第五章 ~使命
それからも享悟の甲斐甲斐しい看病は続いた。
毎日おかゆを炊いて食べさせる。
野苺を潰して、匙で口に運ぶ。
甘葛の汁を混ぜた水を飲ませる。
苦い薬は日に何度も飲まされた。
あまりの苦さにリンが顔を顰めると、飴をひとつ口に放り込む。
どこで手に入れたのか、甘い甘い飴だった。
つききりで世話をする享悟に、リンは次第に護法のお役目は大丈夫なのかと不安になってきた。
けれど、リンがお役目のことを言うと、享悟はいつも少し不機嫌になった。
リンは心配しなくていい、とむっつりと言う。
リンは日毎に回復していく。
けれども享悟は、いつまでもリンの世話をし続けていた。
やがておかゆは山菜を混ぜ込んだご飯になった。
焼いた魚や鳥の肉も加わるようになった。
食事くらいは自分でとれるほどにリンが回復しても、享悟は箸を使うことすら、なかなか許さなかった。
ましてや、自力で歩くなんてとんでもない。
どこかへ行くときには、必ず抱えて行く。たとえ、家の中だとしても。
流石のリンも、これには次第に閉口してきた。
リンだって、乙女だ。享悟について来てほしくないところだって、ある。
遠まわしにそう言ってみても、リンの行くところは僕にとってはどこだって極楽だ、などと、的外れなことを言う。
とうとう、堪忍袋の緒も切れた。
「いい加減にして!キョウさんっ!
こんなんじゃ、いつまで経っても、わたし、自分で何もできないでしょう?」
叫んだリンに、享悟はなだめるように言う。
「構わないよ。代わりに僕が何でもする。」
「だあああああっ!!!!!も、う、っ!!!!!
キョウさんはわたしのこと、ダメ人間にしたいのねっ?!」
「リンはダメなんかじゃないとも。
そこにいるだけで素晴らしい天女だ。」
「が、が、がああああっ!!!!!」
リンは吼えた。
天候もよかったので縁側は開け放して風を通していた。
リンはそっちへ向かって走り出した。
「ああっ、リンっ!」
「つ、い、て、く、ん、なっ!!!」
じろっと睨まれて、享悟は伸ばしかけた手をすごすごと引っ込める。
リンはそのまま裸足で縁側から逃走した。
***
しかし、ずっとろくに動いていなかったリンは、家のすぐ裏手にある木のところで、へたり込んでしまった。
前に享悟がよくリンに凭れて昼寝をしていた木だ。
ぜいぜいと息が切れる。
こんな近くでこのざまとは情けない。
落ち着いてくると、さっきのことが思い返されてきた。
縋るようにリンを見ていた享吾の顔を思い出して、ちくり、と胸が痛んだ。
あんなふうに強く拒絶しなくてもよかったかな、と思う。
享吾はひどく傷ついた顔をして、でも、何も言わず、伸ばしかけた手をそのまま凍り付かせていた。
…帰ったら、ちゃんと謝ろう…
しょんぼりとしゃがんで落ち込んでいると、かさり、と足音がした。
「お姉ちゃん。」
遠慮がちに声をかけてきたのは賊だった。
ずいぶん久しぶりに顔を見た気がする。
ずっといるのは分かっていたけれど、いつも忙しそうで、リンの部屋にもあまり近づかない。
あれからあまり話したこともなかった。
賊は手に持ってきたリンの草履を前に揃えて置いてくれた。
気の利いたことに、足を拭くための濡れた手拭いも渡してくれる。
「あ…有難う。…あの…」
リンは呼びかけようとして、困った。
面と向かって、賊、と呼ぶのも変だ。
「…あなたのこと、何と呼べばいいかな?」
素直に尋ねると、賊は、へっ、と笑った。
リンの隣にくると、地面に直に胡坐をかく。
