第二章 ~初陣
第二章 ~初陣
それからも、リンと享悟との間は何も変わらなかった。
正式な護法と守護になったとは言っても、何も特別なことはない。
享悟はやっぱり毎日畑仕事を済ませてからリンのところにやってくる。
そうして、リンに、今日は魚は要るのか、と尋ねる。
リンが、要る、と言うと、海に潜って捕ってくる。
要らない、と言うと、そのまま釣りを始める。
相も変わらず釣果のほうは芳しくはなかった。
しばらくそのまま、二人ぼんやりウキを眺める日々は続いた。
けれど、とうとう、初めてのお役目に出立する日はやってきた。
どこかのお大名の軍に参加するということだった。
敵にも味方にも恨みも思い入れもないけれど、雇われたお大名のために戦うのが護法のお役目だ。
たいした旅支度もなしに、二人はお大名の陣地へと向かった。
畑に行くよりも軽装だった。
必要なものはすべて、行った先で用意してもらえるということだった。
それよりも、一刻も早くお大名の陣に参戦すること。
それが何より優先されるのだった。
初めてのお役目に、リンはひどく心細かった。
享悟と一緒でも、不安だった。
潮目の合うほんのいっとき、島から舟を出せる。
二人は小さな舟で島を出た。
享悟は、器用に櫓を操る。
こんなことも出来たのか、とリンは感心した。
やがて舟は波の静かな沖合に出た。
月の光が波の上に道を作っていた。
舟はその道を滑るように進んでいく。
「リン?」
享悟は櫓を扱う手を止めてリンを見た。
リンは精一杯平静を装って享悟を見た。
護法の心の平安を保つのも守護のお役目だ。
リンはリンなりに、務めを果たそうとしていた。
精一杯気張った顔をしているリンに、享悟は優しい目をして小さく笑った。
「大丈夫だよ、リン。」
それはリンが享悟に言うはずの言葉だった。
先を越されて、リンは焦った。
「キョウさんこそ、大丈夫だよ。
わたしが、何があっても守ってあげるからね。」
「え?」
享悟は、ちょっと息を止めて目を丸くする。
それから、ふふっ、と笑った。
「そっか。頼りにしてる。」
「分かった。」
リンは鼻息をひとつ荒く吐いた。
享悟はまたくすっと笑った。
「リンが、僕の守護で、本当によかった。」
しみじみとした声に、リンは視線を上げた。
享悟は口元にかすかな微笑みを載せて、じっとリンのほうを見下ろしていた。
「僕は、リンを守護にほしかった。
他の誰も、いらない。」
享悟の顔から笑みが消えた。
その瞳は、じっとリンを見つめた。
「もしも、リンでなかったら…
僕は、守護殺しになっていた。」
リンは息を呑んだ。
護法は守護と視線を交わした途端に、守護に魅入られる。
強く執着し、自らの命より大切にする。
たとえ初対面だったとしても、そうなる運命。
リンはそう教えられていた。
「護法は、絶対に守護を傷つけない、って…」
戦場で鬼と化し、理性も心も失っても、守護だけは絶対に傷つけない。
護法とはそういうものなはずだ。
少なくとも、リンはそう聞かされていた。
享悟はリンを見て軽く微笑んだ。
「守護を受け容れた護法はそうなるよ。
もっともたいていの護法は守護を無条件に受け容れるんだけど。
抗ったって、なにもいいことはないからね。
与えられたものを大事にする。
そのほうが幸せになれるって、分かってるから。」
享悟は、リンをじっと見据えたまま話し続けた。
「それでも。
どうしてもその運命を受け容れられないときは。
そのときは守護を殺せ。
機会は一度しかない。
それもほんの一瞬の間。
守護の目を正面から見てしまったら最後。
護法はもう守護に抗えない。
だから、目を見る前に。
刃で、その心臓を一突きにする。」
ぽつぽつとぶつ切りにして話す享悟の言葉は恐ろしかった。
リンが享悟と守護として引き合わされたあのとき。
