六段目の名前
子どものころ、「入ってはいけない場所」が誰にでもひとつはあったのではないでしょうか。
祖母の家には、子どものころから入ってはいけない部屋があった。
二階のいちばん奥にある、北向きの小さな部屋だった。
祖母は理由を説明しなかった。ただ、私が階段を上がろうとすると、台所から声をかけた。
「政志、そっちはだめだよ」
叱るような口調ではなかった。何かを怖がりながら、それでも私を守ろうとしているような声だった。
祖母が亡くなったあと、誰も住まなくなった家を片づける役目が、なぜか私に回ってきた。
親類たちは「大した物はないから、適当に処分してくれ」と言い、鍵を押しつけると、
それぞれの暮らしに戻っていった。
築七十年を超える木造家屋は、坂の途中に取り残されたように建っていた。
畳は波打ち、柱はわずかに傾いている。押し入れを開けるたび、古い木と乾いた紙の匂いがした。
片づけの合間に考え事をしていると、右手の親指で人差し指をこすっていることがある。
昔からの癖だった。
父が死んで二十年になる。最後に何を話したのか、どうしても思い出せない。
ふだんは忘れている。ただ、誰もいない家にひとりでいると、それが小骨のように喉に引っかかった。
二階の奥の部屋に入ったのは、葬儀から三日目のことだった。
窓には薄く埃が積もり、障子の桟が畳に細長い影を落としていた。
家具はほとんどない。部屋の中央に、黒い箪笥がひとつ置かれていた。
高さは私の胸ほど。桐でも欅でもない、見たことのない木でできていた。
飾り気はなく、表面にも艶がない。
引き出しは七段あった。
一番下だけが、わずかに前へずれていた。
閉め忘れたのだろうと思い、押し戻した。ところが指を離すと、
引き出しは音もなく、また少しだけ出てきた。
上から順に開けてみた。どの段も空で、底に薄く埃が積もっている。
六段目を開けたとき、奥行きに違和感を覚えた。見た目には三十センチほどしかない。
だが、懐中電灯を向けても奥の板が見えなかった。
手を入れた。指先は何にも触れない。肘まで差し込み、さらに腕を伸ばした。
肩が縁に当たっても、底には届かない。
腕を抜こうとしたとき、すぐ向こうで、誰かがため息をついた。
私は引き出しを閉めた。閉めたあとも、しばらく両手で押さえていた。
その夜は一階で寝た。家は冷え込み、夜中になると、どこかの柱が乾いた音を立てた。
そのたびに目が覚めた。
それでも翌朝、私はまた二階へ上がった。子どものころ、あれほど止められた部屋だった。
理由を聞かないまま祖母を見送ったことが、胸に残っていた。
六段目を開けると、指先に紙の感触があった。
引き出してみると、一枚の白黒写真だった。若い女が写っていた。
和服姿で、麦わら帽子を両手に持っている。背景には、見覚えのない川と木造の橋があった。
裏には鉛筆で、名前だけが書かれていた。
――ミネ。
親類に聞いても、誰も知らなかった。祖母のアルバムにも、同じ顔は見当たらない。
私は写真を机に置いたまま、調べ始めた。
市役所の古い記録には、ミネという名の女が何人もいた。図書館に通い、
新聞の縮刷版を端からめくった。指先が紙の粉で白くなったころ、三行ほどの記事に行き当たった。
町に住んでいた二十歳過ぎの娘が行方不明になり、家族が警察に届け出た。続報はなかった。
その夜、私は記事をノートに書き写した。
翌朝、写真は消えていた。かわりに、錆びた懐中時計が入っていた。
時計は、昭和初期に町で時計店を営んでいた男のものらしかった。
その次に出た櫛は、川沿いの集落で幼くして亡くなった娘のもの。認識票には、
戦地から戻らなかった兵士の名と一致する文字があった。
持ち主が見つかり、私が書き留めると、品は翌朝には消えた。
名前のない手紙は、消えなかった。
封は切られていたが、宛名も差出人もない。紙質と筆跡、文面に出てくる地名を頼りに、
三週間、郷土史館の古い名簿と突き合わせた。何も出なかった。手紙は机の上に残り、
その横に、ひびの入った小さな鏡が並んだ。片方だけの手袋も増えた。
やがて私は、六段目から物が出てくることよりも、そこにあった物の持ち主が、
いつ、どこで、どうやっていなくなったのかを考えるようになっていた。
ある晩、品を調べ終えて引き出しを閉めようとしたとき、奥から人の声が聞こえた。
何人もの人が、遠くの部屋で話しているようなざわめきだった。その中に、女の笑い声が混じっていた。
私は引き出しを閉めた。
祖母は、これを知っていたのだろうか。
仏壇の下の引き出しを探すと、家計簿や住所録に混じって、古い大学ノートが一冊出てきた。
表紙は茶色く変色し、端が湿気で波打っていた。最初のページには、昭和二十八年の日付があった。
祖母の字だった。
『六段目に写真が出た。知らない女だ。裏にミネとある』
『役場で調べた。確かにいた人らしい』
『写真は朝になると消えた。代わりに時計が出た』
そこから先は、短い記録が続いていた。
『また出た』
『調べた』
『消えた』
同じ言葉が、何度も繰り返されていた。
ある日の記録で、手が止まった。
『あの人たちは、向こうにいるのだろうか』
