第四章 ~誓約
小屋に着くと、享悟はなによりもまず、リンの傷の手当に取り掛かった。
刀を抜き、傷口を丁寧に洗う。
それから、薬草をつぶして傷口に塗り、きれいな布で縛った。
***
その夜、リンは高い熱を出した。
肩の傷は、じんじんと痛み続ける。
暑いのか寒いのか、痛いのか苦しいのかも、分からない。
ここがどこなのかも、分からない。
島にいるはずの爺と婆の声がする。
おばあちゃん、痛いよ、しんどいよ、と手を伸ばすと、誰かがその手を握ってくれた。
少し安心すると、耐え難い眠気に落ちていった。
ふと気づくと、見覚えのない綺麗な女の人がいた。
あれは誰だろう。
とても優しく笑っていて、知らない人のはずなのに、その人のことを大好きだと、何故かそれだけ知っている。
それから、ひょろりとしたお兄さんも現れた。
どことなく怖そうな顔してるけど、実はちっとも怖くないって分かっている。
優しくて、ちょっと気が弱くて、リンの言うこと何でも聞いてくれる。
細い腕をしているのに、リンのことを、ひょいと軽く抱き上げて、そのままどこかお祭りのように賑やかなところを歩いていく。
大人になった君がまだ僕のことを今と同じくらい好きでいてくれたら。
そのときには、お嫁においで。
約束、した。
指きり、した。
ゆびきりげんまんうそついたらはりせんぼんのーます
幼いリンの歌声に、お兄ちゃんの声が重なる。
そっか、約束か。
そう言って嬉しそうに小指を眺めている。
ふわり、ふわ、ふわ
青い竜胆がたくさん降ってきた
あのお兄ちゃんは、どこ?
婆に何度も何度もそう聞いたけど。
婆は、そんな人はいない、と断言した。
夢を見たんじゃないか、とも言った。
夢なんかじゃないのに。
あのお兄ちゃんは確かにいたのに。
また明日って、言ったのに。
ぐわんぐわんと頭のなかで声がする。
誰かがすごく大きな声で叫んでいる。
!!!!!!!
大丈夫だよ、キョウさん。
大丈夫だから。
辛いよ。苦しいよ。
わたし、もっと強ければよかった。
もっと何か、特別な力を持っていればよかった。
そうすれば、キョウさんをこんなふうに悲しませることもなかったのに。
だけど、わたしには何にもない。
涙ばかり、ぽろぽろと零れていった…
***
享悟は、ずっとつきっきりで、リンの看病をしていた。
熱に浮かされ、朦朧として、リンは何か言っている。
差し伸べられた手を、思わずぎゅっと握った。
ぼんやりと目を開いたリンを覗き込む。
「リン!」
名前を呼ぶと、かすかに微笑んで、リンは、お兄ちゃん…とつぶやいた。
懐かしい、リンのそう呼ぶ声。
初めてリンにそう呼ばれたとき、まだ辛いことは何も起きていなかった。
このままずっとずっと一緒にいて、そのうち大きくなったリンを花嫁にする。
そんな幸せな想像をしたこともあった。
今となってはもう、すべては夢、幻となってしまったけれど。
「ゆーびきーり、げ…ま…、うーそ、…はーりせ…ぼ…」
途切れ途切れのかすかなリンの歌に、あの日の記憶が重なる。
また明日。そう言って笑ったリンの姿は、今でもはっきりと覚えている。
結局、あの約束は守れなかった。
***
リンが目を開くと、その目にはいつも、享悟の姿が映った。
リンを覗き込む享悟の瞳は、熱を出しているリンよりも、辛く苦しそうだった。
享悟のそんな顔を見るたびに、リンはなんとか笑おうとした。
大丈夫、と声に出して伝えようとした。
うまく言えた自信はないけれど。