享悟が入り口のほうに背中を向けていたことを思い出した。
あれは入ってくる守護と目を合わさないためだったのか、と思った。
「たとえ、守護になんの恨みもなくとも。
護法が自分の意志でその運命から逃れるには、その方法しかない。」
「そんなことをして、罰を受けたりはしないの?」
「罰はない。
護法を傷つけるには護法以上の能力が要る。
大事な売り物をそんなことに浪費できないからね。」
売り物。浪費。
享悟の使う言葉は、いちいち胸に突き刺さる。
享悟は自分のことをそんなふうに思っているのだと思い知らされる。
「護法になれる者はとても少ない。
折角、水に馴染んだ護法を捨てるのも惜しい。
けれど、守護に替えはない。
だから、守護殺しの護法は守護なしで使われる。」
「守護なしに、護法は戦えるの?」
「戦えるよ。鬼になるのに守護は関係ない。
けれど、一度狂ってしまったら、もう戻れない。
戻してくれる守護がいないから。
守護殺しの護法は、一度きりの使い捨ての鬼だ。
だから、大抵、一番ひどいお役目に送られる。
そして、生きて戻ることはない。」
享悟は淡々と話しているけれど、それはあまりに惨い結末だった。
罰を受けるよりなお酷い。
見殺しにされるのと同じなのだから。
あまりの恐ろしさに、リンはかたかたと小さく震えだした。
享悟はそれに気づくと、そっとリンの傍に近づいた。
そして、なだめるように、リンの背中に手を置いた。
享悟の手は、大きくて温かかった。
享悟の体温がじんわりと伝わってきて、リンの震えはじきに収まっていった。
「怖い話をして、ごめん。
リンを傷つけるようなことはしない。
僕は守護を受け容れたから、簡単に狂うことも、もう、ない。
どんなお役目を請けたとしても、ちゃんとそれを果たして帰るよ。」
穏やかにそう話す享悟は、とても初対面の守護を殺せるようには思えなかった。
享悟は非道な鬼ではない。
むしろ、温厚でおっとり穏やかな常識人だ。
小さなことにぷりぷりと腹を立てるのはいつもリンのほう。
過激なことを口にして、享悟をあたふたさせるのもリンのほうだった。
享悟はいつも、そんなリンをなだめて、柔らかく諌めてくれた。
リンと享悟との関係はいつもそんなふうだった。
「嘘だ。またわたしのこと怖がらせようと思ってるんでしょう?
キョウさんは…キョウさんなら…
きっと、そんなひどいことはしなかったよね?」
見上げたリンに、享悟は微笑んだ。
「リンでない誰かに縛られるなんて耐えられない。
もしも、現れたのがリンでなかったら、これで守護の心臓を突き刺すつもりだった。」
享悟はいつも持っているヤスを取り出した。
何度もリンに魚を捕ってくれたヤスだ。
よく手入れされた刃先が、きらり、と光る。
素早く泳ぐ魚さえ一突きにするその刃。
それに胸を貫かれるのを想像して、リンは背中がぞくりとした。
享悟の静かな口調は、かえって怖かった。
「リンで本当によかった。
いや、違うはずなんかないって、分かってた。
分かってたけど、万が一ということもあるから。
愚かな輩が余計な事をしなくて本当によかった。
その程度には、惜しいと思われていてよかった。」
光る刃の代わりに、享悟の真剣な瞳が、リンの胸を貫いた。
「護法は、守護に縛られる。
僕を君に縛り付けていて。
僕が人の側にいられるように。」
護法は人の心を失くして戦う。
守護はその護法の心と魂を守る。
改めてリンは護法のお役目を思い知る。
キョウさんのような人が戦場に出て戦うなんて。
誰かの命を奪うかもしれないなんて。
けれど、それは護法には避けられない運命だった。
「怖い?」
俯いたリンの視線を享悟の目が掬い上げる。
出会ったときから、享悟は同じことを何度も聞く。
何度も。何度も。
「僕のこと、怖い?」
護法を怖いと思うのは、リンだけじゃない。
