第六章 ~暗夜
眠れるはずなどなくて、リンは扉の前にずっと座っていた。
薄い戸板一枚隔てたむこう側に、テルはいた。
「テル?」
リンは戸板越しに呼びかけた。
むこうで僅かに息を呑む気配があった。
「姫…、もう寝る時間だよ。何も心配いらないから、安心しておやすみよ。」
早く寝ろと言いたげなその口調を無視して、リンは話しかけ続けた。
黙ってじっとしていると不安に押しつぶされそうだった。
「こんなに釘打っちゃったら、敵が来たとき、逃げられないよ?」
あわよくばどこかひとつでも開けてくれないかな、という魂胆だったが、テルはあっさり否定した。
「主はここに敵なんか寄越さないよ。」
僅かな迷いもなく断定するテルに、リンは不安だけまた増した。
「…キョウさんは、大丈夫かな…?」
「大丈夫だよ。」
「けど、敵、の人、は…とてもたくさん、いるんでしょう?」
リンの声は恐怖に震えていた。
テルはリンを安心させるようにわざと軽く言った。
「たくさんはいないよ。残りは三千くらいだ。
それも能力のない烏合の衆ばかり。
そのくらいなら、主の敵じゃない。」
リンは目を丸くする。
「三千は、たくさんじゃないの?」
テルは自慢するように胸をそらせた。
「最初、敵は十万いたんだ。
有能な将も何人もいた。
そこへ主はたった一人で潜入して、敵の将を一人ずつ、策に嵌めて削り取っていったんだよ。」
「キョウさんはそんなことをしていたの?!」
リンの驚く声に、テルは、しまったと思ったのか、少し言い淀んでから返した。
「…主に、姫には戦の話しはしないように、って言われてるんだ…」
テルの気の変わらないうちに、とでもいうように、リンは慌てて言った。
「わたしは知りたい。キョウさんが、いったい何をしているのか。
キョウさんはわたしには何も教えてくれないから。
わたしずっと、キョウさんはお役目を怠けているのかと思ってた。」
率直過ぎるリンに、テルは苦笑を漏らした。
「それ、主も言ってたよ。
姫にちゃんとお役目を果たしているのか疑われてる、って。
そういうこと言うとき、なんか主ってば、いつもちょっと嬉しそうなんだけどさ。」
テルはもう一度ちらりと苦笑してから、降参したように続けた。
「主はものすごく着実に、お役目を果たしているよ。
こんなどう考えても無茶なお役目をさ。
そもそもの兵力の差は十倍。しかも、あちらは戦慣れした兵士揃いで、有能な将も何人もいる。
対するお味方は、志は高くとも、寄せ集めの農民兵。将と呼べる者もほとんどいない。
どう見ても勝ち目なんか欠片もない。
それなのに、どうしてもこの戦は勝たせなければならないなんて。
ちょっと聞くけど、護法のお役目ってのはいつもこんなに酷いのかい?」
「…わたしはあんまりお役目については教えてもらってないの。
聞いてもキョウさんは、リンは心配しなくていいよ、って言うばっかりだから。」
「ああ、そうだっけ。
まあ、あの主なら、姫は何も心配せずに待っててやればいいとは思うけどね。
護法を雇うには、家宝を売り払わなければならないくらい、法外な対価がいるんだろ。
けど、ひとたび護法が味方をすれば、どんなひどい状況をもひっくり返す。
鬼神の如き働きで、負け戦をも勝利に導く。」
テルの口調はどこか誇らしげだった。
「そうだよ。
だけど、護法は、どれほどの財を積まれても、大義のない者に味方はしない。
だから護法は、鬼ではなくて、護法って言うんだ、って。」
うーむ、と納得するようにテルは唸り声を上げた。
「まさに、主のような人のことを言うんだね。」
「…わたしには、キョウさんは、そんな、強そうな鬼、には、見えない、ん、だけど、さ…」
遠慮するように躊躇うように、ぶつぶつと言葉を切りつつ言うリンに、テルはまた小さく笑った。
「主は、自分は変り種の鬼なんだ、ってよく言ってるよ。
護法の戦ってのは、軍勢の先鋒に立ち、一騎当千の修羅の如く暴れまわるのが主流なんだろ?
けど、主は直接、敵に手を下さない。
何食わぬ顔をして敵の陣中に入り込み、策を仕込んで陣営を内部から崩壊させる。
主のやり方はきっと、他の誰にも真似できない。
周到に緻密に立てられた策を状況に応じて変化させつつ、絶妙な力加減で罠にかけていく。
それは常に臨機応変を要求される複雑な作業だ。
だから、主は配下を持たないで、いつも単独行動をしている。」
テルは護法である享悟に心酔しているようだった。
何かに魅せられるように、テルは語った。
「けど、もしも、実際に戦ったとしても。
主は強いよ。
本気になった主には、誰も敵わない。」
「そうなの?」
半信半疑に聞き返すリンがおかしかったのか、テルは今度は声を出して笑った。
「ほんと、姫の主への印象って、さんざんだなあ。
姫だって、敵の牢屋から救出されたとき、主の強さは見たんじゃないの?」
「見てないんだ。
キョウさんが十数える間、目を瞑ってろって言ったから。
音もなるべく聞かないように、キョウさんの胸の音に集中してろ、って。」
「え?ちょっと、待って?十数える間?それであの牢から脱出したの?」
「…うん。」
「いや、それは、それだけでもすごいだろう?