享悟は泣きそうな顔をして、それでも必死に笑顔になって、リンの髪を撫でてくれた。
何度か、摺り潰した薬草を飲まされた。
けれど、うまく飲めなくて、咳き込んで吐いてしまった。
水も飲めなくて、口の端から零れ落ちる。
看病してくれている享悟に申し訳ないと思うけれど、どこもかしこも力が入らなくて、まるで自分のからだじゃないみたいだった。
何回か、そんなことを繰り返してから、ふいに、ぐい、と柔らかなものに口を塞がれた。
苦い味の水が無理やり口の中に流し込まれる。
苦しかったけど水は喉の奥へと滑り込んでいく。
からだのなかが冷んやりとするのを感じてとても心地いい。
それから少しすると、嘘のように楽になった。
しらじらと、辺りの明るくなるころ、ようやくリンは深い眠りの淵へと沈み込んでいった。
***
次にリンが目を覚ますと、小屋の中は明るい陽射しに満ちていた。
ちゅんちゅん鳴く小鳥の声に平和だなあと思う。
攫われたことも怪我をしたことも、全部夢だったような気がした。
「リン!」
真っ先に目に映るのは、いつも享悟の瞳だ。
享悟はじぃっとリンを見下ろしていた。
まるで片時も目を離すまいとするかのように。
リンはすっかり気分もよくなっていて、ぱちぱちと何度か瞬きをした。
「どうしたの?キョウさん。」
無邪気に尋ねるリンに、享悟の中から何かが零れ落ちそうになった。
その一歩手前でなんとか堪えて、享悟は静かに言った。
「痛むか?」
尋ねた声は掠れていた。
ゆっくりと差し出そうとした手は震えていた。
享悟のその手は、リンに届く前に、ぎゅっと握りこまれた。
「もう大丈夫だよ。」
にっこり笑ってリンがそう言うと、享悟はなにかを堪えるように唇を噛んで、目をそらせてしまった。
「お姉ちゃん!」
横から聞き覚えのある声がした。
リンはそちらに目を向けた。
見覚えのある清んだ瞳を見つけて、リンは思わず声を弾ませた。
「あなたも無事だったんだ。よかった。」
また賊に会えて、リンはとても嬉しかった。
初めて明るいところではっきり見えたその顔をじっと見つめて、リンは思わず呟いた。
「あれ?
もっと小さい子だと思ってた。
なんか、子ども扱いしちゃって、ごめんね?」
ふわふわと笑うリンに、賊はぐっと何かを堪えてから、ぷいと顔を背けると、怒ったように言った。
「なに、笑ってんだよ。
そんなこと、どうでもいいよ。
あんた、三日も目を覚まさなかったんだぞ。
もしかしたら、このまま、って…ずっと、怖くて、怖くて…」
その先はもう言葉にならなかった。
ただ、ぐすぐすと鼻を啜る音がした。
リンは少しばかり申し訳なさそうになった。
「それは、心配かけて、ごめんなさい。」
しょんぼりしたリンに、賊は指を突きつけて言った。
「まったくだよ!お姉ちゃん!おいらなんか庇うなよ!
あんた、こんなに綺麗で優しくて、おいらの身代わりになっていいような人じゃないんだよ!
おいらみたいな悪党、庇う値打ちもないのに…
あんたに万一のことでもあったら、どうするつもりだったんだよ?」
「庇う値打ちがないなんてことはないよ。
だって、あなた、とっても綺麗な目をしてる。
そういう目をしている人は、心の綺麗な人だよ。」
賊は、ぐっ、と妙な声を出して絶句すると、いきなり立ち上がって地団太を踏みながら、リンを指差してわめきたてた。
「おいっ!主っ!
あんたのこの姫君は、どっかに閉じ込めて、永遠に隠しておけ!
