第三章 ~奪還
リンが目を覚ましたのは、暗い牢屋の中だった。
山の洞窟を利用して、鉄格子を嵌めて作ったもののようだった。
明かりはなかった。
どこからか水の流れる音がしていた。
牢の中は、壁も床もぐっしょりと濡れていた。
濡れた床にリンは転がされていた。
全身濡れそぼって、ぞくそくと寒気がした。
「大丈夫?」
すぐ近くで気遣うような細い声がした。
それから、ひんやりした手がリンの額に押し当てられた。
「熱、あるね。寒いだろ?」
そう言ってそっと手をさすってくれる。
子どものようだった。
「あなたは?」
「おいら、戦場で荒稼ぎする賊さ。
捕まっちまったんだ。」
一人前の口のききかたと甲高い声とが合ってない。
リンは首を傾げた。
「小さいのに、戦場で何をしていたの?」
「矢を拾ったり、まだ使える刀を探したり。
死んだ兵士の懐から頂戴したりも、したかな。」
「それは泥棒だよ。」
「だから、賊だ、って言ったろ?」
幼い声に似合わない笑い方で、小さな賊は笑った。
「ふた親は戦に巻き込まれて死んだからね。
こんなことでもしなきゃ生きてけないんだよ。」
暗くて顔は見えなかった。
けれど、リンよりも小さい子どものようだった。
幼い賊の過酷な運命にリンは言葉を呑んだ。
リンも親とは離れ離れだった。
けれど、爺婆に大切に育ててもらった。
リンはこの賊をそのまま放ってはおけない気になった。
「ねえ、うちの島に来るといいよ。
畑作って、魚捕って、暮らせるよ。」
「そいつはいい話だね。
まあ、生きてここから出られたら、だけど。」
暗闇に慣れた目に、ようやく賊の姿が見えてきた。
ろくでもない小悪党の割には、清んだ目をしていた。
「それより、寒いだろ。大丈夫か?」
賊はそう言ってリンの背中をさすってくれた。
それで温まるのは到底無理だ。
けれど、気持ちは温くなった。
「気がついたか。」
ざらついた声がそう言うのが聞こえた。
声のしたほうに目をむけると、久しぶりに見た明かりに一瞬目が眩んだ。
それは見張りをしていた看守の男らしかった。
「おとなしくしていろ。お前は人質だ。」
看守は牢の中のリンにそう言った。
むこうのほうからもうひとり誰か声をかけてきた。
「女は目を覚ましたのか?」
ああ、とこちらの看守が答えた。
すると鎧を着て歩く音がした。
「ほう?
よく見ると、なかなか可愛いんじゃないか?」
現れた男は手に持った明かりをこっちに差し出して、にやにやとリンを見た。
「まだ小娘だ。
鬼神は本当にこんな小娘の言いなりになるのか?」
看守は訝し気に尋ねる。
それに後から来た男は下卑た笑いを返した。
「小娘の好きなやつもいるだろうよ。
それに鬼神も若造らしいからな。」
看守はやや深いため息をついた。
「こんな餓鬼どもに振り回されるとはなあ。」
「負けるはずなどない戦だった。
あの鬼神の現れるまでは。」
鬼神というのはキョウさんのことだろうか。
リンは二人の男の話しから必死に状況を読み取ろうとした。
「しかし、鬼神の弱点を手に入れたんだ。
戦況もこれでまたひっくり返るだろうよ。」
「あんな弱小大名相手にこんなにてこずらされるとは。」
リンは自分の置かれた状況を整理しようとした。
今いるのは、敵方の牢。
そして、わたしは、キョウさんに言うことを聞かせる人質…
どうしよう、と不安になった。
このままじゃ、キョウさんに迷惑をかけてしまう。
わたしなんか大して役にも立ってないのに。
リンは申し訳なさにいっぱいになった。
守護は護法の魂を守るというけれど。
実際のところ、リンは何も特別なことはしていない。
ただ、毎日おにぎりを握っていただけ。
島にいたころのほうがもっとずっと働いていた。
それなのに、そんなわたしのせいで、キョウさんに迷惑をかけるなんて…
