第二十八章 ~道標
芹の郷を見つけるまでに、ずいぶん時間を、費やしてしまった。
どんなに難しいお役目でも、こんなに時をかけたことはない。
もっとも、最近では、お役目前の下調べは、念入りに雉彦がしてくれていた。
享悟の行くところには、必ず下見に行って、詳細な地図等も作ってくれていた。
今さらながら、雉彦の有能さを思い知る。
しかし、それも、考えてみれば、もっともだった。
雉彦は、否、テルは、生まれながらに護法の能力を持っていたのだから。
幼い身で戦乱の世をひとり生き抜いてこられたのも、その力があったからだ。
おそらくは、本人にも、その自覚はないのだろう。
家族のため。そして、享悟とリンのため。
彼はいつも誰かのために、持てる力のすべてで尽くしていた。
雉彦はずっと、自分を主と呼んで、仕えてくれている。
けれど、もしかしたら、自分などより、雉彦のほうが、よほど、能力的には優れているのかもしれない。
そのことに気づいたとき、雉彦はそれでも、自分を主と呼ぶだろうか。
もしも、雉彦が自分に対して牙をむいたら。
自分は、雉彦と戦って、果たして、勝てるのだろうか。
いや。
これから自分は雉彦と戦って、それを倒さなければならない。
それが、リンの安全を護るための条件なのだから。
リンのためなら、何を犠牲にしてもいいと、思う。
この自分はもちろん。たとえ雉彦の命でも、リンとは比べ物にもならない。
それでも。
心のなかで、なにかがずっと、もやもやしていた。
尾花の郷に寄ったとき、いつもなら欠かさずしていた郷への報告を躊躇った。
島への報告を運ぶ急使たちは、拠点拠点にいて、護法は彼らに使いの文を託す。
島への報告は護法に課せられた数少ない義務のひとつだ。
これまで、それを面倒だと思ったこともない。
文と言っても、無事の一言と、名前さえ書けばいい。
急使のいる地点は多くあって、近くを通ったついでに、報告を出すのは、もうほとんど無意識になっていた。
報告を怠れば、堕法と見做され、追討隊を送られる。
そんなことはよく知っていた。
そうなったときには、島にいるリンの身にも、危険が及ぶ。
それもよく分かっていた。
これまでに報告を忘れたことなど、一度もなかった。
尾花にも、もちろん、その急使はいて、いつもなら何も考えずに、文を託していたのだ。
なのに、今回はなぜかそれを躊躇ってしまった。
どうしてかは、分からない。
いや。
尾花を出ても、街道沿いには、急使たちは多くいた。
いつでも連絡はできるはずだ、と軽く考えていたのかもしれない。
その後、子捨ての地蔵を探して街道を外れ、そこで渡された文を元に芹の郷を目指した。
その途に、島への急使はいなかった。
いったん戻って、報告を送ろうか。
けれど、今はそれよりも、戻る時間が惜しかった。
鈴姫様は、返していただきます。
お会いになりたければ、いつでも、芹をお訪ねください。
文にはその文言と、あとは、芹への略した地図だけが書いてあった。
ただ、享悟はもう、リンが鈴姫だということは納得していたし、いずれ芹へ返すことにも異存はなかった。
しかし、大切に島で護っているはずのリンを、いったい誰が、勝手に連れ出すというのか。
リンを護りたいからこそ、島に置いておいたというのに。
自分はやっぱり、リンのことは、護れないのだろうか。
無力感と絶望は、享悟にまた悪夢を蘇らせた。
島を出るときも、洞窟の中で、ずいぶん時間を費やしてしまった。
あのときは、夢、幻と、現実の区別がつかなくなって、その狭間で、延々と自分を傷つけ続けていた。
鉛よりも重いからだを引きずって、なんとか島を出た後、しばらくは、悪夢も少しましになっていた。
この行動はリンのためになる。自分はリンのために動いている。
そう思うことで、どこか救われている気がしていた。
しかし、悪夢は、また再び戻ってきた。
芹の郷は巧妙に隠されていた。
その正確な場所を知る者はどこにもいない。
