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花咲鬼  作者: 村野夜市
4/42

第一章 ~守護

闇の中、蝋燭の光だけが閃く。

ちらり、ちらり。

光よりも濃い闇の中に映し出される影。

そのうっそりとしたまるっこい姿にリンはどきりとする。

キョウさん…?

呼びかけは声にはならない。

けれど、影はゆっくりとリンのほうを振り向いた。



***



リンが享悟と出会ったのは、島に来て半年ほど経った頃だった。


島に来る前、リンは母親と二人で都の外れに住んでいた。

父親のことはまったく分からない。物心ついたときにはもういなかった。

家は市場の裏手にあったと思う。

にぎやかな市場の様子はなんとなく覚えている。

けれど、リン自身は市場よりも都の外側をぐるっと取り巻く竹林のほうが好きで、もっぱら遊び場はそこだった。


ただ、リンは都のことはそれ以上はあまり覚えていなかった。

まだ小さかったから仕方ない、と爺婆は言う。

ふたりがそう言うなら、そういうものかな、とリンは思っていた。


五つくらいのとき、母親が大怪我をして、療養しなければならなくなった。

それでリンはこの島へ連れてこられた。

リンを引き取ってくれた老夫婦は、顔も覚えていなかった父方の遠い親戚だと教えられた。


ずっと母娘のふたりきりの暮らしで、母親のことが大好きだったリンは、淋しくてなかなか島に馴染めなかった。

すっかり変わってしまった環境も、都育ちのリンにすぐに馴染めるものではなかった。


まず、止まることのない波が恐ろしい。鳴り続ける海鳴りも恐ろしい。

島の周囲は波が荒く、断崖絶壁に囲まれていて、荒い磯に打ち付ける白い波頭は、見ているだけで引きずり込まれそうだ。

砂浜や入り江はなく、舟をつけることも至難の業なので、島は外の世界とはほぼ隔離されていた。

小さな桟橋はあるけれど、一日のうちごくわずかな凪の間にしか使えない。

夜になっても、止まない波の音に昼間の恐怖が蘇って、幾晩もよく眠れなかった。

母親のいるトウジバは、この幾重にも重なる青黒い波のむこうで、そこはとてもとても遠く感じた。

それでも、リンは自分がいい子にしていれば、母親の怪我も早く治ると信じて、母親に早くよくなってほしい一心で、じっと淋しさを堪えていた。


そんなリンを不憫に思ったのか、老夫婦は連日リンを甘やかし続けた。

ただ、リンはどんなに甘やかされても、増長することのない、賢く素直な子どもだった。

元々、母親は仕事に忙しくて、あまり構ってはくれなかった。それでもリンはひとりで工夫して過ごしていた。

年齢のわりに大人びた言動には、母親の教えもしっかりと刻まれていた。

老夫婦はリンの器用なところや賢いところを見つけるたびに、手放しで褒めてくれた。

そして、長い間に培った老人の知恵をことあるごとに授けてくれた。

リンには老夫婦の話をよく聞いて、それを実生活にも活かせる利発なところがあった。

リンの賢さには時として老夫婦さえ驚いて、感嘆せずにはいられなかった。


慣れない海の幸も、食べ続けていれば、そのうちに美味しさも分かるようになった。

眠れないときには婆は優しく子守歌を歌い、爺は昔ばなしを何度でも語ってくれた。

