「不満があるなら言い返せば?」と言った夫へ――あなたの友人に、その通り言い返しました
「ブス! 元気か?」
夫・和彦の友人である卓也は、私と会うなり、へらへらと笑って言い放った。
「またぁ……」
私はいつものように愛想笑いを返した。けれど、怒りが沸いてくる。
「こんなブスが和彦みたいないいやつの奥さんなんて、間違ってるよな。今からでも遅くないぞ。取り換えろよ」
「そう言うなって。これでもいいところはあるんだから」
和彦はたしなめるような口ぶりだったが、本気で怒る気配はなく、顔には笑みが残っていた。
『これでも』その一言が、胸に刺さった。
「そうか、お前がそう言うなら。でも、別れたらすぐ教えろよ」
卓也は肩をすくめ、私の隣にいた三歳の娘・美香に目を向けた。
「こんなブスがお母さんなんて、かわいそうになあ。美香も母親に似てるからな」
美香は私と卓也を交互に見た。言われたことの意味をどこまで理解したのかはわからない。それでも、自分に向けられた悪意は感じ取ったのだろう。私の服の裾をつかみ、悲しそうにうつむいてしまった。
和彦は、それを見ても何も言わなかった。
――もう限界だ。
自分が我慢すれば済む。そう思って笑い流してきた。けれど、その我慢に娘まで付き合わせるつもりはなかった。夫のその場しのぎのへらへらした態度にも、とうに嫌気がさしていた。
頭の中に「離婚」の二文字がはっきりと浮かんだ。
在宅の仕事は順調で、娘と二人で暮らしていけるだけの収入はある。母にも以前から相談していて、必要なら手を貸すと言ってもらっていた。準備は、整いつつあった。
その夜、美香が眠ってから、私は和彦に切り出した。
「卓也さんとは、これからもずっと付き合っていくの?」
「うん? そりゃ、昔からの友達だし」
「私は、もう会いたくない。顔を合わせるたびにあんなことを言われるのは不愉快なの。美香にまで言うなんて、ひどいと思わない?」
和彦は呑気そうに首をかしげた。
「え、そんなに怒ってたの? いつも笑ってるから、気にしてないのかと思ってた」
「笑っていたら、何を言ってもいいの?」
「そういう意味じゃないけどさ。不満があるなら、その場で言い返せばよかったのに」
私は黙って夫の顔を見た。
「……言い返してもいいのね。私が何を言っても、あなたは文句を言わないのね?」
「いいよ、別に。卓也だって冗談のつもりなんだし、そんなに深刻に考えなくても」
「そう。わかった」
夫の言葉を、私はしっかりと心に刻んだ。
ある週末、和彦の友人たちが集まるバーベキュー大会に、私は美香を連れて参加した。
これを最後にするつもりだった。
集まったのは十五人ほど。青空の下、網の上では肉が音を立て、香ばしい匂いとあちこちからの笑い声が広がっていた。
私が焼けた肉を皿に移していると、卓也がビールの缶を片手に近づいてきた。
「やあ、ブス。今日は一段とブスぶりに磨きがかかってるね」
いつものように、周囲に聞こえるような大声だった。
私はトングを静かに置き、卓也の顔を真っ直ぐに見つめた。
「不細工に言われると、さすがに腹が立つなぁ」
静かだが凛とした声に、周囲の喧騒が一瞬止まった。
「……え?」
卓也は引きつった笑みを貼りつけたまま、私を見た。
「聞こえなかった? 不細工って言ったの。自覚あるでしょ? 鏡を見たらすぐにわかることだもの」
「は? お前、急に何――」
私は一歩踏み込み、周りの全員に聞こえるよう、はっきりと続けた。
「初めて会ったときから、お気の毒だなって思っていたのよ。パーツの出来も不完全だし、配置は壊滅的に失敗じゃない? よくその顔で、人の容姿をけなせるわね」
「おい、冗談でも言っていいことと悪いことが――」
「あるって言いたいの? 私のことをブスって言うのはよくて、あなたを不細工というのはいけないの」
卓也は口を開きかけたが、言葉が出てこなかった。
「今まで大人の対応で笑って流してあげていたら、調子に乗っちゃった? そこまで不細工なら冗談めかして言うのもねぇと思っていたから黙っていたの。夫の友達だから我慢していただけよ。よくまぁ、現実見てないっていうか、自分の不細工さを棚に上げて。もちろん、冗談よ。笑って流しなさいよ。いつも私がやってあげているでしょ? できないのかな? あなたって本当に不細工だもんね」
周りの仲間たちは息をのみ、気まずそうに顔を見合わせている。卓也の顔は怒りと恥ずかしさでみるみる赤くなっていった。
そこへ、慌てて割り込んできたのが和彦だった。卓也をかばうように前に出ると、私に向かって声を潜め、責めるように言った。
「おい、ちょっとひどいだろ! 大勢の前で、そこまで言うことないじゃないか」
卓也の前に立つ夫を見て、胸の奥がすっと冷えた。
「大勢の前で私がブスって言われたときは、止めなかったよね」
「いや、だから、あれは冗談で……」
「冗談よ。もちろん」
和彦の視線が、卓也を見た。
「ブスって言うのがひどくないなら、不細工って言うのもひどくないでしょう? どうしてそう言ったのかも、私はちゃんと説明したよ。それにこの前、あなたは言ったよね。不満があるなら言い返せばいい、私が何を言っても文句は言わないって。あちらが冗談なら許されるっていうのが、あなたの理屈だったよね」
「それは、そうだけど……」
「冗談って言えば許されるでしょ? あまりにマジメに指摘するのは気の毒だから、黙っていただけ。これは彼のためよ。身の程を知ったほうがいいと思ったから」
「な……っ!?」
和彦は絶句し、二の句が継げなくなった。
私は卓也に目を戻した。
「言われて嫌な気持ちはわかった? 私は、あなたと会うたびにその気持ちを味わっていたの。もう二度と、私と娘にあんなことを言わないで」
卓也は缶を握りしめたまま、屈辱に震えて目をそらした。何か言いたげに唇を動かしたが、結局、逃げるようにその場を離れていった。
誰も笑わなかった。周りの参加者たちも、もう私を「おとなしい奥さん」としては見ていなかった。網の上で脂のはねる音だけが、妙にはっきりと聞こえた。
「……あそこまで言う必要、あったか?」
和彦が小声で言った。
私は夫の顔を見た。
まだ、私を責めるのか。
言い返せば、何かが変わるかもしれない。心のどこかに残っていた期待が、その一言で消えた。
「美香、お腹すいたね。あっちでお肉食べようか」
しゃがんで声をかけると、美香は小さくうなずいた。
固まったままの夫を置いて、皿を持ち、娘の手を引いて歩き出す。背後から和彦に名前を呼ばれたが、振り返らなかった。
胸がすっとした気持ちは、確かにあった。けれど、怒りも悔しさも、まだ残っている。
それでも、もう迷ってはいなかった。
帰ったら、母に電話をしよう。私の新しい人生は、もう始まっているのだから。
つないだ美香の小さな手を、私はそっと握り直した。