そのまま背中をちょっと屈めて、斜め下から、リンの顔を覗き込んだ。
「テル。テルテル坊主のテルだよ。」
にかっと笑いかけられて、リンの落ち込みかけていた気持ちも、なんだか軽くなった。
テルの笑顔には、どこかそんな力があった。
「テル?それは、あなたのあだ名?」
「違うよ。正真正銘、親にもらった名だ。」
「え?真名なの?だったら…」
「かまわないよ。おいらは主みたいな護法じゃないし。」
「あ、るじ…?それって、キョウさん?」
いつの間にか享悟がそう呼ばれていて、リンは少し驚いた。
テルは照れたようにそっぽを向いて言った。
「おいら、主に雇ってもらってんだ。
こう見えて、親父にお袋、弟妹十人、まとめて世話してたからさ。
飯炊き風呂炊き、掃除に洗濯、家のことならなんでもござれだ。
狩りに釣りに、薬草摘みに、山菜摘みもきのこ採りも、お任せあれ、だぜ。」
得意げに指を折って数え上げるテルに、リンは感心して目を丸くした。
「すごいな、テル。
そんなになんでもできたら、わたし、要らなくなっちゃうな。」
「お姉ちゃんは、要らなくなんかならないよ。
主の大事な人なんだからさ。
それに今は、ちゃんとからだ、治さなきゃ。」
なるほど、享悟がずっと自分にかかりきりになれたのは、テルのおかげだったのか、とリンは今頃気づいた。
そういえば、享悟は壊滅的に飯炊きは下手だった。
あんな見事なおかゆ、享悟に炊けるはずもなかった。
「あの、飴も、あなたが?」
享悟にしては気が利きすぎている、と思ったのだ。
島には飴なんてものはなかった。苦い薬をごまかす方法は水をたくさん飲むだけだ。
テルは得意げにうなずいた。
「ああ、あれ、結構いけるだろ?
ここの近くの市に、ときどき都から飴売りがくるんだ。
おいら、兵士から失敬したものを売り払ったりもしてたからさ。
市のことなら、まあ、そこそこ詳しいんだよね。」
兵士から云々は、あまり大っぴらに言うことでもないと思うけれど、あの飴は嬉しかった。
リンは、あんなに甘いものは生まれて初めてだった。
テルは言い訳をするように付け足した。
「いや、今はもう、賊の真似事はやってないよ?
主はちゃんと給金をくれるからね。
お姉ちゃんが怪我したのはおいらのせいだってのに。
主はおいらに怒るどころか、雇ってくれるなんて、あれ、とんでもないお人好しだね?」
小悪党のふりをしてそんなことを言って小さく笑って肩を竦める。
どこかいつも心とは裏腹なことを言う小悪党に、リンは弟というのはこういう感じなのかなと思った。
「最初はさ、あんたが目を覚ますまでのつもりだったんだ。
あんたが怪我したのはおいらのせいだから。
あんたの命が無事だってことだけは見届けなきゃって思った。
主には出て行けって何度も何度も言われたけど、それこそ、必死になって足に縋り付いてさ。
なんとか取り入ろうと、野苺だの甘葛だの、あんたの喜びそうなもん探してきたり。
薬草なら絶対に必要だから、主も使ってくれるだろうとか、画策してさ。
いやあ、こんなに必死になって何かしたのは久しぶりだよ。」
へへっ、と照れ笑いする。
そんな顔をすると、ますます幼く見えた。
落ち着きがなくて、ちょっと小生意気で。
リンの周囲にいる人たちは、爺婆にしろ享吾にしろ、落ち着いた大人ばかりだったから、こんな相手はすごく新鮮だった。
「いやでも、実際に一番役に立ったのは飯炊きだった。
主、あれ、飯炊きだけは、ダメなんだよな?