婆の作るご飯は美味しくて、爺は風呂好きのリンのために、毎日でも風呂を沸かしてくれた。

婆の懐は温かく、爺のいる家は安心だった。

少しずつ、少しずつ、リンは淋しさを忘れていった。


島に来たのはまだ寒くなる前だった。

それから、冬を越し、風の中に温かな春の気配も交じるようになった。

この頃になってようやく、リンは島の暮らしに馴染み始めた


爺婆の家は島の中でもごくごく外れの、島の突端の崖の近くにあった。

その場所は島の皆からは高倉と呼ばれていて、だから、そこに住む老夫婦は高倉の爺婆と呼ばれていた。

家の横には小さな田んぼと畑があって、家族が食べるだけのお米と野菜を作っている。

リンは爺婆に習って、田んぼや畑の世話をよく手伝っていた。


畑の世話をした帰りだった。

爺はまだ片付けがあるか何かで、リンはひとりで先に帰っていた。

夕焼けに染まる崖に、ぽつりとひとつ人の影があった。

まるめた背中は、リンには小山のように大きく見えた。


それが享悟だった。


なにか長い柄のついた刃物を、享悟は砥石を使って丁寧に研いでいた。

ちらりちらり、と夕日に反射して刃が光る。

背中を丸め、ちんまりと胡坐をかいていた。

知らない人なのに、どこかで会ったことがある気がして、リンは享悟のことをじっと見ていた。


「どうした?」


享悟は静かにリンに声をかけた。

その低くてよく響く声に、リンはびっくりして、逃げ出そうとした。

けれど、やっぱり、何かが気になって、足を止めて振り返った。


享悟はゆっくりと顔を上げて、リンのほうを見ていた。


日に焼けた浅黒い肌。

無造作に背中に束ねた波打つ髪。

目は大きいのに瞳は小さくて、その目に、ふと、既視感を覚える。

懐かしそうにリンを見つめる瞳の奥に湛えた光は、とても優しくて包み込むようだった。


はらり


どこからか花が降ってきた。

青い花だった。

風に飛ばされてきたのかな、とリンは思った。


「迷子になったの?」


そう尋ねた声は低いけれど、とても優しかった。

その声を聞いて、リンは何故か突然泣きだしそうになった。

そんなリンの様子に、享悟は驚いた顔をした。

おろおろと手を差し出して近づいてくる。

座っていても大きかったのに、立つとますます大きかった。


「大丈夫だよ?

 心配しなくていい。

 ちゃんとお家に帰してあげるから。」


享悟はそう矢継ぎ早に言葉を継いだ。

差し出された手は、指先が少し震えていた。

けれども、リンはその手を取ることはできなかった。

ただ、じっと震える指先を見つめていた。


「それとも。

 僕のことが、怖い?」


震えるような声が降ってきた。

リンが見上げると、リンよりずっと怯えた目をして享悟はリンを見ていた。

ずっと大きくて、ずっと強そうなのに。

この人はわたしのことが怖いんだ、とリンは思った。


リンは大急ぎで首を振った。


「怖くないよ。」


それでも差し出した手を取らないリンに、享悟は小さくため息をついた。


リンは、じっと享悟の揺れる瞳を見つめていた。

どこかで会ったことがあるはずなのに、やっぱり誰なのか思い出せない。

享悟の瞳はゆらゆらと揺れて、涙でいっぱいになっていった。


「え?」


泣きそう?

