夜明けにかかる影
幼馴染に恋人ができたらしい。
それを知ったきっかけはSNSだった。
深夜の十二時過ぎ、ベッドの中でスマートフォンを見ていたら、アサヒのアカウントに新しい投稿があった。写真だった。アサヒの隣に、知らない女の子がいた。夏光に照らされていて、明るく笑っていた。アサヒも笑っていた。
画像と一緒に、一行だけ書いてあった。
『大切な人ができました。』
ヨゾラはその投稿を、しばらく見ていた。
おめでとう、と思った。本当に思った。アサヒのことは、子どもの頃から知っている。いい人だと思う。幸せになってほしいと思う。
でも、胸の中に、何かが生まれた。黒くて、重くて、名前のない何かだった。悲しいとも違う。怒っているとも違う。嫉妬とも、少し違う気がした。ただそこにあって、どこかじんわりと、胸の奥全体を覆うようだった。
ヨゾラはスマートフォンを伏せて、目を閉じた。
名前のわからないまま、眠れない夜が来た。
翌日の寝起きは最悪だった。
昨日感じた黒い何かは、朝になっても消えなかった。むしろ一晩かけて、少し根を張った気がした。体を動かすのも億劫だったが、今日は登校日だ。下の階からは、早く起きなさい、とこちらを呼ぶ母親の声がする。重い体を引きずるように起きて、顔を洗って、制服を着た。鏡の中の自分が、少しだけ眠そうな顔をしていた。眠れなかったのだから、当然だった。
学校に行って、授業を受けた。数学の授業だった。先生がチョークで、黒板に数式を書いていた。カツカツとチョークと黒板がぶつかる音が、静かな教室に響いた。
ヨゾラはその音を聞きながら、窓の外を見ていた。
遠くの海の上に、積乱雲が浮かんでいた。ビルのような高さで、夏空に白くそびえていた。海と空の境界が、妙にはっきりしていた。
小さい頃、アサヒとよく遊んでいたことを、思い出した。
アサヒは、いつも明るくて、でもどこかふわふわした雰囲気を持っていた。人を不快にさせない明るさというのがあって、アサヒの明るさはそれだった。一緒にいると、自分も明るい気持ちになれた。子どもの頃はよく遊んだし、中学生までは、男女含めて、お互いがお互いに一番仲が良かったと思う。
子どもというのは単純で、身近な異性に対して、簡単に恋をしてしまうものなのだろう。
ヨゾラも、その一人だった。
でも高校生になることをきっかけに、クラスが分かれた。遊ぶことも減った。部活も違った。ヨゾラは文芸部に入り、アサヒはバスケ部に入った。文化部と運動部では、会う場所も時間も違う。話す機会が、自然と減った。
そうこうしているうちに、自分の中の恋心も薄れていった。
きっとあれは、恋に恋する少女のようなものだったのだろう。子どもの頃の、淡くて根の浅い気持ち。ヨゾラは一人でそう納得して、引き出しの奥にしまった。鍵をかけるほどでもなかったし、捨てるほどでもなかった。ただ、しまった。
それが昨夜、SNSのひとつの投稿で、引き出しの中から這い出てきた。
黒くなって、重くなって、形を変えて。
授業が終わって、スマートフォンを見ると、アサヒからメッセージが来ていた。
『今週末、海行かない。昔よく一緒に行ってたし。日の出見ようよ』
ヨゾラは少し間を置いてから、返信した。
『行く』
それだけ打った。理由は考えなかった。考えたら、行けなくなる気がしたから。
待ち合わせは、夜明け前だった。
家を出ると、空はまだ暗かった。街灯の光だけが、道を照らしていた。こんな時間に外に出るのは久しぶりで、空気が思ったより冷たくて、ヨゾラは少し驚いた。夏なのに、夜明け前の空気は違う。昼間の熱が、もう残っていない時間だった。
駅のホームで合流すると、アサヒはいつもの顔をしていた。特別に嬉しそうでも、浮かれているわけでもなかった。ただ、アサヒだった。それがヨゾラには、少し安心でもあり、どこか苦しくもあった。
「久しぶりだな、こんな時間に会うの」
「そうだね」
電車に乗って、並んで座った。車内はほとんど人がいなかった。窓の外はまだ暗くて、ガラスに自分たちの顔が薄く映っていた。ヨゾラは自分の顔を見ないようにした。どんな顔をしているか、確認したくなかった。
しばらく、どちらも喋らなかった。
それからアサヒが、少し声のトーンを変えて言った。
「俺さ、彼女できたんだよね」
ヨゾラは、窓の外を見たまま言った。
「知ってる。SNSで見た」
「あ、見てたか」
アサヒは少し照れたように頭を掻いた。そういう仕草を、ヨゾラは子どもの頃から知っていた。照れたときや、少し困ったときにする癖だった。
「ヨゾラには、ちゃんと言わないと、って思ってたんだけど。なんか機会なくて」
「そっか」
「うん。だから今日、言えてよかった」
ヨゾラは短く「うん」と返した。
胸の中の黒い何かが、少し重くなった。でもその重さの名前が、まだわからなかった。ただ重かった。窓の外に流れていく暗い景色を、ヨゾラはずっと見ていた。