普通はできないよ。そんなこと。」
「…そうなの?」
聞き返すリンに、テルは逆に聞き返した。
「あのさ、姫にとって、強い、ってのは、どういうのを言うの?」
「え?えーと…まばたき一つの間に、敵の軍一つ殲滅した、とか…
こん棒一つで、山を叩き崩した、とか…
大木を押し倒して、川を堰き止めた、とか…」
リンは小さいころの寝物語に爺から聞いた、伝説の護法のことを思い出して話した。
すると、扉の向こうから、深いため息が聞こえた。
「なるほど。そうか。姫にとっての、強い、の基準は、それなんだ。
そりゃあ、主くらい、ふつう、になるかもなあ。」
テルの口調にどこか哀れみが混じる。
リンは慌てて言い訳をするように付け足した。
「キョウさんは、こん棒とか大刀とか、持ち歩かないし…
甲冑とかも、重いとか言って、嫌がるし…
重いより怪我しないほうが大事だと思うんだけど…」
「ああ、それはなんか目に浮かぶね。
主の得物って、山刀だっけ?」
「あれ、武器ってよりは道具だし。
キョウさんはいつもあれ使ってお魚捌いたり、薬作ったり、細工物こしらえたり…」
享悟は実に器用に、山刀一本でさまざまなことをこなす。
ただし、およそ武器として使っているところなど、リンは一度も見たことはなかった。
「大刀なんかも普通に使えるらしいよ。
主ってば、武芸の名門の家の生まれなんだろ?
主の父上は、島一番の武芸者だ、って。」
「それはそうなんだけどさ。
って、それ、キョウさんが言ったの?」
リンは驚いて聞き返した。
享悟は自分の家の話しはあまりしたがらない。
ことに両親の話しは、ほんの僅かでも話題になろうものなら途端に口を閉ざすのだ。
「なんか、テルのほうが、キョウさんのこと、よく分かってるみたい…」
リンのやや不満そうな口調に、テルは、あははは、と軽く笑った。
「やきもちなんかやく必要はないよ、姫。
おいら、それこそ根掘り葉掘り、主に話し、聞いたからね。
自分の人生預けようって主人の人となりは、ちゃんと知っておきたいだろ?
おいら、人から話しを聞き出すのは得意なんだ。」
それにはリンも納得だった。
テルには、気がつかないうちにするりと人の心の隙間に入り込んでいるような一面がある。
いつの間にか、すっかり信用させられてしまっているのだ。。
それにしてもあの人見知りの享悟にここまで信用されたのはすごいことだと、リンは感心した。
「武芸は小さい頃からたたき込まれたらしいよ。
もっとも、主は、いやいや鍛錬していた、って言ってたけどね。」
「わたしは、キョウさんの鍛錬してるとことか、一度も見たことないよ。
武芸のお家柄なのは知ってるけど、キョウさんはそっちはからきし駄目なんだと勝手に思ってた。
実はわたし、キョウさんが護法になる人だなんて、思ったことなかったんだ。」
享吾自身がそこまで話しているのなら、自分ももう遠慮する必要はないだろう。
享吾のことを誰かに話したことはあまりなかったけれど、リンは安心して話し出した。
「護法になる人は、守護と引き合わされるときまで、そうとは分からないものなんだけど。
やっぱり普段から武術の鍛錬とかに熱心な、武闘派な人が多いんだ。
わたしは、ずっと小さい頃から、大きくなったら守護になるって言い聞かされてきたんだけど。
まさか、自分の護法がキョウさんだとは思いもしなくて。
きっと、すっごく怖い鬼が来て、無理やり連れて行かれちゃうんだ、って思ってた。」
リンの告白に、テルはぷっと吹き出した。
「それ、主は知っているのかい?」
「知らない、と思う。誰にも話したことないから。」
「そっか。そりゃあ、それを聞いたら主も驚くだろうな。
いや、姫が自分以外の誰かの守護になるつもりだった、なんて知ったら、怒り狂うかも。」
「キョウさんが?怒り狂う?…まさか。
キョウさんの怒ったところなんて、わたし、見たことない。
なにか失敗しても、迷惑をかけても、大丈夫だよ、って慰めてくれるくらいだし。
わがまま言っても、困った顔はするけど、怒ったことはないよ。」
「そりゃ、主は姫には甘甘だから、怒ったりなんかしないかもしれないけど。
それに、主は怒ってても一見分からないんだよね。
主の怒りは凍り付きそうなほどに冷たいから。
そういや、主、頭に血が上るというのを、生まれて初めて経験した、って言ってたもんな。
いや、あの年で生まれて初めてって、おいらはそっちにびっくりだったけど。」
「頭に血が上る?
それって、あの、わたしの怪我したときのこと?」
「怪我した後じゃないよ。
あれはもう既に、血が上るとか、そういう次元じゃなかったよね。
精神ごと崩壊しかかってたから。
そうでなくて、その前の段階でね、主は頭に血が上っていた、って。
だから姫にあんな怪我をさせてしまったんだ、って。
普段の自分なら、姫にあんな怪我をさせることもなかった、って。」
「あれは、キョウさんが怪我させたんじゃない。
わたしが無茶をして、自分で勝手に怪我をしたんだよ。」
いやいや、とテルは首と手を振った。
「姫なら、たとえ見ず知らずの相手でも、身を投げ出して庇う。
主はそれをよく分かっていたと言うんだ。
冷静な状況だったら、姫の動ける範囲に刃物を投げたりはしない。
それをとっさに投げてしまったのは、自分の失態だ、って、主はものすごく後悔してるんだ。」
「けど、あのときは牢屋から逃げている最中だったし。
テルのこと、敵か味方かなんて分からなかったんだし。」
「姫をおねえちゃんと呼んだおいらの声とか、それを聞いた姫の表情とか。
ちゃんと見ていれば、おいらのこと、敵じゃないと分かったはずだ、って主は言うんだよね。」
「それは…いくらなんでも、無理なんじゃないかな…」
「ただの人間ならね。
けど、普段の主は、その程度のことは造作もなくやってのけているんだよ。
だからね、主は鬼なんだ。
普通の人間じゃない、鬼の能力を持っているってのは、そういうことなんだよ。
ただの人間の何十倍も鋭い五感と、素早い思考、そして判断力。
主の身にはそういうものが兼ね備わっている。」
「キョウさんって、そんなにすごい人だったの?」
今更ながらに感嘆の声を上げるリンに、テルはどこかくすぐったそうな嬉しそうな声を返した。
「すごいんだよ。姫。主は本当にすごい鬼なんだ。
だいたい、姫のことをたったひとりで救出に行くなんて無茶をやってのけた人なんだよ?