いやでも、とリンは思った。
本当にリンはなにも特別なことはしていない。
守護というのはよほど御大層なお役目なのかと思っていたけれど。
享吾の守護らしきことなど、何一つ、したことはない。
おにぎりを握るだけなら、誰にでもできることだ。
ふいに、一つの考えに思い至った。
自分などいなくても、享悟はきっと何も困らない。
享吾の請けたお役目には、家宝を売り払うほどの大金がかけられている。
それに、この戦には義があって、お味方をする大名は、どうしたって勝たせなければならない。
たくさんの人の命や暮らしが、この戦にはかかっている。
そんな大事なお役目とたったひとりリンの命と。
どっちを取るかなど、考えるまでもない。
そもそも、迷惑をかけてしまうなんて心配すること自体、厚かましかったかもしれない。
リンを捕えたところで、享悟を思い通りになんかできるわけないのだから。
「わたしなんか捕まえても、意味ないよ。」
気が付くと、看守にむかって、リンはそう言っていた。
「わたしにそんな特別な値打ちはないから。」
リンがそう言うと看守は明らかに顔をしかめた。
「おい、あれは本当か?」
「小娘の言うことだ。信用するな。」
「しかし、確かにあんな小娘だ
本当に役に立つんだろうか。」
看守たちはひそひそと話し始めた。
と思うと、いきなりリンに話しかけてきた。
「おい、小娘。お前はあの鬼神の女なんだろう?」
「確かに一緒に島から来たけど。
わたしは何も特別なものじゃない。」
「なら…
鬼神との交渉にお前は役には立たないのか?」
「…立たない、んじゃないかな…」
リンが思わず正直に白状すると、鎧姿の男の目の色が変わった。
「ならお前は用済みというわけだな。」
「ちょっと!お姉ちゃん!
なに、余計なこと言ってんだよ!
ここは自分を、切り札だと言っとくとこだろ?」
焦ったような賊が横から叫んだ。
ああ、確かに。そうすればよかった、かな?
そのときになって、リンはそう思った。
けれども、もう遅かった。
鎧姿の男は耳障りな音を立てて牢の鍵を開く。
それからがちゃがちゃと中に入ってきた。
「くそっ!逃げろっ、お姉ちゃんっ!」
賊はいきなり男に向かって飛び掛かった。
けれど、それはいともあっさりと捕まってしまった。
「う、いたたたた、放せ!」
腕をひねりあげられて賊は悲鳴を上げる。
「うるさいなクソガキ。
腕を折られたくなかったら大人しくしていろ。」
「待って!子どもは放して!」
リンは必死になって男の腕にとりつくと、なんとか、賊を放させようと力を込めた。
「じゃあ、代わりに姉ちゃんを掴むとしようか。」
男は下卑た笑いを漏らして、リンを見た。
賊を突き放して、リンのほうへと手を伸ばす。
ひねられた肩を抑えて賊はうずくまった。
リンはその賊を必死に背中に庇った。
そして、そのまま男を睨みつけた。
「こんな小娘でも、一応は、女だな。」
リンの怒りなど男にはなにほどのこともないらしかった。
男はいやらしい笑いを浮かべる。
リンの背中に、ぞくりと怖気が走った。
「おい、やめておけ。」
看守は外からそう声をかけた。
けれど、もはや男はそんなことは聞き入れそうにもなかった。
「あの鬼神にゃ俺も恨みがある。
あんたにそれを晴らしてもらうとするか。」
男はそう言うとリンの腕を掴んで引き寄せた。
男の息は饐えた匂いがした。
うっ。
リンは吐き気がして、思わず顔を背けた。
そのときだった。
しゅっ、ぱし。
リンの目の前になにか小さな光が閃いた。
男が手に持っていた明かりは地面に落ちて消えてしまった。
辺りは暗闇に閉ざされる。
その一瞬後、ものすごい叫び声が上がった。
がしゃり、と音がして、リンを掴んでいた男は、足元に倒れ込んだ。
「おい、どうした?」