ある、と知って探さなければ、誰にも見つけることはできないところにあった。
だいたいの場所は、渡された文に記されていた。
それを頼りに、森の中をさ迷い歩いた。
しかし、享悟にとって、森は、完全に異邦の地だった。
森の中は、どちらをむいても、よく似た景色が続いていた。
どちらから来てどちらへ行こうとしていたのか、何度も分からなくなった。
まだそれほど歩いていないのか、それとも、もうかなり進んでしまったのか。
そんなことすら、分からなくなった。
鬱蒼としげる樹冠に遮られて、夜になっても月も見えず、その形を確かめることもできなかった。
方角を知る星も、見ることはできなかった。
森の中には、夜になると光る苔や虫も多くあった。
そのために、夜になってもうっすらと明るくて、足を止める必要はなかった。
けれども、それがかえって、夜昼の区別を失くしていった。
昼間でも薄暗い森を進み続けるのは、悪夢の中を彷徨うようだった。
休みらしい休みもとらずに歩き続け、疲れ果てては倒れ込む。
ハッと気づくとそのまま眠ってしまっていたことも何度もあった。
そうして、森に入ってから何日経ったのかも、次第に分からなくなった。
それどころか、起きて歩き続けているのか、夢を見ているのかも次第に分からなくなっていく。
眠っていたのか、それとも起きたまま白昼夢を見ているのか。
自分自身でも、はっきりと分からなかった。
見る夢はいつも酷い悪夢ばかりだった。
もう、時間も距離も、感覚はまともじゃなかった。
悪夢にうなされ、そのたびに自らのからだを傷つけた。
正気を保つには、そうするしかなかった。
痛みを感じるときだけ、わずかに現実の感覚が戻ってくる。
しかし、その傷の癒えるのにも、ひどく時間がかかるようになった。
自分の護法としての能力が衰え始めているのを、嫌でも思い知った。
こんなことをしている場合ではないのだと気持ちばかりが焦って先走る。
ますます、戻って報告を、とは思えなくなった。
そもそも、戻ろうにも、どちらへ行けば戻れるのかも分からなかった。
歩みは遅々として進まず、それでも、一歩一歩先へ進むしかなかった。
とても辛く、苦しい道のりだった。
それでも、あると信じて進み続けた、そんなある日。
ぽっかりと、その郷は目の前に現れていた。
そこは、周囲を山と川に取り囲まれた狭い土地だった。
どの方角からも、せり出した山の影になっていて、全貌を見渡すことはできない。
初めてこの郷を拓いた者は、よくもまあ、こんな場所を見つけたものだと思う。
ただ、それと知って辿るなら、そこへ至る道は、いたって短くもあった。
そこはとても豊かな土地だった。
田も畑も青々として、作物はよく育っていた。
ぽつりぽつりと建つ家々はどこもしっかりとした立派な造りで、豊かな暮らしを思わせた。
畑仕事に精を出す人々の姿も、どこか楽し気だった。
走り回る子どもたちも、みな元気で明るい目をしていた。
享悟は自らの姿が人の目にどのように映るかは自覚していた。
いきなり郷に入り、住人に話しを聞こうとしても、驚かせて警戒されてしまうだけだと思った。
物陰に身を隠し、郷の様子を伺っていたけれど。
ふいに、背中から声をかけられた。
「なにかお困りですかな?」
驚いて飛び上がった。
気配はまったく感じなかった。
恐る恐る振り返った。
好々爺。
まさにそれに相応しい老人がひとり、にこにこと立っていた。
ふっ、と何かが途切れた。
そして、後はもう、何も分からなくなっていた。
***
陸に着いたリンたちは、享悟を追いかけて、芹を目指した。
まずは街道沿いに尾花まで行く。
荷車いっぱいのお土産は、直接、芹に届けておきますと、平助が言ってくれた。
まさか持って歩くわけにもいかなかったから、素直に、好意に甘えることにした。
安悟は妻の墓参りに行くと言って、すぐに道を分かれた。
「主のこと、探しに行くんじゃなかったんっすか?
