第62話:泥濘の逃避行と、帝国の「掃除」
暗闇と、異形の脈動
冷たく、湿った石畳の感触。鼻を突く下水の悪臭。 コウが意識を取り戻したとき、最初に感じたのは、右腕から伝わってくる「自分のものではない」心臓の鼓動だった。
「……っ、がはっ!」
肺に溜まった泥水を吐き出し、コウは上体を起こそうとした。だが、右腕が重い。物理的な重量ではない。そこに宿る古代の地脈が、彼の神経系を勝手に書き換え、周囲の空間から魔力を強制的に吸い上げ続けているのだ。
「……目覚めたか、コウ。動かないで。今の君の右腕は、不安定な魔力炉そのものだわ」
暗闇の奥で、シエルが古びた魔導ランタンに火を灯した。隣では、サラが憔悴しきった表情で、コウの腕に幾重にも重なる「抑制の旋律」を刻み込んでいる。
「……サラ、すまない。……計算が、完全に破綻した」
「謝らないでください、コウさん。……でも、今のあなたの右腕は、私の調律でも抑えきれない『呪い』に変わってしまいました。……エルフたちが、地脈を無理やり歪めていた反動が、すべてあなたに流れ込んでいるんです」
視点:エルフ帝国の「都市美化計画」
地上では、雨に代わってエルフ帝国の空中艦隊が放つ「浄化の煙」がアカデミーを覆っていた。 それは中毒者を鎮め、反抗する者の記憶を混濁させる、極めて「紳士的」かつ非道な化学兵器。
騎士イゾルデは、瓦礫の山となった研究室の跡地に立ち、紅茶を一口啜った。
「……逃げられましたか。下水道という、野蛮人に相応しい場所へ。……提督、地下の『害虫駆除』の許可を。我が帝国の靴が、泥で汚れるのは不本意ですが」
通信機から、提督の冷ややかな声が響く。
「許可しよう。ただし、あの少年の右腕だけは傷つけるな。あれは我が帝国の次世代エネルギー源としての『所有権』が発生している。……あとのゴミ(住民)は、どう処理しても構わん」
「――了解。……これより、非効率な命の『棚卸し』を開始します」
イゾルデの背後で、蒸気機関を備えた自動人形たちが、冷酷な金属音を立てて地下への入り口へと進軍を開始した。
視点:地下の「連帯」
地下水路の奥深く。そこには、地上を追われ、エルフ帝国の「魔剤」を拒んだスラムの生き残たちが身を潜めていた。 彼らはコウたちを憎しみの目で見つめていたが、シエルが差し出した「ボロフの帳簿(汚職の証拠)」と、コウの無残な右腕を見て、一人の老人が口を開いた。
「……あんたたちが、あの耳長共を出し抜いた計算機か。……いいだろう。あいつらに一泡吹かせられるなら、この泥の中こそが最高の要塞だ」
コウは壁に背を預け、黒く変色し、時折勝手に火花を散らす右腕を睨みつけた。
「……シエル。エルフ共は俺のこの腕を『資源』として回収しに来る。……だったら、それを利用して、奴らの戦艦を丸ごと市場から退場させてやる」
「……コウ、まだそんな無茶を……」
「これが一番『効率的』な解決策だ。……サラ、君の命を削るような真似はさせない。……俺の論理を、もう一度だけ再構築する」