「襲撃だ!」
そんな声が遠くから聞こえた。
けれど、あたりは暗くて、様子はよく見えない。
がしゃがしゃと人の走り去る気配がした。
「え?」
何が起こったのかよく分からなかった。
看守もいつの間にかいなくなっていた。
よほど慌てていたのか、牢の扉は開いたままだった。
自由に動けるようになったリンは賊のほうへむかって叫んだ。
「今のうちに、お逃げなさい!」
好機だと思った。逃げるなら今しかない。
「逃げるならお姉ちゃんと一緒だ。」
賊は律儀にそんなことを叫び返した。
「わたしはいいから。
無事に逃げ切ったら、また会おうね?」
そう言いつつ、リンは微笑んでいた。
暗いから、賊に顔は見えないだろうけれど。
幼い賊に戦う力はないだろう。
それはリンも同じだった。
けれど、賊は戦場に慣れている。
きっと、すばしっこくて逃げるのは上手いだろう。
小さいからだを活かせば物陰にも隠れられる。
けれどもリンは、守護とは名ばかりの、ただの小娘だ。
何も特別な能力はない。
一緒に行けば、きっと足を引っ張ってしまう。
賊一人のほうが、うまく逃げられると思った。
「わかった。お姉ちゃん、きっと逃げろよ!」
賊はそう言い残すとさっと走り去った。
リンはほんの少し、ほっとした。
賊に生きてほしいと、心から願った。
***
リンは自分はもはや、ここから生きて帰れるとは思えなかった。
リンには、ここから抜け出す体力も、方策もない。
からだは高熱に震え、まともに立っていることすら、もう難しかった。
こんなにあっさりと終わりはやってくるのだと、今さらながら思った。
けれど、そんな自分の運命に巻き込んで、誰かの命を失うのは嫌だった。
寒いだろう、と気遣ってくれた賊の温かい手も、小悪党を気取る割に清んでいた瞳も、失われていいものには思えなかった。
賊を自分の巻き添えにせずに済んだことには、ほっとしていた。
ほっとすると、ゆっくりと、力が抜けていった。
ずるずると膝から崩れ落ちていく。
せめて、もう一度、享悟に会いたかった。
今朝、ちゃんと早起きすればよかった。
でも、享悟に迷惑をかけずに済んだなら、それでいいと思った。
どのみち、自分は名ばかりの守護だ。
自分を失っても、享悟にはそれほど影響はないだろう。
どうせなら、もう少し、役に立てる守護なら、よかった。
ごめんね、キョウさん…
「リン!」
そのとき、とても懐かしい声がリンの名を呼んだ。
たとえ最期の夢だとしても、その声を聞けてリンは嬉しかった。
「キョウ、さ、ん…」
思わず名を呼んでしまった。
そうしたら、どうしてか涙が溢れてきた。
もう寒さも痛みも感じない。
固く冷たい地面に激突した感覚もなかった。
「リン!」
次の瞬間には、リンのすぐ隣に享悟がいた。
痛みを感じないはずだった。
地面に崩れ落ちる前に、享悟はリンを抱きかかえてくれていた。
思わずリンは微笑んでいた。
「キョウさん…これは、夢かな?
でも、最期にキョウさんに会えて嬉しい…」
「馬鹿なこと言わないで。
最期になんかするわけないだろ?」
「わたし、死なないの?」
「当たり前だ。
僕が君を死なせるなんて、金輪際あり得ない。」
驚いたリンは閉じかけていた目を見開いた。
その目にリンを心配そうに見ている享吾の姿が映った。
こんなときなのに、リンは幸せだと思ってしまった。
本当ならこんな敵地にたったひとり踏み込んだ享吾の身を心配するべきだ。
なのに、享吾が来てくれたことが、こんなにも嬉しかった。
享悟にとって、自分がどれだけ役立たずでも、自分にとっては、享悟はなくてはならない人だ。
自分が享悟を必要としているのと同じくらい、享悟も自分を必要としてくれればいいのに。
そんなふうになりたい、と、リンは心の底から思った。
「怪我は?