こんなのがそこら辺をふらふらふらふら歩いてたら、危なっかしくてしょうがないだろ?!」
真っ赤になって足を踏み鳴らす。
リンは目を丸くしてその様子を見守っていた。
享悟はどちらかと言うと穏やかな性質だったので、リンには喜怒哀楽の激しいこの賊が新鮮だった。
享悟はやれやれという顔をして二人のやりとりを見ていたが、リンの視線がむくと、穏やかな、けれどもどこか淋しそうな微笑みを浮かべて言った。
「ずっと、いろいろ手伝ってくれてたんだ。
役に立った。」
リンは少し驚いた。それから感心し直してもう一度賊を眺めた。
享悟は人見知りな上に自分でなんでもできるものだから、あまり他人をあてにしない。
他人に何かを頼むなんてこともなければ、他人のしたことを褒めることもない。
そんな享悟にここまで言わしめるとは、この賊、なかなか大したものだった。
リンに見つめられて、賊はまた赤くなってから、ふんっ、と鼻をひとつ鳴らして言った。
「おいらから頼み込んだんだ。
せめて、お姉ちゃんが目を覚ますまで、って。
どんなことでもしますからって。」
「そっか。有難う。」
リンがお礼を言うと、賊はぐっと押し黙ってから、ぶんぶんと首を振った。
「お礼を言うのはおいらのほうだ。
お姉ちゃんには二回も命を助けてもらった。
どんだけお礼を言っても足りないよ。
そんな怪我までさせて。
ごめんよ。おいらのせいで。」
「そんなこと、気にしなくていいよ。
わたしの勝手にしたことだし。
むしろかえって迷惑かけちゃったみたいだね。
ごめんね。」
リンがそう言うと、じっとリンを見つめた賊の目にまたぶわっと涙が浮かんだ。
「迷惑だなんて、言うなよ、お姉ちゃん。
おいら、お姉ちゃんのためならなんでもする。誓うよ。」
涙も鼻水もいっしょくたになったような賊の泣き顔に、リンは悪いと思いつつも笑ってしまった。
こんなふうにして泣ける賊は、やっぱり悪い人間じゃないと思った。
賊のことは心配だった。
島に連れて帰れないかなとすら思っていた。
あれっきりになってしまったかと思ってたけど、またこうして本当に会えてよかった。
「ねえ、ならさ、もう泥棒なんかしないで。
一緒に島へ行こう?」
「うん。いいよ。
おいら、お姉ちゃんとなら、どこへでも行く。」
賊はあっさり頷いた。
それが嬉しくてリンも笑い返した。
リンの笑顔に、賊は一瞬凍り付いてから、ふんっ、と盛大にそっぽを向いた。
「くそっ、おいら、仕事あるから、もう行く。
お姉ちゃん、あんた、無自覚なんだろうけど、ほんと、心臓に悪いよ。」
そう言うと、いきなりぷいっと出て行ってしまった。
「あ。ちょっと待って?まだ、話し…」
思わず賊を追ってからだを起こそうとしたリンは、ずきりとした痛みに、う、と声を漏らした。
「痛むか?!」
リンの様子を見た享悟は、即座にそう尋ねた。
いたわるように差し出そうとした手は、しかし、ぎゅっと握り込まれる。
享悟は瞳を険しくして、リンの肩の辺りをじっと睨むように見た。
「ううん…
いや。うん。少し…」
リンはごまかそうとしたけれど、享悟には通じないのを思い出して、正直に言った。
小さい頃から、享悟は不思議なくらい、リンの不調をいつも見抜いてしまう。
せめてなるべく心配させないように、リンは微笑んでみせた。
「でも、最初よりずっとましになったよ。」
躊躇うようにしながら、享悟は手を伸ばした。
「触っても、いいかな?」
リンの頷くのを確認してから、そっと、傷に触れる。
そっとそっと傷を覆う布を剥がして、丁寧に丁寧に、傷を診た。
「悪化は、していない。
けど、無理に動かすな。」
そのまままた薬を塗りなおして新しい布を巻く。
動かすたびにどうしても傷は痛むけれど、自分よりずっと辛そうな享悟を見ていると、リンは痛いとは言わなかった。
「心配かけてごめんなさい。もう大丈夫だから。」
リンがそう言うと享悟はまた泣きそうな顔をした。
