第三十章 ~秘術
郷長の家と言っても、取り立てて他より大きくも立派でもない。
開けっ放しの門は、嘉島の家を思い出させた。
太郎たちは慣れた様子で、訪いもせずに勝手にずかずかと入って行く。
雉彦とリンは、一度目を見合わせてから、急いで仲間たちを追いかけて行った。
門の内側では忙しそうに立働く人たちもいたが、皆、太郎たちを見ても、何も特別な反応はしない。
ただ、応、と言って、片手を上げて挨拶するだけだ。
雉彦とリンも、取り立てて、見咎められもしない。
それにむしろかえって遠慮しながら、雉彦とリンは、肩をすぼめるようにしてついていった。
母屋をぐるりと回り込んで、中庭に入ったときだった。
縁側に腰掛けていた人に、最初に気づいたのは、リンだった。
「わ…か、ぎみ…?」
それは、ずっとずっと昔に会ったことのある人だった。
会ったことが現実なのか、それとも夢だったのかもはっきりしない。
それでも、ずっと、心の底にいた人だった。
もう顔も覚えていない、と思っていたけれど。
一目見たとき、それがあの若君だと、すぐに分かった。
縁側にはふたりの人が腰掛けていた。
若君の隣にいたのは、母親というくらいの年の女人だった。
若君よりも、先に、その女人が言った。
「…す、ず…?」
よろよろと駆け寄ってきたその人を遮るように、雉彦はリンの前に立った。
「貴女は?」
警戒するように厳しい目をむける雉彦には構わずに、その人の目はじっとリンだけを見つめていた。
ああ、はいはい、と申太夫はその雉彦の袖を引っ張ってそこからどかせた。
不満気な目をむける雉彦には、まあ、ええから、と笑って宥めた。
女人はもっとよく顔を見ようとするように、リンの前へ一歩、踏み出した。
「鈴?」
「…あ…は、い?」
差し伸べられた腕は、小さく震えていた。
あと一歩を踏み出すのを躊躇いながらも、その人は、リンの顔から目を離せないようだった。
リンはきょとんと首を傾げた。
鈴と呼ばれるのは、どうにも慣れない。
その隣で、申太夫がうやうやしく膝をついて首を垂れた。
「奥方様。姫君のご帰還にございます。」
「おかえり。鈴。」
その人は、ゆっくりとあと一歩を踏み出した。
そして、ほろほろと涙を零しながら、リンをそっと抱き寄せた。
あたたかくやわらかなその腕のなかは、リンがこれまで知っていたたくさんの温かさとよく似ているけれど、少しだけ違っていた。
「あの。ただいま。です。」
リンは小さな声でそう言った。
うおおおおん。
突然上がった叫び声に、何事かと全員が振り返る。
見ると戌千代が、両手を投げ出して、身も世もないといったふうに、号泣していた。
「いやいや。あんたが、そんな大泣きしてどうすんねん。」
ちょっと呆れたふうに、申太夫が呟く。
その後ろで、もう一度、うおおおおおん、という叫びが上った。
「って。太郎さん。あんたもかいな。」
叫び声に驚いて振り返ったリンは、大泣きしているふたりをみて、ころころと笑い出した。
つられて他の人たちも、一緒に笑い出した。
太郎と戌千代も、泣きながら笑い出して、はなはだ面白い様子になってしまっていた。
「……リン……」
そのなかに響いた低い声に、リンは、はっとしてそちらを見た。
きかないからだを引きずるようにして、享悟はゆっくりとリンのほうへと歩いてきた。
「…若、君…?
え?……もしかして、キョウ、さん……?」
リンはその名を叫ぶと、急いで享悟のもとへと駆け寄った。
そして、そのからだを支えるようにしながら、享悟の顔を見上げた。
「あ、はははは……」
享悟は何も言わずに、ただ笑っていた。
零れるように青い花が、辺りに咲き乱れた。
「えっ?」
享悟の幻の花を初めて見た人たちは、驚いて辺りを見回している。
雉彦でさえも、こんな花を見たのは初めてだった。
ただ、享悟もリンも、花のことはまったく気にしていなかった。
「キョウさんのバカ!
いったいどこへ行ってたのよ?
ものすっごく、心配したんだからね?」
リンは享悟の両腕を掴んで迫った。
姿はまったく変わってしまっていたけれど、これが享悟だと疑いもしなかった。
「あー…ごめん…」
享悟はリンに叱られながら、嬉しそうに笑った。
その目からは、ほろほろと涙も零していた。
「もう、いっつもいっつも、黙っていなくなるし!