享悟自身も、自分を怖いと思っている。
そのとき、初めてそれが、リンにも分かった。
「キョウさんのことは、怖くないよ。」
リンは何度そう答えただろう。
ずっと小さい頃から、優しくて穏やかな享悟のことを怖いと思ったことなどない。
たとえもしもこの先、享悟が鬼になったとしても。
リンはそれでも、享悟のことは怖くないと断言できた。
「多分、他の護法のことは怖い。
けれど、キョウさんは怖くない。
キョウさんなら、何をしても、怖くない。
キョウさんだから、怖くない。」
「有難う、リン。」
そんなことは、わざわざ言葉にしなくても、リンには分かりきっている。
それでも、享悟は、何度も何度も、リンに尋ねるから、リンは何度だって答える。
たとえ、その答えは分かりきっていても。永遠に変わるはずなどないものだとしても。
リンの言葉に、享悟は嬉しそうに笑った。
「この命のある限り、君は、僕が、護る。」
そうして、淡々と、そう宣言した。
***
到着した二人は、丁重な扱いを受けた。
小さいけれど、自分たち専用の家も宛がわれた。
家は本陣からは少し外れたところにあった。
ほとんど人の来ない静かな場所だ。
それは享悟の出した条件らしかった。
戦場という非日常な場所で、新参の若造の意向が通ることに、リンは正直に驚いた。
それどころか、身の回りの世話をする女子衆までつけられた。
もっともそれは享悟が早々に断ってしまった。
リンも享悟も、自分の身の回りのことは、自分でできる。
誰かに世話をしてもらう必要はなかった。
「こんなにしてもらえるとは思わなかった。」
予想外の厚遇に、リンは思わずそう漏らしてしまう。
享悟は、くすり、と笑った。
「護法を雇うには家宝を売払うほどの報酬が要る。
それをそうそう粗末には扱わないよ。」
家宝がいくらくらいするものなのか、リンは知らない。
けれど、想像もつかないくらい高価なのだろうとは思う。
それでも、護法を雇えば、まず戦に負けない。
それ相応の対価は払っても、護法を味方に付ければ、大名にとって、起死回生の一手になり得るのだ。
翌朝から享悟は朝早く出かけるようになった。
リンの寝ているうちにこっそり起きて行く。
リンも合わせて起きようと思うけどいつも叶わなかった。
何をしに行くのか。どこへ行くのか。享悟は何も言わない。
陣の兵士たちのように鎧をつけたり刀をさしたりもしない。
畑に行くような格好をして、ふらりと出ていく。
そうして、いつも昼過ぎには帰ってきた。
「お腹すいたよ、リン。」
帰るなりいつも享悟はそう言う。
だからリンはいつもおにぎりを用意しておく。
お大名は凄いご馳走を山のように用意してくれたけれど、享悟はそれも全部断ってしまった。
ただ、リンの作るおにぎりが食べたい、と言う。
だからリンは享悟のためにおにぎりを握る。
お米はお大名からもらった。だから混じりけのない真っ白のおにぎりだ。
ちょっと贅沢だけれど、あのご馳走を全部断ったのだし、少しくらいは享悟にも贅沢をさせてあげたいとリンは思う。
それに、リンが近くの山から採ってきた、山菜の煮つけを添える。
ここでのリンの仕事は、それくらいのものだった。
戦場だというのに、不思議に長閑な暮らしだった。
おにぎりを食べると、享悟は木陰で昼寝をする。
リンが傍を通りかかると、おいでおいでをする。
行くと、横に座って、とお願いされる。
リンが座ると、享悟はリンの肩に少し凭れる。
「重かったら、言ってね。」
そんなことを言うけれど、享悟はリンにはほとんど体重をかけないから、少しも重くはない。
けれども、毎回毎回、必ずそう念を押すように言う。
リンは、内心、もう少し凭れてくれてもいいのにな、と思っている。
けれど、そう言ってみても、これで十分、と返されるだけだ。
「釣りに行きたいなあ。」
