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夜明けにかかる影

作者: takenoko
掲載日:2026/05/11

 幼馴染に恋人ができたらしい。

 それを知ったきっかけはSNSだった。

 深夜の十二時過ぎ、ベッドの中でスマートフォンを見ていたら、アサヒのアカウントに新しい投稿があった。写真だった。アサヒの隣に、知らない女の子がいた。夏光に照らされていて、明るく笑っていた。アサヒも笑っていた。

 画像と一緒に、一行だけ書いてあった。

 『大切な人ができました。』

 ヨゾラはその投稿を、しばらく見ていた。

 おめでとう、と思った。本当に思った。アサヒのことは、子どもの頃から知っている。いい人だと思う。幸せになってほしいと思う。

 でも、胸の中に、何かが生まれた。黒くて、重くて、名前のない何かだった。悲しいとも違う。怒っているとも違う。嫉妬とも、少し違う気がした。ただそこにあって、どこかじんわりと、胸の奥全体を覆うようだった。

 ヨゾラはスマートフォンを伏せて、目を閉じた。

 名前のわからないまま、眠れない夜が来た。

 

 翌日の寝起きは最悪だった。

 昨日感じた黒い何かは、朝になっても消えなかった。むしろ一晩かけて、少し根を張った気がした。体を動かすのも億劫だったが、今日は登校日だ。下の階からは、早く起きなさい、とこちらを呼ぶ母親の声がする。重い体を引きずるように起きて、顔を洗って、制服を着た。鏡の中の自分が、少しだけ眠そうな顔をしていた。眠れなかったのだから、当然だった。

 学校に行って、授業を受けた。数学の授業だった。先生がチョークで、黒板に数式を書いていた。カツカツとチョークと黒板がぶつかる音が、静かな教室に響いた。

 ヨゾラはその音を聞きながら、窓の外を見ていた。

 遠くの海の上に、積乱雲が浮かんでいた。ビルのような高さで、夏空に白くそびえていた。海と空の境界が、妙にはっきりしていた。

 小さい頃、アサヒとよく遊んでいたことを、思い出した。

 

 アサヒは、いつも明るくて、でもどこかふわふわした雰囲気を持っていた。人を不快にさせない明るさというのがあって、アサヒの明るさはそれだった。一緒にいると、自分も明るい気持ちになれた。子どもの頃はよく遊んだし、中学生までは、男女含めて、お互いがお互いに一番仲が良かったと思う。

 子どもというのは単純で、身近な異性に対して、簡単に恋をしてしまうものなのだろう。

 ヨゾラも、その一人だった。

 でも高校生になることをきっかけに、クラスが分かれた。遊ぶことも減った。部活も違った。ヨゾラは文芸部に入り、アサヒはバスケ部に入った。文化部と運動部では、会う場所も時間も違う。話す機会が、自然と減った。

 そうこうしているうちに、自分の中の恋心も薄れていった。

 きっとあれは、恋に恋する少女のようなものだったのだろう。子どもの頃の、淡くて根の浅い気持ち。ヨゾラは一人でそう納得して、引き出しの奥にしまった。鍵をかけるほどでもなかったし、捨てるほどでもなかった。ただ、しまった。

 それが昨夜、SNSのひとつの投稿で、引き出しの中から這い出てきた。

 黒くなって、重くなって、形を変えて。

 

 授業が終わって、スマートフォンを見ると、アサヒからメッセージが来ていた。

『今週末、海行かない。昔よく一緒に行ってたし。日の出見ようよ』

 ヨゾラは少し間を置いてから、返信した。

『行く』

 それだけ打った。理由は考えなかった。考えたら、行けなくなる気がしたから。

 

 待ち合わせは、夜明け前だった。

 家を出ると、空はまだ暗かった。街灯の光だけが、道を照らしていた。こんな時間に外に出るのは久しぶりで、空気が思ったより冷たくて、ヨゾラは少し驚いた。夏なのに、夜明け前の空気は違う。昼間の熱が、もう残っていない時間だった。

 駅のホームで合流すると、アサヒはいつもの顔をしていた。特別に嬉しそうでも、浮かれているわけでもなかった。ただ、アサヒだった。それがヨゾラには、少し安心でもあり、どこか苦しくもあった。

「久しぶりだな、こんな時間に会うの」

「そうだね」

 電車に乗って、並んで座った。車内はほとんど人がいなかった。窓の外はまだ暗くて、ガラスに自分たちの顔が薄く映っていた。ヨゾラは自分の顔を見ないようにした。どんな顔をしているか、確認したくなかった。

 しばらく、どちらも喋らなかった。

 それからアサヒが、少し声のトーンを変えて言った。

「俺さ、彼女できたんだよね」

 ヨゾラは、窓の外を見たまま言った。

「知ってる。SNSで見た」

「あ、見てたか」

 アサヒは少し照れたように頭を掻いた。そういう仕草を、ヨゾラは子どもの頃から知っていた。照れたときや、少し困ったときにする癖だった。

「ヨゾラには、ちゃんと言わないと、って思ってたんだけど。なんか機会なくて」

「そっか」

「うん。だから今日、言えてよかった」

 ヨゾラは短く「うん」と返した。

 胸の中の黒い何かが、少し重くなった。でもその重さの名前が、まだわからなかった。ただ重かった。窓の外に流れていく暗い景色を、ヨゾラはずっと見ていた。

 

