先輩の卒業と私のこれから
──卒業。
今まで歩いてきた道に標識を立て、また新たな道を選ぶこと。
過去に別れを告げて、未来の出会いに期待を抱く。
それはきっと素敵なことで、きっと嬉しいことで、きっと……寂しいことだ。
今日、ずっと憧れていた先輩が卒業する。
そんなのは前からわかっていた。わかりきっていた。なのに、
「先輩……」
私は何をすればいいのかわからなかった。
卒業式も終わり、卒業生たちは校門の近くで写真を撮り合っている。
私はただ遠くから見ているだけ。
みんなと同じように涙を流すこともできずに、空っぽの教室からそっと外を覗くだけ。
先輩を探すこともしないで、ただ無意味に……。
気づけば目で追っていた。知らないうちに憧れを抱いていた。
ろくに会話もしたことがないのに、もしかしたら私のことなんて知らないと言われてしまうかもしれないのに、先輩のことを考えるばかりで……。
日に日に想いは強くなって、いつしかそれは恋愛感情に変わっていたなんて……信じたくなかった。
同じ学校の先輩で、しかも同じ女なのに……。
先輩は今日、この学校を卒業する。
つまり今日一日、この想いを胸に抑え付けておけばいいんだ。そうすれば、先輩に想いを伝えることなく済む。
そして──もう先輩とは会えなくなる。
「これで……いいのよね」
「何がこれでいいの?」
──女性の声。
とっさに後ろを振り向く。
「先……輩……?」
私の恋した人が、そこに立っていた。
「キミはこんなところで何をしてるのかな?」
「え……あ、いや……」
頭が……真っ白。
何も、浮かんで来ない。
言葉がつっかえて何も……。
答えられずにいると先輩は私の側までやってきて、
「キミ、二年生だよね。空でも見ながらたそがれてたのかな。邪魔しちゃったならごめんね」
「い、いえ! そんなんじゃ……!」
どうしよう。憧れの先輩がこんなに近くに……。
「ここ、キミの教室だったのかな? 懐かしいなー。あ、実は私も二年三組だったんだ。ほらここ。窓際の壁のこの傷、実は私の友達が付けちゃったんだよね。先生にめちゃくちゃ怒られてさ。あー、本当に懐かしいや」
先輩は物懐かしそうに目を細めて、壁に付けられた引っ掻き傷を撫でた。
私の知らない顔だ。
もっと、知りたい。先輩のことを、もっと。
「あ、あの……先輩は、そ、その……」
「うん? なにかな」
「あ、えっと……」
喉の奥で引っかかったまま言葉が出てこない。何を発言しようとしたのか、それすらもあやふやで。ごくりと、唾を飲み込んで息を吐く。ゆっくり口を開き、
「そ、せ、先輩は……卒業、ですよね……。その、おめ、おめでとうございます……!」
噛んだ。ていうか相当どもった。完全に気持ち悪い人になってる。
「お、ありがとー。そうなんだよねー、卒業。……実を言うとさ、まだ実感ないんだよね。今日でこの場所ともお別れかーなんて。あんなに嫌々通った通学路も、もう通れないと思うとなんだかやっぱり寂しいよね。友達ともだいぶ離れ離れになっちゃうし」
「そういうものですか……」
「そーいうものだよ。キミはまだもう一年通うんだから、今はわからなくても大丈夫。卒業するときになったら自然とわかるようになるよ」
先輩は……なんていうか大人だった。私と歳がひとつしか変わらないはずなのに、私よりも何倍も大人だと感じた。何かを悟ったような瞳が、そう感じさせたのかもしれない。
「先輩は……卒業したらどこへ……?」
「ん? あ、大学? 県外の女子大に受かったよ。来月からはそこに通うことになるね」
「お、おめでとうございますっ」
「ふふっ、ありがと。でも、何があるわけでもないんだよね。目標も目的も、わかんない。ただなんとなく選んだだけでさ。キミは? なにか夢とかある?」
「わ、私は……」
夢なんてない。高校だって毎日をだらだらと過ごしているだけだ。将来のことを真剣に考えたことなんて、なかった。
ただ、夢というより願望が、今目の前にいる先輩とどうにかなってしまいたいという願いが。そんな不純な願望が心の中に蔓延している。
「私も……特に」
「だよね。いきなり道を決めろなんて言われても困っちゃうよね。私も三年になってから最初に進路を聞かれたとき、キミと同じだったよ。やりたいことがないなら大学へ行っておけ、なんて担任に言われてさ。大学行ったからってやりたいことが見つかるわけじゃないのに。それでもやっぱり自分自身の一生なわけだしさ、後悔とかはしたくないよね。あとで大学へ入っておけばー、なんて思うくらいなら進学したほうがいいのかもって。まあ、安パイだよね」
先輩は私を見てはにかむ。
なんとなく、本当になんとなくだけれど、先輩に少しだけ親近感を覚えた。なんでも出来て、カッコ良くて、美人で、優等生で、私とはまるっきり正反対だと思っていたけれど、こういう考え方はどこか似ているのかもしれない。私も、先輩と同じだった。けれど先輩はきちんと道を決めたんだ。どっちへ進んだらいいのかわからないなりに、考えて、選んで、決めたんだ。