そうして、ときどきぼそりと、リンの耳元で、そんな言葉を零す。
「リン、刺身、食べたくない?」
ここでもし、食べたいと言ってしまったら、享悟は本当に海へ行って、魚を捕ってきそうだ。
いくら何でも、そんな無理はさせられない。
だからリンはきっぱりとかぶりを振る。
「島に帰ったら食べたい。」
「そっか。」
享悟は意外にあっさりと納得する。
「こんな役目はさっさと終わらせる。
そうして、早く島に帰ろう。」
享悟は毎日のように戦場に行く。
けれど、怪我をしてきたことは一度もない。
ときどき、着物が綻んだり、汚れたりしていることはあったけれど。
畑仕事の後だったり、海から帰ってきたときだったりと、たいした違わない程度だ。
だから、リンが戦を実感することもほとんどなかった。
お大名は着物も何枚も用意してくれていた。
毎日着替えて、脱いだものは捨ててしまってもよいと言われている。
そうしても困らないくらいに、着物はたくさんあった。
けれど、リンは、洗い代えの一枚だけ下ろして、毎日洗濯をした。
綻びも丁寧に繕って直す。
享悟は最初、そんなことはしなくてもいい、と言っていたけれど、そのうちに、リンに洗って縫ってもらった着物を着られるなんて、幸せだなあ、と嬉しそうにするようになった。
だからリンは、心を込めて着物を洗い、縫物をする。
リンは享悟の守護だけれど、その仕事はほとんど毎日、炊事と洗濯だった。
畑仕事のない分、島にいるときよりも暇なくらいだ。
リンは守護も護法と共に戦場に行くものだと思っていたけれど、享悟はリンを戦場には連れて行かなかった。
もっとも、戦う術など何も持たないリンが、戦場に行っても、役に立たないどころか、足手まといになるだけだろうから、それも仕方なかった。
最初は享悟がいつ暴走して鬼になるかと心配していたリンだけれど、享悟はそんなそぶりはまったく見せなかった。
それでも、ときどき、遠く、戦場の轟は聞こえてきた。
何かのぶつかる音や、低い雄叫び、甲高い叫び声。
そんなとき、ここはやっぱり戦場なのだとリンは思った。
戦場の音が響いてくると、享悟はいつも、リンをぎゅっと胸の中に閉じ込めるようにして、耳を塞いだ。
そこにいると、リンには享悟の心臓の音だけ、聞こえてきた。
規則正しいその音を聞いていると、リンはいつも少し、ほっとした。
戦場の音の聞こえるとき、いつも享悟はリンの傍にいた。
もちろん、傍にいてくれれば安心なのだけれど。
そのことにリンは、少しばかり不安になってきた。
享悟は本当にちゃんと働いているのだろうか。
享悟に戦ってほしいわけでは決してないけれど。
高いお給金をもらっているのに、役に立たなくて、罰を受けやしないかと、リンは心配になった。
しかし、罰を受けることも、追い出されることもなかった。
二人の家には誰も近づかない。
不思議なほどに、静かな毎日だった。
リンはただ毎日、ご飯を炊いて洗濯をする。
それから山に山菜を採りに行く。
そうして、享悟の帰りを待っていた。
一度だけ、陣のお士がひとり、押しかけてきたことがあった。
若くて身形もよく、顔立ちもどこか際立っている。
身に着けた刀や鎧も、立派なものだった。
身分のあるお士だろうとリンは思った。
ちょうどいつものお昼寝の時間だった。
リンは急いでもてなしの支度をしようとしたけれど、享悟の腕に捕まっていて動けない。
何をどうしたものか、享悟は体重はかけていないのに、リンは身動きを封じられていた。
知らん顔をして寝たふりを決め込む享悟を、リンは困ったように見るけれど、腕はびくともしない。
仕方なく、その姿勢のまま、なるべく丁寧に頭を下げた。
身分の高い人相手にこんな無礼なことをして、お手打ちにならないかとリンははらはらした。
お士は怒った様子もなく、居眠りをする享悟の前に膝をついた。
