後編
リース・レイニス、満十七歳と十一ヶ月。
今日からセラータ・サルドニクス伯爵家で使用人として働きます!
「というわけで、末長くよろしくお願いします!」
屋敷の主人の執務室を訪れ、元気に自己紹介と挨拶を済ませたリースは、執務机に突っ伏してしまった屋敷の主人の反応を窺うべく首を傾けた。
セラータの斜め後ろには、彼の従者であり、先ほどリースを屋敷の中へ案内してくれたメルトが澄まし顔で立っている。
ややあって、机に伏していたセラータが顔を上げた。
どこか疲れたような翳りのある表情は陰気さを際立たせており、額を押さえて「ふぅ…」とため息を吐いた姿には根っからの苦労人気質が滲み出ている。
気持ちを落ち着かせるためかひと口お茶を飲んだセラータは、リースを真正面から見据えて言った。
「………きみは、僕の恋人ではなかっただろうか」
「はい!本日から、使用人でもあります!」
元気よく返事をしたリースに、セラータは再び額を押さえた。
ぐぐっと寄せられた眉を見て、もしかすると頭痛がしているのかもしれないわ…お薬を飲まなくていいのかしら…とリースはソワソワしてしまう。
「………メルト、」
「マーサの引退を彼女に話したのは先生でしょう。先生の留守を見計らって履歴書を持って突撃して来たのが先月の初めのこと。それから身元調査などをおこない、問題がなかったため採用と致しました」
「いや、身辺調査云々の前に、僕への報告や連絡、相談は!?」
「使用人の雇用・解雇につきましては一任していただいております」
しれっと受け答えするメルトに、もう何を言っても無駄だと判断したのかセラータはもう一度腹の底から深いため息を吐き出した。
セラータ・サルドニクス伯爵はまだ齢二十八の若造だ。生まれは侯爵家の二男なのだが、理由があって若い頃からサルドニクス伯爵という家名を背負わされている。
現在のサルドニクス伯爵は、一応は侯爵家の飛地にある土地を治める役目を担っているものの、執政官は別で派遣された人物が居る。
侯爵家がセラータに命じたのはただひとつ。
サルドニクス伯爵として『おとなしく』していること。
彼が生家から冷遇されていることは言うまでもなく、この伯爵邸も広い敷地を有しておきながら正式な使用人はふたりだけ。
以前はマーサという老齢のメイドが勤めていたのだが、近々彼女が引退する予定だという情報を得たリースは、死に物狂いで生活補助に役立つと思われる魔法を極めに極め、王立魔法学校の首相卒業を以てサルドニクス伯爵邸の使用人というたったひとつの採用枠を勝ち取ったのだ。
メルトによる事前報告でセラータは、新しく雇用する予定の使用人は『年若いがワケありの女性』だと聞いていた。
恋人を大事に思っているセラータからすれば年若い女性を雇用することでリースが不安視しないか酷く心配で、今日の顔合わせでその娘がどのような事情を抱えているのか、そしてどのような気質なのかしっかり把握したうえでリースにも改めて説明しなければと思っていたのだが。
まさか現在交際中の恋人が突然「使用人として雇っていただきました!」と押しかけて来るとは。
いくら屋敷に於ける雇用云々を従者であるメルトに一任していたとはいえ、主人の恋人を使用人として採用するのは果たしてどうなのか。
というか主人の恋人の身辺調査をしたという事実もまた衝撃である。
採用されたということは彼女の身の潔白は証明されたのだろうが、一体どこまで深掘りして調べたものか。
セラータは執務机の前に立ったまま心配そうな表情を浮かべるリースを手招きで呼び寄せた。
「………おいで」
「はい!失礼します!」
元気よく返事をし、ここ、と指示された場所に迷いなく腰を下ろしたリースに対し、片眉を上げたのはメルトだ。
その視線はリースの行為を見咎めているというよりも、セラータの指示出しを非難しているように見える。
セラータが手招きし、リースを座らせたのは自身の膝の上なのだ。
横座りになったリースの腰を両腕で緩く拘束するように支えている。
「先生、使用人を膝に乗せるのですか?」
「彼女は僕の恋人でもあるからね………はあ。先日卒業後の進路を聞いたときに、もう住み込みで働くことが決まっているというから同棲の提案をやめたんだよ?」