牢は敵の陣の奥深くにあり、姫は、主をおびき寄せるための囮だ。
そこに待っているのは、主を捕らえるための、十重二十重の罠なんだ。
普通の人間なら、そんなとこ、行くことすら、ためらうだろうよ。」
「そうだよね。
わたしもね、きっと誰も助けになんか来ないって思ってたよ。
わたしがいなくなっても誰も困らないんだし。」
あっさり同意するリンに、テルのほうが少し面食らったようだった。
「え?そんなこと、思ってたの?姫?
って…もしかして、それ、主に言った?」
「言った。」
「あー…あの主の落ち込みようはそれもあったんだな。」
テルは気の毒そうに唸った。
「あのときは、もうキョウさんとも二度と会えないのかな、って思ってたから。
来てくれて、すっごく嬉しかったんだ。
でも、それを言ったら…」
「流石の主も、それは怒ったかい?」
「あれは…怒っていたのかな。
でも、怒っているというより、悲しそうだった。
信じてもらえないのは僕のせいだ、って言ってた。」
「うー、そうか、それすら自分のせいだって主は思っちゃうか。
けど、それは、あまりにも主が可哀相だよ、姫。
主は命のある限り、姫のこと、見捨てたりはしない。
たとえ自らの命を引き換えにしたって、姫を護るよ。」
「うん。そうだよね。キョウさんは優しいから。
わたしはキョウさんが危ない目に逢うくらいならわたしなんか見捨ててくれていいんだけど。
キョウさんは、きっと助けに来てくれるよね。
あんな優しい人、なかなかいないよね。」
リンの返答に、テルは、うーん、と唸り声を上げた。
「主が優しい、ってのに異論はないよ。
けど、それは、主に対して好意的な見方のできる人間にしか分からない類の優しさだよ。」
「ええっ?キョウさんは誰にでも優しいよ?」
「無条件に優しいのは、姫に対してだけだよ。
あとは優しく見えるとしても、それは、感情の起伏を見せないだけだ。
でも、おいらは、主の根っこのとこは優しい性格なんだって思ってるよ。
たとえばほら、主は釣りが下手だろ?」
テルはいきなり何を言い出すのだろうと思いつつ、リンはうなずいた。
「うん。一度も釣れたことはないよ。」
「そりゃあ、釣れるわけないんだよ。
主は釣りのとき、針をつけないからね。」
「針?」
「ああ、姫は、釣りには針を付けるということすら、知らないんだね。」
テルは少し笑ったようだった。
「取らずに済む命は取らない。
主はそれを徹底しているんだ。
魚なら、今食べるための分だけを捕る。
何が釣れるか分からない釣りで、食べもしない魚を捕るのは嫌なんだ、って言うんだよ。
姫を奪還したときだって、主は誰も殺してはいない。
殺さずにあの囲みを突破するなんて、余計に大変だったと思うんだけどね。
けど、それって、かなり優しい鬼なんじゃないかい?
そんなこと気にして戦をするやつは、なかなかいないと思うんだよね。」
「それは…うん。そうだね。」
「主はそもそも、下っ端の兵士は狙わない。
狙うのは将のみ。そして、罠にかけて陥れても、命は取らない。
弱みを握り、周囲から追い詰めて、自ら退陣を選ばせるんだ。
そうして、有能な将を減らし切っておいてから、情報操作をして、人心を惑乱する。
じわりじわりと効き目は遅いけど、とても強い毒のように。
末端の兵士たちから戦意を奪っていくんだ。
戦う意志を失くした兵士は、敵じゃない。
そして兵士のいない軍は、いかに将が有能でも、脅威にはならない。
そうやって主はたったひとりで、敵の軍を崩壊させたんだよ。
主のやり方は、面子に拘る武家の人間には屈辱的かもしれない。
けど、おいらのような賊から見れば、すごく情け深い、寛大なやり方だと思う。
名誉なんて腹の足しにもならねえものより、命のほうがずっとずっと大事だからね。」
テルの話す享悟の優しさは、リンの知っているのとは違っていた。
それでも、享悟は優しいとリンも思った。
「けど、おいらがそれを言うと、それは優しいからじゃない、って主は言うんだ。
自分はただ単に、命が失われるのが怖いんだ、って。
とにかく、それが怖くて仕方ないんだ、って。
だから何をしても、それだけは回避したくなるんだ、って。
そのせいでお役目が難しくなると分かっていても、そこに拘ってしまう、って。
信じられるかい?
主は護法として戦に出ても、まだ一度も人を手にかけたことはないんだってさ。」
それにはリンも少し驚いた。
戦に出て誰も手にかけない。
けれど、享吾ならそんなことも可能かもしれないと思った。
「キョウさんって、あれでなかなか頑固だからね。
決めたことは曲げないんだ。
わたしはやっぱり、キョウさんのこと、優しいって思う。」
「もちろん、おいらだって主の優しさはよく分かってるよ。
主はこの世で一番、強くて優しい男だ。
ホント、主、格好いいよね。
見目だって、背も高いし、目鼻立ちも整ってる。
くそ、悔しいくらいに惚れ惚れするね。」
テルは享悟のことを話していると嬉しくて仕方ないらしい。
それにリンは真顔で返した。
「キョウさんの見た目って、整ってるの?」
「あらら。
姫はさあ、理想が高すぎんの?