そのことに気づいて、リンはひどく焦った。

何か、何でもいいから何か、とにかく話さなくちゃ、と考えを巡らせた。


「あれは、何をする道具なの?」


ようやく出てきたのはその言葉だった。

享悟はリンの視線につられるようにして振り返った。

そこにはさっきせっせと研いでいた、長い柄のついた刃物が放り出してあった。

享悟は急いで鼻を啜り、適当に手の甲で顔を拭って涙をごまかすと、声が震えるのを悟られないようにわざと明るく答えた。


「あれはヤスっていって、魚を捕まえる道具だよ。」


「魚って、ああいうので捕まえるんだ。」


リンは何とか会話を続けようとした。

享悟も明るい声で答え続けた。


「うん、海に潜ってね。」


「海に潜るの?」


「この島の者は、大抵みんなそうするよ。」


「へえ、すごいんだね。リンは泳ぐこともできないよ。」


感心した様子のリンに享悟は大真面目に返した。


「構わないよ。君の代わりには僕が泳ぐし、海を渡るなら舟を出す。

 舟がなくて、それでも、どうしても君が泳がなければならなくなったら、この背に乗せて泳ぐ。」


「…それは…どうも…有難う…」


見も知らない自分にどうしてそんなに親切にしてくれるのか分からなくて、リンは戸惑いながらそう答えた。

享悟は即座にしまったという顔になって、それからため息をついた。


「やっぱり、僕のこと、怖いよね?」


「いや、怖くないよ。」


リンは答えてから、ふと、前にもこんなことがあったような気がした。


「怖くないけど、不思議。

 どうしてそんなに親切にしてくれるの?」


リンのほうからそう尋ねると、享悟は、え?とちょっと困って、視線を泳がせた。


「ええっと、それは…その…

 君は、高倉のじっちゃんばっちゃんのところに最近来た子、だよね?」


そのこと自体は秘密でも何でもない。

ここへ来てもう半年。おそらくは島中みんな知っている事実だ。


「…そうだけど…」


「名前、聞いてもいいかな?」


「リン。」


「リン、僕は、享悟。貴島、享悟、だよ。覚えて?」


「キ、シ、マ、キョー、ゴ?」


少し言いにくそうにするリンに、享悟はちらりと笑って言った。


「キョウでいいよ。みんなそう呼ぶから。」


「キョウ、さん?」


呼び捨てにするのもなんだか憚られて、さん、付けにすると、享悟は少しばかり照れたように、キョウさん?と聞き返した。


「そう呼ばれたことはないなあ。なんか、新鮮だ。」


享悟はどこか嬉しそうに微笑んだ。

それから、リンに言って聞かせるように優しく話した。


「リン、僕は小さい頃、じっちゃんばっちゃんに育ててもらったんだ。

 だから、君とは兄妹のようなもんだ。」


「兄妹?」


「だからね、困ったことがあったら何でも僕に言って。

 君の力になりたいんだ。」


一応うなずいたものの、まだどこか警戒しているリンに、享悟は困ったような笑顔になった。


「それとも、やっぱり、僕のこと、怖い?」


「怖くないよ。」


三度繰り返して、リンは思った。やっぱり前にもこんなふうに言ったこと、ある。


享悟はリンをじっと見て言った。


「なら、教えてくれないかな。

 さっき、君はどうして泣きそうにしていたの?」


泣きそうにしていたのは享悟のほうだとリンは思ったけれど、自分も涙が込み上げてきたのを思い出して、うーん、と唸った。


「…分かんない。」


「淋しければ淋しいって。

 悲しければ悲しいって。

 言ったらいいんだよ?」


享悟は優しく諭すように言った。


「べつに、淋しくも悲しくも、ないんだけど…」


うーん、とまた唸って、少し考えてから、リンは正直に言った。


「キョウさんの声が、優しかったから。」


「へ?」


その答えはあまりにも予想外だったのだろう。

享悟はきょとんとしたまま固まってしまった。


「僕の、声?」


「うん。すっごく優しくて…どうしてかな…なんか、泣きたくなった。」


「声が優しいと悲しくなるの?」


享悟の問いに、リンは首を振った。


「悲しいんじゃないの。ただ、泣きたくなったんだ。」


享悟は困惑したように眉を顰めた。


「それは…僕は、もうずっと、黙ってるほうがいいかな…」


「ううん、違う。もっといっぱいお話してほしい。

 それに、キョウさんの優しいのは、声だけじゃない。

 声も目も手も、みんな優しい。すっごく優しい。」


「そ…れは…」


リンに力説されて、享悟は絶句したまま、口元を手で覆った。


「…僕は、君に嫌われていないって、思ってもいいのかな?」


「嫌いじゃないよ。リンはキョウさんのこと、好きだよ。」


リンの答えは単純明快で、誤解も曲解もしようがない。それ故に、破壊力は抜群だ。

百歩譲って子どもの戯言だと片付けてみても、素直に真っ直ぐに向けられた好意に違いはなくて、どんな美辞麗句を並べ立てられるより、直接的に魂ごと揺さぶられる。