実の息子なのに、心配じゃないんっすか?」
雉彦は責めるようにそう尋ねた。
それに、安悟は笑って返した。
「享悟には、ちゃんと守護がいる。
親子より、夫婦より、絆の強い守護姫以上に、享悟を救える者はいませんよ。」
「まあ、そらそうや。」
納得いかなさそうな雉彦を、まあ、ええからええから、と宥めて、申太夫は連れて行った。
尾花に着いたリンたちは、キギスのいた見世に立ち寄った。
初めて見た花街に、リンは目を丸くしていたが、きょろきょろするリンを太郎たちは四方から取り囲んで護衛するようにして見世まで連れて行った。
キギスにはならずにいきなり見世に来た雉彦と、雉彦の連れてきた者たちに、凪砂は驚いた顔をしたけれど、すぐにキギスの座敷へとこっそり通してくれた。
部屋に入ると早速、雉彦は凪砂に事情をかいつまんで説明した。
そして、享悟の行方を知らないかと尋ねた。
「白銀様なら、いらっしゃいましたよ。
子捨ての地蔵のことをお尋ねになって。
本当なら、護法さまにお教えすることではないのだけれど。
白銀様になら、と打ち明けたんだよ。」
「よっしゃ。大当たりや。」
申太夫は嬉しそうに手を打った。
「いくつかヤマを張ってたけど。
地蔵のところには、ばっちり、見張りを置いてある。
あの文を見たら、白銀さんも、芹にすっ飛んで行ったはずや。」
「文?」
「ふっふっふ。
嬢ちゃんは預った。返してほしかったら、芹まで来なはれ、ってな?」
悪者ぶって言う申太夫に、雉彦は心底呆れた顔をした。
「あんた、アホっすか?
そんなこと書いたら、主は怒り狂って、事態をややこしくするだけじゃないっすか。」
「いやまあ、これは、文面通り、やないよ?
もうちょっと、大人しゅう、書いたがな。ほんまもんは。」
どうだか、と怪しい目をむける雉彦に、申太夫は、ははは、と口だけで笑った。
「…鈴姫様、とおっしゃいましたか?」
申太夫と雉彦のやり取りに笑っているリンに、凪砂は、そう声をかけた。
「あ。
でもわたし、ずっと、リン、と呼ばれていたので。
鈴姫と呼ばれても、あんまり実感ないんです。」
リンはにこにこと凪砂に返した。
凪砂は、なぜか少し眩しそうな目をして、そのリンをじっと見つめていた。
そこから何も言わない凪砂に、リンはわずかに首を傾げる。
すると凪砂は慌てたように言った。
「リン、さん?
なんとまあ、健やかに、お美しゅう、ご立派に成長されて…」
「…はぁ…」
困ったようにリンは曖昧に頷く。
見ず知らずの凪砂がそんなことを言うのは奇妙に感じた。
凪砂は、背けた顔を隠すように手を上げて言った。
「いえね。
すいませんね。
何でもありませんよ。
いけませんね、年を取ると。
ついつい、妙なところ、涙もろくなっちまってね。」
「どうしたんっすか?凪砂さん?
らしくないっすよ?
いつも、がっはっはっは、ってふんぞり返って笑ってるくせに。」
横から怪訝そうに言った雉彦の頭を、凪砂は軽くはたいた。
「あんたには、情緒、ってもんが足りないよ、キギス。
けどまあ、そうかい。
あんたは鈴姫様と取り換えられていたのか。
まったくもう、ご迷惑をおかけして。
鈴姫様には、ちゃんと謝ったのかい?」
ぐいぐいと頭を抑えつける凪砂の手から、雉彦はひょいと逃げた。
「いや、そりゃ、姫には申し訳ないことしましたけど。
それ、よく考えりゃ、おいらに罪はないでしょ?