それとも、主以外は目に入らないから、わかんないの?」
テルの声はどこか呆れているようだった。
「ああ、いいいい、応えなくて。
それ聞いたら、おいら、また落ち込む羽目になるって分かってるから。」
どこか投げやりに遮られて、リンは少し困ってから言った。
「それにしても、キョウさんが怒ったって、いったいなにに怒ったの?」
「ああ、それだ。」
テルも話しを戻す。
「主の怒ったのは雇い主のお大名に対してだよ。」
「雇い主の?敵の、じゃなくて?」
意外そうに聞き返すリンに、テルは頷いた。
「なんだろうね、ああいうとき、主は敵に対して怒ったりはしないんだな。
いや、違うな。怒るのは怒るんだけどね。
そういうときの主の怒りは、決して頭に血が上る、って感じじゃないんだ。
主という人は、怒れば怒るほど逆に頭は冷えていく。
冷たい怒りに染まった主の頭の中は、恐ろしいくらいに清んで冴え渡るんだ。
そうして、問題解決の最適解と、そこへの最短の道筋を、恐ろしいくらい迅速に計算する。
その道筋を、そこに起きる予測不能の危険も含めて計算して、幾通りもはじき出す。
危難に陥れば陥るほどに、主の心は冷えて、やがて、凍てつくほどに冷たくなる。
そうして、主は、冷たく非情で冷酷な鬼になる。
それは姫には絶対に見せない姿だろうけどね。
だけど、頭に血の上る、というのは、もっと違った種類の怒りだ。
もっと感情的な。普段の主からはおそらくはもっとも遠いところにある。
主が感情を揺さぶられるのは、たったひとつ、姫に関することだけだよ。」
「わたしに関すること?」
享悟からは口止めされていたけれど、テルはもう諦めて、リンに全部話す気になっていた。
「あの朝、戦場に向かう途中、姫の異変を察知した主はすぐさま引き返したんだそうだ。
けど、ほんの僅かな差で、主は姫を攫われてしまった。
即座に主はお大名に、今日の作戦は中止して姫を取り返すために行かせてほしいと願い出た。
けれども、お大名はそれを断った。
あまつさえ、お役目を中断して戻ってきた主を責めた。任を果たせ、ってね。
いや、そこまでだったら、主も頭に血を上らせるなんてこともなかったかもしれない。
真面目で責任感の強い主は、お役目を中断したことには少なからず責任を感じていた。
その日は最終決戦の予定だった。
今日の戦いさえうまくいけば、あとはもう勝利は目前だった。
それでも、戦よりも優先すべき事態だったのだと、お大名は分かっていなかった。
護法にとって守護という存在がいかに重要かを、お大名は知らなかったんだ。
そして、主にむかって言った。
飯炊き女のひとりくらい、いくらでも、代わりを差し出しましょう、ってね。」
「確かに、わたし、わざわざ島からついてきたのに、何もしてないから。」
「それは違うよ、姫。
姫はたったひとり、主を、この世に引き戻せる人なんだ。
鬼となって戦う主の、人としての魂を守っているんだよ。」
「それが守護のお役目だ、ってことはなんとなく知ってるんだけど。
わたし、あんまり自分がそうだ、って気、してないんだ…」
「実際に姫は主を引き戻したじゃないか。
姫が怪我をして、主が狂いかけたときに。」
「あのときは、必死でキョウさんを呼んだけど。
でも、そんなの、あんな場面になったら誰だってやるんじゃない?
なにも特別なことだとは思わないなあ。」
「いや、そんな簡単なことじゃないよ。
あのときの主は、それはそれは恐ろしかっただろう?」
「何が恐ろしいの?
キョウさんなのに。」
テルは息を呑んだように少しの間黙ってから言った。
「姫は鬼が怖くないの?」
「鬼は怖いよ。
だけど、キョウさんは鬼じゃない。」
「あのときの主は狂った鬼のようだったよ。
あんな状態の主を、姫は恐ろしいとは思わなかったの?」
「だから、何が恐ろしいの?
キョウさんのこと、怖いなんて、ありえないよ。」
同じことを繰り返してから、リンは小さくため息をついた。
「テルもキョウさんと同じだ。
キョウさんも、何度も何度も、僕のこと、怖くないの?って聞くんだ。
わたしには、なんでキョウさんがそんなこと聞くのか分からない。
わたし、キョウさんのこと、怖いなんて思ってことないのに。」
「そっか。
姫は主のこと、怖いと思ったことないんだ。」
テルは何かに納得したように頷いた。
「なるほどねえ。
結局のところ、一番大事なのはそこなんだろうな。」
「何が大事?
怖くないのが大事なんて言われても、よく分からない。
怖いって、そう思わないようにしようって思って、思わずにいられるもんじゃないよね?
わたしだって、鬼は怖い。
島には怖い人もたくさんいるよ。
けど、キョウさんのことは怖くないし、鬼だと思ったこともない。
いくらキョウさんが、僕は鬼なんだよ、って言っても、わたしはそうは思わない。
護法さんなんだ、ってのは知ってるけど。
護法は鬼とは違うよね?」
「そうか。姫がいれば、主は護法でいられるんだ。
鬼にならなくて済むってのは、そういうことなのかもしれないね。
それが守護の本当のお役目なんじゃないかな?」
テルの言うことに、リンは首を傾げた。
「守護の本当のお役目?
キョウさんを怖くないのが、わたしのお役目?
