第37話:師の理論と、弟子の解(こたえ)
存在の剥離
「さあ、授業の時間だ、コウ君。君のその自慢の『効率化』で、私のこの魔術をどう処理する?」
Rブレッドクランのボスが、仮面の奥で嗤う。彼が軽く手をかざすと、周囲の空間が歪み、色を失った。
「《虚無の顎》」
放たれたのは、炎でも雷でもない。音もなく迫る、直径数メートルの「黒い球体」だった。それが触れた瞬間、王都の堅牢な石造りの正門が、音もなく消滅した。瓦礫すら残らない。最初からそこに存在しなかったかのように、世界から切り取られたのだ。
「なっ…! 防御不能だと?」
コウは直感的に理解した。あれは物理的な破壊ではない。「存在そのものを消去する」概念干渉だ。どんなに強固な氷の盾も、触れた端から「無」に帰す。
「くっ、サラ! シエルを連れて下がれ! 俺の計算では、接触したら終わりだ!」
コウは多重展開した氷の壁を次々と囮にし、バックステップで回避を続ける。だが、黒い球体は執拗にコウを追尾し、その速度を上げていく。
師の絶望と、弟子の記憶
「やめろ…ボス! そいつは関係ない! ボクとの契約だったはずだ!」
地面に伏したシエルが、血を吐きながら叫ぶ。背中の楔がさらに深く食い込み、彼の生命力を削り取っていく。
「コウ…逃げろ…。あの方の魔術は…『理』そのものへの干渉だ…。お前の氷では、相性が悪すぎる…!」
シエルの悲痛な叫びが、コウの脳裏にある記憶を呼び覚ました。
――幼き日の記憶。シエルの研究室。
『いいかい、コウ。氷結魔術の極意は、熱を奪うことじゃない。分子の運動を停止させることだ。だが、完全に停止させる「絶対零度」は、理論上不可能だ』
若き日のシエルは、寂しげに笑っていた。
『もしそれを実現すれば、それは事象そのものを凍結させる、神の領域の魔法になる。だが、ボクにはそこまでの「覚悟」が足りないようだ』
未完成の理論
(…そうだ。あんたはいつもそうだった。賢すぎるが故に、世界の理を壊すことを恐れていた)
コウは、迫りくる「虚無」の球体を見据え、足を止めた。
「コウさん!?」サラが悲鳴を上げる。
「サラ。俺に全魔力を回せ。防御は一切考えなくていい」
コウの言葉に、サラは一瞬息を呑んだが、すぐに覚悟を決めた。
「はい! 私の命、全部使ってください!」
サラの規格外の魔力が、コウの左腕の刻印を通じて流れ込む。コウの魔力回路が悲鳴を上げ、全身の血管が浮き上がる。
「シエル。あんたが完成させられなかった『あの理論』。俺が引き継ぐ」
コウは右手を前に突き出し、魔力操作を極限まで微細化させた。狙うのは、迫りくる「虚無」の球体そのものではない。それを構成する魔力子の、さらに奥にある「振動」だ。
「効率的になんて、やってられるか。俺の全てを賭けて、世界の理をねじ伏せる!」
事象凍結
ボスの放った黒い球体が、コウを飲み込もうとした瞬間。
「《絶対零度・事象凍結》」
コウの掌から、音のない衝撃波が放たれた。 世界から色が消えた。風が止まり、舞い上がっていた砂埃が空中で静止する。
そして、全てを飲み込むはずだった「虚無」の球体が、ピキリと音を立てた。 次の瞬間、それは巨大な黒い氷塊へと変わり、重力に従って地面に落下し、粉々に砕け散った。
「…ほう?」
ボスの仮面の奥の瞳が、初めて驚愕に見開かれた。
「私の『虚無』を…凍らせたというのか? 人間の身で、事象の領域に干渉したと?」
コウは膝から崩れ落ちそうになるが、何とか踏みとどまった。右腕は完全に凍りつき、感覚がない。だが、彼の瞳は燃えていた。
「…計算通りだ。あんたの魔術が『理』への干渉なら、それ以上の『理』で運動を停止させればいい。…シエル直伝の、最高に非効率な大技だがな」
地面に倒れていたシエルが、信じられないものを見る目で見上げていた。
「コウ…君は…ボクの理論を…」
かつて自分が到達を諦めた領域に、愛弟子が到達した。その事実は、絶望の中にいたシエルの心に、小さな、しかし確かな火を灯した。




