セラータ
セラータ・サルドニクス伯爵は吸血鬼だ。
セラータの両親は人間であるが、母親の血筋は遡れば王族の血が混じっている。
この国に於いて吸血鬼は『王族の血を持つ者』のなかから『突然変異』で生まれる個体だ。
ゆえにセラータは、生まれた時から王族として認定されている。
とはいえ、それは国の上層部にのみ秘匿された事実であり、彼は異端者として生家である侯爵家から早々に弾き出された。
吸血鬼は代々、『サルドニクス伯爵』として半幽閉状態で静穏な生活を強いられる。
市井に下りる自由はあるものの、いたずらな吸血行為によって国を混乱させてはならないという強い縛りと監視を受け、『食糧』としての人材は基本的に王家あるいは生家から支給される。
長らくサルドニクス家唯一の侍女を務めていたマーサは侯爵家からの支給品であり、セラータにとっては乳母のような存在であった。
生まれて二十六年間、セラータはマーサ以外の血を吸ったことはなかった。
あまり知られていないことだが、吸血鬼は血以外のものも多少なりと栄養にすることが出来る。
それは『赤』を纏う食べ物であり、誰もが知る代表的なものでいえばトマトや苺、あまり知られていないものといえば枸杞の実やビーツなどがある。
ライチやスイカは判断が難しいものであり、ライチは外皮は赤く見えるが果肉は白のため不可、スイカは外皮は緑色だが中身は赤いため、赤い果肉だけをくり抜いて食べればセーフである。
基本的にトマトソースにまみれさせてしまえば真っ赤な食べ物判定されるので、思ったよりも様々なものを食すことが出来る。
ただ、本人の嗜好として唐辛子はあまり好まないため、真っ赤とはいえ激辛料理は遠慮したい部類だ。
紅茶は赤みの強い葉を使ったものであれば飲めるし、野菜ジュースも最終的に赤い見た目ならば何が混ぜられていようと可。
例外的に口にできる『赤』以外のものとして、水と石窯で焼かれた全粒粉の硬いパンがある。
これは、水と全粒粉の釜焼きパンが、かつて吸血鬼と縁深い宗教団体が『聖餐』として信者に提供していたからだと言われているものの、時代が古すぎて真偽のほどは定かではない。
そして、古代であればいざ知らず、現代の吸血鬼は老いるし殺すことが出来る。
ただし、常軌を逸するほどの治癒力と回復力を持つうえに、極度の失血状態に陥ると狂乱して誰彼構わず手当たり次第に血を吸収、補填しようとする。
更には吸血鬼を殺した人間とそれに由縁する人間に障りを齎すとされている(範囲が漠然としているものの、公的に残されている記録では蛮勇を奮った王子様が死闘の末に吸血鬼を殺すことに成功したものの、本人は勿論のこと親兄弟から八親頭以内の親族、恋人、気に入りの情婦、直属の部下から使用人、それどころか贔屓のレストランのシェフや音楽家といった一見関係なさそうな人物に至るまでの多くが奇怪死したという)ため、吸血鬼は殺さず老衰させろというのが今の方針だ。
妻を娶ることは禁じられていないものの、婚姻の許諾が下りたという記録もなければ、子を授かったという記録もないため、生殖能力を有しているかも不明のまま。
セラータは突然変異の吸血鬼として生まれたというだけで、名ばかりの伯爵家を継がされ、寂れた洋館に最小限の使用人と共に幽閉され、死ぬまでおとなしくしていろという命令を下されたのだ。
歴代のサルドニクス伯爵の扱いと違う点といえば、時折『仕事』を与えられることだろうか。
セラータの生家である侯爵家は野心家で、殺せず生かすのであればと、賃金報酬や僅かな自由時間、娯楽と引き換えにセラータの能力を『有効活用』し始めた。
それは政敵への牽制であったり商売敵の排除であったり、清らかさの欠片もない裏側の仕事ばかりであったが、比較的温厚で事勿れ主義のセラータはそのような面倒事を処理しながら大きな波風を立てることなくうまく生きてきた。
あの日、リース・レイニスに出逢うまでは。
「おはようございます、旦那様」
甘く柔らかな声に促されて目を開けば、愛しい恋人の姿がベッドサイドにあった。
小型のワゴンを押していて、その上には紅茶のポットが乗せられているようだ。
なんと幸福な目覚めだろうとセラータは感動した。