…そんなの、お役目って言わないと思う。
だって、それじゃわたし、やっぱり何もしてない。」
「何もしなくていいんだ。
主にとっては、姫はそこにいてくれるだけでいいんだよ。」
「…キョウさんも、そう、言うけど…
おじいちゃんおばあちゃんも、仕える護法さんの言う通りにするのが一番いいって言うし。
でも、わたし、やっぱり、それじゃ、何か足りないって、思うんだ。」
リンは悩みを吐き出すようにため息をついた。
「わたし、どうしたらちゃんと守護になれるんだろう。
このままじゃ、いつまで経っても、ちゃんとした守護になれない。」
テルはしばらく考えてから答えた。
「姫が守護として自信を持てないのは、主のせいかもしれない。
主がなんでも先回りして、姫をあらゆるものから囲い込んでしまうから。
それは主の弱さなんだよ。
なまじ、自分が物理的には強いから、あらゆるものから姫を遠ざけて、護ろうとする。
少しでも失敗すれば、その失敗から意識を引きはがせなくなって囚われるから。
二度と失敗したくないばかりに、ますます姫を雁字搦めにする。
姫にべったり頼り切っているのは、実は主のほうなんだよ。
まあ、あの主のことだから、自分のそういうところに気づいてないことはないんだろうけど。
やめたくてもやめられない、んだろうな。」
「キョウさんは、わたしのこと頼りにしてくれてるの?」
驚いたように尋ねるリンに、テルは、当然のように返した。
「ものすごく頼りにしていると思うよ。
むしろ、姫なしにはいられないと言ってもいいくらいだろう。
あれは、ちょっと支障をきたすくらい、姫にべったりだよね。
護法と守護にとっては、そういうのって普通なのかもしれないけど。」
「普通かな?他の護法のことはあんまりよく知らない。
でも、キョウさんに頼りにしてもらえてたらいいな…」
夢をみるように言うリンに、テルは少し呆れたように言った。
「頼りとかいう次元じゃない気もするけどね。
命がなければ人は動けないけど、その命より、主は姫が大事だろう。
自分の中で動いている心臓よりも、姫が大事なんだと思う。」
「…わたし、そんなにキョウさんに大事にしてもらえる値打ち、あるのかな?」
「姫は主のこと、信じる?」
突然なにを言い出すんだ、というふうにリンは返す。
「信じるよ。もちろん。」
すると、テルは、ふふ、と笑った。
「じゃあ、その主が、姫にはそれだけの値打ちがあるって言うんだから、それも信じないと。」
なるほど、と思わずつぶやくリンに、テルは話を続けた。
「主は、姫を救出しなければお役目は果たせないと、強く言い張ったんだ。
それに業を煮やしたお大名は、どうしてもと言うなら好きにしろと言い渡した。
それを聞くなり、主は即座に出発した。
普段の主なら、もう少し時間をかけて、お大名にあれこれ忠告しておいたんだろうけど。
さっさと行ってしまった辺り、やっぱり怒ってたからなんだろうな。」
テルは本心では享悟の話しをしたくてたまらなかったらしい。
とうとう、自分から語り始めた。
リンはそんなテルの話しに引き込まれるようにじっと聞き入った。
「主はお大名に、せめて自分の戻るまでは動くなとだけは、言い置いて行った。
ただ、どうして動いてはいけないかの説明は、しておかなかった。
勝ちを急いだお大名は、主抜きで最終決戦に出てしまった。
挙句、その戦で味方軍は大敗した。
皮肉なことに、お大名の行動は、姫の救出にとっては、うまい具合に陽動になったんだ。
もっとも、主はお大名がどう動こうが、何があっても姫のことは救出しただろうけどね。
勝算なんか、考えるどころか、思いつきもしなかったって、主は言うんだ。
そんなことより、とにかく姫を取り戻したい一心だったって。
敵軍に碌な将は残っていなかった。
それが全部、お大名の軍の相手に出てきちまった。
牢屋の見張りに残されていたのは、その策を言い出した将、ひとりだけだった。
そもそも姫を人質にしようなんて姑息な輩は、本人の力は大したことないもんさ。
主の侵入の報せに、ろくな防戦もせずに、手下を置いて一目散に逃げ出したらしい。
姫を奪われた鬼神の怒りに恐れをなしたのかもしれないけどね。
あのとき、あの牢は碌な指揮官もいなくて、下っ端の兵士ばかりで大混乱していたんだ。
まあ、おいらもそのおこぼれで、無事に牢から逃げ出すことができたんだけどさ。
かくして、主は無事、姫を奪還した。
けどその一件以降、戦局はがらりと変わってしまった。
主が長い時間をかけて丁寧に張り巡らせてきた策は、ことごとく無効になった。
反撃しようにも、味方の軍にはもうまともに戦える兵はなかった。
ただでさえ劣っていた兵力は、比べものにもならないくらいに差をつけられてしまった。
たった一度の失敗だ。それも、ちゃんと主の作戦通りに動けば勝てるはずの戦だったんだ。
それがここまでの痛手になろうとは、多分、主すら想定していなかったはずだ。」
「それって、わたしが攫われたせい、なんだよね?」
そう尋ねるリンに、いいや、とテルはあっさり否定した。
「戦というものは想定外のことも起こるもんだ。
どっちもそれなりに命をかけて戦っているんだから。
だからこそ、念には念を入れて策を練るし、問題には即座に対処するべきなんだ。
そもそも、この戦は、最初からあまりにも無謀だった。
勝てる見込みもないのに、義ばかりに命を懸ける奴らをどうやって勝たせるか。
護法の間でも、このお役目を請けたいという者はなかったそうだ。
会議で話し合われていたのは、どうやって断るかということだった。
それを、主は、自ら進んで、請けた。
そうして、あと一歩、というところまでこぎつけていた。」
そう話すテルの声には、怒りの感情が滲んでいた。
「あれは完全にお大名の失態だ。
とにかく、護法というものを分かっていなさすぎたんだ。
依頼主自ら、負けの坂道を転げ落ちたんだから、どうしようもない。
すべて終わってから、お大名はどこからか護法と守護との絆について聞いたらしい。
守護を軽んじたことと、主の忠告を無視したことへの侘びを、使者を立てて伝えてきた。
まあ、あのお大名だって、根はいいやつなんだ。
義憤を感じて、圧制を敷く領主に反旗を翻した張本人だしね。
少しばかり猪突猛進なのは困ったところだけど。
正義感の強い、皆のために粉骨砕身して働ける男だ。
そうじゃなきゃ、護法に味方なんかしてもらえないんだろうけど。
しかし、主はその使者と会おうともしなかった。
おいら、主はお大名を見放したんだと思った。
実際のところは、姫のことで頭がいっぱいで、それ以外何も考えられなかっただけなんだけど。」
テルはそこで小さくくすりと笑った。
「主は十万の精鋭部隊をひと月足らずでばらばらに解体するようなやつなんだよ?