なんか、島、大騒ぎだったんだから!
みんなだって、一緒に、キョウさんのこと、探してくれたんだよ?」
「…有難う…リン。」
享悟はそれだけ言って、許しを乞うようにリンをじっと見つめた。
リンは、まだ言いたいことは山ほどあったけれど、それは後回しにして、享悟の胸に飛び込んだ。
享悟はなんとかふらつかずにリンを受け止めた。
その後ろに、太郎、戌千代、雉彦、申太夫の八本の腕がいっせいに差し出されていたけれど、辛うじて、その腕は役に立たずに済んだ。
腕を差し出した人たちは、黙って互いの顔を見合わせてから、小さく笑って手を引っ込めた。
「護法やないと、そんな姿をしてはったんやね。
まあまあ、可愛らしい坊ちゃんやないの。」
申太夫はにこにこと言った。
「おいらも、主のこの姿は初めて見ましたけどね。」
雉彦はまだ信じられないというように享悟を見ていた。
享悟の顔を見るにはいつも見上げないといけなかったのが、今はそれほどでもない。
小さく細い肩は、雉彦より華奢なくらいだ。
リンを護るために、護法の水を飲んだ、と言った享悟の気持ちが、今なら分かる気がした。
そのときだった。
幸せな笑顔が溢れるその場所の空気を、突然、一振りの短刀が切り裂いた。
はっと顔を上げた享悟は、リンを自らの背に庇おうとした。
第二、第三と短刀は飛んできた。
どちらから飛んでくるのか、その方向を見定めることもできない。
それは、ありとあらゆる方角から、こちらを目掛けて飛んできた。
戌千代は、見せ物に使う刀を抜いて、飛んでくる短刀を次々と打ち落とした。
雉彦と申太夫も短刀を蹴って落としたけれど、攻撃はなかなかおしまいにはならなかった。
太郎は刀をかいくぐりながら、鈴姫の母親を安全なところへと連れて行った。
あちこちから飛んでくる短刀を避けるために、ひとところに集まっていた者たちは、互いに距離が開いてしまっていた。
その中央、ぽっかりと開いた場所にいたのは、享悟とリンだけだった。
そこへ、奇声を上げながら、刀を振り上げ、鎧姿の男が、捨て身で突っ込んできた。
その男の前に、躊躇いもなく飛び出したのはリンだった。
戦って勝とうと思ったわけではない。
ただ、大切な人たちのところに、この狂った怪物を近づけたくなかっただけだ。
振り下ろされた刀は、ざっくりと袈裟懸けにリンのからだを切り裂いた。
すべての動きは、ただ、ゆっくりと、皆の目の前で繰り広げられた。
ただ、誰も、それを止めることはできなかった。
一瞬後、男の背中から組み付いたのは雉彦だった。
ぼきぼきと嫌な音を立てて、雉彦は鎧ごと、男の骨を砕いた。
ぼろきれのようにその場に崩れ落ちる男に、雉彦は無表情のまま、刀を突き立てようとした。
けれど、その目の前に、申太夫がぴたりと手を立てて、引き留めていた。
「こんなやつのために、あんたの手を汚すことはないで。雉彦さん。」
申太夫は飄々とそう言うと、にたりとした笑みを顔に貼り付けて、男の頭の近くへしゃがみこんだ。
「あーあ。
せっかく、白銀さんが一度は見逃してくれたのに…」
残念そうに言ってため息を吐いてみせると、男は、苦しそうに答えた。
「そこの女を殺せば、大金が…」
「もろうても、こんなからだになってしまっては、使うこともできへんやんか。」
申太夫の揶揄うような口調に、男は目を怒らせた。
「そやつは、妖物なのだ!
この世に禍をもたらす災厄だ!
これは、いわば、天誅!
俺は、皆のために、正しいことを!」
「て、あんたの、雇い主は言いはったんか?
けど、あんたは、姫さんがほんまに災厄をもたらすかどうか、確かめたわけではないやろ?
ちゃあんと確かめてたら、姫さんがそういうモンやないて、分かってるはずやからな。
そんなもん鵜呑みにして罪もない人を傷つけるなんて、あんたのほうがよっぽど悪者やんか。」
申太夫は懐から竹筒を一本取り出すと、男に見せびらかすように目の前で振ってみせた。
「ここに入ってる真名井の水な?