「リンが謝ることなんか、ない。
謝らないといけないのは、俺のほうだ。
俺が、この手で、リンを…
リンに…リンの…」
呆然と、享悟は自分の両手を見つめた。
それから、ぎゅっと握りしめた。
ぶるぶると両手を震わせる。
ぽとり、と赤いものが落ちた。
血の雫だった。
爪が掌に食い込んでいた。
その両拳を、いきなり力いっぱいぶつけ合わせた。
何度も。何度も。がつっ、がつっ、と鈍い音がした。
自分の拳を自分で砕こうとしているようだった。
リンは必死にからだを起こすと、享吾のその拳を握った。
リンに握られた拳をぶつける寸前に、享吾ははっとして手を止めた。
恐る恐る、享吾は目を上げてリンを見た。
リンは本当はからだを起こしているのも辛かった。
享吾は即座にそれに気づいて、反射的にリンを支えようと手を差し伸べかけた。
けれど、リンに触れる寸前で、享吾は躊躇うようにまた自分の手を握り締めた。
その拳を、リンはもう一度両手で優しく包み込んだ。
ふらつくのをなんとか堪えて、リンはその手を握り続けた。
享悟の手を離したくなかった。
リンの手のなか、痛いほどに握りしめた享悟の拳は真っ白になっていた。
う、う、う、と享悟は声を漏らす。
けれど、リンから無理やり手を取り返そうとはしなかった。
リンはそっと享悟の拳を撫でた。
拳は岩のように硬かった。
けれど、諦めずに撫で続けた。
そのうちに、享悟は、ゆっくりと指を開いた。
享悟の手は指先まで冷たくなっていた。
掌にいくつも、三日月のように、爪の食い込んだ跡が傷になっていた。
享悟の指は薬草に染まって緑色になっていた。
よく見ると、頬にも髪にも緑色の欠片がついていた。
ずっとリンのために、薬草をすりつぶし、薬を塗って、手当てをしてくれていた証だった。
リンは享悟の掌についた三日月を見つめた。
枕元にリンの傷に塗るための薬の入った壺が置いてあった。
リンはその薬を指に取って、そっと、三日月の傷に塗り込んだ。
傷に触ると痛いかなと心配したけれど、享悟は痛そうにはしなかった。
ただ、されるがままに、じっとしていた。
ようやく薬を塗り終えたところで、リンはくらりと倒れそうになった。
けれど、倒れはしなかった。
享悟の手が、リンをそっと支えていた。
享悟はそのまま、優しくリンを布団の中に押し戻した。
「無茶はしないで、リン。」
そっくりそのままその言葉を、リンは享悟に返したかった。
「リン…」
そっとそっと、享悟はリンの傷の上に手をかざした。
決して触れはしない。
けれど、掌からふわりと熱が伝わってきた。
「この傷に誓う。
僕はもう二度と、リンを傷つけたりしない。」
また、僕、になっているのにリンは気づいた。
享悟はもう大丈夫だと思った。
「キョウさんは何も悪くないよ。」
横になったまま、リンは享吾を見上げて微笑んでみせた。
享吾は、うっ、と泣きそうになって、なんとかそれを堪えるような顔をした。
あの牢から、享悟はリンを助け出してくれた。
罠だということくらい、分かっていたはずだ。
けれど躊躇いもなく、単身敵の陣地に乗り込んだ。
いくら護法でも、相当に無茶なことだ。
護法は確かに普通の人間よりはずっと強い。
けれど、怪我をしないわけでも、ましてや不死身なわけでもない。
実際に、戦場で命を落とす護法は多い。
むしろ、衰えて畳の上で死ねる護法のほうが少ない。
冷静に考えれば、あんな無茶はするべきではなかった。
それでも享悟は、リンを助けに来てくれた。
享悟はたったひとりだった。
対する敵は何十人もいた。
牢屋なんて、陣地の入り口には作らない。
侵入も脱出も至難の業だったはずだ。
けれど、享悟はそれを成し遂げた。
近づくものはすべて敵。
きっと、そのくらい警戒して張り詰めていたのだろう。
そうでなければ、切り抜けられる場面ではなかった。
享悟があの場で賊を攻撃したのはほとんど反射的だった。