享悟の手で覆われていない部分はみるみる真っ赤に染まっていった。


「そ、っか…

 うん。よかった。」


ふわり、ふわ、ふわ。

辺りに一斉に花が溢れた。

春だというのに、季節外れの竜胆の花が、どこからかたくさん降ってきた。

リンは目を丸くした。

前にも、こんなことがあった気がする。

ただ、いつどこであったのかは、思い出せなかった。


リンは大喜びで花を集めた。

両手に抱えるくらいたくさんあった。


享悟は喜びと悲しみと、愛しさと苦しさと、全部ぐにぐにと混ぜこぜにしたような目をリンにむけた。

その笑顔をリンは好きだと思った。

淡くて温かくて、哀しくて優しい。

リンは、駆け寄ると、体当たりをするようにして享悟の手を取った。

享悟の驚いた目を斜め下から見上げて、思い切りの笑顔を返す。


「一緒に、帰ろ?」


享悟は息を呑んだまま目を丸くして、それから、今度は手で目のところを覆って、いきなり笑い出した。

発作を起こしたように笑い続ける享悟を、リンは何事かと呆気にとられて見ていた。

享悟はずっと顔を上げていたから、リンにはよく見えなかったけれど、享悟のその腕は、あふれ続ける涙を必死に隠していた。



***



島の中央は小高い山になっていて、その中腹辺りにひっそりと小さな社があった。

社には小さな井戸があって、その周囲には注連縄を張ってある。

その水は勝手に口にしてはいけない。

水を飲めば大抵はひどい熱を出す。

熱が出ればまだいい。

もしも、熱を出さなければ…護法という名の鬼になる。


人にはたくさん枷がある。

力も速さも賢さも、本来あるはずの力には、無意識の枷を嵌められている。

その枷は本来、人の体や心を守るためにあるもの。

護法は意識的にその枷を外すことができる。

そして極限の力を得る代わりに、心を失う。

理性や良心を捨て、本能をむき出しにして、百人の精鋭より強い戦闘兵器になる。

護法とはそういう存在だ。


島の子どもはみな、満十歳になったら、その井戸の水を飲まなければならない。

水を飲んで熱を出せば、それでおしまい。その子の試練は完了だ。

ひとつの家にひとりだけ、その家を継ぐと決められた子どもは、試練を免れることができる。

けれど、免れるのはひとりだけ。あとは例外なくみんな水を飲まなければならない。


七歳までは神のうち。幼いうちに神に取り返されてしまう子どもも多かったから、家を絶やさないために、どこの家にも子どもは大勢いた。

免れるのは一家にひとりだけだから、十歳まで育ったほとんどの子どもは井戸水の試練を受けた。

井戸水に馴染むのは確率的にはとても低かった。

たいていの子どもは水を飲めばすぐに熱を出した。

このときばかりは、親たちは子どもの熱を大歓迎した。

熱を出せば、子どもは鬼にならずに済むから。

けれど、中には、それに落胆する親もいた。

身内から護法を出せば、その家には富貴が約束されていたから。


井戸水の試練は、この島の子どもたちにとっては恐怖の対象だった。

けれど、継ぐ家もなく水も飲まない者は島の者とは認められない。

井戸水の試練は、島の子どもの一人前の島人と認められる通過儀礼のようなものでもあった。


護法は両刃の剣のような存在だった。

ひとつ間違えば、味方にすら牙を剥く。

だから、護法には必ず守護と呼ばれる者が就く。

守護は護法の心と魂を守る役目を担う。

心を失い鬼となった護法も、守護にだけは従う。

護法の暴走を止められるのは守護だけだ。


護法の出現と共に、守護は選ばれる。

それは大抵、つい最近、生まれたばかりの赤子になる。

守護は生まれて間もなく、もうその運命を決められてしまう。

ただ、守護に決まれば、井戸水の試練は免除された。


だから、守護は護法より十歳ほど年若い。

仕える護法の死と共に、守護は自由の身になる。

それまでは、守護は恋も結婚も許されない。

護法の守護への執着は凄まじい。

自分以外の誰かを優先することは絶対に許さない。

もしもそんな者がいれば、必ず息の根を止めてしまう。

鬼神のような護法を止める術はない。

守護はそんな笧を引き受けさせられる。

生まれてすぐに、自分の意志とは関係なく、そんなことを決められるのは、理不尽かもしれない。

けれど、大抵の守護は、自らの護法を受け容れる。

たとえ生まれたときに勝手に決められた運命だとしても。

護法は守護を大切にするから。

どんな財宝よりも。自らの命よりも。


守護の年齢が十五になると護法は護法の任に就く。

しかし護法が働けるのはせいぜい五年が限度だった。

それ以上は、人として生まれた肉体がもたない。

限界を超えると、護法の心身は急速に衰える。

骨は砕け歯や髪は抜け落ち、みるみる痩せていく。