「これからは同じ屋根の下で生活させていただきます!」
セラータとリースが出逢ったのは王立魔法学校のある王都近郊だが、お付き合いを始めてからはいつもサルドニクス伯爵邸でデートを重ねていた。
学生の殆どは王都近郊のアパートメントや借家に身を寄せて学生時代を過ごし、卒業と共に生家へ戻ったり就職先に合わせて新たな棲家を見つけたりするものだ。
王都と伯爵領とを行き来をするのはそれなりに大変だが、王立魔法学校を卒業したエリート魔法使いであれば働き方も融通をきかせてくれることが多い。就職を機に一緒に住まないかなと提案しようとしたセラータだったが、既に住み込みの勤め先から内定を貰ったというリースに、若者の将来を邪魔するわけにはいかないな…と一歩身を引く形で諦めたのだ。
なんなら、住み込みで仕事をするならこれから会える機会も減り、いずれ別れを覚悟する日も遠くないのでは……などと思っていたくらいだ。
膝の上で「これから毎日一緒ですね」と見上げてくる恋人がいくら可愛いからといって、絆される前に文句や不満のひとつは言っておかなければという気持ちになる。
「普通に恋人として同棲するのではいけなかったの?」と顔を覗き込んでくるセラータと至近距離で目線を合わせたリースは、その憂いた目元に堪らずポ…ッと頬を染めた。
セラータは元気溌剌な人物ではなく、物静かで落ち着いた雰囲気の男性だ。
生真面目そうに見えてその実、喋らせると多少軽薄に思える言動をすることもあるのだが、それは彼なりの処世術であり、望まずとも齎される問題への対処法であり躱し方として身につけたのだろう。
むしろ、雪曇りの日や雨の日、霧の日に出逢うと幽鬼と間違えそうなほどに陰鬱で顔色が悪い時もあり、そのような暗澹として薄ぼんやりとした姿こそがセラータの生来の姿なのではなかろうかとリースは思っている。
だが、そんな希薄な生命力が激しく燃え上がる瞬間があり、リースはその一瞬に見せる彼の獰猛なまでの眼差しが大好きだった。
もちろん普段のセラータも好きだが、特別なときにしか見せてくれない彼の秘めたる表情をもっと間近でたくさん見たい!という理由でサルドニクス伯爵邸の使用人になることを決めたのだ。
セラータは普通の同棲を提案してくるが、それでは離れているあいだに見逃してしまうものも多くなる。
それに、王立魔法学校の首席卒業者は色々な意味で人気が高い。
いくら恋人関係ですと主張したところで、冷遇されている侯爵家の二男坊…名ばかりの伯爵位を継がされ半ば幽閉されているような男の元に出入りすることが問題視されない筈もない。
二人は引き離され、リースの意思を半ば無視した形でどこぞの権力者の家に取り込まれた挙句、政争の道具にされたり良いように使い潰されたりする可能性が低くなかった。
「使用人が嫌なら結婚してくれます?」
「うーん……僕としては早々にお嫁さんとして迎え入れたいけど、本家から色々煩く言われるからねぇ。何かしらの既成事実を作っても無理やり引き離されてしまいそうだし、即時結婚するのは難しいかな…」
悩まし気に首を捻ったセラータに「そうでしょう」と頷き返せば、「こんな甲斐性なしでも見捨てないでいてくれるのは有り難いことだ」と額に唇が落とされる。
セラータがいくら不満を口にしたところで、現時点ではサルドニクス伯爵邸で正式雇用されたうえで、仕事の合間にイチャイチャするのが一番良いのだ。
「ひとまず雇用を認めよう。メルト、彼女には使用人らしくない上等で可愛い服を用意してあげて。あと床に這いつくばって拭き掃除をするとか、煤まみれで煙突掃除をするとか、そういう仕事は免除の方向で」
「ご安心ください!すべて魔法でやります!」
「そうだよね…きみ、首席卒業だもんね」
「学長に進路を聞かれた際に永久就職の予定がありますと答えたところ、物凄く冷たい態度を取られるようになりました!」
「王立魔法学校の学長って王の遠縁だよね?彼に冷遇されてめげないのすごい」
「魔法使いなんて偏屈者や変わり者ばっかりですもの!」
「そういうきみも十分変わり者だよ……キスしても?」
そっと寄せられた顔を軽く手のひらで制して、リースは小首を傾げた。