焦がしたりべちゃべちゃにしたりして、そのたんびにため息ついてたんだ。
だから、こっそり炊いて、ほかほかのやつ山盛りにして出してやったらさ。
主のやつ、よっぽど飢えてたのか、無言のままがっついてさ。
翌日からはもう、出て行けとは一切言わなくなった。
あれこれと、おいらに用を言いつけてくれるようにもなってさ。
主、ずうっと夜も眠らず、飯も食わずにあんたの世話してたから。
あれは結構きつかっただろうと思う。
ふらふらになって薬草摘みに行くんだけど。
その間、あんたから目を離すのが辛いらしくて。
黙って、ぽろぽろ、ぽろぽろ、泣いてるんだ。
おいら、あんたのことも心配だったけど、それ以上に、主のこと、何とかしてやりたくてさ。
だから用を言いつけてくれるようになって嬉しくて、精一杯仕えたんだ。
そしたら、主、おいらを雇ってくれるって言ってさ。」
それがテルが雇われた経緯らしかった。
一丁前に小悪党を気取っていても、根の人柄の善さと世話好きなところがよく透けて見えている。
律儀で義理堅い小悪党だ。
「おいらもさ、賊なんて好きでやってたわけじゃないしさ。
主みたいな主人に仕えて生きていけるなら、御の字だよね。
お姉ちゃんだって、その方がいいと思うだろ?」
どこか得意げなテルに、リンも力いっぱい頷いた。
「もちろんだよ。
テルは優しい人だね。
キョウさんのこと、心配してくれて、有難う。」
思わずリンがお礼を言うと、テルは、へん、と少しばかり不満そうに鼻を鳴らした。
「守護ってのは、あれかい?嫁みたいなもん?
あんたは、主の嫁御寮なのかい?」
「嫁ってのとは違うけど…」
そうなれたらいいとリンは思っているけれど。
享悟には今いち、そういうふうには見られていない、とも思っている。
へえ、とテルは軽く眉を上げた。
「じゃ、あんた、まだ誰の嫁でもないのかい?」
「…まあ、守護を降りるまでは、恋も結婚もご法度だから。」
「守護を降りるまで?」
「うーん、まあ、当分先だよ。」
それについてはあまり口にしたくなくて、リンは軽くごまかした。
ふーん、とテルは適当な相槌を返した。
「まあ、いいや。あの主から奪うのはちょっと無理かなって思ったんだけどさ。
そうじゃないなら、おいらには好都合だ。」
「なに?なにか、キョウさんのもの、ほしいの?
ほしいって言えば、なんでもくれるよ?キョウさん、優しいからさ。」
軽く請け負うリンに、テルはわずかに苦笑する。
「それはどうかな?流石になんでもとはいかないだろう。
まあ、いいや。今は嫁でないってだけで十分だ。
おいら、主のことも大好きだからさ。
さてと。
そろそろ、帰ってやれよ。
主、あんたに置いて行かれて、それこそ見ちゃいられないくらいの落ち込みようだったからさ。」
「だってさ、キョウさんってば、お手水にまでついてくるんだよ?
あれは流石にやめてほしいよ。」
顔をしかめるリンに、テルはなだめるように言った。
「その辺は、おいらがうまく言ってやっから。
あれはね、あんたのこと大事で大事で仕方ないんだ。
それにあんた、敵に攫われただろ?
だから、ちょっとでも目を離したら、またいなくなるんじゃないか、って不安なんだよ。
まあ、大目に見てやれよ。
大事にされてるってのは、いいことじゃないか。」
「それは…まあ、分かってるんだけどさ…」
リンもこのところの享悟の過保護ぶりは、リンを攫われた反動なのだろうという予想はついていた。
ただ、それにしたって限度というものもあるだろうと、リンは思う。
「もうそろそろ、忘れてくれないかな?」
「まあ、そうすぐには忘れられないんだろうな。
けど、ずっと生きてればいろんなことあるからな。
笑うのを忘れるくらい辛くったって、それでもそのうち笑うこともあるし。
いつの間にか気づいたら、もう前ほどは辛くない、ってこともあるもんさ。」
リンは年下の少年の、この達観したものの見方に、感心して言った。
「テルって、なんか、小さいのに、すっごく大人みたいだね。」
「それって、誉めてる?だとしたら、小さいは余計だろ?
