前編
王立魔法学校は狭き門である。
入学に必要な知識・技能は、国内に三校ある他の魔法学校に於ける卒業レベルに匹敵する。
そして、かつての大魔法使いリンガーベルの提唱した『魔法技能の後天的な発展は二十歳まで』という理論を支持しているため、入学可能な年齢は十五歳までとされている。
入学後はおよそ四年間、みっちりと超一流の魔法使いになるべく教育が施される。
在学中に試験は一度きり。
たった一度の卒業試験を合格出来なければ、即時退学。
他の魔法学校への編入は認められるものの、卒業したと見做されないため、在学中にどれほど血の滲むような努力をしたとしてもそれが記録として残されることはない。
魔法学校を卒業すれば、上級魔法使いとして登録され、その能力を仕事に活かすことができるものの、やはり一般の魔法学校卒業生とお王立魔法学校の卒業生とでは待遇に大きな差が出る。
王立魔法学校を卒業後は多くが国の研究機関や王宮の魔法省に勤めることとなり、出自に関わらずその能力値を評価されエリート中のエリートとして一定の地位を約束されるのだ。
リース・レイニスも映えある王立魔法学校を、なんと首席で卒業した才女である。
十三歳で入学し、満十七歳と十ヶ月で卒業を迎えたリースは他の学生たちよりも幾分か遅い時期にではあったが、卒業後の進路も無事希望通り叶えることが出来た。
今日は就職先への初出勤の日。
採用担当官とは幾度か顔を合わせているものの、今日は雇用主とも直接挨拶することになっている。
大事な顔合わせも控えているとなれば、気合いも入るというもの。
リースは朝七時に目覚めるとまず身だしなみを整えた。
それから紅茶を淹れてパンを用意し、生活魔法のひとつである蓄音魔法で小箱に閉じ込めた可愛らしいオルゴール音を聞きながらささやかな朝食時間をとる。
朝の食事を抜くとエネルギー不足で勉学にも魔法にも身が入らなくなるため、学生時代からどれだけ遅刻ギリギリになろうと朝イチの小テストの学習状況がイマイチだろうと朝食の時間だけは確保してきた。
今日は大慌てで食べる必要はないけれど、悠長にしていたら初出勤に遅れてしまう。
朝ごはんを済ませて口内環境を整え、身だしなみの最終チェック。
そして魔法で手早く洗浄と乾燥までを終えたカップを手持ちのボストンバッグに押し込むと、空っぽになった部屋と向き合った。
「さらば、我が学び舎!」
実際には学び舎は王立魔法学校のほうなのだが、リースが滞在していた学生割引が適用されるアパートメントでも、学び舎と称しても良いほどに物凄く勉強した自負がある。
リースは才女で、大した努力なしでも王立魔法学校に入学できるくらいには能力に秀でていたけれど、とある目標が出来てからは本当に血が滲むほどの努力をしたのだ。
それもこれも今日という日のため…!
四年以上滞在したアパートメントに鍵を掛け、扉に備え付けられた郵便受けにポトンと落とす。
指定された日までに退去日すべしとの通達であったため、後日アパートメントの管理人が部屋の確認をしに来るのだろう。
敷金礼金という概念はないものの、あまりに状態が酷い場合は王立魔法学校から就職先を通して本人へと通達が行き、補修が完了するまで出勤停止措置命令が下されるため、多くの学生は比較的綺麗な状態を維持している。
たまにノイローゼになった学生や酔いを深めた学生が色々やらかしたという話を聞くが(数年に一度は痴情の縺れによる事件も起きるらしい)リースの周りは比較的静かであった。
重たいキャリーケースとボストンバッグを生活魔法で軽量化して運ぶ。
中には大量の本と、年頃の女子にとって必要最低限と思われる衣服が圧縮魔法でぎゅうぎゅうに押し込められているため、開く場所を慎重に選ばなければ大惨事になるだろう。
公共の場において使用できるのは『軽量化』や『保温・保冷』などの弱い補助魔法だけ。それ以外の大々的な魔法は許可された場所以外での使用は禁じられているため、魔法使いといえども空を飛んだりはせず、他の人たちと同じように魔鉱石で動く電車に乗って目的地へ向かう。
