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六段目の名前

掲載日:2026/10/29

子どものころ、「入ってはいけない場所」が誰にでもひとつはあったのではないでしょうか。

祖母の家には、子どものころから入ってはいけない部屋があった。


二階のいちばん奥にある、北向きの小さな部屋だった。

祖母は理由を説明しなかった。ただ、私が階段を上がろうとすると、台所から声をかけた。


「政志、そっちはだめだよ」


叱るような口調ではなかった。何かを怖がりながら、それでも私を守ろうとしているような声だった。


祖母が亡くなったあと、誰も住まなくなった家を片づける役目が、なぜか私に回ってきた。

親類たちは「大した物はないから、適当に処分してくれ」と言い、鍵を押しつけると、

それぞれの暮らしに戻っていった。


築七十年を超える木造家屋は、坂の途中に取り残されたように建っていた。

畳は波打ち、柱はわずかに傾いている。押し入れを開けるたび、古い木と乾いた紙の匂いがした。


片づけの合間に考え事をしていると、右手の親指で人差し指をこすっていることがある。

昔からの癖だった。


父が死んで二十年になる。最後に何を話したのか、どうしても思い出せない。

ふだんは忘れている。ただ、誰もいない家にひとりでいると、それが小骨のように喉に引っかかった。


二階の奥の部屋に入ったのは、葬儀から三日目のことだった。


窓には薄く埃が積もり、障子の桟が畳に細長い影を落としていた。

家具はほとんどない。部屋の中央に、黒い箪笥がひとつ置かれていた。


高さは私の胸ほど。桐でも欅でもない、見たことのない木でできていた。

飾り気はなく、表面にも艶がない。


引き出しは七段あった。


一番下だけが、わずかに前へずれていた。


閉め忘れたのだろうと思い、押し戻した。ところが指を離すと、

引き出しは音もなく、また少しだけ出てきた。


上から順に開けてみた。どの段も空で、底に薄く埃が積もっている。


六段目を開けたとき、奥行きに違和感を覚えた。見た目には三十センチほどしかない。

だが、懐中電灯を向けても奥の板が見えなかった。


手を入れた。指先は何にも触れない。肘まで差し込み、さらに腕を伸ばした。

肩が縁に当たっても、底には届かない。


腕を抜こうとしたとき、すぐ向こうで、誰かがため息をついた。


私は引き出しを閉めた。閉めたあとも、しばらく両手で押さえていた。


その夜は一階で寝た。家は冷え込み、夜中になると、どこかの柱が乾いた音を立てた。

そのたびに目が覚めた。


それでも翌朝、私はまた二階へ上がった。子どものころ、あれほど止められた部屋だった。

理由を聞かないまま祖母を見送ったことが、胸に残っていた。


六段目を開けると、指先に紙の感触があった。


引き出してみると、一枚の白黒写真だった。若い女が写っていた。

和服姿で、麦わら帽子を両手に持っている。背景には、見覚えのない川と木造の橋があった。


裏には鉛筆で、名前だけが書かれていた。


――ミネ。


親類に聞いても、誰も知らなかった。祖母のアルバムにも、同じ顔は見当たらない。

私は写真を机に置いたまま、調べ始めた。


市役所の古い記録には、ミネという名の女が何人もいた。図書館に通い、

新聞の縮刷版を端からめくった。指先が紙の粉で白くなったころ、三行ほどの記事に行き当たった。

町に住んでいた二十歳過ぎの娘が行方不明になり、家族が警察に届け出た。続報はなかった。


その夜、私は記事をノートに書き写した。


翌朝、写真は消えていた。かわりに、錆びた懐中時計が入っていた。


時計は、昭和初期に町で時計店を営んでいた男のものらしかった。

その次に出た櫛は、川沿いの集落で幼くして亡くなった娘のもの。認識票には、

戦地から戻らなかった兵士の名と一致する文字があった。

持ち主が見つかり、私が書き留めると、品は翌朝には消えた。


名前のない手紙は、消えなかった。


封は切られていたが、宛名も差出人もない。紙質と筆跡、文面に出てくる地名を頼りに、

三週間、郷土史館の古い名簿と突き合わせた。何も出なかった。手紙は机の上に残り、

その横に、ひびの入った小さな鏡が並んだ。片方だけの手袋も増えた。


やがて私は、六段目から物が出てくることよりも、そこにあった物の持ち主が、

いつ、どこで、どうやっていなくなったのかを考えるようになっていた。


ある晩、品を調べ終えて引き出しを閉めようとしたとき、奥から人の声が聞こえた。


何人もの人が、遠くの部屋で話しているようなざわめきだった。その中に、女の笑い声が混じっていた。


私は引き出しを閉めた。


祖母は、これを知っていたのだろうか。


仏壇の下の引き出しを探すと、家計簿や住所録に混じって、古い大学ノートが一冊出てきた。

表紙は茶色く変色し、端が湿気で波打っていた。最初のページには、昭和二十八年の日付があった。


祖母の字だった。


『六段目に写真が出た。知らない女だ。裏にミネとある』


『役場で調べた。確かにいた人らしい』


『写真は朝になると消えた。代わりに時計が出た』


そこから先は、短い記録が続いていた。


『また出た』


『調べた』


『消えた』


同じ言葉が、何度も繰り返されていた。


ある日の記録で、手が止まった。


『あの人たちは、向こうにいるのだろうか』


