していた。
「おじゃま、しまーす?」
門の変わりに両脇に咲いた紫陽花の道を通って、玄関屋根の下へ入る。
ぱちんと傘を閉じてぱたぱたと振り、水滴を落とした。
湿ったスカートが更に水を吸って、重くまとわり付いてくる。
ついでに鞄も軽く叩いて、気持ちだけでも水気を払い落としておく。
いざ。
扉に手をかけると、からからから、と。予想外に軽い音を立てて開いた。
いきなり中に入るのに戸惑って、ひょこりと顔を覗かせる。
「いらっしゃいませー」
「ほあっ」
奥から声がかかって、思わず変な声が上がった。
ちょっと辺りを見回すと、奥にあるカウンターの向こうに黒い髪のお兄さんが一人。
民家っぽい外見で戸惑ったけど、どうやらお店で間違いないらしい。
「お好きなお席どうぞ」
「は、はい」
声に促されて、慌てて中に入る。後ろ手に扉を閉めて、改めて中を見渡してみた。
向かって右は階段があって、赤い紐が張ってある。上がれないみたい。
席は左側。窓際に二人用の席が三つと、カウンターとの間に大きめの席が二つ。
カウンターにも、椅子がいくつか置いてあった。
椅子や机には、それぞれ赤や緑や薄いピンクのクッションに、なんだか和っぽい柄の長方形のクロスがかかっていて。その上には、いろんな色に染まった紫陽花が一輪ずつ活けてあった。
天井は吹き抜けみたいになっていて、大きな黒いハリが見えている。柱も黒で、壁は少し黄味がかった白。床も他と同じ、つやのある黒い板で覆われていた。
「へえ」
落ち着いた感じ。なかなかおもしろそう。
きょろきょろと見渡して、目に留まった窓際の席に座ることにした。
こつ、こつ。足音が小さく響いく。
目当ての席まで行くと、椅子を引いて、淡いピンクの座布団へ座った。
ふわふわのもちもちだった。なんだか得した気分。
荷物は濡れているから、傘と一緒に足元へポン。
机には、藍色のクロスに、真っ先に目を引いた紫陽花が、小さな花瓶に生けられている。
ぼんやりとした、赤みの強い紫色。一枚だけついた葉っぱがかわいい。
すぐ右にある窓は、昔の家にある木の格子でできたやつで、ぶ厚いガラスのせいか、景色がゆらゆらとゆれているようだった。
「失礼いたします。お冷とメニューをお持ちいたしました」
「あ、はい」
音もなく置かれたガラスのコップ。
黒いメニューの表紙は、紫陽花の花が浮かび上がっていた。
「本日のおすすめは『アジサイパフェ』です。さっぱりとした甘さで美味しいですよ。 デザートは後ろの方にあります」
言われてメニューを開いてみれば、小さな写真が貼ってあった。
「へあー。おいしそう」
色とりどりの四角いゼリーのようなものが入ったパフェ。
名前の下には、簡単な紹介が書いてある。
他にも、『抹茶パフェ』とか、『アジサイあんみつ』だとか。
どうしよう。迷う。
「お決まりになりましたら、お呼びください」
「はい。ありがとうございます」
丁寧に接客されたものだから、つい深々と頭を下げれば、お兄さんはくすりと笑ったようだった。
ちょっと恥ずかしくなって、メニューに顔を伏せる。
失礼いたします。そう言ってカウンターに戻るお兄さんをちらと見やって、とりあえず。メニューを選ぶのに専念することにした。
「あの」
「はい」
何分経っただろうか。ようやく顔を上げた私に、すぐに気づいたお兄さんは、近くまで来るとすっと膝をついた。
「ええと、さっきの『アジサイパフェ』と。あとミルクティーを一つ。以上で」
「はい。『アジサイパフェ』とミルクティーですね。紅茶はホットでよろしいですか?」
「はい」
「かしこまりました。ご注文を確認させていただきます」
「はい」
頷くと、お兄さんは私の目を見ながら、注文を復唱してくれた。
「以上でよろしいでしょうか?」
「大丈夫です。お願いします」
再び深々と頭を下げると、つられたのか、向こうもにこにことして頭を下げる。
「それでは、腕によりをかけて作りますので、暫くお待ちください」