リースの言葉をじっと待ってくれるセラータの顔は晴れやかではないけれど、色々と問答をしたおかげで吹っ切れたのか、もう頭痛を抱えているような悩ましい表情ではなくなっている。
恋人として口付けを求めようとするセラータに、正式雇用が認められたばかりのリースは使用人として問いかけた。
「それはお仕事に含まれますか?」
「あー……含まれる含まれる。朝と夜は必須で、できれば日中も、頑張れって言いながらキスしてくれたら仕事が捗るよ」
斜め後ろから突き刺さるメルトの冷ややかな視線を物ともせず、セラータは翳されたリースの手のひらに小さな口付けを落とした。そして視線で「キスしてくれる?」と問う。
リースは年上の恋人から可愛くおねだりされるのも好きなため、少し身を捻って首筋に腕を絡めると、伸び上がり唇を触れさせた。
「今はお昼ですので『頑張れ』のキスですね」
「うん……そういえば今朝のおはようのキスを貰ってないな…雇用って今日からだよね?」
「正式には本日の正午からになりますので、朝の挨拶は明日から適用されます」
メルトの生真面目な申告に、どうしてそういうところは必要以上にきっちりしてるんだ…とセラータは不満を溢す。とはいえ頑張れの口付けは何回しても構わないのだ。
ちゅ、ちゅと甘い口付けを交わし合う恋人同士に、メルトはうんざりした表情で「いい加減、雇用主と被雇用者に戻ってください」と苦言を呈した。
「先生は屋敷の主人として、リースさんの雇用について最終的な決定をお願いします」
リースを使用人として雇い入れるところまではメルトの判断で決めたものの、最終的に彼女と契約を結ぶのは当主のセラータである。
『サルドニクス伯爵家』に仕える使用人として契約するのか、『セラータ個人』に仕える使用人として契約するのか…メルトの手には二種類の書類が握られている。
そのどちらも、三日間の試用期間ののち、問題がなければ半永久的な雇用を約束するものである。
リースは期待に満ちた瞳でセラータを見上げ、セラータは当然のように個人付きの使用人としての契約書類を手に取った。
「僕の専属メイドさんになってくれる?」
「もしも伯爵夫人となる女性がこのお屋敷に来ても、セラータ様の専属のままで居られるということですか?」
「そうだね。というか、そんな女性は来ないよ」
「じゃあ、そう名乗る方が来ても箒で追い出しちゃいますね!」
むん!と拳を握ったリースに、セラータは満足げな眼差しを向ける。
セラータが現当主を務めるサルドニクス伯爵家は一般的な世襲貴族ではない。継承資格を有する者が現れた時にのみ、その家名と爵位を負うことになっている。
特定の土地や事業を有しているわけでもなく、爵位こそ立派だが、その生活は生家や王家からの支援に依拠しているのが現状。そんな家に大事な娘を嫁がせようとする貴族はどこにも居ない。
リースの生家は準男爵の爵位を持っているものの、この国に於ける準男爵は過去十年以上継続して一定以上の税金を納めた者に与えられる名誉称号のようなもので、身分的な括りでいえば平民だ。
ただし、王立魔法学校主席卒業者という付加価値は大きい。
視線で「きみこそ本当にいいの?」と問うセラータに、リースは力強く頷き返した。
リースとセラータ、双方の確認と合意のサインが必要とはいえ、「まるで結婚誓約書にサインしているみたいだね」と二人羽織のような姿勢でイチャイチャと重要書類に署名する二人にメルトは冷ややかな視線を向けるばかりだ。
いちいち言葉でツッコミはしないが、心底うんざりしていることを表情でアピールすることは忘れない。そんな従者の表情を見て見ぬふりするのも主人の仕事の一貫なのかもしれない。
署名を終えた書類には、インクが消されたり文章が改竄されないよう文書保存の魔法がガッチリとかけられた。
さすが王立魔法学校の首席卒業生というべきか、もはや国宝級なのでは?という程にしっかりと守られた書類をケースに収めるメルトを横目に、相変わらず恋人兼使用人を膝の上に乗せ続けたままのセラータは「座り直そうか」とリースを向かい合わせになるよう座り直させる。
いい加減に膝から下ろせよというメルトの冷ややかな視線は華麗にスルーだ。