だいたいおいら、あんたと同い年だよ。」
テルの衝撃発言に、リンは目を丸くした。
「え?嘘?
もっとずっと下だよ思ってたよ…」
驚いたリンに、テルは悪戯の成功した子どものような目をして笑った。
「主からあんたの年は聞いたから、間違いないよ。
おいら、もしかしたら、あんたのほうがおいらより年下なんじゃないかと思ってたんだけど。」
「…じゃあ、なんでわたしのこと、お姉ちゃんって、呼ぶのよ?」
テルの笑顔に少しばかり小悪党が混じる。
「そう言っときゃ、大抵のお姉さん方は優しくしてくれるからさ。
おいら、背、ちっちゃいから、ガキに見られること多いんだよね。
弟妹でも、年の近いのはおいらより大きかったしさ。
みっつ下の妹に見下ろされたときは、流石にこたえたなあ。」
確信犯の小悪党にリンは呆れた顔になった。
「わたしはてっきり、テルはまだ、五つか六つだと思ってたよ。」
その反応には、流石のテルも顔を顰めた。
「流石に、五つ六つってことはないだろ。
あんたも背、変わんないじゃないか。」
「うちの島じゃ、五つでもわたしと同じくらいの子、いるもん。」
「そりゃ、流石にそっちが特殊だろ。
ああ、でも、あんたんとこの島には、でっかいやつがいるんだってな。
鬼の血筋なんだって?主もそうなんだろ?
けど、あれで主は、鬼にしては華奢なほうなんだってな。」
「…うん。」
リンの返事に少し間があったのは、驚いたからだった。
ここでテルに島の話をできるのは、自分の他には享悟しかありえない。
しかし、あの人見知りの享悟が、島の話をするくらい心を開くとは。
けれど、テルを見ていると、それもなんだか納得できた。
テルにはそんなふうに、人の心にすっと入り込んでくるような不思議な力があった。
テルテル坊主、という名は、ぴったりだ。
人の心を晴らすテルテル坊主のテルだ。
「テルもさ、これからはわたしのこと、リンって呼んでね。」
親しみを込めてそう言うと、テルは少し困った顔をした。
「あんたの名前は知ってたんだけどね。それを呼ぶのは、ちょっと…」
「どうして?わたしも護法じゃないし。」
「けど、あんたは主の大事な人だからさ。
っても、嫁じゃないのに、奥さまってのも変だし…
お嬢さま?姫さま?
うん。姫、でいいかい?」
「リンでお願いします。」
「じゃあ、行こうか、姫。」
テルはにやりと笑うと先に立った。
ぱんぱんと着物の土を払ってから、ひょい、とリンのほうへ手を差し出す。
リンがつられて手を伸ばすと、それを掴んでぐいと立たせた。
リンはテルの手が思ったよりもずっと大きかったのに驚いた。
「テルって、小さいのに、手は大きいんだね?」
「だから、小さいは余計だ、っての。
手?まあ、あんたよりは大きいかもな。」
軽く肩を竦めると、さっさと二、三歩歩き出してから、立ち止まって振り返る。
「ほら、帰るぞ?」
うん、とリンは頷いて、テルを追いかけた。
***
再び現れた月立の月を、リンはぼんやりと眺めていた。
縁側に腰かけていると、夜風は少し冷たい。
少しずつ暗くなっていくこの時間の空を見ていると、いつも少し島が恋しくなる。
沢釣りに行った日、享悟はもうすぐ帰れそうだ、と言った。
それから、月は満ち、また欠けた。
けどまだ、帰る日はこなかった。
家出の後、流石に箸は自分で使うようになったし、お手水には享悟もついてこなくなった。
まあ、家出と言っても、家の裏までだったけれど。
今も、リンの気配の感じられるぎりぎりの場所より遠くには、決して行かない。
リンも、出歩くのは家の近くだけにするようにとくどいほどに言い含められた。
家事は、恐ろしく手際のいいテルに、いつの間にかほとんど先に済まされてしまう。
こんな守護、役に立たないどころじゃない。
足手まといにしかなってない。
自分の無力さが情けなくて、リンはもうため息しか出てこなかった。
享悟はリンにお役目の話しは一切しない。
そして、あれ以来、一度も戦場に行こうとはしない。
帰れないのは自分のせいだとリンは思っていた。
あんなふうに攫われたりしなければ。
怪我をしたりしなければ。
きっと今頃、無事にお役目を終えて、島に帰ってのんびり釣りでもしていたのだろうに。
無駄にお役目を長引かせてしまった。
しかし、だからといって、リンには解決する能力は何もない。