護法でいる間は、怪我はすぐに治り、病に罹ることもない。

しかし、蓄積した負荷は一気にのしかかる。

そして、命さえも奪っていく。


護法はいつも激しい戦場へと送られる運命だった。

だから、五年を待たず、戦いで死ぬことも多かった。

仕える護法が死ぬと、守護はお役御免となる。

守護は、決して別の護法に仕えることはない。


お役御免となった守護は島の誰かに縁づけられる。

守護を経験した者は、伴侶としては人気が高い。

命をかけて鬼神を守り抜いた者だからだ。

元守護は、みな、心に消えない傷を持っている。

それはけれど人としての懐の深さにもなっていた。


元守護、という存在はそれほど珍しくもない。

あそこのばあさんは元守護だという話はときどき聞く。


ただし、守護を失った護法というものは存在しない。

護法は、守護を護る。命と引き換えにしても護る。

もしも、守護を護り切れなかったとしたら…

そのときは、護法も生きてはいない。


護法にお役御免の日はこない。

それは命の終わるときと同じだった。

護法となる者の背負うのはそういう運命だった。


護法は自らの守護に、心も魂も預ける。

そうして、鬼となる。

鬼になった護法を呼び戻すのは守護の役目。

ときとして命すらかけて、守護は護法の魂を守る。


それゆえに、護法と守護との絆は、とても深い。

夫婦より親子より深く、魂同士結びつく。


水は乏しく、土地も痩せている。

波の荒い海は、舟を出すのも難しい。

だから、島は護法を作る。

それが島の秘密の活計だった。

この世から戦がなくならない限り、護法の需要はなくならない。

それは島の大切な命綱だった。



***



お前は守護になるのだと言い含められて、リンは育った。

守護とはたったひとりの護法を守る者。

鬼よりも強いという護法を、ただの人間の自分がどうやって守るんだろうとリンは思ったけれど。

それがお役目だと何度も何度も言い聞かせられて、いつしか、そう思い込んでいた。


自分の仕える護法が誰かは教えてもらえない。

島の誰が護法の運命を背負っているのかも知らされない。


護法は護法になるその日まで、労役は免除されている。

ただ、遊び暮らす島人などどこにもいない。

リンは守護として何か特別な修行もしなかった。

ただ、お役目に就くその日まで、平穏に毎日を過ごしていた。


リンはときどき、むしょうに不安になった。

自分には特別な力はなにもないのに、本当に鬼より強い人を守ったりできるんだろうか。

爺婆は、心配いらん、と繰り返したけれど、心に憑りついた不安はなかなか消せなかった。


不安になるとリンはいつもそれを享悟に話した。

困ったことがあったら何でも力になるというあの約束を果たすためか、初めて出会ったあの日から、享悟はほぼ毎日、リンのところにやってきていた。


享悟はとても働き者だ。

いつも暗いうちに起きて畑仕事を終わらせてしまう。

それから、大抵いつも、リンと出会ったあの崖にやってくる。

そしてそこから日がな一日、釣り糸を垂らしている。

魚の釣れたことは、一度もない。


享悟はいつも背中をちんまり丸めてウキを見ている。

リンは自分の仕事を終わらせてしまうと、享悟の隣に来て並んで座る。

そうして一緒にウキを眺めている。


リンは享悟にいろんなことを話した。

話すのはほとんどいつもリンばかりだ。


島には他所から連れてこられた子どもも多い。

戦乱の世に親を失った子どもたちを、島の大人たちは連れてくる。

何故か、井戸水には島の子より外から来た子のほうが馴染みやすかった。


島の子らと他所から来た子らとの間には見えない壁のようなものがあった。

島の子らは、どこか他所から来た子らを見下しているようなところもあった。


リンは他所から来たけれども、井戸水の試練は免じられていた。

守護になることを決められていたからだ。

それが、リンを、島の子どもからも他所の子どもからも浮いた存在にしていた。

リンにとっては、享悟は爺婆以外にまともに話しのできる貴重な存在だった。


享悟はずっと聞き役だった。

あまり口数の多くない享悟だったけれど、ぼんやりしているようでもリンの話はよく聞いていた。

ときどき、小さな相槌を打って、それから必要なときには、ぼそりと助言をする。

それはびっくりするくらい、いつも適格だった。


リンはよくワカギミの話をした。

ワカギミは優しくて楽しくて、リンの憧れの人だった。

どこで会ったのか、それとも、爺か婆の話しの中に出てきた人物なのか、もしかしたら、リンの想像の中だけの人物なのかもはっきりしなかったけれど。

ワカギミの話をするとき、リンはいつも生き生きとして楽しそうだった。

リンはいつかワカギミが自分を迎えに来てお嫁さんにしてくれるのだと信じていた。

そしてそれを何度も何度も享悟に話して聞かせるのだった。