リースは王都の古本屋で買った『有能な使用人になるための心得百ヶ条』に書いてあった『使用人たるもの主人の指示には否と言わずに従うべし』という項目を忠実に守り、大人しくされるがまま。
若干、両腿を跨ぐように大きく脚を開いたため、はしたなくもスカートが捲れ上がりそうになっているがそこはセラータが大判のブランケットですかさず隠してくれた。
春色のブランケットは薄桃色と薄黄色の織柄のなかに差し色で灰色が入っておりなんともおしゃれだ。
可愛いブランケットですねと言えば、欲しいならあげよう…いや、使い古しより新しく作ったほうがいいかな?と言ってくれるあたり、随分と甘やかされている。
セラータはこほんと軽く咳払いをすると表情をきりりと整えた。
リースは間近で見る恋人のキメ顔に胸をときめかせる。
「僕の屋敷に勤めるうえで守って欲しい約束事がみっつ…いや、十個くらいある」
契約書には絶対厳守の三箇条が記されていたが、どうやら増えたようだ。
勝手に増やさないでくださいというメルトの視線はやはり華麗にスルーされる。
「まずは僕を心から愛すること」
「はい!…ということはメルトさんは私の恋敵ですか?」
「敬愛しておりますが恋情や性愛の類ではありません」
首を横に振って即座に否定したメルトに頷き返すと、リースは「私はセラータ様のことを性愛の対象として見ていますが構いませんか?」と問いかけた。
セラータは生真面目な顔で「勿論」と深く頷く。
なんだこの茶番は…という従者の冷ややかな視線を歯牙にもかけず、セラータは生真面目な顔で二つ目の約束事を告げる。
リースは話が終わったタイミングでもう一度キスをしようと、目の前の薄い唇を見つめた。
「僕がきみに恋人として振る舞って欲しいと望んだときは、恋人に戻ること」
「戻らなくてもいつでも恋人ですよ」
「気分的なものだよ…でなければ、使用人として仕事を振りにくいだろう?」
使用人の仕事は綺麗なものばかりではない。
だから事情はどうあれ、恋人を使用人として採用するのはどうかと思うんだ…と言いたげな表情をしたセラータにリースはすかさずキスをした。
『主人が望ましくないことを口にしそうな時はキスして唇を塞ぐべし』とは、王都の新しい本屋で見つけた『屋敷の主人にめーっちゃ気に入られる二十の方法♡』という本に書かれていたことだ。
お膝に座る、耳にふぅと息を吹きかける、膝枕をする、ソフトに踏んであげる、大丈夫?おっぱい揉む?と優しく提案してあげる…などなど、愛されメイドになるための必勝法がたくさん書かれていたが、本棚の隅に隠されるように置いてあったことだけが謎だ。
不意のキスを受けて思わず言葉を切ったセラータを「使い勝手が悪くても解雇しないでください」と涙目で見上げてみる。
これも必勝法のひとつだ。
『キスで口を塞いだあとは、素早く涙目で要求を告げるべし』
相手が呆気に取られているあいだが勝負らしい。
セラートは涙目のリースを見るなり「う…っ」と胸を押さえたあと、重々しく頷いた。
「永久就職の約束をしたからには絶対に解雇はしない。一生離さない」
「正確には半永久就職です、先生。そして解雇の権限は私に委任されています」
「水を差さないでくれ。そしてリースの解雇は絶対に禁止だ。僕の思っていた永久就職と違う気がしなくもないけど、もう契約書類には署名したし、むしろあれは婚姻届のようなものだったと信じている。もしもリースに振れない使用人の仕事があっても僕がやればいい話だし」
ここでメルトにさせると言わないあたりセラータは従者思いの主人なのだろう。
リースは「魔法でやれることもありますので、何でも言ってくださいね!」と元気に申し出る。
健気にも見えるリースの姿に「可愛い…!」と感激したセラータだが、「でも僕の相手をする時は片手間に魔法でちゃっちゃと済ませてはいけないよ?大いなる愛を持って接して欲しい」としっかり忠告するのを忘れない。
絶対零度の冷ややかな視線を送っていたメルトは、ふと大事なことを思い出したようだ。
「そういえば就職祝いはお渡しにならないのですか?」
「このタイミングで言う!?」
セラータがリースの卒業と就職に合わせてプレゼントを用意していたのは間違いないし、次のデートで渡そうと思っていたのは確かだが。