それに享悟の投げたのは守り刀だった。
人間相手に、殺傷能力はそれほど大きくはない。
よっぽど急所に当たれば別だろうが、相手を確認もせずに投げたのだから、威嚇、といったところだったのではないだろうか。
その前にわざわざ体を投げ出したのはリンだ。
とっさに考えなしに無茶をしてしまったと、冷静になって思い返せば反省しかない。
なんだか分からないものに頭がいっぱいになって、気づいたら、考えより先に体が動いていた。
身軽な賊のことだ。
リンのしたことなど余計だったに違いない。
庇われなくても、きっと自分で避けていただろう。
「ごめんなさい、キョウさん。」
リンは俯いてそう言った。
「無茶をしたのはわたし。
謝るべきなのは、わたし。
軽率な行動をして、キョウさんにも、あの子にも、迷惑をかけてしまった。」
享悟はとても傷ついている。
リンを怪我させてしまったと、悔いて苦しんで自分に罰を与えている。
けれど、それは全部自分のせいだとリンは思う。
「謝らないで、リン。
君に謝られると僕はますます自分が情けなくなる。」
けれど、享悟は悲しそうにそう返した。
だから、リンは、なにか別の言葉を探した。
役立たずのリンを助けに来てくれた。
愚かなことをしても、一言も責めなかった。
一睡もせずに看病をしてくれた享悟に。
言うべきことは他にある。
「助けてくれて、有難う。キョウさん。
あのとき、キョウさんの声が聞こえて、すごく嬉しかった。
キョウさんが来てくれたとき、あんな状況だったのに、幸せだ、って思っちゃった。
キョウさんといれば何も怖くない。
熱を出して苦しかったときも、目を開けたらいつもキョウさんがいてくれた。
だから、今は苦しくても、きっと大丈夫、もうちょっとしたら、きっとよくなるって、信じられた。
キョウさんは、わたしの命の素だよ。」
思い切ってリンが顔を上げると、享悟は息を止めたまま、じっとリンの顔を見ていた。
「…キョウさん?」
リンは享悟の開いた掌に、自分の掌を合わせた。
享悟の手は大きくて、掌のなかにリンの指まですっぽりと入ってしまう。
「キョウさん、手、大っきい。」
リンは手を握りたかったけれど、享悟の手はリンには大きすぎた。
享悟はそんなリンの気持ちを察したのか、リンの手をまるごとぎゅっと握り締めた。
その手の大きさの差が、そのまま享悟と自分との人間の大きさの差のような気がした。
だけど、それは全然、悔しくなかった。
むしろ、享悟の掌の大きさに安心していた。
「キョウさんがいれば、わたしっていつも大丈夫なんだな、って思うよ。
わたしも…いつか、キョウさんにとって、そういうふうになれたらいいな。
まだ、かなり遠い道のりだけど。」
「そんなの、もう、とっくにそうだ。
多分、僕がリンにそう思ってもらえたときより先に。
僕は出会ったときから、君をそう思っている。」
享悟は握ったリンの手を今度は離さなかった。
「僕は君を傷つけてしまったけれど。
君はまだ僕の守護でいてくれるのかな。」
享悟は心細そうに上目遣いでリンの顔を伺う。
ずっと高いところから見下ろしているのに、どこかしょんぼりした大きな犬みたいだとリンは思う。
「もちろんだよ。
って、キョウさんがよければ、だけど…
わたしみたいな守護…
いつ、いらない、って言われるか、って…
わたし、本当は、ずっと、怖くて…
わたしなんか、何の役にも立たないから…」
言葉は途中から続かなくなる。
リンは享悟の顔を見ていられなくなる。
ずっとずっと、恐ろしくて。
けど、どうしてもそれは受け容れられなくて。
受け容れたくなんかなくて。
何か、ひとつでもいいから、何か。
自分にできることはないかと探し続けている。
そんな自分を享悟はいつまで守護にしていてくれるのだろうかと、いつも不安を抱えていた。
目を逸らせたリンの震える心に、享悟の静かな声が響いた。
「前にも言ったよね?
