第二十九章 ~帰郷
道標のように点々と落ちている赤い竜胆を追いかけて、一行は進んでいった。
しかし、しばらく行ったところで、突然、申太夫が、あかん、と叫んだ。
「どうやら、白銀さんは道に迷わはったようや。
そっちは遠回りや、姫さん。」
「主が道に迷うなんて、珍しいっすね。
目印もなんもない海でも、迷ったことなんかないのに。」
雉彦は首を傾げた。
「森の景色は、白銀さんにとっては馴染みのないものやしな。
それに、海を渡る人は、月や星を見るから。
ここは、月も星も見えへん。」
申太夫は鬱蒼と生い茂る森の木々を見上げた。
ところどころで赤い花は、大量にまとまって落ちていることがあった。
それを見るたびに、リンは唇を噛んで、辛そうな顔をした。
「…しかし、この花は、まるで、白銀殿が血を流されたかのようですね…」
花を見て何気なく言った戌千代の口を、申太夫は焦ったように手で抑えた。
「ちょ!そないなこと言うたら、姫さんが、余計な心配、するやろ。」
叱りつけるように言う申太夫に、戌千代は、慌てて何度も頷いた。
次第にまとまって赤い花の落ちている場所は増えていった。
それを見つけるたびに、皆、口数は少なくなっていった。
「…キョウさん…今、行くからね?」
リンはそう呟いて、ますます足を速めるのだった。
道はそちらではない、と申太夫に引き留められることも増えてきた。
「白銀殿は、かなり迷っておられるようだな。」
太郎ですら眉をひそめて、そんなことを呟いた。
「白銀さんは、幻術師の直系の子孫や。
そのお人は島に強力な結界を作った人物で。
その結界は今に至るまで、強い力を持って島を守ってるくらいや。
わたしら十二人の使者のなかでも、ちょっと変わった感じのお人でな?
こう、近寄り難い感じで、なかなかみんな怖がって、近づかんかったんやけども。
わたしは、この通り、これやろ?
ときどき話すようになって、そしたら、わたしにも、簡単な結界の作り方を教えてくれたんや。」
申太夫はそんなことを話した。
「そのとき聞いたことを参考にして、芹にもわたしは軽い結界を作ったんや。
けど、こんなもん、力のある幻術師からしたら、玩具みたいなもんやから。
白銀さんなら、あっさり見抜くと思うてたんやけど。」
「主って、幻術師なんっすか?」
そんなことは初耳だと言うように聞き返す雉彦に、申太夫は小さく苦笑した。
「おそらく、幻術に関してはなんの修行もしてはらへんやろうから。
なにかに使う、ということはなかったかもしれんな。
幻術師、いうんは、元々の素質があっても、いい師匠について修行せんかったら、物の役に立つようにはならんのよ。
それに、その素質も遺伝やから、誰でもなれるちゅうもんでもないしな。
白銀さんのお父さんには、そんな素振りはなかったし。
おそらく、幻術の技や知識は、島からは失われてるんやろう。
その中で、白銀さんは、先祖返り、言うんかな、たまたま生まれつきその才能があったんや。」
「キョウさんは、勝手に花が降るって、言ってました。
でも、みんなにバカにされるから、この力は嫌いなんだ、って。
なくなってほしい、って、ずっと思ってた、って。」
「もったいないお話しやな。
幻術はうまいこと使えば、強固な護りにもなるし、相手をびびらせて戦意を喪失させることもできる。
めっちゃ便利な力なのに。」
「生まれつき、ということは、それは、護法とは関係ないのですか?」
「ほう。戌千代さん。ええとこに気づいたな。
そうやねん。
わたしが、白銀さんを芹にほしい、思うたんも、そもそも、それが目的や。」
「なんだ、主のこと、利用するつもりだったんっすね?」
冷ややかに見る雉彦に、申太夫はあっけらかんと返した。
「べつに。それだけやないやんか。
白銀さんと姫さんはええ感じなんは、誰が見ても明らかやし。
この上、郷の強い守護神になれるとなったら。
姫さんのご両親かて、説得しやすい、いうもんやろ?」
「なーんか、あんたが言うと、胡散臭いんっすよね?」
「まあ、どうどでもおっしゃい。
わたしはなあ、みなさんが幸せで平和に暮らせるのが一番や。」
それはまあ、そうっすけど、とぶつぶつ言いながら、雉彦はどことなく不満気だった。
「けど、この程度の幻術も見破れんとなると、わたしらも、あんまりのんびりしてへんほうがええかもしれんなあ。」