少し寂れ始めた街で降り、疲労軽減と移動補助の魔法を足にかけて街の中心地から郊外に向かってせっせか歩く。
小一時間歩いたところで、不意に茂みに隠れた脇道のひとつに石畳で整えられた道が現れた。
石畳をなぞるように歩を進め、重々しい鉄柵をむぎぎと開く。
勝手に開けていいのかと問われれば、良いのだ。
むしろこの鉄柵を開けていいのだと知らない人はこの奥の屋敷の外門にすら辿り着くことが出来ない。
もうしばらく行くと、煉瓦造りの塀が見えてきた。
私有地であれば、土地の所有者の許可次第で生活魔法の使用が認められる。
リースは採用担当官から生活魔法全般の使用許可を貰っているため、「お邪魔します」と小さく呟き、二メートルほどの高さのある塀を生活魔法である登攀を使ってひょいと乗り越えた。
外門から内門までおよそ二キロメートル。
これは生活補助の為…と心で唱え、禁則事項ギリギリの、転移に満たない短い瞬歩を刻む。
これは王立魔法学校の卒業生であっても誰しもが使える技ではないけれど、努力に努力を重ねた稀代の天才とも言われたリースには、スキップと同じくらいの難易度だった。
内門から数メートル右手側、人間がひとり通れるかどうかという大きさの通用門のところにひとりの青年が立っていた。
身なりの良い青年で、目の前のお屋敷に住む息子だと言われても違和感はない。
けれども肩までの髪を低い位置できっちりと一本結びにした青年は、リースに目を向けたあと胸元から取り出した懐中時計の針を確認すると「概ね時間通りですね」と頷いた。
そして内側から通用門の鍵を開け、どうぞとリースを招き入れる。
「ありがとうございます、メルトさん」
「あまり声を立てられませんよう。先生に気付かれますよ。ここから一度、控え室に案内します。面談の予定時刻になり次第、先生の執務室にてご挨拶を。執務室の場所はご存知でしょう?貴女の正式な居室は先生がお決めになりますので荷物はまだ解かないように」
「はい」
ではこちらへ…と足早に歩く青年の後ろを、見失わないようについていく。
リースはこれまでに数回このお屋敷を訪ねたことがあるものの、あくまでお客として、大きな内門と玄関を通って招かれただけだった。
ゆえに、通用門から屋敷の側面を回り、人目に付かない場所にある裏口から出入りするのはこれが初めてだ。
まるで秘密基地を探検するような気持ちでドキドキしながらお屋敷の中へ入る。
使用人部屋は裏口のすぐ近くにあり、中央付近にテーブルと椅子二脚、そして壁際に細長いベンチのようなソファが置いてあるだけの簡素な空間だ。
決して明るい空間ではないものの、暖を取るための暖炉があるのはありがたい。
時間までこちらで待っていてください、と言い置いて青年は奥の扉から屋敷の表舞台へと戻っていった。おそらく、彼が先生と呼んでいたこの屋敷の主人に、新しく雇用する使用人が到着した旨を伝えに行ったのだろう。
リースは荷物を置いて椅子に腰掛けると、大きく深呼吸をした。
ここまで来たからにはもう後戻りはできない。
というか、するつもりもない。
リースは一年半前からずっと、今日この日の為に血の滲むような努力を重ねてきたのだ。
王立魔法学校で学べることは学び尽くした。
ひとつの大魔法を極めんとする研究機関勤めの者からすれば、生活魔法をあれこれと操作するリースは魔法使いとしてまだまだ未熟だと鼻で笑う程度だろうが、扱える魔法の種類や幅はこれまでの卒業生の中でも群を抜いていると評価されている。
卒業記念パーティーでは、話しかけてきた先輩たちから「卒業後は王宮魔法省に来るのだろう?」と当然のように問われたし、最終学年の担当教諭に進路が決まったと報告に行った際には卒倒するほどに驚かれた。
だが、誰にどんな顔をされようともこれがリースの目標であり、このお屋敷からの採用通知をもらった時がリースの夢が叶った瞬間であった。
王立魔法学校を首席で卒業した才女、リース・レイニスは今日からこのお屋敷で使用人として働く。
そう、自身の恋人であるセラータ・サルドニクス伯爵に仕える使用人として!