そんな策士が何も考えられなくなるんだから、姫の存在は大きいよね。
主は姫を攫われたときの恐怖に囚われて、姫の傍から片時も離れられなくなった。
姫は、お手水にまでついて来る、って困ってたけど。
でも、主にしてみりゃ、どこに敵が潜んでいるか分からなくて、そうせずにはいられなかったんだ。
けど、姫に叱られて、主は少しばかりいつもの自分を取り戻した。
これ以上姫に嫌われたら大変だとでも思ったんだろう。
慌てて周りを見回して、お役目のことを思い出した。」
「それから、キョウさんは、テルにお役目の手伝いを頼んだんだね?」
「主は最初はおいらには何も期待していなかった。
おいらのほうから、主にいろいろと取り入ったんだ。
初めは簡単な伝言のような使いからだった。
その程度、主が自分で行けば、まったく必要のない用だったんだけどさ。
主が姫の傍から離れられないのを逆手にとって、おいらは、主につけこんだ。
主の便利なように、その望みを先回りするように動いた。
そのうちに、主は、少しずつおいらに重要な役割を与えてくれるようになった。
主の策は聞く度、ほれぼれするような奇策ばかりだ。
おいらには主みたいな武芸の心得なんかまったくないけれど、主の策を聞けば、戦というものには戦わなくても勝てるもんなんだと思った。
もっとも、戦ったところで、おいらには勝ち目なんか、まったくないんだけどさ。
戦わなくていいなら、おいらにだって、やれることはある。
主は、たとえ正体がばれても、戦わずに全力で逃げてこいと言い切った。
危険なときは真っ先に逃げろなんて言う将が、本当にいるとはね。
おいらは主の手伝いをすることが、楽しくて仕方なかった。」
「テルはすごいね。
いつの間にか、キョウさんのことも、お役目のことも、そんなによく分かってて。」
手放しに誉めるリンに、テルは少し押し黙った。
「偉そうなこと言ってるけどさ、実はおいら、結局、お役目に失敗したんだ。」
ぼそりとそう言ってから、深いため息を吐いた。
「最初は面白いくらいに読みが当たっていた。
主には、そんなにうまくいくはずない、用心しろ、って言われてたのに。
おいら、すっかり調子に乗ってしまった。
けど、すべて順調だと思っていたのは、敵の参謀にそう思い込ませられていただけだった。
実際には、いいように掌の上で操られていただけだったんだ。
そんなこと考えもしないで、気づいたときには敵の術中に嵌って身動き取れなくなっていた。
お武家なら、こんな失態、死んでお詫びしますってとこなんだけどさ。
いや、おいらも流石に、今度ばかりは、主にお手打ちにされる覚悟をした。
お役目には成功しようと失敗しようと、絶対に帰ってこい。これだけは至上命令だ、って。
主からは口を酸っぱくして言われていた。
おいらも、敵の陣で取っ捕まって捕虜にされるくらいなら、主にお手打ちになるほうがいいと思った。
拷問にかけられて情報を喋っちまったり、人質にされて迷惑をかけるようなことにはなりたくない。
とか言ってっけど。
要するに早い話が、やばいと思った途端に、すたこらさっさと逃げてきたってわけさ。」
テルは自嘲的に笑って続けた。
「状況の好転はもう見込めない。ほうっておけばおくほど、不利になるだけだ。
こっちの手の内は全部敵に読まれてしまったし、もう打てる手もない。
ここまで拗れに拗れてしまったら、もう力任せに断ち切るほかに、解決の方法はない。
主にも、それは最初から言われていた。
おいらが失敗したら、あとはもう、力ずくでしか戦いを終わらせられないって。
おいらに預けた策は、最後の希望だ、って。
だから、おいら、なんとしてもこの策を成功させたかった。
主にも…姫にも…おいらのこと、役に立つって、思ってほしかった…のに…」
ぐすっ、と鼻をすする音がする。
テルは悔いているのだと、リンは思った。
今すぐ、背中をさするとか、そういうことをテルにしてあげたくなる。
けれども、間の戸は頑として閉じていて、リンには何もできなかった。
間を隔てている戸を恨めしく思う。
けれど、もしかしたら、この戸のおかげで、テルは正直な気持ちを話せたのかもしれない。
そうも思った。
「おいらさ、自分を過信していたんだ。
世の中のやつらはみんなバカでちょろいって、ずっと思ってた。
今から考えたら、いくらでも、気づく機会はあったんだ。
そのときに軌道修正しておけば、ここまで取り返しのつかない失態にはならなかった。
力ずくでなくても、戦を終わらせることはできたかもしれないのに。」
くそっ、とテルはつぶやく。
小さな小さなつぶやきだったけれど、そこに込められた思いは小さくはなかった。
必死に押し殺しているけれど、テルの声には涙が混じっていた。
リンにできるのは、ただそのテルの話しを、じっと息を顰めるようにして聞いていることだけだった。
「けど、主はおいらをお手討ちにするどころか、無事に帰ってこられてよかったって言ってくれた。
その上、大切な姫を護衛するお役目も与えてくれた。
だからおいら、今度こそ、ちゃんと主の期待に応えたい。
いや、魂かけて、応えなくちゃいけない。」
それはテルが元々持っていた性質だったのかもしれない。
享悟はそれを見抜いて、テルを傍に置くことにしたのかもしれない。
自分のことを賊と名乗り、小悪党を演じていた少年はもういなかった。
そこにいるのは立派な一人前の士だった。
テルは泣いたことを隠すように、しばらく黙っていた。
少しして気持ちが落ち着いたのか、軽い調子になって言った。
「ごめんよ、姫。心細いだろ?