生まれてこの方、こんなにも幸福な朝があっただろうか。
リースと出逢い、心と身体を通わせ合ってから、セラータはもう幾度もそんな思いを抱いている。
リースがそばに居るだけで、この世界は彩りと幸せに満ちるのだ。
寝転がったままリースの手を引いて寝台へ招き入れる動作をしてみる。
嫌がられるかなという一抹の不安をよそに、慈愛に満ちた微笑みでセラータの我儘を聞いてくれたリースは、靴を脱いでベッドにあがりすっぽりと腕の中に収まってくれた。
両腕でしっかりと抱きしめ、首筋の香りを胸いっぱい吸い込む。
その芳しさに牙の根元が僅かに疼いたものの、吸血鬼の生態なのか朝はあまり吸血衝動に駆られることがない。代わりに男の本能の部分が疼きそうだぞと少々困っていると、リースはおでこに小さな口付けを落としてくれた。まるで、母親が小さなこどもを宥めるかのように。
「怖い夢を見ました?」
そう問いかけられて、少しだけ考える。
一般的な区分でいえば怖い夢だっただろう。自分が子どもであれば泣いてオシッコを漏らしていたに違いない。けれども、セラータにとってはもう随分と見慣れた夢だった。
だがセラータは、甘やかして貰うためだけに「怖かった」と頷き、自分よりも十歳も年下の少女に身を寄せた。
リースは何もかも理解しているような優しい眼差しで、よしよしとセラータの頭を撫でてくれる。
「もう少し寝ていてもいいんですよ?昨日は、遅かったのでしょう?」
「うん……久しぶりに面倒くさい仕事だったなぁ。屋敷にひとり残してしまったけれど、留守中問題なかった?」
「はい。朝までぐっすり眠れました」
至近距離で話しているせいか、それとも朝のベッドの中という空間のせいか。ひそひそと潜めるような声の大きさで紡がれる会話にまた、幸福を見つけ出す。
セラータは昨夜、生家より持ち込まれた厄介な仕事を済ませるために夜遅くまで外出していたのだが、仕事の内容や成功如何よりも、屋敷に残してきたリースのことが気掛かりでならなかった。
彼女は優秀な人材で、誰もがその類稀で突出した能力を欲して個人的に取り込もうとしていた。雇用という形式ばかりではなく、妻や愛人という形でもだ。
裏側の仕事をしているセラータはおそらく、リース本人の耳に届く以上の、彼女に纏わる噂や謀略を耳にしてきた。
だからこそセラータは、リースが自分に相談することなく就職先を決めた(しかも住み込みで)と聞いたとき、彼女は近いうちに自分の手を離れてしまうのだろうなと思ったのだ。
まさか吸血鬼という異端者の元へ、身を寄せてくれるなんて思いもしなかった。
同時に、ここが吸血鬼の住む家とも知らず、リースを狙ってセラータの屋敷にちょっかいをかけようと試みる愚か者がここ最近で急増している。
セラータは吸血鬼であるが治癒や回復に特化した能力であり、外部に向けた攻撃的な魔法は殆ど使うことが出来ない。
メルトは容赦のない攻撃魔法を使用できるが、幾らかの制約に縛られているためその隙を突かれると些か不利になる。
だからこそ、どうやってリースの身を護るか…というのが喫緊の課題であったのだが。
ひとりで暮らしているときにも迷惑千万な不埒者が居ましたので撃退方法は心得ています!と元気に宣言したリースは、敷地内に侵入した不埒者が痛い目に合うような仕掛けを手早く用意した。
そうして昨夜、セラータとメルトが屋敷に戻ってみると、
外門から内門の間に掘られた落とし穴(深さ十メートル弱、底には軽度の毒を持つ棘のある植物が敷き詰められている)に落ちた者がふたり、
土と堆肥まみれのボロボロな状態で屋敷の内門付近の木に逆さ吊りにされた男がひとり、
そして警備用の大型土人形が外門と内門の内側にそれぞれ一体ずつウロついている…というカオスな状態であった。
ちなみにリースはすやすやと眠っており、事情を聞こうと部屋の扉を開けたセラータはその安らかな呼吸音と可愛い寝顔を堪能したあと、眠りを妨げぬようそっと静かに扉を閉めた次第だ。
捕まえた男たちの処理はメルトが既に済ませているだろう。
生け獲りにしたリースを褒めつつ、セラータはひとまずあの土人形について尋ねることにした。