海についたのは、夜明けの少し前だった。
砂浜に出ると、風が来た。潮の匂いがした。昼間の海とは違う匂いだった。濃くて、少し冷たかった。空の端が、ほんの少しだけ白み始めていた。まだ暗いけれど、もうすぐ明るくなる、そういう色だった。夜と朝の境目の色。
波の音だけが、ずっと聞こえていた。
アサヒは靴を脱いで、砂の上に置いた。靴下も脱いで、裸足で波打ち際まで走っていった。ためらわなかった。昔からそういう人だった。
波が来て、足先を濡らした。アサヒは少し声を上げた。
「冷たっ。でも気持ちいい」
ヨゾラは砂の上に立ったまま、それを見ていた。靴を脱ぐ気になれなかった。波打ち際まで歩く気にも。どこか一歩が踏み出せない気がしていた。
アサヒが振り返った。
こちらに手を伸ばした。
「ほら、ヨゾラもおいでよ」
気持ちいいよ、と笑いながら、手を差し伸べる。
その瞬間だった。
水平線の向こうから、光が生まれた。
最初は線だった。細い、白色の線。それがみるみる広がって、橙色になって、空全体が染まり始めた。光がアサヒの背中を包んだ。逆光になって、アサヒの顔が、影になった。でも輪郭だけが、眩しく縁取られていた。
光を背負って、こちらに手を伸ばしているアサヒを、ヨゾラは見ていた。
その手を、昔、何度も握ったことがある。子どもの頃、この海で。波に足を取られそうになったとき、砂浜を走ったとき、帰り道が暗くなったとき。何度も、当たり前のように握っていた。
それがいつから、当たり前じゃなくなったのだろう。
ヨゾラは思った。
高校生になって、クラスが分かれて、部活が違って、会う回数が減った。その間に、何かが変わったのか。それとも変わらないまま、ただ距離だけが変わったのか。どちらにしても、今のアサヒの隣には、知らない女の子がいる。
きっとその子は、この陽光をアサヒと一緒に浴びることができるのだ。同じ光の中に、手を取って、並んで立てるのだ。
ヨゾラは、やっとわかった。
自分の恋は終わったんだ。
そう理解した瞬間。胸の奥にあった何かが形を成した気がした。
黒くて重くて名前のなかったもの。それは、ずっと前から積み重なっていたものだった。しまったはずの引き出しの中で、気づかないうちに育っていたものだった。気づかないふりをしていたのか、本当に気づいていなかったのか、もうわからない。でも今、はっきりとわかった。
瞳の奥が熱くなっていく感じがした。
積乱雲が上昇気流に乗って、空の上から雨粒を落とすように。胸の奥の黒い何かが、喉元にのぼって、瞳から外に出ようとしていた。
涙が、出た。
声は出なかった。ただ、目から零れた。自分でも驚いた。泣くつもりはなかった。でも止まらなかった。一度出始めたら、何かの栓が抜けたみたいに、続いた。
逆光の中のアサヒには、見えていないかもしれなかった。見えていてもよかった。どちらでもよかった。
泣きながら、ヨゾラは感じた。
黒い何かが、溶けていく。重かったものが、少しずつ、軽くなっていく。涙と一緒に、流れていく。波が砂を攫うみたいに、さらさらと、引いていく。
痛かった。痛いのに、どこかすっきりしていた。
悲しいのに、泣いてよかったと思った。
夜明けの海で、波の音を聞きながら、ヨゾラはひとりで泣いた。アサヒは逆光の中でまだ手を伸ばしていて、その輪郭が眩しかった。
「ヨゾラ?」
アサヒの声が、した。逆光の中で、まだ手を伸ばしていた。
心配しているのか、何かに気づいたのか、少し声のトーンが変わっていた。でもヨゾラは、その違いを今は考えなかった。
ヨゾラは一度、深く息を吸った。
潮の匂いがした。冷たい空気が、喉の奥まで入ってきた。
それから、歩いた。
砂が足に沈んだ。靴のまま歩いたから、砂が靴の中に入った。波打ち際まで来て、波が足先にかかった。靴が濡れた。冷たかった。
アサヒの手は、取らなかった。
でも、隣に立った。
「……おめでとう」
ヨゾラは言った。
アサヒに向かってではなく、少し前を向いたまま。昇り始めた太陽の方を向いたまま。でもちゃんと、アサヒに届くように。
「大切な人ができて、よかったね」
アサヒは少し黙った。
「……ありがとう」
静かな声だった。
視界の隅で、アサヒが笑った気がした。眩しくて、ちゃんとは見えなかった。でも笑った気がした。
波が来て、二人の足を濡らした。
空はもう、すっかり明るくなっていた。夜が終わって、朝が来ていた。さっきまであった夜と朝の境目の色は、もうどこにもなかった。全部、朝になっていた。
ヨゾラは、先ほど泣いたこともいつかは忘れるだろうと思った 忘れなくてもよかった。でもきっと、忘れる。朝の光の中では、夜の重さは少し遠くなる。黒い何かも、形を成して、遠くなる。
それでいい、とヨゾラは思った。
波が引いた。また来た。
ヨゾラは、その繰り返しを、しばらく見ていた。




