第76話:見えない痕跡と、灰色の残香
西翼格納庫 ―― 崩壊する静寂
右腕が、壊れたメトロノームのように不規則な脈動を繰り返している。自己犠牲の算式を強制中断した代償は、焼き付くような激痛と、思考を白濁させるほどの疲労となって俺の全身を蝕んでいた。
「……ハァ、ハァ……。ふざけるな。この俺が、計算外の事態にこれほど振り回されるとは……」
俺は震える足取りで、格納庫の中央に横たわる「帝都の秩序」の成れの果て――三人のヤードへと近づいた。碧、紫、金。彼らが纏っていたはずの圧倒的な圧迫感は霧散し、今はただ、魂を抜かれた抜け殻のように深く沈み込んでいる。
俺は膝をつき、倒れたヤードの一人、金の装甲を持つ男の傍らに手をかざした。
周囲を支配するのは、理を書き換えられた後の無機質な静寂。かつてここにあったはずの激しい魔力の衝突の余韻は、冷徹な静止画のように塗り潰され、残されたのは「不在」という名の重厚な沈黙のみであった。俺の指先が触れた空気の熱は、断罪の炎ではなく、ただ眠りへと誘う微かな冷気だけを記憶している。
「……おかしい」
俺の論理回路が警鐘を鳴らす。 ヤードが三人倒れている。ならば、ここには彼らを打倒した「何か」が存在したはずだ。だが、シエルの魔力残滓も、サラの気配も、ここには微塵も残っていない。
物理的な不協和音 ―― 魔法の不在
俺は視覚の解像度を極限まで上げ、瓦礫の隙間、そしてヤードたちの衣服を精査した。魔力抑制界が崩壊した後のこの空間では、魔力の追跡はノイズが多すぎる。ならば、頼るべきは物理的な「事実」のみ。
その時、俺の指先に、ザラリとした微かな感触が触れた。
「……これは、粉末か?」
ヤードの首筋、そしてシエルが立っていたであろう場所に、肉眼では捉えきれないほど微細な白銀の粉末が、星屑のように付着していた。
俺はそれを指で掬い、鼻腔に近づける。……匂いはない。だが、その粉末に触れた瞬間、脳の演算領域の一部が、物理的に麻痺するような感覚に襲われた。
「魔導具じゃない……。これは、純粋な薬学の産物だ。魔法を、魔力を一切介在させずに相手を無力化する……物理的な暴力」
寒気が背筋を走る。 魔法を極めたエルフの地で、魔法に頼らずヤードを沈める手段。それは、この帝都アルビオンが隠し持っていた「不都合な真実」の一端ではないのか。
孤立した推論 ―― 監視塔への視線
俺は立ち上がり、頭上を仰ぎ見た。 厚い天井の先、そこにはヤードたちが慌てて戻っていった監視塔がある。
ヤードたちが去った理由。 そして、この場から忽然と消えたシエルとサラ。
「……シエル。お前はわざと、魔法で対抗しようとしたのか。それとも、この物理的な罠を予見できなかったのか」
答えを返してくれる者はいない。 俺に残された情報は、この三人のヤードと、名もなき白銀の粉末、そして監視塔へ消えた「正体不明の影」というピースだけだ。
俺の右腕は依然として死んだように動かない。だが、脳内の計算機は、止まることを許さなかった。
「……待っていろ。俺の計算式からは、誰も逃がさない。たとえそれが、この帝都そのものであったとしても」
結末:孤独な追跡
俺は倒れたヤードたちから魔導通信機を剥ぎ取り、地脈の乱れを利用して監視塔の内部回路へとハッキングを試みた。
暗闇の中で、無数の論理の断片が火花となって散り、見えない帝都の神経網が剥き出しの臓器のように俺の前に曝け出される。断罪の鐘の音が遠のく中、俺はただ一人、光なき回廊を、消えた「調べ」を求めて彷徨う亡霊となって突き進む。