魔法で人造生命体を創造することは禁じられている。
禁則事項に触れたとなれば、さすがにどこからどのように追及されるかわからない。
けれどもリースは、あの土人形は魔法学校にいる間も使っていたので大丈夫ですよと頷いた。
「昨日の仕掛けは全部、害獣対策として使われている生活魔法なんです。土人形は予め動く範囲と動作を組み込んだ装置を作って置いておくだけの簡単な仕掛けです。夜間に野菜泥棒を働く人間や獣を哨戒するために王都近郊でも使用されていますし、需要があるので毎年民間団体が改良案を提出していて、日々発展しているんです。今回の土人形は去年許諾されたばかりの技術を取り入れたものだったので、不埒者退治にも大いに活躍してくれました」
にこにこと笑顔で説明してくれるリースにセラータも堪らず頬が緩む。
きっと、一般的な生活魔法に比べるととんでもない仕上がりなのだろうが、それでもリースが扱う魔法は生活補助のために必要であるとされ、広く大衆に解放された魔法だ。
生活魔法の発動が公的に許可されている私有地で、『自身の居住区域内で、生活を安全で快適にするためであれば、使用に特別な許可や申請を必要としない』と定義づけられている生活魔法を使ったとして、文句をつけられる筈もない。
生活魔法については、その利用方法を新たに協議したり既存のルールを改定したりする場合、国民全体にその内容が開示され、魔法使用資格を有する者全員を対象とした投票がおこなわれる事になっている。
これは、生活魔法が民衆の生活に大きく関与しているためであり、かつて貴族の一存で生活魔法の使用に制限をかけたところ大暴動が起こり、役所と貴族の邸宅が鋤や鍬や棍棒、肥溜め桶や腐った野菜を持った民衆に襲われ、魔法を使わない純粋なる暴力によって痛めつけられたという苦い過去に起因している。
襲撃を受けた役所や貴族邸に護衛の魔法使いは居たものの、彼らはカビが生え虫の湧いた野菜を投げつけられたり、糞尿を撒き散らされたことはなかったのだろう。あっけなく無力化され、お偉方の多くが肥溜めに頭から落とされたと伝えられている。
よって、貴族らは既に広まっている生活魔法に口を挟み手出しすることを嫌忌する傾向にある。
自分の治める土地だけで済むならばまだしも、国全体を巻き込むとなれば尚のこと。
使用を禁じることもできず、不用意に見咎めるわけにもいかない生活魔法を巧みに扱うリースはまさに翼を得た猛虎というわけだ。
他にも色々と便利な生活魔法があるのだと機嫌良く説明を続けようとするリースに、セラータは堪らず口付けた。
十七歳の少女は、来月十八歳になる。
三ヶ月後には交際二周年だ。
幸せが今、自分の腕の中にあるのだと思えば、セラータはいつでも泣きそうになる。
「リースは確かに強いけれど、それでも、危ない時は僕を盾にして下がっていて欲しい。その血の一滴たりとも、他の人に見せてはいけないよ…全部全部、僕のものなのだから」
僕のものであり、僕の糧となるものだ。
リースは無言でセラータの瞳を覗き込んだあと、ややあってこくりと頷いた。
「セラータ様を盾にして、めいっぱい敵を攻撃します」
「はは、いいね…正しい盾の使い方だ」
「盾とは攻撃を防ぐためのもの。相手からの攻撃を防いだあとは素早く反撃すべし、です。魔法学校の戦闘訓練で教官が言っていました」
「戦闘訓練なんてものもあるんだね…魔法使いを戦争に使おうとする、悪い因習だ」
「魔法使いは抑止力であり攻撃力である、というのは、表向きは平和主義だと言われていた四代前の王の言葉ですね。強力な魔法使いひとりで戦況を左右できるが、戦争は決して終わらない、とも」
「いつの時代も人間は争い合うばかりだね。確か王立魔法学校の卒業生は他国との戦争開始時には国からの招聘に応じなければならないという規則があったはずだ……たとえそのような国家危機の状況であっても、僕はリースをこの家から出したくはない」
「招聘のお手紙が届いたら、戦争反対!って声をあげましょう」
「というか、そういった時には、僕は戦争相手の国に使節として送り込まれた挙句、そこで瀕死の重傷を負わされて狂乱させられる手筈らしいんだよね…父や兄からは障りを撒き散らすにしてもせめて国のために暴れて死ねって言われているし」