それがリンには悔しかった。
ただひたすら、享悟とテルに甘やかされているだけの日々は、却って居心地悪かった。
せめて守護として、護法のお役目の足枷にはなりたくない。
思い切って享悟にそう言ってみたけれど、享悟は思ったより頑固だった。
何をどう言っても、戦場に行こうとはしない。
けれど、そんな享悟を咎めにくる人はいなかった。
どうやらテルはお役目も手伝っているらしいと、あるときリンは気づいた。
テルは享悟からあれこれと指示をされて動いているようだ。
戦場に行ったりして大丈夫なのだろうかと少し心配な気もするけれど。
元々戦場で荒稼ぎをする賊だったテルには、お役目を手伝うのに抵抗はなかったのかもしれない。
享悟とテルは、ときどきふたりでこそこそと何か話していた。
リンが近くに行くと話をやめてしまう。
けれど、聞こえた言葉の端々に、陣、や、敵、という単語が混じっていた気がする。
しかし、テルも戦の気配を持ち込むことはなかった。
「どうした?」
ふいに背中から声をかけられて、リンはびくりとした。
享悟はときどき、こんなふうに気配を消したまま近づいてくる。
そもそも、護法とは本来、自分の気配はなるべく消しているものなのだそうだ。
確かに、あんなに大きなからだをしているのに、近くにいてもそれをあまり感じない。
それでも、リンの傍にいるときには、リンに気づいてもらえるように、わざと気配を立てるようにしているのだそうだ。
「リン、帰りたい?」
享悟はリンの隣に来ると、そこへ腰掛けて言った。
リンは、自分の気持ちを言い当てられて言葉を失った。
帰りたい、などと言う権利は、自分にはないと思う。
帰れなくしてしまった原因は、他ならない、自分なのだから。
けれど、隠してもごまかしても、享悟はいつも、リンの気持ちを見抜いてしまう。
「ごめんね。」
「どうして謝るの?キョウさん。」
いきなり謝られて、リンは焦った。
享悟は悪くない。
こんな膠着状態に陥ったのは、リンのせいだ。
けれど、享悟はリンに頭を下げて言った。
「こんな緊張状態、リンには負担だよね。
ずっと、早く帰らせてあげたいと思ってはいるんだけど…」
そこへ、テルが姿を現した。
テルは縁側の前の地面に直に膝をつくと、明らかに意気消沈してうな垂れた。
「主、申し訳ありません。失敗しました。」
享悟は謝るテルを無表情に見下ろして、短く、そっか、とだけ言った。
いつものように淡々としていて、何を考えているのか分かり辛い。
テルはしょんぼりと小さくなった。
「すいません。
おいら、あんなに豪語したのに…」
ちらりと視線を上げたテルに、享悟は何も反応しない。
ただ、口元を手で覆うようにして、黙り込んでいた。
それは享悟のものを考えるときの癖だった。
付き合いの長いリンにとっては、それは分かりきったことだった。
けれど、テルはからだを小さく縮めて、息すら潜めて、緊張して享悟を見守っていた。
テルの顔が次第に絶望の色に染まっていくのに気づいて、リンは慌てて言った。
「心配しなくても、大丈夫だよ、テル。
キョウさんは怒ってない。
キョウさんは失敗しても責めたりしない。
わたしなんかいっつも大口叩いては挫折してるけど。
キョウさんは笑うだけで、怒ったり幻滅したりはしないから。」
「けど!」
何か言いかけたテルを、享悟は片方の掌を立てて押し留めるように、いや、と遮った。
「まずは、無事に帰ってこられてよかったよ。」
「ほらね?」
どこか得意げに振り返ったリンに、享悟はちらりと微笑みかけてから、テルのほうを見た。
「悪い。少し考え事をしていたものだから。
うん。そっか。いや、失敗はいいんだ。仕方ない。
まあ、僕も、あわよくば、なんて甘いことを考えていたんだけど。
そうそう虫のいいこともあるわけないよね。」
ふっ、とどこか力の抜けた笑顔を向ける享悟に、テルはうっ、と泣きそうになった。
「…お役に立てなくて、申し訳ありません…」
テルは申し訳なさそうに身を竦める。
いやいや、テルを責めてるんじゃないんだ、と享悟は苦笑する。
「ごめんね、怠け者の護法で。
君たちには本当に、迷惑かけてるよね。」
申し訳なさそうにする享悟に、リンは慌てて言った。
「一番、迷惑かけてるのは、わたしだから!