そして、どうかご指南を、と頭を下げた。
「キョウさん?」
享悟はだらけきった姿勢のまま、まだ寝たふりをしている。
起きていないはずはないとリンは思う。
お士は姿勢を正してひざまずいたまま、享悟の反応をじっと待っている。
直に地面についている手や膝が痛そうだ。
リンは気の毒になって、享悟をひじで小突いた。
享悟は面倒臭そうに片目だけ開くと、じろり、とお士を見据えた。
「ここには来ないでくださいと、言ったはずですけど。」
「は。しかし、隊長殿…」
「いいから帰ってください。話しならまた明日。」
享悟は冷たく言うと、また昼寝の続きを始めた。
身分の高そうなお士は、享悟の前に委縮して小さくなりつつ、その言葉をまだじっと待っている。
リンはもう一度、さっきよりも強く享悟を小突いた。
享悟は薄く目を開いて、ちらり、とリンを見る。
それから、ようやく億劫そうにからだを起こした。
「戦果は挙げているはず。
文句を言われる筋合いはないと思いますけど。」
思い切り迷惑そうに告げる。
それに、お士はなんとかめげずに返した。
「もちろんです、隊長殿。
しかし、その御業を是非ともご伝授頂きたく。」
享悟はわざとらしいため息をついてみせる。
「僕は隊長じゃないと何度言えば…
隊なんてもの、引き受けた覚えもありません。」
「われらは隊長の隊の士です。」
「あなたを部下にした覚えもありませんよ。」
享悟のにべもない態度にも、お士は必死に食い下がった。
「父はわたしをあなたの下につけました。
戦上手のあなたに、是非にも戦のいろはをご指南いただくように、と。」
「殿様にお伝えください。
僕は戦を勝たせるとは約束しました。
けれど、息子の面倒をみるとは言ってません。」
殿様の息子だったのか!
リンは目を剥いた。
それって、若殿様とかいうやつだ。
そんな人に膝をつかせて、こんなところで寝そべっていてもいいのだろうか。
リンは慌てて立とうとしたけれど、享悟にしっかりと捕まえられていて、身動きはとれなかった。
「そこをなんとか。」
若殿様は食い下がる。
その横顔は、真面目で誠実そうで、決して甘やかされたどうしようもないボンクラ若様ではなかった。
この人になら、きっと大勢の人たちが、心から仕えているのだろうと、リンは思った。
そんな人が、野良着一枚の享悟にひざまずいている。
享悟は少しも偉そうでも立派そうでもないけれど、若殿様の享悟を見上げる瞳は、享悟に深く心酔しているようだった。
「なら、あなたも鬼になるか?」
一拍置いてから享悟は若殿をじっと見据えた。
目を合わせた若殿は突然凍り付いたようになった。
そのまま目を逸らせることもできずに、かたかたと震えだした。
何の感情も見せない淡々とした様子で、享悟は続けた。
「僕のやることは人の所業ではないと、噂、されてるそうですね?」
享悟はやっぱり戦っていたのか。
そのとき、初めてリンはそう思った。
「護法は人ではありません。鬼です。
心も魂も失った鬼なんです。
鬼にあなたがた人間の常識など通用しない。
そんなものになる覚悟はありますか?」
享悟の声はいつものように穏やかだった。
けれど、若殿は怯えたように何も言い返せなくなっていた。
「まあ、そういうわけだから、その件は諦めて頂きたい。」
享悟はひらひらと軽く手を振った。
すると、まるで呪いの解けたように、若殿は動けるようになった。
若殿は転げるようにして立つと、慌てて逃げ帰って行った。
享悟は、ふう、とため息をひとつついた。
それからいつもより少しだけ体重をかけて、リンに凭れかかってきた。
重いよりも、享悟の体温をいつもより近く感じて、改めて、享悟も温かな血の流れる人間なのだと、リンは思った。
たとえ、護法になっても。
たとえ、享悟自身は自分を鬼だと思っていても。