おいら生まれたての赤ん坊ですし。」
「いいから、ちゃんと謝るんだよ。
まったく、やんごとなき姫君が、あんたなんかと取り替えられたなんて。」
「まあまあ。
しかし、そうしなければ、リン殿も、命の危険があったわけだから。」
太郎は宥めるように凪砂に言った。
「ええ、もう、本当にねえ…
しかし、とんでもない野郎だね、その照太、ってのは。」
凪砂は笑いながら目元を拭った。
けれど、ちらりと雉彦を見上げたその目は、とても優しかった。
***
尾花で一泊した後、リンたちは、子捨ての地蔵へとむかった。
街道からは外れて、森のなかのけものみちを辿るような途だったけれど、雉彦の案内で、不思議にすらすらと辿り着いた。
鬱蒼とした森のなかに、ぽっかりと開けた場所に、その地蔵堂はあった。
郷のあったはずの場所には、もう木や草が生えていて、そうと分かって見なければ、分からないくらいになっていた。
ただ、地蔵堂だけ、不思議なくらいぽっかりとその場所に立っていた。
「たゆうのお兄ちゃん!」
地蔵堂のすぐ近くで、いきなりそう言って駆けてきた少女があった。
少女は申太夫にむかってまっしぐらに駆け寄ると、いきなりその背中に飛び乗った。
「あー、こらこら、そないに急に来たら、おっちゃん、こけてまうやんか?」
申太夫は足元をふらつかせる真似をしたけれど、しっかりと子どもは負ぶっていた。
「サル殿。お子があったのですか?」
驚いたように見上げる戌千代に、いややわあ、と笑ってみせる。
「わたしの子ぉやありませんよ?」
「しかし、このような人気のない場所に、このような幼子とは…
よもやまさか、妖物か?」
身構える太郎に、ひらひらと手を振った。
「いやいや。妖物でもありませんて。」
申太夫は苦笑しながら、背中の少女をあやすように揺すり上げた。
「なあ、こんなに可愛いお嬢ちゃん捕まえて。
このお兄ちゃんらは、なにを言い出しはるんやろなあ?」
少女は申太夫の耳元に口を寄せると、大切な秘密を告げるように言った。
「たゆうのお兄ちゃん!サヨね、ちゃあんと、おつかい、できたよ?」
もっとも、その秘密はその場の全員に筒抜けだった。
「そのお墓を、じーと、じーと、見てた人にね?
ちゃあんと、あの袋、渡しといた。」
「そうか。そら、おおきに。
やっぱり、サヨさんは頼りになるなあ。
あんたに頼んで、ほんまよかったわ。」
「ふふふ。サヨは頼りになる?」
申太夫におだてられて、サヨはとても嬉しそうだ。
「あのね、お礼に、このお菓子くれたの。」
サヨは懐から菓子の入った袋を出してみせた。
「お兄ちゃんは、そんなもん、何が入ってるか分からないから捨てろ、って言うんだけど。
これ、食べてもいい?」
「ああ、あの人やったら大丈夫や。
どれ、心配やったら、おっちゃんが毒見したろ。」
申太夫は、サヨの手から袋を取り上げると、中身をひとつ取って自分の口に放り込んだ。
「うん。甘い。」
にへらっと笑った申太夫に、サヨは怒ったような声を上げた。
「ああっ!たゆうのお兄ちゃんが、ひとつ、取った!」
大騒ぎするサヨに、毒見やんかぁ、と笑ってみせる。
「ええっ!
なんっすか、これ!
照。享年十歳って!」
何気なく墓石を見ていた雉彦は、突然、大きな声を出した。
「ああ、それはね?
一番上のお兄ちゃんのお墓なんだよ。」
サヨは申太夫の背中から下りると、雉彦の傍へ言って説明した。
「…お墓、って、おいら…」
言いかけた雉彦に、サヨは小さい子に言って聞かせるような口調で言った。
「かわいそうにね。みんなのために、死んだんだって。
だからね、ここにお墓を作って、このお地蔵様も作ったの。
このお地蔵様は、テルテル地蔵、って言うんだよ?