申太夫は、少し真剣な顔になって言った。
「このまま花追いかけるより、近道しよか。
ちょっと、歩きにくいところも通るけど、みなさん、ちゃんとついてきてや。」
全員、それには頷いた。
***
目を覚ましたのは、どこかの家のなかだった。
板張りの部屋に、寝具が敷いてあって、享悟はそこへ寝かされていた。
部屋の周囲の障子から、外の明りが入って来る。
少なくとも、今は昼間らしかった。
からだを起こすと、少し、くらりとした。
けれど、気分は悪くない。
そこで、はっと気づいた。
世界が、まったく歪んでいない。
もうずっと、世界はぐにゃりと歪み、足元はぐるぐると回っていた。
けれど、今見えるのは、ぴたり、ぴたり、と角の合った、きちんとした世界だった。
物のあまりない質素な部屋だったけれど、清々しい空気が満ちていて、心地よかった。
もしかして、自分はもう、死んでいるのだろうか、と思った。
護法として末期的な症状だったという自覚はある。
悪夢にうなされ、現実と幻の区別がつかない状態。
怪我の痛みだけが、自分を現世に繋ぎとめているような、そんな状況だった。
もう自分に遺された時間はほとんどないのだと思っていた。
連絡を取るために道を引き返す暇も惜しかった。
たとえ追討される身に堕ちたとしても。
リンの身の安全だけは、確保したかった。
けれど、今、享悟の目に映るのは、正常な世界だった。
歪んでもいなければ、蠢いてもいない。
もうずっと前、忘れるくらい昔に、見ていた世界だった。
廊下を歩く足音がして、障子がすっと引き開けられた。
そちらを見ると、好々爺のにっこりとした笑顔があった。
「おや。目を覚まされましたか。
ご気分は如何ですかな?」
老人は手に持ってきたお盆を枕元に置きながら、話しかけた。
「これを飲みなされ。護法様。」
享悟ははっとした。護法、と呼ばれたことに驚いた。
この人物は、自分を護法だと知っていたというのか。
確かに、護法は一般人に比べればからだも大きいし、筋骨隆々の大男も多い。
けれど、享悟は護法にしては小柄なほうだったし、一目で護法だと見抜かれるほどではなかった。
それでも、目の前のこの老人は自分のことを護法と呼んだ。
瞳に警戒を浮かべて見ると、老人は、ほっほっほ、と楽しそうに笑った。
「分かりますとも。
この郷に救いを求めてこられた護法様でしょう?」
救い?
……たしかに、そうかもしれない。
リンは、享悟にとっては、救い以外の何者でもない。
「鈴姫は……いったいどちらに?」
なにより、それを最初に糺したかった。
しかし、それを聞いた老人は、はて?と首を傾げた。
「鈴姫様、にございますか?
それは、郷の姫君のお名前、ですけれども。
大昔にさらわれて、以来、行方が分からぬと…」
しまった。あれは、罠だったのか。
享悟は寝具を跳ねのけて立ち上がろうとした。
けれど、からだは思うようには動かず、だんっ、と激しい音と共に、膝をついてしまった。
「おやおや。
まだご無理をしてはなりませぬ。
この水を飲んで、養生なさいませんと。」
老人は享悟を助け起こすようにしながら、宥めるように言った。
「ずいぶんと、おからだを痛めつけておいでのようでしたから。
癒すにも、少々、お時間がかかりましょう。
しかし、この水があれば、大丈夫。
きっと、元の通り、お元気なおからだにお戻りになられますよ。」
しかし、膝をついたままの享悟は、老人のその言葉は聞いていなかった。
愕然としながら、享悟は自分の手を見ていた。
それから、ゆっくりと、自分の足からからだへと視線を移していった。
かたかたと、そのからだが小さく震えだす。
震える手を、享悟は自分の頬に押し当てた。
ごしごしと、こする掌に、みずからの顔の形が伝わってくる。
見開いたその目には、絶望が浮かび上がった。
「…僕は、いったい…」
「御身の護法毒は浄化されました。
しかし、ずいぶんと、ぎりぎりの、危ない状態じゃったから。
完全に回復なさるには、もうしばし、時間がかかるじゃろう。」
はっとして、享悟は懐から守り袋を取り出した。
震える手でそこから取り出した手鏡に、享悟の姿は映らなかった。
「……あ……あ……」
言葉にならない声を唇からただ漏らすだけだった。
「しかし、間に合って、本当によかった。
本当に、ぎりぎり、だったのですよ。