リンにとって、享悟は温かな血の流れる、リンと同じ、人、だ。
「リン、僕のこと、怖い?」
享悟はいつものように尋ねた。
「怖くないよ。」
リンは、いつものように答えた。
すると、享悟は、ひどく頼りない声で呟いた。
「こんなところにいつまでもいたくないね。
早く帰ろう、リン。」
キョウさんは本当は鬼になんかなりたくないんだ。
リンはそう思った。
***
リンには戦況なんてまったく分からない。
あの一件以来、家を訪ねてくる人もなかった。
享悟は相変わらず、戦の話しはしなかった。
リンも享悟に戦況を尋ねたりはしなかった。
ただ、毎日を淡々と過ごすこと。
享悟の望みはそれだけのようだった。
だから、リンもなるべくそれを守ろうとした。
「もうすぐ、帰れるよ。」
ある日、享悟は帰ってくるなりそう言った。
珍しくどこか嬉しそうだった。
「ねえ、リン。
あの向こうの山を越えたところに沢があって、そこに魚がいる。
釣りに行こうよ。」
そんなことも言いだした。
「釣りなんて、遊んでていいの?」
思わず心配になって、リンはそう尋ねてしまう。
享悟はほんの少し拗ねた顔になった。
「少しくらい構わないよ。
ちゃんと毎日、働いているから。」
そう言うなり、享悟は有無も言わさず、リンの手を取って歩き出した。
道々、木の枝と糸を使って、享悟は器用に即席の釣り竿を作った。
ウキは落ちていた松ぼっくりだ。
リンは沢の釣りは初めてだった。
享悟はやっぱり釣れなかった。
ただ、久しぶりにぼんやり二人並んでウキを見ていた。
釣れなくても享悟はなんだか楽しそうだった。
「魚、食べたい?」
享悟はいきなりリンにそう尋ねた。それから、ちょっと残念そうに付け加えた。
「沢の魚は刺身には向かないけど。」
「どうやって食べるの?」
リンに尋ねられて享悟は思い切り嬉しそうに返した。
「焼いて食べる。」
お大名の用意してくれたご馳走は全部断った。
それ以来、毎日、二人はおにぎりばかり食べている。
それに不満だったわけじゃないけれど、焼き魚、というのはなかなか魅力的な響きだった。
思わず、ぐう、とリンのお腹が鳴った。
享悟は、くくっ、と笑う。
それから、ヤスを手に取って沢に入った。
沢は膝くらいの深さしかなかった。
よっ、と勢いをつけてヤスで沢を刺す。
その先に見事な魚がぴちぴちと跳ねていた。
「ちょっと待ってな。」
懐から取り出した小刀で、享悟は器用に魚を捌く。
鱗をはぎ、内臓を抜いて、沢の水で洗う。
それから、拾ってきた木の枝に刺した。
石を置き、細い枝を組んで焚火を作る。
その周囲に串に刺した魚を並べて炙った。
じゅうじゅうと脂が焦げていい匂いが立ち上った。
ぐううううう
思わず鳴ったリンのお腹に、享悟は声をあげて笑った。
「リンはお腹のほうが正直だ。」
う。
リンは恥ずかしくて思わず俯いた。
ふわり
久しぶりに青い竜胆が舞い降りてきた。
はっとしてリンは目を上げた。
その目の前に、ひょいと焼けた魚が差し出された。
「熱いから。気をつけて。」
享悟は優しく言う。
リンは素直に魚を受け取った。
食べ慣れたのとは少し違う味わいだったけど、それでも炙った魚は美味しかった。
二人、夢中になって、むしゃむしゃと食べた。
こんなに四六時中上機嫌な享悟は久しぶりだった。
リンは、お役目を請けてから、初めて、楽しいと思った。
***
翌朝。
享悟はいつものように先に起きて出かけていった。
その日も、リンはやっぱり起きられなかった。
何かの気配にリンは目を覚ました。
外はまだ暗かった。
すぐ近くに、誰か人のいる気配があった。
キョウさん、戻ってきたのかな。
そう思って声をかけようとしたときだった。
いきなり何か布のようなものを被せられた。
声を出す暇もなく、お腹を殴られた。
痛みに、気が遠くなる。
そのまま、リンは気を失ってしまった…