「私も……先輩と一緒です。何をしたらいいかわからなくて、今もただ漠然と生きてます。でも、目標はあります! 先輩は優しくて、かっこ良くて、美人で……私の憧れなんです。先輩みたいになりたくて、ずっと見てました……」
うわ、何言ってるんだろ……。
気持ち悪い。引かれちゃったかな。
先輩の顔を直視できない。窓の外を見てはぐらかす。すると、
「なんかそこまで言われると照れちゃうなー。でもありがと。それって私が目標ってことだよね。ちょー低いよ? ハードル」
先輩は腰の下辺りに手のひらを浮かせてジェスチャーしてみせる。
「低くないです! こーんなに高いですってば」
私も負けじと背伸びをして限界まで手のひらを高々と浮かせてみる。
それを見た先輩は噴き出した。
「ぷっ! なにそれ、かわいい!」
「笑わないでくださいよー」
つられて私も笑う。
先輩と一緒に笑える幸せ。
そして、絶対に忘れない。
先輩がかわいいって言ってくれたこと。
ひとしきり笑った後、先輩は黒板横の時計に気づき、
「おっと、もうこんな時間だ。じゃあ、私はそろそろ行くよ。長居してごめんね」
「あっ……」
離れていく。私のもとから先輩が離れていく。一メートル、二メートル、間も無く教室から出て行ってしまう。
後姿が……、ダメ、行かないで。
伸ばした手が空気を掻く。音もない。
これが最後になってしまう。きっと、もう二度と会えない。そんな気がする。
伝えるべきか。
こんな不純な気持ちを。
今、伝えるべきなのか。
震えていた。どうしたらいいのかわからない。
もしも言ったところでどうにかなるものでもない。だけど、
『それでもやっぱり自分自身の一生なわけだしさ、後悔とかはしたくないよね』
先ほどの言葉が脳裏をよぎる。
先輩……。
伝えたい。
後悔する。このまま終わったら絶対に後悔する。
それだけは……嫌だ……!
「先輩!」
教室から出る直前のところで先輩は足を止めた。
「ん? なにかな?」
振り向いて、目をまん丸とさせていた。
言わなくちゃ。伝えなくちゃ。
後悔だけは……したくない。
「あ、あの……、その、わ、わた……」
まただ。言葉が出てこない。
たった二文字なのに。『好き』の二文字なのに。前の言葉がつっかえて出てこない。
「どうしたの? ゆっくりでいいから言ってごらん」
「先輩……」
「ちゃんと聞いてるよ」
「あの……」
目が合う。視線が絡み合って、抜け出せない。
ごくり。渇ききった喉に唾が通る。ヒリヒリと痛かった。
震える手を握りしめ、私は呼吸を整えた。
きっと緊張している。全校生徒の前でスピーチをするよりも緊張している。
震えも止まらなくて、口の中はカラカラに渇いて、心臓がうるさくて、何が何だかわからない。
今必要なのは勇気よりも度胸だ。
たった二文字を伝えるために、振り絞った勇気を度胸に変えて、私は、
「ずっと……、好きでした。先輩のことが好きです。ただ伝えたくて、迷惑かもしれないですけど、今日が最後だから……ごめんなさい、これだけ言わせてください。大好きです。もっと、一緒に居たかったです……」
言い終わった。ずいぶんと早口だったかもしれない。なんて言ったか覚えていない。ちゃんと好きと言えただろうか。聞いてもらえただろうか。
先輩は驚いたような顔をしていた。
でも、すぐにいつもの優しい顔に戻って、
「そっか……。嬉しいよ。ありがと。そうだね、せっかくこうしてお話できたんだし、このままお別れはちょっと残念だね」
「先輩……」
「追ってくる気はある?」
「へ?」
「私を追ってきてくれるなら、また一緒に居られると思うよ。私は春から百合園女子大学へ行くから、もしもキミが本当に私と一緒に居たいと言ってくれるなら追ってきて欲しい。もちろん、無理強いはしないよ。キミが行きたいところへ行くのが一番だからね」
「行きます! 必ず行きます! 私はバカで不真面目だからテストの点も悪いけど、今からいっぱい勉強して必ず受かってみせます!」
「そっか。じゃあ、さっきの返事は次に会うときで構わないかな?」
「はい!」
「いい返事だね」
先輩は優しく微笑み、
「それじゃ、またね」
軽く手を振って教室から出て行った。
またね、か。
よかった。さよならじゃないんだ。
またね……。
きゅっと、胸が締まった。
こんな私でも目標ができたんだ。
歩く道がようやく決まった。
先輩が立ててくれた標識。だけど、ただ後を辿るだけじゃダメなんだ。
先輩は私よりもずっと先を歩いている。だからこそ、追いつきたい。先輩の隣を、並んで歩けるように。先輩の歩んだ道の隣に、私の道を作っていきたい。
それが私の目標。
だから今は、先輩と同じ場所へ行けるように努力するんだ。
来年の春、桜の咲く頃にまた先輩と再会できるように。
『またね』の言葉を大切に抱きしめて──。
《おわり》