こんなに濡れて…
熱もある…」
享悟は次々とリンの手足や額に触れて確かめている。
それから、辛そうな声を絞るように言った。
「ごめん。こんな目に合わせて…」
温かな享悟の手に触れられていると、リンはそれだけで力が戻ってくるような気がした。。
キョウさんはわたしの命の源だ、とリンは思った。
「キョウさん…
助けにきてくれるとは思わなかった。
来てくれて有難う。」
リンは心を込めてそう言った。
けれど、一瞬黙り込んだ後で発せられた享悟の声は、さっきよりも固くなっていた。
「僕が助けにこないって、思ってたの?」
「だって、わたし、役立たずだし…」
「それ、本気で言ってるのか?」
地の底から響くような低い声で享悟は言った。
そんな声を聞いたのは、リンも初めてだった。
「リンが役立たずだなんて、誰が決めたの?」
「だって、わたし、守護って言ったって、名ばかりだし…」
「…リン。
君にそう思わせてしまったのは僕のせいだ。
でも話は後にしよう。」
享悟はなにかを抑え込むようにそう言うとリンをぐいと引き寄せた。
「十数える間、目、つぶってて。」
そのままリンの顔を自分の胸に押し付ける。
「耳、塞いでやれないから。
僕の胸の音聞いてて。」
そう言って、強い力で胸の中に抱え込んだ。
少しばかりいつもほど力の加減をできなかったのは、怒っているからかもしれない。
けれどリンは、痛いよりも安心だと感じていた。
とくん、とくん、と享悟の胸の音は規則正しく鳴っていた。
少しも早くなったり、不規則になったりしない。
それを聞いていると、リンは不思議と、不安な気持ちも恐れも溶けて消えていった。
遠くから大勢の人々のざわめく声が聞こえた。
武器や鎧のぶつかる音もする。
鬼神の襲撃だ。牢を破られた。
そんな事を叫び合うのも聞こえてきた。
享悟はそんな物音を打ち消すようにリンの耳元で言った。
「いいかい、数えるよ?ひとぉつ。」
享悟はリンを抱えたまま動き出した。
リンはあわてて言われた通りに目をつぶった。
享悟の動きの邪魔にならないように、それだけに神経を集中する。
享吾は片腕にリンを抱え、もう片方の手に敵から奪った大刀を握っていた。
ぐい、ぐい、と享悟が腕を振るうのが分かった。
「ふたぁつ。」
え?という声。がしゃ、ごとり、という音。
想像もつかないほうへリンはからだごと振り回される。
狭い洞窟の中で、リンを抱えたまま、ひらり、ひらり、と享吾は身を躱す。
敵の攻撃を避けるのと同時に、より有利な位置から反撃する。
また、がしゃ、ごとり。
「みっつぅ。」
おい、なんだなんだ、と叫んでいる。
引き返せ、いや、こんなところで引き返すな。
武具のぶつかる音。
重い鎧を着た人たちが、互いにぶつかって転ぶ音。
ぐい、とまた享悟の胸の筋肉が動く。
「よっつ、っと。」
ふいに、リンはふわりと抱き上げられた。
享悟はリンを抱えて、勢いよく走りだした。
うわっ、ぐえっ、という声がした。
「いつつ。」
カシャン!初めて、金属と金属のぶつかる音がした。
はっとしてリンは思わず目を開きそうになった。
「見るな!」
享悟のリンを抱え込む腕の力が、ぎゅっと強くなった。
リンはいっそうぎゅっと目を閉じた。
何か、生暖かいものが、びしゃりと降り注いだ。
むっ、と鉄の匂いがした。
享悟はリンごと限界まで姿勢を低くした。
そうして、また駆けた。
「むっつ。」
カン!カシャン!キンッ!