「はいっ」
茶目っ気を含んだ声で言われると、なんだか嬉しかった。
微かな足音を立てながらカウンターに戻るお兄さんを目で追って、それからふと、本でも持ってくればよかったなと思う。
でも、ここにくるのは予定になかったし。
ついっと目線を窓の外に向けると、庭の木の葉が雨に打たれて、小さく跳ねるように揺れていた。
思わずぼーっと見てしまう。
耳は自然と音を拾い出す。
とんとととん、屋根を叩く雨の音。
カタカタ、風にゆすられる窓の音。
しゅうしゅうと、お湯の沸き始める音。一緒に聞こえるガラスや金属の擦れる音は、きっと私の食べるパフェを作ってたりするんだろう。
頬杖を付く。
今日の夕飯とか、次の休みなにしよ。とか。
パフェ、おいしかったらまたこよう。とか。
でも友だち連中には教えないでおこう。とか。
お兄さんけっこうかっこういいし。とかとか。
「失礼いたします。お待たせいたしました『アジサイパフェ』とホットのミルクティーでございます」
「は、はい」
ぼーっとしすぎて、全く気がつかなかった。
別にそれを笑ったわけではないだろうけど、お兄さんはにこにことしながらパフェを置く。
きらきらしていて、きれいだった。
パフェグラスには、いろんな色のゼリーが入っていて、上のほうには生クリームとジャムのかかったアイス。その横に、紫陽花を象ったクッキーと、飾り切りされたりんごがこぼれ落ちそうな角度でささっている。
「すごい! かわいい!」
予想以上のボリュームと色彩に、思わず声を上げれば、お兄さんは嬉しそうに笑って紅茶のポットとカップ。それからミルクピッチャーと砂糖つぼを置いていく。
「ごゆっくりどうぞ」
「はい、ありがとうございます。いただきます」
嬉しくて思わずにやけてしまった顔で言えば、お兄さんもにっこりと笑ってくれた。
一気に上がったテンションそのままに、鞄から携帯を取り出して、一枚パシャリ。
それから、紅茶をついで。ミルクを入れて。小さな花形に固められた砂糖を一つ。茶色のははじめてみるかも。
まずは紅茶。ふーふーと息を吹きかけて、それから一口。
「あつっ。あ、うまー」
ちょっと火傷しかけたけど、大丈夫。やわらかな味のミルクティーは、やっぱりペットボトルのものとは少し違う感じ。
ほうっと息をついて、今度はパフェにとりかかる。
長いスプーンで、真っ先にアイスをつついた。
ブルーベリーの、甘さひかえめなジャムは、ほどよい酸味があっておいしい。
後味もさっぱりだ。
次に、こぼれ落ちそうなりんごをしゃくしゃくとやっつけて。
どんどん夢中になってスプーンを動かす。
ただただ無言でパフェをついばむ中、かちゃかちゃと食器を洗う音が響く。
雨もまだやむ気配はなく、ぱたたたっとリズミカルに屋根を打ち鳴らしている。
外から切り離されたようだ、と思う。映画のように。夢のように。
どこかぼんやりと、ぶ厚いガラスにはばまれて、景色がゆれている。
なんだか感傷的になるのは、見慣れない窓のせいだろうか。
パフェはゼリーまでたどり着いた。
ゼリーが少しもちもちしている。それに、色ごとに違う味。
みかんっぽいのと、ももと、なんだろうか。ぶどうかな。
なんだかわくわくする。おいしい。
そのまま最後の一口まで食べきって、スプーンをグラスに入れたままにしてしまう。
「ふいー」
椅子の背もたれにもたれかかって、ぽんぽんとお腹をさする。
思った以上に量があって、ちょっと苦しい。
どことはなしに上を見上げて、落ち着くまで少し待つ。
雨は相変わらず楽しげに音を立てているし、甘いものでお腹いっぱいだし。なんだか幸せな気分。
思わずほほがゆるんだ。おっと。口元をかくすように、紅茶に手をのばす。
ちょっと冷たい。そういえば全然飲んでいなかった。
一気に飲み干してしまって、ポットから新しく紅茶を注ぐ。
もう一杯分くらいはあるだろうか。