リンの他に守護はいらない。
リンの他の誰にも縛り付けられるつもりはない。
…護法はね…」
言葉を切った享悟をリンは見上げる。
享悟はじっとリンを見据えている。
その目は怖いくらいに真剣だった。
「守護を取り替えたりなんかできない。
一度受け容れたら最後、命の尽きるまで。
機会はたった一度、最初に会うときだけ。
そのときに殺さなければ…
あとは生涯、ひとりの守護に縛られる。
だけど、僕は、望んで君に縛られた。
僕は、君を、僕の守護だと知って、歓喜した。
君になら、むしろ縛り付けられたいと望んだ。
だから、君が僕の守護でなくなりたいのなら…
君は僕を殺すしかない。
もしも、君がそれを望むなら…
僕は、君になら、命を差し出してもいい。」
享悟はリンの手に鞘から抜いた守り刀を握らせる。
それから、自分の首を指さした。
「リン。僕を捨てるなら、ここを刺せ。」
享悟はリンの手を上から握った。
刀を真直ぐに支えられるように。
「外さないようにね?苦しむ姿は、好きじゃないだろ?」
にやりと笑う享悟をリンは呆然と見た。
そんなこと言うなんて、信じられない。
享悟に上から手を掴まれているけれど、リンは全力で守り刀を放り出した。
享悟を傷つけるなんて、できるはずない。
そんなこと、望むわけない。
享悟を傷つける武器など、手に持ちたくはなかった。
きっ、と享悟を睨み据えたそのリンの瞳に、享悟は熱に浮かされたような目を返した。
「僕が怖い?リン?
怖いよね?
僕はきっと、狂ってる。
だから、早く殺したほうがいい。
君にこれ以上、害を及ぼさないうちに。
気にやむことはないよ。
君の幸せに比べたら、僕の命なんて、取るに足らないものだから。
君の幸せを害するものは全部、僕がこの手で滅ぼすつもりだった。
だけど、皮肉なものだね。
それなら僕が真っ先に滅ぼすべきなのは、この僕自身だったなんて。
けどもう、僕の全ては、君のものだから。
僕自身にも、もう僕の命をどうこうすることはできないんだ。
ごめんね?