あと少し遅かったら、命を落としていた。」
老人はそう言いながら、享悟の手に湯呑を持たせた。
「この郷に来れば護法毒を浄化できると聞いて、ここを目指してこられる護法様方も多くいらっしゃいます。
太夫殿も丸薬は持っておられるが、あちらは、ひとところにはじっとしておられぬゆえ。
こちらのほうが確実だと思われるのでしょうな。
しかし、この郷は、外からは簡単に入ってこられぬようになっておるゆえ。
間に合わない護法様方も多いとか。」
「…僕は、もう、護法では、ないのですか?」
ゆっくりと区切るように尋ねた享悟に、老人は、にっこりと頷いた。
「そう。もうあなたは、鬼ではありませぬ。
間に合いまして、本当によかったですなあ。」
嬉しそうに笑う老人を、享悟は、完全に表情を失くした目で見つめていた。
***
もうしばらくは、ゆっくり休みなさい。
そう言い残して老人が去ると、享悟はもう一度、自分をよく観察した。
小さく華奢な手。
骨ばった細い腕。
リンを片腕に抱き上げたまま刀を振るえたほどの膂力は、もうどこにもない。
足も腰も、驚くほどに細い。
風のように駆けることも、もう難しいと思った。
リンを護るために、護法になった。
けれど、ここへきて、この一番大切なときに。
自分は、リンを護る力のすべてを、失ってしまった。
今にも叫び出しそうだ。
刀を、己の腹に突き立ててやりたくなる。
けれども、部屋のなかには、己を傷つけられそうなものは、何もなかった。
ずっと、ぐるぐる回る視界のなかを、さ迷い歩いていた。
まともなものは何一つ、そこにはなかった。
けれど、今は、世界は固定されているし、勝手に回りだしたりもしない。
万人にとっては、これが当たり前の世界だとしても、享悟にとっては異質な世界だった。
リンは、どうしただろう。
考えるのは、そればかりだった。
自分をここへおびき寄せた者は、いったい何のためにこんなことをしたのか。
真っ先に思い付いたのは、リンをどうにかするために、自分を無力化したのだろうかということだった。
けれど、自分にはもう、リンを護れるだけの力もなかった。
そもそも、あのままでは、リンの許へ戻ることすら難しかった。
…もしかして、僕は、助けられたのだろうか…
ふいにそれを思い付いた。
あの老人も、そのようなことを言っていた。
間に合ってよかった。もう少し遅ければ、危なかった。
それは、どれも、享悟の命が助かったことを、善しとする発言だった。
……やっぱり、分からない。
もしも、助けたのだとしても、何のために、そんなことをしたのだろう。
誰かに救ってもらえるほどの善行を施した覚えもない。
確かに、お役目で救った人は大勢いたけれど。
それはあくまでお役目で、高額な報酬と引き換えにしたことだ。
どこかの誰かが享悟に恩を感じて無償で救ってくれた、と思えるほど、享悟は楽観主義者でもなかった。
では、享悟を、何かの役に立てるためか?
しかし、護法でない享悟など、何の役に立つというのか。
なにより、護法でなくなった自分が、リンを護れなくなったことが、辛くて仕方なかった。
それでもいてもたっていられない気持ちに突き動かされて、享悟はのろのろと寝床を這い出した。
いきなり立ち上がると、またさっきのように倒れるかもしれない。
享悟は慎重にからだを起こすと、這うようにして、障子を開けた。
廊下のむこうの蔀戸は開け放ってあって、中庭と井戸が見えた。
ゆっくりと庭に下りて、井戸に近づいた。
水を汲んで桶にあけると、おそるおそる覗き込んだ。
桶のなかには、怯えた目をして、こちらを見ている自分がいた。
痩せて力のない、弱虫だったころの自分だった。
思わず叫んでいた。
それが、怒りなのか悲しみなのか絶望なのか、もはや自分にも分からなかった。
ただ、腹の底から、声がほとばしり出た。
「あらあら。まあまあ。おやおや。」
驚いたような声を出して、近づいてきたのは、ひとりの婦人だった。
その人は、桶を抱えて絶叫している享悟に、恐れることもなく近づくと、よしよし、と背中を撫でた。
あたたかくて柔らかい掌を背中に感じて、享悟ははっとした。
ふわりと、どこか懐かしい匂いがする。
怯えた目を上げると、にっこりと優しい笑顔が、その視線を受け止めてくれた。
「ご気分でも、悪いのでしょうか?