本当に、なんの役にも立たなくて…
お役目の足だって引っ張ってるし…」
享悟はリンに優しく笑いかけて、諭すように言った。
「リン。守護はね、もっとどーんと構えて、わたしを護りなさい、って言ってていいんだよ。
護法はそういうものなんだから。」
「そんなの、無理。」
リンは即答する。
享悟は苦笑と一緒にため息をついた。
「まあ、だろうね。
そういうとこ含めて、リンには教えなかったからなあ。
ごめんね?」
享悟は肩をすくめるようにして笑ってから、ふいに真剣な目をして、じっとリンを見つめた。
「リン、僕に命じて。
敵を討伐せよ、と。」
享悟の目がすっと光を帯びる。静かな殺気がそこに浮かび上がる。
けれど、その享悟の姿にリンが息を呑んだ途端、殺気は一瞬で消え失せた。
「え?いや、無理無理無理。そんなの無理。
討伐って、そんなの、命令できないし。
戦うのだって、本当は、行ってほしくないくらいだし。
だいたい、わたし、キョウさんに命令とか、ありえない。
絶対に無理。できません。」
顔の前に盛大な×を作って後退るリンに、享悟は額を抱えて笑い出した。
「いや、リン、本来、守護とはそういうものなんだよ?
護法にゆけと命じるのは、守護のお役目なんだって。
過酷な運命ほど、護法は守護に命じられたい。
守護の命を叶えてこそ、護法は喜びを感じるんだ。
ときに無茶な内容だとしても、護法を案じる心を抑えて命じるのが守護というもの。
その守護の心を分かっていながら、あえて徹底的にそれを守るのが、護法の矜持だ。」
「無理。今さらそんなこと言われたって、無理なものは無理。
そもそも、そういうこと教えなかったのは、キョウさんでしょう?!」
リンは思い切り責任転嫁して、ずりずりと後退する。
享悟の笑いに苦笑が混じる。
「じゃあさ、こう、オ、ネ、ガ、イ?ってのは?
