第33話:沈黙の賢者と、銀の指先
時計塔からの降臨
時計塔の頂上から舞い降りた人影は、重力を無視した羽毛のような軽やかさで、コウたちの数歩手前に着地した。
夕闇の中で露わになったその姿は、息を呑むほどに美しかった。透き通るような白い肌、尖った耳、そして月光を反射する銀色の髪。二十代前半の青年にしか見えないが、その瞳には数百年を生き抜いた者特有の、深く静かな知性が宿っている。
エルフ族の男、シエル。かつて幼いコウに魔術の基礎を叩き込み、そして数年前、ある事件を境にコウを冷酷に突き放し、行方をくらませた師だった。
「…シエル。なぜ、あんたがここにいる」
コウの左腕の刻印が、怒りと困惑で激しく脈打つ。右腕の傷がズキリと痛んだ。かつてこの男に信じていた全てを否定され、独り立ちという名の追放を言い渡された記憶が蘇る。
シエルは何も答えず、ただ静かにコウを見つめ返した。その表情には敵意も、あるいはかつての慈愛も読み取れない。ただ、どこか居心地が悪そうに視線を泳がせている。
敵対なき介入
シエルは、構えるコウを無視するようにゆっくりと歩き出し、壊れかけた噴水の前に立った。
「…この区画の魔力伝導率が著しく低下している。放置すれば、一時間後には君の組んだ修復術式は瓦解する」
シエルが細い指先を空中で躍らせる。すると、コウが苦労して繋ぎ止めていた街の結界が、より強固で美しい幾何学模様へと瞬時に書き換えられていった。
「何を…何をするつもりだ。今更、師匠面か?」
コウの問いに、シエルは淡々と、しかしどこか言葉を選びながら答えた。
「手伝う。…この街の崩壊を放置するのは、魔術師として非効率だ」
シエルはそう言うと、流れるような動作で周囲の瓦礫を浄化し、元の石材へと戻し始めた。その手際は、コウの計算を遥かに上回る、神業に近い魔術行使だった。
歪な共闘
「コウさん、待ってください。あの方からは、攻撃的な気配を感じません」
サラがコウの袖を引き、静かに首を振った。サラの調律眼には、シエルの魔力が街を破壊するためではなく、慈しむように修復するために流れているのが見えていた。
「…シエル、お前が何を考えているのかは知らない。だが、一つでも不審な動きをすれば、俺は全力を以てお前を排除する」
コウは厳しい視線を向けたままだったが、魔術の行使は止めなかった。シエルは短く「好きにしろ」とだけ呟き、黙々と作業を続けた。
かつて自分を残酷に裏切り、闇へと突き落とした男。その男が、今、自分たちと同じ場所で、泥にまみれて街を救っている。その不自然な光景に、ヴィンセントやガゼルも困惑し、近づくことすらできずにいた。
不器用な背中
夜が深まる中、再建作業はシエルの加勢によって劇的に加速した。シエルは驚くほどに有能だった。しかし、それ以上に驚くべきは、彼の徹底した無口さと、どこかぎこちない立ち振る舞いだった。
作業の合間、シエルがサラの近くを通る際、彼は何かを言いかけて口を噤み、そのまま足早に去っていく。あるいは、コウが術式の負荷で顔をしかめた時、無言で背後から魔力の補助を送り、コウが振り返る前に視線を逸らして持ち場に戻ってしまう。
「…相変わらずだな」
コウは、遠くで黙々と石を積むシエルの背中を見つめながら、苦い表情を浮かべた。裏切りの理由は、今も語られない。謝罪の言葉も、一切ない。だが、その背中からは、言葉にできないほどの沈痛な重圧と、不器用な献身が滲み出ていた。
サラは、そんな二人の間に流れる奇妙な空気を感じ取っていた。 (コウさんの師匠様…とても悲しい音を立てている。怒りでも、嘲笑でもなくて、自分を責めているような、届かない祈りのような音…)
今はまだ、彼がRブレッドクランという組織に身を置いていることなど、コウたちは知る由もなかった。