ウキは大抵、一日中、ぴくりとも動かなかった。

享悟はあまり釣りは上手くはなかった。

けれども、釣れなくても、いっこうに気にする様子はなかった。


「毎日釣りしてるのに、どうしてちっとも上手にならないの?」


あるとき、リンは思わずそう言ってしまった。

見事なくらい、毎日、何にも釣れなかったからだ。

享悟はちらっとだけリンを見て、またすぐにウキに目を移した。

そして、悪びれもせず、ごめんね、と小さく言った。


「おばあちゃんが、今日こそは釣っておいでって。

 お刺身にするくらいおっきなお魚、って。」


どこか後ろめたくて、リンは婆を騙って責任転嫁した。

享悟はちらりと苦笑した。


「リンは、刺身、好き?」


享悟にそう問いかけられて、リンは少し驚いた。

それから、ずいぶん前に一度だけ食べた刺身の味を思い出した。

生の魚はとろりとして、とても美味しかった。

都にいたころには生の魚などとても口にはできなかった。

島に来てからも滅多に口にできないご馳走だ。

刺身にできるような魚は、なかなか釣れない。

若い者のいる家は潜って捕ってくるけれど、爺にはもう、潜って漁をするのは難しかった。

だから島に来てからも、刺身は誰かにお裾分けをしてもらったときだけのご馳走だった。


ごくり、と唾を呑んだ音が、いやに大きく響いた。

ぐーっ、とお腹も鳴ってしまった。

リンは享悟に聞こえていないかと恥ずかしくなった。


「べ、べつに。好き、ってわけじゃ…」


なんとか必死になってごまかそうとした。

その横で、享悟はさっさと着物を脱いでいた。


「え?」


享悟は下帯一枚になると、ヤスを掴んだ。

そして一抹の躊躇いもなく、目の前の崖から海へと飛んだ。


「ええっ?!」


崖は、見下ろすと足が竦むくらい高かった。

リンはぎょっとしてのぞき込んだ。

すると、享悟ははるか下の海面で、手を振っていた。


「キョウさんっ!!」


必死になって呼ぶ声は、波の音にかき消される。

享悟はそのまま海の中へと姿を消した。

水しぶきひとつ立たない。

それはまるで海を住処にする生き物のようだった。


「キョウさんっっっ!!!」


後には、波の荒い海。

次々と岩にあたって波頭が砕けている。

リンは一気に不安がせりあがってきた。

どきどきと、胸が苦しい。

心臓が口からとび出しそうだ。


なすすべもなく、おろおろと手をもみ絞る。

それでもリンは、そこから離れられずに海面を見ていた。

享悟は、もうずっと浮かび上がってこない。

ああ、そうだ。誰か大人を呼んでこよう!

そう思いついたときだった。


海面に、つぅっと影が差した。

それから丸い頭が、ぽっかりと浮かび上がった。


「キョウさんっっっ!!!」


リンは声も涸れるほどにその名を叫んだ。

享悟はリンのほうを見上げると、ぶんぶん、と手の代わりにヤスを振った。

その先端には遠目にも分かるほどの見事な鯛が刺さっていた。


享悟はひょいひょいと岩場を上ってきた。

リンは目を見張った。

いつもはぼんやりウキを見ているだけの享悟が!

起きてるのか寝てるのか分からないあの享悟が!!

同じ人物とはとても思えないくらい身軽だった!!!


「ほい。」


鯛を刺したまま、享悟はヤスをリンのほうへ差し出した。

鯛はまだびちびちと跳ねていた。

リンはぎょっとして、手を出せなかった。

そのまま享悟の顔を伺うように見上げた。


「ばっちゃんに刺身にしてもらうといい。」


享悟はちょっと強引にリンの手を取ると、その手に鯛を刺したままヤスを持たせた。

享悟は軽々と持っていたけど、ヤスはかなり重かった。

リンは落とさないようにヤスを必死に支えた。

鯛はまだときどき暴れていた。

そのたびに、リンはヤスごと取り落としそうになった。


享悟は脱ぎ捨てていた着物を手早く着込むと、リンを振り返った。


「お、っと。」


悪戦苦闘しているリンを見つけて、享悟はあわててリンの手を肘のところで支えた。

その瞳は、柔らかく苦笑していた。


「リンには重いか。いいよ、僕が持っていく。」


そのままヤスを取りあげてにこにこと歩き出す。


「え?キョウさん?」


リンはあわててそれを追いかけた。


「そんな、いいよ、キョウさん。

 そのお魚はキョウさんのお家に持って帰りなよ。」


リンの目にも、それは立派な鯛だった。

こんな見事な鯛をもらってしまうのは流石のリンも気が引けた。

引き留めるリンを引きずるようにして、享悟は歩いた。


「子どもは遠慮なんかしなくていいよ。」


享悟はなんということもないというふうにリンを振り返った。


「魚、いるんなら、早く言やよかったのに。」


「きっとそのうち大きいの釣れると思って…」


きまりが悪くて、リンは俯いた。

ああ、と享悟は小さく笑った。


「ごめんね?