こんなものを君に背負わせて。
僕はわざと、君に守護の柵について何も教えさせなかった。
守護はね、本当は護法よりもずっとずっと不自由なんだよ。
何も知らせずに、君を騙して、僕は君を、僕の守護に据えたんだ。
どのみち、君に捨てられたら、僕に生きている意味なんかない。
だから、そのときには殺してくれればいい。
要らないなら、殺してほしい。
僕は、君のやることは妨げない。
たとえ、この僕の命を奪うことでも。」
放り出された守り刀は、畳の上にごとりと落ちた。
よく見ると、ずっとぴかぴかに磨かれていた刃は、すっかり錆びついていた。
リンの疑問に答えるように、享悟は言った。
「君を傷つけたものを磨いたりなんかできない。
ここについた君の血を、落としたりしない。」
享悟は守り刀を拾いあげて、恍惚とした表情で錆びた刃を見つめた。
「死ぬなら、君を傷つけたこの刃がいい。
ここについた君の血が、僕の血と混ざり合う。
そうして息絶えることが叶うなら、なんて幸せなんだろう。」
リンは思わずその守り刀を取りあげていた。
「駄目だよ、キョウさん。
そんなの、わたしが許さない。
それに、誰がなんと言おうと、わたしはキョウさんは怖くない。」
リンは視線に決意を込めて、享悟を見据える。
享悟は、ふふっと笑って返した。
「仰せのままに。我が守護殿。」
それから丁寧にお辞儀をして守り刀を取り戻すと、鞘に収めた。
いくつも珠のついた綺麗な鞘だった。
異国の花の模様が彫ってあった。
享悟のような強い護法の持ち物には少し似合わない、華奢な刀だ。
どこかの姫君の守り刀のようだとリンは思った。
「君の綺麗な手に刃物なんて似合わない。
けど、僕を捨てたくなったらいつでも言って?
そのときは殺すのを手伝うから。」
「殺したりしないよ!
捨てたくなるわけないじゃない!
なんで、そんなこと、言うのよ…
なにをどうしたって、わたしはあなたのことは怖くない。
怖がらせようったって、無駄だから。
わたしは、キョウさんは、怖くない!!!」
ぽろりぽろりと、思いは零れて目から溢れ出した。
一度溢れ出した感情はなかなか止まらない。
辛いのも、悲しいのも、苦しいのも。
情けないのも、悔しいのも、申し訳ないのも。
全部全部、涙になって流れ出していく。
そうやって最後に残るのは、本当に一番大事な気持ちだけ。
誰がなんと言おうと、リンは、享悟を怖くない。
享悟は辛そうな顔をして、リンをじっと見ている。
享悟の伸ばしかけた手は、またリンのところには届かずに、宙に浮いたままだった。
リンはもう限界だった。
これ以上、遠慮なんか、していられなかった。
分からないなら分かるまで繰り返す。
聞こえないなら、聞こえるまで言ってやる。
そう思った。
「わたしは、あなたを、怖くない。」
享悟の襟を掴んで引き寄せて、真っ向から挑むように見据えた。
吐いた息の熱を感じるくらい近くから。
瞳の虹彩の数を数えられるくらい近くから。
どんな小さな吐息すら、聞き漏らせないくらいの近くから。
「わたしはあなたを絶対に怖くない。
たとえあなたが何をしようと。
怖がらせようと必死に努力したって。
世界中から怖がられるくらい怖い存在になったって。
わたしは、絶対にあなたを、恐れない。」
享悟はただ、なすがままになっていた。
力もからだも、リンよりずっと大きく強いのに。
抵抗することもなく、ただ、振り回されていた。
お願いだから、わかってほしい。
お願いだから、信じてほしい。
なりふりももうかまわない。
必死に訴えるリンの瞳を、ようやく享悟は正面から見返した。
何かが、かちり、と嵌った。
ふわり、と享悟は胸を開く。
ためらいもなく、リンはその胸に分け入っていった。
享悟のなかの不可侵領域を囲う張り詰めた糸を、リンは強引に引き千切った。
ふわり
ふわ、ふわり
気が付くといつの間にか部屋の中は花でいっぱいだった。
すぐに消えてしまう儚い幻だけど。
とても綺麗だとリンは思った。
享悟は開いた胸の中に、リンを迎え入れた。
今にも息が止まるほどに、怖くてたまらないのに、同時に震えだしそうなほどに幸福で。