ここにいるのがおいらで、ごめんよ。
けどさ。一晩だけだから。
主は絶対に姫を危険な目には合わせない。
ここにいれば安全だから。
一晩なんて、寝て起きたら過ぎている。
だから、こんな夜はさっさと寝てしまいなよ。」
「キョウさん、ちゃんと帰ってくるよね?」
「ああ。帰ってくるよ。」
静かに断言したテルの声に、リンは、ふわっと涙が零れた。
そして、それが何より一番、辛かったんだと分かった。
享悟の不在が、これほどに不安だったことなどこれまでになかった。
島にいた頃だって、四六時中べったり一緒だったわけじゃない。
むしろ、このお役目で島を出てからのほうが、一緒にいる時間はずっと長い。
なのに、どうしてこんなにも不安なのか、リンにも分からない。
お役目に就いた最初の頃、享悟は毎日、戦場に出向いていた。
その間、心配はあったけれど、不安はなかった。
リンは、あの牢屋に享悟が助けに来てくれたときのことを思い出した。
享悟の声を聞いて、心の底から安心した。
享悟の傍こそが、自分の居場所なのだと思った。
今の今までそれに気づかなかったのは、享悟が何も言わなくてもずっと傍にいてくれたからだ。
享悟のことを、リンは、ずいぶん粗雑に扱ってきた。
でも、それは、何をしても享悟はずっと変わらずに傍にいてくれるという、絶対的な安心感の上にいたからだった。
享悟はもうずっと、リンにそんな安心感をくれていたのだった。
「ねえ、姫。姫にとって、主って、どんな人なの?」
リンを元気づけようというつもりなのか、テルに話を向けられて、リンは少し考えてから答えた。
「優しくて何でもできる、ちょっとぼんやりしたお兄ちゃん。」
「ぼんやり?あの主が?」
テルはそう繰り返すと、声を上げて笑った。
「そりゃいいや。なるほどね。」
リンはむしょうに誰かに享悟のことを聞いてほしくなった。
「キョウさんにね、最初に会ったのは、春だったよ。
朝、顔を洗う水が冷たくなくて、あれ?、って思った日だった。
おじいちゃんは、そろそろ畑に種を蒔くかな、って言ってて。
わたしは、種を蒔いたら、毎日水遣りのお手伝いをするんだ、って思ってた。」
初めて会った日の享悟のことを思い出して、リンは語った。
「夕日を受けて崖のところに、もっそりと座っていたの。
魚獲るヤスをせっせと研いでた。
最初、おっきなからだにちょっとびっくりしたけど。
声が、すっごく優しくて、だから、最初からわたし、キョウさんのこと怖くなかった。」
あのときも、今も。
享悟は何度もリンに尋ねる。
僕のことが怖くないか、と。
「それからはずっとキョウさんと一緒だった。
キョウさんといると、不思議と、風の音も、波の音も、怖くなくなった。
キョウさんは海も波も平気で、高い崖からいきなり飛び降りて、海に潜るの。
わたしには絶対に真似できないけど、リンは無理しなくていいよ、魚なら僕がとってきてあげるから、って言って、いつも潜ってとってきてくれた。
寒い冬も、一緒に雪だるま作ったり、お餅焼いて食べたりするのがとても楽しかった。
嵐のときには、キョウさんはうちに来て泊まってくれた。
キョウさんさえいれば、わたしは何にも怖くなかった。」
島にはときどき、ひどい嵐がやってきた。
初めて嵐のやってきたとき、怯えるリンを、享悟は一晩中懐のなかに入れて、ずっと抱きかかえていてくれた。
そこにいれば、享悟の胸の音だけ聞こえてきて、リンにはもう、なにも怖くなかった。
そのときからリンは、なにか怖かったり不安だったりするときには、享悟の懐に潜り込む癖がついた。
享悟は最初、少しだけ困った顔をしたけれど、それでも、リンのすることを拒みはしなかった。
そんな話し、今まで誰にもしたことはなかったのに、リンは、ぽつり、ぽつり、とテルに語った。
「ちぇっ。主のやつ、ホント、姫にはベタ甘だなあ。」
テルはわざとからかうように言った。
「主から聞いた話に、そんなくだりはなかったけどね。
きっと、都合の悪いことは話さなかったんだな。」
「都合、悪い?」
「悪いだろうよ。曲がりなりにも鬼のくせにさ。」
「そうだね。キョウさんは、鬼、なんだよね…」
お役目に出てから、ぼんやりした優しいお兄ちゃん、な顔とはまた違った享悟の顔をリンは初めて知った気がする。
しんみりとつぶやくリンに、テルは焦って言い足した。
「あ!いや! 姫にとっては、主は絶対に鬼じゃないよ。
主のこと、どうか幻滅したりはしないでほしい。
主が姫のこと大事にしてるってのには、何も変わりないから。
それだけは本当に主の嘘偽りのない本心からの行動だから。」
慌てた様子のテルに、リンは不思議そうに言った。
「テルは何に困っているの?
わたしがキョウさんに幻滅なんて、するはずないよ?