 魚なら、いつでも捕ってきてあげるよ。

 だから、欲しいときは言えばいい。」


そこで享悟は、あ、といきなり足を止めた。

それから、腕にぶら下げたままだったリンを見下ろして眉を顰めた。


「ごめん。」


享悟はそう言うと、いきなりリンを抱え上げた。

片手に鯛を刺したままのヤスを持ち、もう片手にリンを抱きかかえる。

だっこされるなんて小さい子みたいだと、リンはじたじたと暴れた。


「ちょっと、キョウさん!おろして!!」


「鼻緒、切れそうだから。大人しくしてな。」


言われて見下ろすと、確かにその通りだった。

けど、鼻緒くらい切れたって歩ける。

それより、こんなふうにだっこされているほうがリンには大問題だった。


享悟はすたすたと歩き出す。

リンはいくら暴れてもその腕から抜け出せない。

享悟は島の大人たちに比べたら、そんなに大きいほうではない。

腕だって、ずっと細いし、からだも華奢に見えるくらいだ。

けれど、その力は、リンには到底敵わなかった。


「キョウさん!おろしてってば!!」


ぴくりともしない腕に、リンはムキになった。

ぶんぶんと足を振り回した。

何回か足は享悟のお腹に当たった。

それでも、享悟はけろりとしていた。


「家に着いたら、鼻緒、挿げ替えてやるから。」


なだめるようにそんなことを言う。

お腹を蹴られて痛くなかったんだろうか。

リンが不安になると、見透かしたように笑われた。


「リンに蹴られたって、痛くない。

 なんなら気の済むまで蹴っていいよ?」


にっこり言われて、リンの暴れる気は失せた。

すると、享悟はわざとからかうように続けた。


「おや?もう、気は済んだの?」


それにはリンも思わずむっとした。

それなら、今度こそ、痛いって思わせるから。

リンは思い切り反動をつけて、力いっぱい蹴った。


「うっ…」


足先は見事に鳩尾の辺りに食い込んだ。

享悟はよろよろとうずくまった。


リンはぎょっとした。

あわてて享悟の背中を必死になってさすった。


「ごめん!ごめん、キョウさん!ごめん!」


謝る以外に言う言葉は思い当たらない。

享悟は、うずくまったまま呻いている。


「ごめん、キョウさん…

 ごめん…どうしよう…」


リンはきょろきょろと辺りを見回した。

誰か助けを呼んで来ようか。

けど苦しんでいる享悟を置き去りにはできない。

逡巡していると、苦しそうな声が聞こえた。


「リ、ン…う、うう…」


リンは必死に享悟の声を聞こうとした。

けれども、享悟は呻くばかりだった。


「キョウさん?

 どうしよう?どうしたらいい?

 助け呼んでくるから。待っててくれる?」


リンは急いで行こうとしたけれど、動けなかった。

見ると享悟の腕がリンの腰の辺りをがっしりと掴んでいた。


「キョウさん、放して…」


なんとか享悟の腕を離させようとするけれど。

怪我をしている享悟を力いっぱい振り払うわけにもいかない…


「いいから…リン、ここに、いて…」


「でも、キョウさん…」


どうしよう、どうしよう…

リンの頭の中はそれだけでいっぱいだった。

そのうち溢れ出して、涙になって零れ落ちた。

泣いている場合じゃないのに。

くそっ。わたしのバカ!

リンは、ぐーを作って自分の頭を殴ろうとした。


「リン…泣かないで?」


享悟はリンの拳がその頭に届く前にそっと捕まえて言った。

頬に流れた涙をそっと指で拭ってやる。

それから、苦しそうな微笑を浮かべて見せた。

それを見たリンは、ますます泣きそうになった。


「う。ううう。ごめん、キョウさん…」


なんてバカなわたし。

あんなことでムキになって。

大事なキョウさんを蹴り飛ばすなんて。

キョウさんはいつもわたしに優しくしてくれるのに。


言葉にしなくても、リンの後悔はしっかりと顔に書かれていた。

享悟は鮮やかに微笑んだ。


「いいんだ。リン。気にしないで。」


「ごめん、キョウさん。

 わたし、なんでもするから。

 どうしたらいい?」


「じゃあ、ひとつだけ、お願い、聞いてくれる?」


「うん。分かった。なんでも聞く。」


わたしのせいで、キョウさんを怪我させた。 

その償いなら、なんでもする。

リンは悲壮な決意をした。


享悟は、くどいくらい念を押した。


「本当に、なんでも聞く?」


「なんでも!聞く!」


「約束する?」


「約束するっ!!」


「そっか。」


享悟は、ひとつ息を吸い込む。

そして、いきなり一気に言った。


「リンの家に行こうと思うけどリンの草履の鼻緒は切れそうだしそのまま歩いていて万が一鼻緒が切れてリンが転んだりもしかしたらその拍子に怪我なんかしたらと思うと心配でおちおち歩いていられないからおとなしくだっこされててくれないかな?」