今渡すのは違うよね…?という表情のセラータに対し、リースは期待に満ちた視線を向けた。
就職祝いに何を用意してくれたのだろうか。
セラータは木漏れ日のような温かなものを選ぶセンスが飛び抜けているため、リースは小さな贈り物であってもとても幸せな気持ちになれるのだ。
恋人からのキラキラとした眼差しを至近距離で受けて無視できるほど、セラータは心が強くない。
観念したように小さく息を吐くと、一度リースを膝から下ろして執務机の横に立たせ、引き出しから手のひらに収まるくらいの大きさの小箱を取り出し、リースの目の前でパカリと開いた。
ベルベット生地の中央に鎮座するのは、白銀色の指輪。
セラータは、もともと用意していた台詞を読み上げつつ、その指輪をリースの左手の薬指へと嵌める。
「リース、きみを愛しているよ。卒業と就職おめでとう。これから仕事で忙しくなると思うけれど、どうか僕を忘れないで…時間の許す限り僕のそばに居て欲しい」
「セラータ様…!もちろんです!ずっとおそばに居ます!」
リースは左手の薬指にぴったり嵌った指輪とセラータの顔を交互に見つめると、我慢できないとばかりにびょいんと飛びついた。
抱き止めてくれた恋人にぎゅうぎゅう抱きつきながら、大好きが止まりません…!とぐりぐり額を押し付ける。
んー!とキスを強請れば、呆れたような微笑みと共に唇が降りてくる。
一度、二度、三度、四度、五度……六度、七度目くらいで、室内に空虚な拍手が打ち響いた。
「素敵な茶番ですね。そろそろ終わってください」
「そもそもこんな茶番になったのはきみにも原因があるだろう!?」
セラータがリースへの卒業祝いを買った場には当然ながらメルトも同席していた。
彼女は受け取ってくれるだろうか…という不安な呟きも聞いていた筈だし、なんなら渡す時の台詞を考えていたときにも斜め後ろに控えていた。
その時に『彼女は我が家で雇用予定です』とでも言ってくれていれば良かったものを、黙っているから一生懸命考えたロマンチックな台詞が台無しになってしまったのだ!とセラータは憤慨した。
メルトからすれば、マーサの雇用が終わることを事前にリースに伝えてしまったセラータにこそ非があると主張したい。そもそも『驚かせたいから内緒にしましょう』というリースの希望を聞き秘密にしていたのだから、責められるべきはメルトではない。
互いの言い分を無言でぶつけ合う主従の横で、リースは全力ではしゃいでいた。
指に嵌った指輪のなんと綺麗なことか。
白銀色の指輪の表面には繊細な彫り模様が施され、まるで雪夜の星のように小さなダイヤモンドがキラリと瞬く。
お金に物を言わせた大粒のダイヤモンドではないところがセラータらしい。
「素敵!どんなお仕事をしても一片たりとも摩耗させないように絶対防御の魔法かけなきゃ!」
「いや、年月を経るほどに風合いが良くなるというか味が出てくるって言ってたから…」
「セラータ様の小指にもこっそりお揃いが嵌められてますよ」
「お揃い!私たちの愛と絆の証なんですから、絶対に壊れないようにしましょう!」
素早くセラータの手を取ったリースは、水仕事をしても土や油で汚れてもインクが付いても大雨に降られても刃物で切り付けられても爆発に巻き込まれても決して傷が入ることがないよう、生活魔法のひとつである防護魔法をかけた。
『護れ』という詠唱と共にリースの指先に淡い光が集まり始め、次第にぎゅっと収束し、コォォォ…と音を立てながら直視できないくらいの眩い光に変化したその魔法をちょんと指輪に触れさせる。
指輪は一度ペカッ!と光ったあと、元通り淡い煌めきを宿す白銀色へと戻った。
「え……僕にはよくわからないが、物凄い魔法じゃないのか、これ」
「賢者レベルですね」
「普通の生活魔法(極)ですよ!」
生活魔法で一般的に使われる防護魔法は、いわゆる生活防水・生活防塵に該当するレベルのものだし、淡い光がぽわわと光ったあとは長くても1日程度で切れてしまう。
リースがかけた防護魔法は何事もなければ半永久的に効きます!という規格外な代物で。
極めた生活魔法は果たして普通という区分に該当するのか…と小難しい思考に囚われそうな頭をどうにか軌道修正し、セラータは再び執務用の椅子に腰かけた。