ポットの中に入っていた紅茶は、まだ十分にあたたかい。
二杯目もミルクたっぷりに砂糖を入れた。
「うまー」
ほにゃりと笑う。しまった、逆効果。
ああ、でもしかたないか。おいしいし。
ぱた、ぱた。ゆっくりとした時間が流れる。
雨足もだいぶ遠のいたし、外を見ると、もうずいぶんと暗い。
途中からいじっていた携帯の充電も、残りわずかだ。
「さて、と」
くったりとしている足元の鞄をつかまえて、ゆっくり立ち上がる。
ずっと座っていたせいか、ちょっとふらつく。歳とか、まさかそんな。
スカートを払って、軽く机の周りを確認する。
あ、傘忘れてた。
傘を拾って、カウンターにあるレジのところへと向かう。
伝票なかったけど、他にお客さんいないし、多分わかるよね。
近づくと、カウンターの向こうでは、店員のお兄さんが椅子に座って本を読んでいた。
こっちには気づいてないみたい。
少しだけ近づいてみる。本に集中しているのか、手元のそれに視線を落としたままだ。
横の髪が落ちて、耳が見えている。
あ、ピアス。透明なやつしてる。
いつ気づくかなーなんて思いながらも、やっぱり声をかけてみる。
「すみません」
「あっ、はい!」
声をかけた瞬間にびくっと肩が跳ねて、慌てて立ち上がるお兄さん。
「お会計、お願いします」
「はい。すみません」
あんまり小さくなるものだから、思わずくすっと笑いがこぼれると、お兄さんはごまかすように曖昧に笑った。
それから、早足でレジに立ったお兄さんは、横に置いてあったらしい伝票を見て、レジを打つ。
「870円のお召し上がりです」
「はい」
「はい。ちょうどおあずかりします」
『お召し上がり』ってはじめて言われた。丁寧な感じっていうか、なんかくすぐったい。
ちっちゃなレシートを受け取って、財布にしまっておく。
財布を鞄に入れると、見計らっていたのか、あの、とお兄さんが声をかけてきた。
「よろしければ、お土産に。どうぞ」
「あ、こんぺいとう」
そっと手渡してくれたのは、小さな透明の袋に入った、色とりどりの砂糖菓子だった。
小さくて、とげとげしてる。実はひそかに好きなお菓子の一つ。
「ありがとうございます」
嬉しくなってお礼を言えば、お兄さんも笑顔で答えてくれた。
「こちらこそ、こんな雨の日にご来店いただき、ありがとうございます」
「いえいえ。おいしかったです。また来ます」
「あ、ありがとうございます。お待ちしております」
にこにこ、にこにこ。お互い笑顔で、なんだかおもしろい。
ほんわかした気分になって、帰るのが名残惜しい。
でも、これ以上は暗すぎて危ないから。
「ごちそうさまでした」
「はい」
出入り口に向かうと、お兄さんは早足に私を追い越して、先に扉を開けてくれた。
紳士だ。紳士だよこの人。え、すごい。ホストなドラマみたい。
「お気をつけてお帰りください」
「はいっ、ありがとうございました」
浮き足立ってしまうのもしかたないよね。
外は薄暗いけど、傘は必要なさそう。
最後に会釈して、扉をくぐる。
帰りとは逆に、紫陽花の横をすり抜けて、ぽつり、ぽつりと置いてある看板をたどって歩く。
周りに人はいないから、傘を振り振り、水たまりは避けて通る。
静かだった路地は、人が帰ってきたのか。暗かった家々に明かりがともり、料理をつくる音と、美味しそうな匂いが漂ってくる。
どこかの家では、なにをやってしまったのやら、子どもをしかる声と泣き声が聞こえた。
最後の看板を曲がってしまうと、そこはいつもの表通りだ。
だいぶ日が落ちたせいか、人も車も、ほとんどいない。
急いで帰らないと。自然と足が速くなる。
「あー。お腹いっぱい」
夕飯食べなくてもいいかもしれない。でも、ちょっとは食べたい。
まあ、ご飯が出来るまで時間があるから、それまでにはお腹も減るだろう。
次はいつ行こうかな。
今度は本も持っていこう。
そんなことを考えながら、紫陽花のように朱から薄い青に染まる町を歩くのだった。