享悟は押し寄せてくる感情をただ静かに受け容れていた。
縋り付くようにリンが胸にぐいぐいと顔を押し付けたら、そっと遠慮がちに、背中に手が置かれた。
それに勇気をもらって、リンは享悟の着物が涙でぐしゃぐしゃになるのも構わず、わんわん泣いた。
その涙を、享悟は全部、受け留めた。
濡れた着物の冷たさごと全部、引き受けていた。
リンが享悟の守護になれるか不安なのと同じように、いや、それ以上に、享悟はリンの護法になれるのかどうか不安なのだと、今初めてリンは悟った。
享悟は護法である自分を、誰より自身で忌避している。
だからなおさら、そんな自分を、リンには受け容れさせられないと思っている。
リンは、当たり前のように、無条件に享悟を受け容れているつもりだった。
享悟だって、リンに対して、ずっとそうしてくれていた。
たとえ、命を奪われても、それがリンのすることなら受け容れられると享悟は言うけど。
リンだって、たとえ、鬼だとしても、享悟のことは受け容れられる。
鬼か人かなんて、重要なことじゃない。
享悟が享悟として存在してくれているならば。
リンも享悟も、自分自身にとって、それは当たり前なのに、お互いにそれを相手に告げることはしてこなかった。
あまりに当たり前すぎて、伝えるべきことだと、気づかなかった。
「リン。僕の守護は君だ。
守護は護法にとって命綱で、最大の弱点だ。
どんな護法も、自らの守護は命をかけて護る。
なのに、僕は君を護れなかった。
情けない護法で、本当、ごめん。
だけど、君の護法ももう取り換えはきかない。
僕は君をちゃんと護れるようになる。
もう二度と、君が傷つくようなことにはしない。
だから、リン。
お願いだから、僕を捨てないで。
僕は、生きていたい。
こんな鬼になっても、君の傍にい続けたい。
命も心も魂も、全部君にあげるから。
だから、どうか、どうか…
僕の守護でいてほしい。」
享悟の声がリンの胸に響く。
そうしてリンはようやく気付いた。
自分も、享悟の守護でいたいのだと。
「わたしでいいのかな…?」
「リンがいいんだ。
リンでないと困るんだ。
リンの他はあり得ないんだ。
僕の本心はリンにすら疑われる始末だけど。
それでも、僕はリンを諦められない。」
享悟はひとつ息を吸う。
それから思い切ったように言葉を吐き出した。
「リンと出会ってなかったら、僕はきっと生きていなかった。
もうこれ以上、生きていなくてもいいと思っていたとき、リンと会った。
どうせ失くなってもいい僕なら、リンのために使いたい。
この命を君のために差し出すのが、僕の究極の夢なんだよ。
けど今は、まだ生きていたいんだ。
生きて、少しでも長くリンの傍にいたい。
生きていることを幸せだって、僕は知ってしまった。
ずっと、何も感じず、何も考えずに生きていた。
けど、リンといると、いろんなことを感じる。
不安なのも心配なのも、リンといて初めて知った。
嬉しいも楽しいも、リンに教えてもらった。
不安も喜びも、リンといて感じるものは、全部僕の宝物だ。
なのに、僕はリンを傷つけてしまった。
何より大切な宝物のリンを。
守護を傷つける護法なんて前代未聞だ。
命を懸けても守護を護るのが、護法というものなのに。
こんな情けない護法、いたためしはない。
命を以て罪を償えと言われても当然だ。
けど、リンがこんな僕の罪を赦すと言ってくれるなら。
僕はまだもう少し、君の傍で生きていたい。」
真剣な目をして切々と訴える享悟に、リンは息を呑んでいた。
こんな享悟は見たことがなかった。
いつも穏やかな享悟に、こんな一面があるとは思わなかった。
不安も申し訳なさも全部飲み込んで、リンはきっぱりとひとつ頷いた。
「どうか、これからもよろしくお願いいたします。我が、護法さま。」
リン…と享悟は喉の奥でその名を呼んだ。
「幾久しく、あなたに忠誠を誓います。我が、守護どの。」
拳で胸を叩く。それは最上級の誓約の仕草だ。
リンを見つめたまま、享悟はそう告げて、それから、雨雲から降りてきた光のように笑った。