金属音がいくつか。
それから、ごとり、ごとり、という音。
享悟の腕はずっと激しく動き続けている。
「ななつ。」
ようやく少し姿勢を伸ばせるところに来た。
享悟は一度リンを下ろして立たせてくれた。
足のしたに地面を感じて、リンは思わず目を開けてしまった。
いつの間にか洞窟は抜けていた。
そこには明るい陽射しがあった。
リンは無意識に、洞窟のほうを振り向こうとした。
けれど、享悟にぐいと引き戻された。
「見るな。」
低い声の命令に、リンはまたぎゅっと目をつぶった。
享悟はそのリンのからだを肩の上に担ぎ上げた。
そのまま、ぐい、と跳躍する。
目を閉じたリンの耳に、かさかさと葉のこすれる音と、風の音が聞こえた。
「もうちょっとだから。目をつぶってて。
やっつ。」
びょうびょうと風の音がする。
享悟は物凄い速さで、木の枝から枝へと飛び移って駆けていく。
そんなことリンだけなら到底できっこないし、本当は高いところはちょっと苦手だった。
だけど、それも、享悟と一緒なら、少しも不安は感じなかった。
「ここのつ。」
敵の声も、戦いの音も、もう聞こえなくなっていた。
「とお。」
とんっ、とリンは地面に下ろされた。
草の匂いがする。
閉じた瞼に、温かな日差しを感じた。
「もう、目、開けていいよ。」
享悟に言われてリンは恐る恐る目を開いた。
そこはどこかの森の中のようだった。
***
敵の姿はどこにも見えない。
木々の間から日が差している。
どこからか小鳥の声も聞こえてきた。
「キョウさん?」
享悟は警戒するように辺りを探っていた。
けれどリンを振り向いた瞳はいつものように優しかった。
「ちょっと待ってて、リン。」
それだけ言うと、享悟はついっと姿を消した。
どこに行ったんだろう。
リンは自分のからだを検分した。
着物はぐっしょりと濡れて泥だらけだった。
あちこちに点々と赤い染みがあった。
けれども、リンのからだにはどこにも傷はなかった。
享悟は本当にすぐに戻ってきた。
何かをしきりに噛んでいる。
しばらくして口から緑色の塊を吐き出した。
「口を開けて、リン。」
リンが素直に口を開くと、何か青臭い塊を口の中に放り込まれた。
うっ、と反射的に顔を顰めたら、享悟もつられたように顔を顰めた。
幼いころ、よく、リンの怪我の手当をするときや、苦い薬を飲ませるとき、享吾はいつもこんなふうにしていたのを、何故かこんなところでリンは思い出した。
そうして思い出したら、また少し、幸せな気持ちになった。
「僕の口から出したものなんて、気持ち悪いだろうけど、薬だから。ほら、水。」
べつに気持ち悪くはなかった。
ただ、ものすごく苦かった。
リンは渡された竹筒に入った水をごくごくと飲んだ。
「たくさん飲むんだよ。全部飲んでしまうんだ。」
享悟に言われてその通りにした。
苦味は消えて寒気も少しマシになった。
享悟はお医師のようにリンをじっと見ていた。
なんとか、言われた通りやり遂げると、よしよし、と頭を撫でた。
「さあ、早く帰って着替えようか。」
享悟がそう言ったときだった。
かさり、と傍らの藪が揺れた。
はっとしたように、享悟は振り返った。
「お姉ちゃん!」
それは賊の声だった。
賊が姿を現すよりも早く、享悟は何か投げた。
どうしてそんなことができたのかはリンにも分からない。
リンはただ、とっさに賊のほうへからだを投げ出していた。
ほとんど反射的にしたことだった。
「うっ、くっ…
うわあああああっ!!!」
左肩に焼け付くような熱を感じて、リンは思わず叫んだ。
痛いよりも熱かった。
「お姉ちゃん?お姉ちゃん!」
賊の叫ぶのがどこか遠くで聞こえていた。
「う…く…」
答えなくちゃ、と思うけれど、呻く以外の声が出てこない。
振り返ろうとすると、肩越しにきらきらした珠のついた守り刀の柄だけ見えていた。
それはリンの背中から突き刺さっているようだった。