そっちはいっつもやってくれるじゃない。」
なんの真似か頬の横で両手を合わせ小首を傾げる享悟に、リンは思い切り冷たい目を向けた。
「オネガイ、って、魚とってとか、柿とってとかじゃない。
それと一緒にしないでよ。」
「敵の首とって?でいいよ?」
「無理。」
「しょうがないなあ。うちの姫君は優しいもんね。
たとえ敵だろうと、人を傷つける命令なんかしないか。」
享悟は本格的にため息をついた。
「じゃあさ、とっておき。」
そう前置きをして、何を言われるのかと身構えるリンに、とびきり優しい目をむける。
「リン、早く、帰りたい?」
ゆっくりと一言一言区切るように尋ねる。
反射的に頷きそうになって、リンは顔を歪めて俯くと、激しく首を振った。
「帰りたいなんて言う資格、わたしにはない。」
本音を言えば帰りたい。けれど、それを自分が口に出すわけにはいかない。
それを見ていた享悟は、うん、とひとつ頷いた。
「帰りたいかどうかに、資格もなにもないでしょう。
帰りたいよね?リン。
僕もそろそろ島で釣りしたいし。
リンも、刺身、食べたいよね?」
ぐううううう。
思わず答えてしまったのはお腹だった。
享悟は真ん丸い目をしてリンを見つめた。
一呼吸置いてから、肩を揺すって笑い出す。
テルまでも、ぷっと吹き出して笑い出した。
「やっぱり、リンのお腹は正直だ。」
リンは頭を抱える。
う。う。う。恥ずかしい…
不覚。不覚だ。
ひとしきり笑うと、享悟はさっぱりした顔になった。
「テル。今夜一晩、命を懸けて、リンを護れ。
こればっかりは、失敗したら、命はない。」
享悟のそんな凛とした声は初めてだった。
テルは信じられないという目をして享吾を見返した。
「…おいらが、姫を?
主、そんなこと命じて、いいんですか?」
「大丈夫、こんなところにまで敵が来るようなことには、僕がさせないから。」
享吾はけろりと返す。
それでも、テルはまだ信じられないという顔をしていた。
「主が、姫を、他人に任せるなんて…
ずっと、怖くて目を離せないって言ってたのに…」
「まあ、そのせいで、最近ちょっとリンに嫌われてたし…」
享吾は視線を逸らせると、小さくため息をついた。
「重すぎるってのは、ダメなんだよね。
分かってはいるんだよ?
それに…」
すぅと享吾の表情が冷たく冴える。
「こんなところにいつまでもリンを置いておけない。」
きっぱりと言い切られた言葉に、反論の余地はなかった。
テルは感極まったように俯くと、固く頷いた。
「主、おいらはお手討ちにされる覚悟をして帰ってきました。
そんなおいらを助けてくださったばかりか、もう一度信用してくださるとは。
大切な姫の御身をお預け頂けたこと、おいら、生涯忘れません。
この命に代えても、姫のことはきっとお護りいたします。
そして、おいらは一生、主についていきます。」
真剣な目をして訴えるテルに、享吾は、あ、はははは、とやや気の抜けたような笑顔を返す。
「じゃ、頼んだよ。」
享吾は軽い口調でそう言うと、リンのほうを振り返った。
「リン…
あったかくして寝るんだよ?」
優しい目をして享吾はリンを見つめた。
リンは無言のまま不安げに享吾を見つめ返す。
リンを見る享吾の目に、切なそうな色が浮かぶ。
けれど、自らの思いをぐいと押し殺すように、享吾は目を閉じた。
再び享吾が目を開いたとき、そこにはもう、迷いも躊躇いもなかった。
「僕もそろそろ帰りたいし。
久しぶりにちょっと働いてくるかな。
じゃあね、リン。今度こそ、すぐに帰れるよ。」
裏の畑にでも行くかのように、明るく言って、享吾は軽くリンを胸の中に抱き寄せた。
ふわり、とリンは享吾の匂いに包まれた。
その次の瞬間、享吾は、つい、と姿を消していた。
***
テルは家の戸を全部、厳重に戸締りした。
閂をかけ、ないところは釘を打つ。
月の光すら差し込めないくらい締め切って、最後の扉を残して、リンを中に放り込んだ。
「おやすみ、姫。また明日。」
にこっと笑ってそう言うと、外から厳重に扉を閉めた。
テルはどうするのかリンには尋ねる暇もなかった。
締め切った扉の向こうから、ばんばん、と釘を打つ音がした。
「安心してていいよ、姫。
ここはおいらが、命に代えても護る。」
扉の向こうからくぐもった声が聞こえた。
「テル?テル!」
リンは力いっぱい扉を叩いた。
でもそれは決して開かなかった。
なにか、とてつもなく不穏なものが動き出す。
その気配に、胸の中がざわつく。
不安も恐怖も、ただ、抱えているしかない。
そんな夜だった。