だが、新規雇用の使用人との面談の場に恋人が登場して驚いた挙句、指輪という渾身のプレゼントを贈呈する儀式までおこなったため、心身の疲労がピークに達していた。
残りの約束事を伝えるのは追々でいいだろう。
「色々思うところはあるけれど、これから宜しく」
「はい、よろしくお願いします!」
リースはぺこり!と勢いよく頭を下げる。
下げた勢いのまま顔を上げると、目の前には静かに微笑むセラータの姿。
表情こそ微笑んでいるが、纏う雰囲気は危険な暗さを含んでおり、室内の空気も心なしか重い。
背後に控えるメルトも微動だにせず冷たくリースを見つめていた。
ややあって、透明な静寂のなかに漆黒のインクを一滴落とすような声で、セラータが告げた。
「既に十分心得ているとは思うけれど……僕の秘密は口外厳禁。破れば、きみの命を貰うよ」
セラータの瞳は鈍い煌めきを放ち、暗闇から覗く獣のような鋭い色を宿している。
前任者であったマーサは解雇宣告を受けた翌日に非命に倒れたと聞いている。
長く仕えた者であっても、この屋敷の中で見知った秘密を外部に持ち出すことは許されないのだ。
リースはそんなセラータの瞳をうっとりと見つめた後、「はい…!」と元気よく頷いた。
セラータは目を瞠ると仄暗い雰囲気を霧散させ、がくりと首を落とす。
「脅してるんだから元気に返事しないで」
「お付き合いを始める時にお伝えした通り、わたしは身も心も捧げる所存ですので!」
「確かにそういう約束だったけどさ…」
色々と締まらないなぁと苦笑したセラータは、上着の内ポケットから家紋の入った印を取り出すとメルトに手渡した。
「ひとまずメルトは書類の処理を優先して。終わったら食事と休憩を済ませたあと僕の部屋の前で待機」
「かしこまりました」
印を受け取り恭しく一礼したメルトは、書類ケースを抱えて退出する。
ふたりきりになった部屋で、改めてこちらに向き直ったセラータの表情を見てリースは内心でひっそりと笑んだ。
そこに居るのは屋敷の主人ではなく、会うたび愛を交わし合う愛しい恋人だとわかったからだ。
「きみは……僕と甘い時間を過ごそうか」
「……恋人として?」
「そうだね…こういう形になったけれど、逢うのは実に三週間ぶりだ」
執務用の椅子に腰かけたまま両手を広げたセラータの腕の中にリースは喜んで飛び込んだ。
ぎゅっと抱擁しあい、互いの温度や匂いを堪能する。
ややあって、セラータが「欲しいな…」と囁いた。
声にも眼差しにも隠しようのない欲が滲む。
リースはうっとり微笑むと、躊躇いなく襟元のボタンを外し大きく寛げた。
鎖骨はもちろん、下着の上端が見えるほどに胸元が大きく露出しているが、恥じらうどころか積極的に素肌を晒し、差し出す。
「どうぞ」
セラータは「ありがとう」と優しく微笑み返すと、露出した肌に唇を触れさせた。
そして大きく口を開き、鋭く尖った牙を柔肌に突き立てる。
じゅる、と音がして、リースの身体から血が吸い出されていく感覚がする。
脳内は恍惚に満たされ、喉からは掠れた吐息が漏れる。
背骨が軋むほどにきつく抱きしめられ、肌から牙を抜いたセラータが鈍く光る瞳で見つめてくる。
この、獰猛な顔が好きなのだ。
こちらを食材としか見ていないような、血の味と食欲に溺れ浸った瞳。
ふたりきりの空間で、これから自分はどのように食べられてしまうのだろう。
もちろんリースはただの人間であるため、血を吸われすぎると死んでしまう。
際限なく食べたいという欲求と恋人を死なせたくないという苦悩に満ちた表情で、それでも本能のままに牙を突き立ててくるセラータを、慈愛と情欲を以て抱きしめる。
リースの恋人であり今日からご主人様なセラータ様は、吸血鬼。
持て余していた人生に、驚きと彩りを与えてくれたのはたった一人の異端者。
リースにとって、彼のそばに居ること以上に愉しいことなど有りはしない。
「大好きですよ、旦那様」
夢中で赤い甘露を吸い上げ肌をねぶるセラータの耳に唇を寄せ、内緒話のように囁きかける。
『屋敷の主人にめーっちゃ気に入られる二十の方法♡』に書かれた第一項目『密やかに愛を囁け』を実践したところ、とんでもなく愛されたのは言うまでもない。