 海についたのは、夜明けの少し前だった。

 砂浜に出ると、風が来た。潮の匂いがした。昼間の海とは違う匂いだった。濃くて、少し冷たかった。空の端が、ほんの少しだけ白み始めていた。まだ暗いけれど、もうすぐ明るくなる、そういう色だった。夜と朝の境目の色。

 波の音だけが、ずっと聞こえていた。

 アサヒは靴を脱いで、砂の上に置いた。靴下も脱いで、裸足で波打ち際まで走っていった。ためらわなかった。昔からそういう人だった。

 波が来て、足先を濡らした。アサヒは少し声を上げた。

「冷たっ。でも気持ちいい」

 ヨゾラは砂の上に立ったまま、それを見ていた。靴を脱ぐ気になれなかった。波打ち際まで歩く気にも。どこか一歩が踏み出せない気がしていた。

 アサヒが振り返った。

 こちらに手を伸ばした。

「ほら、ヨゾラもおいでよ」

 気持ちいいよ、と笑いながら、手を差し伸べる。

 その瞬間だった。

 水平線の向こうから、光が生まれた。

 最初は線だった。細い、白色の線。それがみるみる広がって、橙色になって、空全体が染まり始めた。光がアサヒの背中を包んだ。逆光になって、アサヒの顔が、影になった。でも輪郭だけが、眩しく縁取られていた。

 光を背負って、こちらに手を伸ばしているアサヒを、ヨゾラは見ていた。

 その手を、昔、何度も握ったことがある。子どもの頃、この海で。波に足を取られそうになったとき、砂浜を走ったとき、帰り道が暗くなったとき。何度も、当たり前のように握っていた。

 それがいつから、当たり前じゃなくなったのだろう。

 ヨゾラは思った。

 高校生になって、クラスが分かれて、部活が違って、会う回数が減った。その間に、何かが変わったのか。それとも変わらないまま、ただ距離だけが変わったのか。どちらにしても、今のアサヒの隣には、知らない女の子がいる。

 きっとその子は、この陽光をアサヒと一緒に浴びることができるのだ。同じ光の中に、手を取って、並んで立てるのだ。

 

 ヨゾラは、やっとわかった。

 自分の恋は終わったんだ。

 そう理解した瞬間。胸の奥にあった何かが形を成した気がした。

 黒くて重くて名前のなかったもの。それは、ずっと前から積み重なっていたものだった。しまったはずの引き出しの中で、気づかないうちに育っていたものだった。気づかないふりをしていたのか、本当に気づいていなかったのか、もうわからない。でも今、はっきりとわかった。

 瞳の奥が熱くなっていく感じがした。

 積乱雲が上昇気流に乗って、空の上から雨粒を落とすように。胸の奥の黒い何かが、喉元にのぼって、瞳から外に出ようとしていた。

 涙が、出た。

 声は出なかった。ただ、目から零れた。自分でも驚いた。泣くつもりはなかった。でも止まらなかった。一度出始めたら、何かの栓が抜けたみたいに、続いた。

 逆光の中のアサヒには、見えていないかもしれなかった。見えていてもよかった。どちらでもよかった。

 泣きながら、ヨゾラは感じた。

 黒い何かが、溶けていく。重かったものが、少しずつ、軽くなっていく。涙と一緒に、流れていく。波が砂を攫うみたいに、さらさらと、引いていく。

 痛かった。痛いのに、どこかすっきりしていた。

 悲しいのに、泣いてよかったと思った。

 夜明けの海で、波の音を聞きながら、ヨゾラはひとりで泣いた。アサヒは逆光の中でまだ手を伸ばしていて、その輪郭が眩しかった。


「ヨゾラ?」

 アサヒの声が、した。逆光の中で、まだ手を伸ばしていた。

 心配しているのか、何かに気づいたのか、少し声のトーンが変わっていた。でもヨゾラは、その違いを今は考えなかった。

 ヨゾラは一度、深く息を吸った。

 潮の匂いがした。冷たい空気が、喉の奥まで入ってきた。

 それから、歩いた。

 砂が足に沈んだ。靴のまま歩いたから、砂が靴の中に入った。波打ち際まで来て、波が足先にかかった。靴が濡れた。冷たかった。

 アサヒの手は、取らなかった。

 でも、隣に立った。

「……おめでとう」

 ヨゾラは言った。

 アサヒに向かってではなく、少し前を向いたまま。昇り始めた太陽の方を向いたまま。でもちゃんと、アサヒに届くように。

「大切な人ができて、よかったね」

 アサヒは少し黙った。

「……ありがとう」

 静かな声だった。

 視界の隅で、アサヒが笑った気がした。眩しくて、ちゃんとは見えなかった。でも笑った気がした。


 波が来て、二人の足を濡らした。

 空はもう、すっかり明るくなっていた。夜が終わって、朝が来ていた。さっきまであった夜と朝の境目の色は、もうどこにもなかった。全部、朝になっていた。

 ヨゾラは、先ほど泣いたこともいつかは忘れるだろうと思った 忘れなくてもよかった。でもきっと、忘れる。朝の光の中では、夜の重さは少し遠くなる。黒い何かも、形を成して、遠くなる。

 それでいい、とヨゾラは思った。

 波が引いた。また来た。

 ヨゾラは、その繰り返しを、しばらく見ていた。

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