そういう『もしも』はこれまでに幾度も聞かされている。
暇さえあれば吸血鬼の有効活用についてあれこれと考えているらしい兄は、顔を合わせるたびに『こういう死に方をすればお前も少しは有用だ』と言ってくるし、聞かされすぎて最近は逆に構って欲しいのかな…と思うようになってきたほど。
だが、セラータがそう言うなり、リースはムッと顔を怒らせた。
初めて見る恋人の憤怒の表情(といっても眉を寄せて口を引き結んだくらいの、見る人が見ればちょっと不機嫌なのかなと首を傾げる程度のものだが、普段陽だまりのような表情で過ごしているリースにしては珍しい不愉快そうな表情)にセラータはぎくりと身を強張らせる。
「そんな事は絶対にさせません!」
「うん、まあ…自分からそんな場所に行くつもりはないし、今はリースが居るから余計にね…」
リースから「行ってこい」と送り出されたら決死の覚悟で行くけれど、今の幸福を手放してまで死地に赴きたいとは思わない。
いざとなったら面倒な命令を押し付けてくる奴ら全員の血を吸い尽くして殺してしまおうと思うくらいには、リースとの生活が大切だ。
リース以外の血は不味そうだから進んで飲みたいとは思わないが。
リースの血はなんというか甘露のようで、甘いのに清涼さに満ちており、いくらでも飲みたくなる味わいなのだ。
噛んだ瞬間に立ち上る芳醇な香りに酔いしれ、気づけば無我夢中で吸ってしまっている。
ちなみに乳母代わりであったマーサの血の味とは全く違う。マーサの血は…おそらく人間でいうところのミルクのような味わいなのだろう。可もなく不可もなく、生命維持のために取り込んでいたという認識だ。
うっかり恋人の血の味を思い出してしまったがために、シャツの襟元から覗く素肌に目がいく。
自制自制…と唱えていると、セラータの心を読んだかのようにリースは艶めいた笑みを浮かべた。
十歳も年下なのに、こんなに色っぽい表情をするなんて反則だ。
「飲みます?紅茶も、冷めてしまいましたし」
「いや……今はやめておこう。仕事も残っているだろうし、メルトから文句を言われそうだ」
それでも名残り惜しくて鎖骨を指でなぞると、くすぐったそうに首が竦められる。
可愛い。
こんなにも愛らしくて素晴らしい恋人が居るなんて、自分に拍手を送りたいくらいだ。
血は吸わないが、代わりにキスしても?と問いかければ、いけませんよと制された。
「おはようのキスは使用人からするものです。私の仕事を奪ってはいけません」
「それは失礼…じゃあ、新人メイドさんの仕事ぶりに期待しよう」
「もう起きます?」
「今すぐキスして欲しいから起きようかな」
よいしょ、と上体を起こせば、隣で同じように身を起こしたリースが、寝転がったせいで乱れた髪を手早く整えてこちらに向き直った。
可愛い。
「旦那様」と呼びかけてくる声も可愛いし、ゆっくり近づいてくる顔も可愛い。
やがてくるんと丸まった睫毛が触れるほどに近づいて、唇に柔らかく温かな幸福が齎された。
「おはようございます」
「……おはよう。今からもう一度寝るとしたら、おやすみのキスをくれる?」
「それは許諾しかねます、先生。おはようとおやすみのキスは一日一度ずつの業務規則です」
割り込んできた声の方向へ視線を向ければ、澄まし顔のメルトが当然のように立っている。
早い段階で入ってきたことには気づいていたが、気を利かせて出ていってくれないかなとずっと思っていたのだ。
リースもリースで、セラータとイチャイチャする場面にメルトが同席するという状況に慣れすぎている気がする。今度しっかり話し合ったほうがいいかもしれない。
ベッドから降りてスカートの皺を伸ばしたリースは、左手をワゴンの持ち手に添え、右手にポケットから取り出した櫛を持って掲げた。
冷めたはずのワゴンのポットから湯気が復活しているのは、有能な使用人が手早く魔法で温め直してくれたからだろう。
「紅茶にします?それとも髪に櫛を入れます?」
小首を傾げた可愛い可愛い使用人を膝上にお迎えして、丁寧に髪を梳いてもらったのは言うまでもない。
今日も幸せな一日になりそうだ。