これは、どんな怪我も、病も、この世の穢れをたちどころに浄化する、有難い水や。
どや?これがほしいか?」
「お、おう…
それを、早く、寄越せ。」
男は申太夫の手から竹筒をひったくると、栓を抜くなり、ばしゃばしゃと自らにふりかけた。
申太夫はただにやにやとそれを見ているだけだった。
「サル殿。そのようなやつ、助けてやる必要は…」
不服そうに戌千代が言いかけたときだった。
「まあ、ええから。見とり。」
申太夫がそう言うのと、男が、かっと目を見開いたのはほぼ同時だった。
皆の見守る前で、男のからだはさらさらと灰になり崩れだした。
男の着ていた鎧も着物も、何もかもが、やがてすべて灰になった。
「けど、ここまで穢れきってしもうてたら。
そら、まるごと浄化されてしまうかもしれへんなあ。」
申太夫は井戸の水を桶に汲むと、その灰にかけた。
すると、残った灰は一瞬、きらきらと輝いてから、すべて消滅してしまった。
「それでも、あんたのお蔭で、太郎さんは旅に出たし、姫さんもここへ帰ってこられたんや。
おおきに、有難うやった。
成仏、しなはれや。」
申太夫は片手を差し上げて、祈るように呟いた。
***
男の顛末を、しかし、享悟はまったく見ていなかった。
享悟は腕の中にリンを抱いて、その名前を呼び続けていた。
「リン!リン!
しっかりしろ、リン!
頼む!頼むから!」
腹の底から込み上げる怒りと悲しみの慟哭を抑えつけて、享悟はそっとリンの頬に指を触れた。
震える指で、顔にはりついた髪を優しく避けてやった。
「目を開けて?リン!」
必死に呼ぶけれど、リンにはもう、その声も届いてはいないようだった。
ただただ、リンの胸からは、今も命が流れ続けていた。
「…リン…どうして…」
尋ねてもリンは答えない。
けれど、その答えは、享悟には分かっていた。
分かっていたけれど、到底、納得はできなかった。
「リン?
守護はね?護法に護られるものなんだ。
わたしを護りなさい、って、命じなければいけないんだよ?」
どうしてそれをちゃんと教えておかなかったのだろう。
護法を護るために守護が身を投げ出すなど、絶対にやってはいけないことなのに。
否。今の自分は護法ですら、もうない。
だけど。
享悟の目に決意が宿った。
護法より先に守護が死ぬことはあり得ない。
それだけは、絶対だ。
何が、あっても。
護法には、ひとつだけ、特別な力があるから。
今の自分は、もはや、護法ですらない。
そんなことは忘れていた。
否。そんなことは、もう、どうでもよかった。
今ここで、その秘術を使うことに、迷いや躊躇いなどありようはずもなかった。
リンは、絶対に、死なせない。
たとえ、この世界の理を曲げたとしても。
享悟はリンの髪にさした簪を抜いた。
解けたリンの髪は、ぱさり、と享悟の膝に拡がった。
ずっと、リンが、その身に着けてくれていた大切な宝物。
その簪を、ゆっくりと享悟は己の胸に突き立てた。
痛みは、護法であったときの比ではなかった。
護法は痛みすらも感じにくいからだになっていたのかと思った。
今にも気を失いそうだった。
けれど、ここで気を失うわけには絶対にいかなかった。
もはや、自らのからだに、その力が残っているかどうかの保証はない。
否。おそらくきっと、失われているに違いない。
それでも、ほんの僅かにでも、可能性があるのならば。
それで、こうする理由には十分だった。
十分に深くさした簪を、一息に引き抜くと、そこから血が噴き出した。
今にも、自分の息が止まりそうだけれど、必死に堪えながら、享悟はその血を掌に受けて、自らの口に含んだ。
昔、一度だけ、薬の飲めないリンに、同じことをしたのを思い出した。
あのときは、ひどくリンを穢してしまった気がして、申し訳なさに震えた。
今もかたかたと、からだは震えている。
それでも、何故だろう。
今は、不思議な多幸感に、満たされていた。
享悟はゆっくりとリンの口に唇を合わせた。
護法の心臓の血には、強力な治癒力がある。
護法は、一度だけ、結契を交わした守護の命を救うことができる。
己の命を引き換えに。
守護の命に成り代わることができる。
それは、護法だけの知る、秘密の技だった。
リンの口の端から、たらり、と赤い筋が流れた。
そして、その喉が、小さく、こくり、と揺れた。