誰かから見たキョウさんが、たとえどんな悪逆非道の鬼だとしても、わたしはキョウさんが悪者じゃないことは知っている。
たとえ、どんなに怖く見せようとしたって、わたしはキョウさんは怖くない。
たとえば世界中からキョウさんは悪い鬼だって、そう決められたとしても、それでも、わたしはキョウさんからは離れないよ。」
ぐっ、と扉の向こうから何かに詰まった音がして、それから、テルの深いため息がひとつ聞こえた。
「姫。
あんたはやっぱり、主にはなくてはならない人だ。
それが守護というものなんだろうね。
守護ってのは、最後の最後まで、護法が人間だってことを無条件に信じてやる者のことを言うのじゃないのか?」
「…よく分からない。
キョウさんも、おじいちゃんおばあちゃんも、わたしに守護のお勤めのことは何も教えてくれなかったから。
島の他の人たちとも、わたしはあんまりしゃべったことないし。
護法に護られろだの、護法に命令しろだの、いきなりキョウさんに言われて、わたしだってびっくりしたんだ。」
「それはね、多分、姫はもう、生まれながらの守護だったからだよ。
守護のお勤めの一番の肝は、誰に教えられなくても、姫はもう、できていたんだ。」
テルは感心したような唸り声を零した。
「主は言ってたよ。
真の守護と出会ってしまったら、もう護法になる外の運命はないんだって。
守護と護法との絆は、親子より、夫婦より、深い、命と命を結びつけるようなものだ、って。
主はどうしても、姫のことを自分の守護にしたかった、って。」
「わたしなんて、守護のことなんか何も知らない。
キョウさんはこんな守護で本当によかったのかなっていつも思ってるのに。」
「むしろ、主の護りたかったのは、そういう姫なんじゃないかな。
姫が笑って花を摘んだり、おにぎりを握ったりしていられるような。
そんなものを護りたくて、主は護法になったんだよ。」
なんでもない平穏な日常だと思っていたものは全部、享悟の護ってくれていたものだった。
それに気づいて、改めて、リンは、平穏な毎日をなんて有難いんだろうと思った。
「主は姫の意志も聞かずに、自分が強引に押し切ったんだって言ってたよ。
まあ、あの通りの策士だから、姫のように素直な人は、気づいたらそうされちゃってただろうけど。
その辺り、主も結構気にしてるみたいでさ。
とにかく、そのくらい姫のことを望んでたのは間違いない。
だいたい、あの主が、自分の意にそぐわないことを少しでもやると思うの?」
「キョウさんは優しいから。
何をしたいとか、何はしたくないとか、そういうことは、何も言わない。
いつも、リンのしたいようにしよう、リンのしたいことが僕のしたいことだよ、って言うよ?」
扉の向こうで、テルが、げーーーっと言うのが聞こえた。
「それ、姫に対してだけだから。
というより、主にとって姫は、この世の真理そのものなんだろうな。
姫が白いと言えば、世の中の全員、黒だと思っていても、主には白く見える。
姫にとっての真理はそのまま主にとっても真理なんだ。
そんな主を危ないと思うなら、姫は自分が賢くなるしかない。
決して主が間違ったほうへ行かないように。いつも姫が正しいほうを選べるように。」
「わたしずっと、大変なことは全部、キョウさん任せだった。
でも、それじゃダメなんだね。
わたし、ちゃんとキョウさんの役に立てるように、頑張る。」
真面目に頷くリンに、テルはちらりと笑って、おう、頑張れ、と返した。
「キョウさん、今、なにをしているのかな。」
リンのつぶやきに、テルは少し考えてから返した。
「主は今夜一晩で決着をつけるつもりだ。」
「今夜一晩で?そんなこと、できるの?」
圧倒的な兵力差に不利な状況。
そのなかで、享悟は時間をかけて少しずつ敵を内側から突き崩してきた。
それでも、有利に傾きかけていた状況は、またひっくり返されてしまった。
戦の状況はもう一月以上、膠着状態だ。
最後の望みの綱だったテルに授けた策も失敗した。
この上、いったいどんな手を打てるというのだろう。
力づくで押し通る。
テルの言った言葉が、リンのなかで、享悟の声で鳴り響いた。
「力づく、って、キョウさんはいったいなにをするつもりなの?」
「主は、多分、敵の大名の首級を上げるつもりだ。」
テルの声は重苦しかった。
「主は、まだ誰の命も奪っちゃいない。
それに…主は、おいらには、命を奪うようなことはさせない。
多分、だから今夜はおいらを置いていったんだ。」
「命を、奪う?」
分かってはいても、改めて言葉にすると、その重さを感じる。
護法である以上は、避けられないことだとは、リンも分かっていたけれど。
「これは戦だ。
いつまでも拘ってはいられないって、主は言ってた。
その気になれば、それは多分、主には不可能なことじゃないんだ。
あの牢にたったひとりで忍び込み、姫を無事奪還してきた主にとっては。」
甲冑もつけず山刀一本で、物々しく武装した敵の兵士たちに取り囲まれる享悟の姿が、リンの脳裏に浮かんだ。
「キョウさん…」
リンの悲痛な声がその名前を呼んだ。
テルは耐え切れなくて下を向いた。
「主は、まだ今は、自分は死ぬわけにはいかない、って言ってた。
だから、主は、きっと帰ってくるよ。」
「敵はまだ大勢いるんでしょう?」
「主なら。やってのける。」
躊躇いの欠片もなく、テルはそう言い切った。
「主にとって姫は、この上ない宝物だから。
姫のためなら、主は、自分の拘りも、命さえも、躊躇わずに差し出せる。
姫が、主に生きてほしいと願うなら、きっと生きて戻ってくる。」
たとえどれほどの言葉であっても、リンの不安を消し去ることはできなかった。
この不安を消し去れるのは、たったひとつ、享悟が無事に帰ってくることだけ。
それを分かって、ただ、リンには、今をじっと耐えるしかなかった。