次のページには、筆圧の強い文字があった。


『祖父は箪笥を燃やそうとした。火はついたが、引き出しの中だけ燃えなかった』


『処分しても戻ってくる』


さらに数ページ進むと、文字が乱れていた。


『向こうから声がする。知っている声だった』


『返事をしてはいけない』


最後の数ページは、破り取られていた。


私はノートを閉じた。


そのとき、二階の奥から引き出しの開く音がした。


足が重かった。それでも階段を上がった。


六段目が開いていた。奥は、ただ暗いのではなかった。黒い水の底をのぞいているようだった。

闇の向こうに、小さな灯りが揺れていた。


ひとつではない。細い道に沿っていくつも並び、その先に屋根のある建物が見えた。

窓から明かりが漏れ、煙突から煙が上がっていた。


町があった。


子供の声がした。食器の触れ合う音も聞こえた。遠くでは祭囃子のような音楽が鳴っている。

そこでは、人々が暮らしていた。


ふいに、灯りの向こうを女が横切った。和服姿で、麦わら帽子を手に持っている。


ミネだった。


女が立ち止まり、こちらを向いた。唇が動いた。何かを言っている。聞こえない。

もう少し顔を近づけようとしたとき、背後で畳が鳴った。


部屋の入口に、祖母が立っていた。


白い割烹着を着ていた。台所に立っていたころと同じ姿だった。声が出なかった。

心臓の音だけが、耳の奥で鳴っていた。


祖母は私を見た。それから六段目へ目を移し、首を横に振った。


幼いころ、階段の前で見たのと同じ顔だった。


祖母の手が肩に触れた。冷たかった。その手は、私を引き出しから遠ざけようと、力を込めた。


私は目を閉じた。


気がつくと、畳の上に倒れていた。引き出しは閉まっていた。部屋には誰もいなかった。


翌朝、いちばん下の引き出しが少し開いていた。中に封筒が一通入っていて、表に私の名前があった。


――政志へ。


便箋は一枚だけだった。


『名前を探しておくれ。それだけでいい』


『後を頼むよ』


祖母は、あの箪笥を恐れていた。それでも何十年ものあいだ、出てくる品の持ち主を調べ続けたのだ。

誰も知らなくなった人の名前を探し、その人が確かに生きていたことを残すために。


私は、あの人たちの名前を探そうと思った。帰れなくても、そこにいたことだけは、

こちらに残しておきたかった。


それから私は、月に一度、箪笥を開けるようになった。


写真が出れば、写っている人の名前を調べた。時計が出れば、刻まれた文字を読み取った。

調べたことはノートに書き留めた。名前が分かり、記録を残すと、品物は消えた。

そのたびに、六段目の奥から人の声が聞こえた。笑い声のこともあれば、

泣き声のように聞こえることもあった。


やがて祖母の家は取り壊されることになった。私は箪笥を古道具屋に引き取らせたが、

翌朝には、私の家の部屋の隅に戻っていた。何度捨てても同じだった。

私は諦めて、そこに置いた。


何年かが過ぎた。


先月、六段目から小さな革靴が出てきた。泥が乾いてこびりつき、

靴紐は片方だけ切れている。中に折り畳まれた紙が入っていて、

開くと、鉛筆で知らない名前が書かれていた。まだ、何も見つかっていない。


靴が出た夜、灯りの向こうで、子供がこちらをのぞいていた。

その後ろに、年老いた男が立っていた。男は私を見ると、

帽子を取った。どこかで見た顔のような気がした。けれど、思い出せなかった。


そして昨夜、六段目を開けると、遠くの町にひとつだけ灯りがともっていた。


その下に、白髪の男が立っていた。


男は、考え事をするように、右手の親指で人差し指をこすっていた。


私の癖だった。


父は、私が二十歳のときに死んだ。


男の唇が動いた。


「政志」


父の声だった。


祖母のノートの一行がよみがえった。――知っている声だった。

――返事をしてはいけない。そして、破り取られた最後の数ページが、頭に浮かんだ。


私は返事をしなかった。かわりにノートを開き、父の名前を書いた。


生年月日。亡くなった日。働いていた会社。好きだった煙草。

休日にいつも磨いていた革靴。覚えていることを、ひとつずつ書いた。


最後に話した日のことも書こうとしたが、思い出せなかった。

出かける前に交わした、何でもない言葉だったのかもしれない。

鉛筆を握ったまま、長く考えた。それでも、思い出せなかった。


覚えていることを書き終えると、男は少し笑った。それから背を向け、

灯りの中へ歩いていき、やがて見えなくなった。


引き出しの中には、何も残っていなかった。


今朝、箪笥の前に立った。六段目は閉まっていた。


窓の外を電車が通り過ぎた。父が亡くなった日も、こんな音がしていたのだろうか。

それも、思い出せなかった。


私はノートの最後に、一行だけ書き足した。


――父は、考え事をするとき、親指で人差し指をこすっていた。


書き終えて鉛筆を置こうとしたとき、右手の親指が、人差し指をこすっているのに気づいた。


部屋の隅で、箪笥が小さく鳴った。六段目が、ほんの少しだけ開いていた。


机の上には、まだ持ち主の分からない革靴が置いてある。


向こうから声がしても、返事はしない。


私はノートを開き、次に調べる名前を、そこに書いた。


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