次のページには、筆圧の強い文字があった。
『祖父は箪笥を燃やそうとした。火はついたが、引き出しの中だけ燃えなかった』
『処分しても戻ってくる』
さらに数ページ進むと、文字が乱れていた。
『向こうから声がする。知っている声だった』
『返事をしてはいけない』
最後の数ページは、破り取られていた。
私はノートを閉じた。
そのとき、二階の奥から引き出しの開く音がした。
足が重かった。それでも階段を上がった。
六段目が開いていた。奥は、ただ暗いのではなかった。黒い水の底をのぞいているようだった。
闇の向こうに、小さな灯りが揺れていた。
ひとつではない。細い道に沿っていくつも並び、その先に屋根のある建物が見えた。
窓から明かりが漏れ、煙突から煙が上がっていた。
町があった。
子供の声がした。食器の触れ合う音も聞こえた。遠くでは祭囃子のような音楽が鳴っている。
そこでは、人々が暮らしていた。
ふいに、灯りの向こうを女が横切った。和服姿で、麦わら帽子を手に持っている。
ミネだった。
女が立ち止まり、こちらを向いた。唇が動いた。何かを言っている。聞こえない。
もう少し顔を近づけようとしたとき、背後で畳が鳴った。
部屋の入口に、祖母が立っていた。
白い割烹着を着ていた。台所に立っていたころと同じ姿だった。声が出なかった。
心臓の音だけが、耳の奥で鳴っていた。
祖母は私を見た。それから六段目へ目を移し、首を横に振った。
幼いころ、階段の前で見たのと同じ顔だった。
祖母の手が肩に触れた。冷たかった。その手は、私を引き出しから遠ざけようと、力を込めた。
私は目を閉じた。
気がつくと、畳の上に倒れていた。引き出しは閉まっていた。部屋には誰もいなかった。
翌朝、いちばん下の引き出しが少し開いていた。中に封筒が一通入っていて、表に私の名前があった。
――政志へ。
便箋は一枚だけだった。
『名前を探しておくれ。それだけでいい』
『後を頼むよ』
祖母は、あの箪笥を恐れていた。それでも何十年ものあいだ、出てくる品の持ち主を調べ続けたのだ。
誰も知らなくなった人の名前を探し、その人が確かに生きていたことを残すために。
私は、あの人たちの名前を探そうと思った。帰れなくても、そこにいたことだけは、
こちらに残しておきたかった。
それから私は、月に一度、箪笥を開けるようになった。
写真が出れば、写っている人の名前を調べた。時計が出れば、刻まれた文字を読み取った。
調べたことはノートに書き留めた。名前が分かり、記録を残すと、品物は消えた。
そのたびに、六段目の奥から人の声が聞こえた。笑い声のこともあれば、
泣き声のように聞こえることもあった。
やがて祖母の家は取り壊されることになった。私は箪笥を古道具屋に引き取らせたが、
翌朝には、私の家の部屋の隅に戻っていた。何度捨てても同じだった。
私は諦めて、そこに置いた。
何年かが過ぎた。
先月、六段目から小さな革靴が出てきた。泥が乾いてこびりつき、
靴紐は片方だけ切れている。中に折り畳まれた紙が入っていて、
開くと、鉛筆で知らない名前が書かれていた。まだ、何も見つかっていない。
靴が出た夜、灯りの向こうで、子供がこちらをのぞいていた。
その後ろに、年老いた男が立っていた。男は私を見ると、
帽子を取った。どこかで見た顔のような気がした。けれど、思い出せなかった。
そして昨夜、六段目を開けると、遠くの町にひとつだけ灯りがともっていた。
その下に、白髪の男が立っていた。
男は、考え事をするように、右手の親指で人差し指をこすっていた。
私の癖だった。
父は、私が二十歳のときに死んだ。
男の唇が動いた。
「政志」
父の声だった。
祖母のノートの一行がよみがえった。――知っている声だった。
――返事をしてはいけない。そして、破り取られた最後の数ページが、頭に浮かんだ。
私は返事をしなかった。かわりにノートを開き、父の名前を書いた。
生年月日。亡くなった日。働いていた会社。好きだった煙草。
休日にいつも磨いていた革靴。覚えていることを、ひとつずつ書いた。
最後に話した日のことも書こうとしたが、思い出せなかった。
出かける前に交わした、何でもない言葉だったのかもしれない。
鉛筆を握ったまま、長く考えた。それでも、思い出せなかった。
覚えていることを書き終えると、男は少し笑った。それから背を向け、
灯りの中へ歩いていき、やがて見えなくなった。
引き出しの中には、何も残っていなかった。
今朝、箪笥の前に立った。六段目は閉まっていた。
窓の外を電車が通り過ぎた。父が亡くなった日も、こんな音がしていたのだろうか。
それも、思い出せなかった。
私はノートの最後に、一行だけ書き足した。
――父は、考え事をするとき、親指で人差し指をこすっていた。
書き終えて鉛筆を置こうとしたとき、右手の親指が、人差し指をこすっているのに気づいた。
部屋の隅で、箪笥が小さく鳴った。六段目が、ほんの少しだけ開いていた。
机の上には、まだ持ち主の分からない革靴が置いてある。
向こうから声がしても、返事はしない。
私はノートを開き、次に調べる名前を、そこに書いた。