「リ…ン…?」
享悟が呆然と名前を呼ぶのが聞こえた。
「キョ、ウ…さ、ん…」
なんとか振り向いて、絞り出すようにその名前を呼んだ。
「この子は、敵、じゃ、ない…」
これだけは伝えないとと思った。
「リン?」
享悟は呆然と手を前に差し伸べて、ふらふらと近づいてきた。
幽霊のようだとリンは思った。
「リン…俺…は…」
享悟はいつも自分を、僕、と呼ぶ。
なのに、今、俺、と言ったのが、リンは妙にひっかかった。
「リン…」
リンは、差し出された享悟の腕のなかに、倒れ込んだ。
もう限界だった。
そのまますっと意識が遠退きかけたときだった。
「!!!!!!!」
獣の咆哮のような叫びが上がった。
人の言葉には表せない音声だった。
享悟の声だと、リンは一拍遅れて気づいた。
「キョウさん?」
リンは手放しかけていた意識を必死にかき集めた。
それから、なんとか気力を保って目を開いた。
享悟の手は辛うじてリンを支えていた。
けれど、その目は何も見ていなかった。
ただ、狂ったように、何度も何度も咆哮を上げ続けていた。
「キョウさん!」
肩はじんじんと熱かった。
頭はくらくらして、立っていられない。
それでも、これはまずいとリンは思った。
リンは必死に享悟の首にしがみついた。
肩の痛みなんか後回しだった。
「キョウさんっ!!」
必死になって耳元で名前を呼んだ。
けれども享悟は叫ぶのをやめない。
こんな取り乱した享悟を、リンは見たことがなかった。
熱も痛みも吹っ飛んだ。
「キョウさんっ!キョウさんっ!!享悟!!貴島享悟っっっ!!!」
リンが真名を呼ぶと、享悟は一瞬息を呑んだ。
それで、ようやく叫ぶのは止まった。
それから、享悟はふらふらとリンのほうを見た。
享悟の顔には血の気がなくて、真っ白だった。
そして、涙ともなんともつかないもので、ぐちゃぐちゃになっていた。
リンよりも享悟のほうが、よほど重症の患者のようだった。
「キョウさん、わたしは、大丈夫。大した事ない。」
リンは必死に笑顔を作ってみせた。
それから怪我したほうの腕を動かそうとした。
けれど、激痛が走って、それはうまくいかなかった。
「いいから!リン、動かすな!」
我に返ったように享悟はリンの腕を抑え込んだ。
それはもう、いつもの享悟だった。
「リン…ごめん…俺…」
享悟は苦しげに何か言いかけて言葉を切ると、いきなり、拳で自分の頭を殴った。
ごつっ、と鈍い音がした。相当痛そうな音だった。
リンはぎょっとして、肩の痛みも忘れてしまった。
「やめて!キョウさんっ!」
続けて殴ろうとする拳を、リンは必死に捕まえた。
享悟はふっと力が抜けるように笑った。
「ごめん。ちょっとした気付けだ。気にしないで…」
そういうわけにはいかない。
リンは享悟の拳を両方の手でぎゅっと握った。
そのまま享悟の目を見つめて、ぶんぶんと首を振った。
すると、享悟の拳からは、すっと力が抜けた。
享悟はリンの手からそっと自分の手を抜くと、代わりにリンの両手を包み込むように握った。
「刀は帰ってから抜く。
おい、チビ、帯を貸せ。」
賊はそこへへたり込んで、ただ、呆然と、成り行きを見守っていた。
それでも声をかけられると、弾かれたように反応した。
あわてて帯を外すと、享悟に手渡す。
享悟はその帯でリンの肩の根本を縛った。
それから自分の帯も外して、リンの腕を動かないように固定した。
ついでに着物も脱いでリンのからだを包み込む。
てきぱきとした手つきは、いつもの享悟らしかった。
享吾の着物は懐かしい匂いがして、とてもあたたかかった。
リンは享吾のことが心配なのに、眠くてたまらなくなった。
「少しの間、我慢しててね。」
享吾は泣きそうな顔になりながら、リンに優しく笑いかけた。
それから、そっとそっと、リンを抱き上げた。
できるだけ揺らさないように。できるだけ急いで。
享悟はリンを抱えて走った。