「へ?」


おとなしくだっこされててくれないかな。

のところしかリンには聞き取れなかった。


首を傾げていると、またひょいと抱えられた。

反対側の手には鯛を刺したヤス。

そう言えば、お腹を押さえてうずくまっていたはずなのに、享悟は鯛を落としもせず、ずっとヤスを片手に握っていた。


「え?」


享悟は上機嫌でにこにこしている。

リンはきつねにつままれたようにその顔を見た。


「キョウさん、お腹は?」


「ん。大丈夫。」


享悟はけろりとして笑う。

それからまたすたすたと歩きだした。


「ちょっと!キョウさん?」


リンはまた暴れだした。

すると享悟はリンを恨めしそうに見た。


「なんでもお願い聞くって、言ったのに…」


「そりゃ、言ったけど!」


「約束、だったよね?」


「そりゃ、約束…した…けど…」


なんだか納得いかないのに、リンの抗議は尻つぼみになる。

そこに享悟の楽しそうな笑い声が被さった。


「むうう。」


言い返せないリンは、それでも抗議するように口を尖らせる。

享悟は優しい優しい目をして、リンをちょっと見上げるように軽く微笑んだ。

その笑顔と目が合って、リンは何故か、はっとした。

理由も分からないまま、もの悲しいような、ひどく淋しいような、そんな感覚が襲ってきた。

急におとなしくなったリンに、享悟は不安そうに尋ねた。


「どうかした?リン?」


「…ううん、なんでもない。」


リンにはそう答えるしかなかった。

けれど、享悟の心配そうな視線に気づくと、リンは額に手を当てて、遠くを見るふりをしながら、わざと明るく言った。


「わあ、すごいすごい。

 いろんなものが見えるよ。」


はしゃぐリンに、享悟は一瞬息を止めた。


リンを見上げていた享悟の目が、ほんの少し切なそうになったことに、リンはまったく気づかなかった。



***



十年一日の如く、というけれど。

リンと享悟との時間は、ずっとそんなふうだった。


享悟はリンと出会ったころのまま、ほとんど姿は変わらなかった。

リンのほうはすくすくと大きくなってやがて美しい娘になった。

ただ、爺も婆も享悟も、リンの周りの人たちはほとんど何も変わらなかったから、リンも、ずっと、そのまま何も変わっていない気がしていた。


そうして、島に来てから十年目。

リンは、とうとう、そのとき、を迎えた。



***



闇の中蝋燭の光だけが閃く。

ちらり、ちらり。

光よりも濃い闇の中に映し出される影。

うっそりとしたまるっこい後ろ姿にリンはどきりとする。

キョウ、さん…?

呼びかけは声にはならなかったけれど。

ゆっくりと影は振り返った。


初めて会ったときも、あの崖でこんなふうに座っていたっけ。

ふいにリンはあのときのことを思い出した。


最初から、どこかでずっと分かっていた気もする。


守護は誰も好きになってはいけない。

修行も何もないけれどそれだけはきつく戒められていた。

もしも、リンが誰かを好きになったりしたら。

リンの護法が、その人を殺しに来る。


リンはいつの間にか享悟に淡い恋心を抱いていた。

叶えようなんて、最初から思ってはいない。

享悟が誰かに殺されるなんて絶対に嫌だ。

リンは必死になって、自分の思いを押し隠していた。


そもそも、享悟に相手にされるわけがなかった。

享悟はリンよりもずっと年上で、なんでもできるお兄さん、だったから。

島の十頭領家の総領で、いつかは島の頭領になる人だったから。

由緒正しい島の娘を、お嫁に迎えるはずの人だったから。

リンに優しくしてくれるのは、リンが爺婆の遠縁の娘だからだ。

爺婆は享悟の幼い頃の世話係で、育ての親といってもいいほどの人だった。

だから、爺婆への恩返しみたいなものだ。

リンが島の子にも、他所から来た子にも相手にされなくて、ひとりぼっちだったから。

優しい享悟はリンを放っておけなかっただけだ。

リンの思いなど、告げたところで、本気にされないか、下手をすると困惑されるだけだ。

リンの恋は自覚した途端に失恋していたも同然だった。


だからリンは享悟にワカギミの話をした。

うんとうんと小さい頃は、ワカギミのことを本当に好きだった。

いつか迎えに来てくれると、本気で信じていた。


けれど、今はもう、ワカギミのことは御伽噺のようなものだと分かっていた。

それでも、ワカギミのことを話していないと、享悟への思いを気づかれそうで怖かった。

ワカギミのことにして、リンは、せめて自分の本当の気持ちを享悟に話していた。

御伽の国の人なら、護法に殺されることもないだろうから。


だから、自らの仕える護法が享悟だと分かったとき、リンはとても嬉しかった。

天にも昇る心地とはこのことかと思った。

これからは、誰はばかることなく、享悟を思っていてもいい。

むしろそれがお役目だなどと、嬉しすぎた。


リンはずっと、漠然と護法を恐ろしいと思っていた。

けれど怖い鬼と享悟はとても結びつかなかった。

わたしの仕える護法がキョウさんで本当によかった。

キョウさんのことを、わたしは命をかけて守れる。

そう思ったら、リンは素直に嬉しかった。







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