お水なら、運んであげますから。
どうぞ、寝床で休んでいなさいませ。」
婦人はそう言いながら、享悟を助けるようにして縁側に座らせた。
そして自分も享悟の隣に腰掛けた。
その横顔から、享悟は目を離せなかった。
「……あなたは、もしかして……」
続きを言うことをいったんためらった享悟を、婦人は、はい?と見つめ返した。
「鈴姫様の、母上でいらっしゃいますか?」
享悟は絞り出すようにしてその言葉を言った。
すると、婦人は、はっとした目をして享悟を見つめた。
「鈴を、娘を、ご存知なのですか?」
見間違えようはずもない。
その人は、リンにそっくりだった。
容貌も、声も、温かい手も。
そして、なにより、笑った顔が、リンに生き写しだった。
間違いない。
リンは、この郷の姫君だ。
目の前のこの女人の、大切な娘御だ。
ここに帰るのが、何より、正しい。
享悟はそれをはっきりと悟った。
うつむいた享悟に、その人は言った。
「ごめんなさい。
不躾な声を出してしまって。
娘は、もう長い間行方が分からなくて。
ずっと、探しているのです。」
その不幸の責任の一端は自分にもあると享悟は思った。
「…申し訳ありません。
僕は、姫君をさらった鬼です。」
享悟は懺悔するように告白した。
けれど、その人は、静かに言い直した。
「…鈴を、護っていてくださったのでしょう?」
享悟はもう一度目を上げてその人を見た。
その人は、目が合うと、享悟に優しく笑いかけた。
「あの子は、この世に生を受けたときから、苦難を背負っていました。
それを分かっていたのに、わたしたちは、あの子を産んでしまった。
どうしても、あの子に会いたかったから。」
不思議そうに見つめる享悟に、その人は、リンそっくりな笑顔で笑った。
「それでも、あの子を産んでよかったと思います。
鈴だけではなく、たくさんの方々に、辛い思いをさせてしまったかもしれないけれど。
きっと、あの子は、その方たちのことも、幸せにしたでしょう。
そういう運命を背負ってきた子なのですよ。」
享悟は頷いた。何度も何度も頷いた。
涙が溢れだした。溢れた涙は、地面に落ちると白い花になった。
「あらあら。きれいなお花だこと。」
その人はそう言うと花を拾って袂に集めた。
そうして、それを享悟に手渡した。
「こんなお優しい護法様に護っていただいていたなんて。
あの子はずっと、幸せだったのですね。」
享悟はもう何も言えなかった。
ただただ、いつまでも、白い花ばかり増えていった。
***
目の前に広がる豊かな郷に、リンたちは目を丸くしていた。
「ようこそ。芹の郷へ。」
郷を背にして、太郎は自慢げに両手を広げた。
青々とした田に畑。
しっかりとした造りの家々。
のんびりと働く人々。
そこは、まったく見事な郷だった。
「白銀さんは、無事に着いてるかねえ。」
太郎の脇を、素知らぬ顔をして申太夫は通り過ぎていく。
「とにかく、郷長の家へまいりましょう。」
戌千代もそそくさと通り過ぎた。
「え?ちょ、あの、みなさん?」
申太夫たちの後ろ姿と太郎とを見比べながらおろおろしているのは雉彦だ。
「おかえりなさいませ。姫君様。」
太郎は知らん顔をしてリンの前にひざまずいた。
「いや、あの、それは、やめてください。」
リンは頬を真っ赤に染めると、手をぱたぱたと振りながら、太郎の脇を通り過ぎた。
「なんとも、みな、つれないことよ。」
残念そうに太郎は立ち上がると、膝についた砂を払っている。
「あ、じゃあ、行きましょう。」
雉彦はそんな太郎を促して、郷の道を歩き出した。