ほら、屋根にもいっぱいテルテル坊主があるでしょう?」
「……はあ。」
サヨにつられてテルテル坊主を見上げながら、雉彦は曖昧に頷いた。
「子どもが病気になったり、怪我をしたときには、テルテル坊主をお供えして、お地蔵様にお願いするの。
どうか、子どもを守ってください、って。
このお地蔵様は子どもを守ってくれるお地蔵様なんだよ?」
「……子どもを守ってくれる……」
雉彦は釈然とはしないようだったが、幼い子どもに、言い返しはしなかった。
「ほう、テルテル地蔵か。なるほどなあ。」
太郎は屋根にいっぱいぶら下げられたテルテル坊主を面白そうに見渡した。
「テルテル地蔵、ですね?」
戌千代は何やら含みのある目をして雉彦を見る。
「ああ、そうか。
テルテル坊主のテルだったよね?」
リンも思い出したようにそう言って雉彦を見た。
皆の視線を集めた雉彦は、あー、と顔をしかめてから、いきなりくくっと笑い出した。
「まあ、ええやんか。
生きてるうちに自分のお墓を見ると、長生きするて、言いますから。」
申太夫はそう言って雉彦の背中をぽんと叩いた。
***
地蔵を過ぎて、また道は森の中へと続いていた。
しかしそれは次第に途切れ途切れになり、張り出した藪や木の根に阻まれて、道とは到底呼べなくなっていった。
ふと、地面に、何か赤い物が落ちていることにリンが気付いた。
「…これ…」
拾い上げてみると、それは、赤い色をした花だった。
「赤い、竜胆?」
その花はどう見ても竜胆の花だった。
しかし、こんな鮮血のような色をした竜胆の花は見たことがなかった。
「ちょっと、見せてくださいっす!」
リンの手から奪うようにして、雉彦はその花をよく見た。
「…これは、赤い、竜胆、っすね?」
花をよく見た雉彦も、顔を上げてそう言った。
「竜胆に赤い花は咲かんだろう?」
太郎は不思議そうに言った。
「でもこれは、間違いなく、赤い竜胆なんです。」
リンは太郎にも花をよく見せようとした。
と、ふいに、その竜胆は、リンの手の中ですっと消えてしまった。
「あ。あれ?」
リンは取り落としたのかと、辺りをきょろきょろ探したが、あの赤い花はもうどこにもなかった。
「…幻…の花?
まさか!キョウさん!」
そう叫ぶなり、リンは突然、走り出した。
昔。まだ、享悟が護法としてのお役目に就いていなかったころ。
享悟はよく、幻の花を出していた。
楽しいことがあったとき。
笑い声と一緒に、花が降る。
それは、出そうとして出しているわけではなさそうだった。
むしろ、享悟としては、出さないようにしたいようだったけれど。
それでも、嬉しいことがあると、どうしようもなく、花が降った。
すぐに消える幻の花。何の役にも立たない。
享悟はその花があまり好きではないようだった。
けれども、リンがどうしてもとせがむと、仕方ないなあ、と言って花を降らせてくれた。
その花はいつも、青い竜胆だった。
何故か、春でも夏でも、いつも変わらず、その花だった。
どうしてなのか尋ねても、享悟自身も分からないと答えた。
ただ、一度だけ。
青ではなく、白い竜胆が降った。
あれは、初陣の、あの恐ろしい夜が明けた朝。
髪が白くなってしまった享悟が戻ってきたとき。
その髪のような白い竜胆が降った。
そして、それきり。
享悟は花を降らせなくなった。
けれど、リンは、そのことを享悟には言えなかった。
言ってはいけないような気がしていた。
花が降らなくても、日常にも、お役目にも、取り立てて支障はない。
けれど、リンは、そのことをとても寂しく思っていた。
思ってはいたけれど、それでも、幼いころのように、享悟に花を降らせてくれと、せがむことはできなかった。
その幻の花が、今、また咲いていた。
けれどもそれは、見たことのない赤い色をしていた。
点々と、その先にも、赤い花は落ちていた。
それはまるで、享悟の歩いた道を教えるように。
リンはその花を、一輪一輪、拾って歩いた。
誰も、何も、言わなかった。
多分、みな、同じことを、想像していた。
花を拾いながら、いつの間にか、リンは涙を零していた。
どうしようもなく、悲しくて、泣けて泣けて、仕様がなかった。
赤い竜胆は、なかなか消えずに、いつの間にか、リンの両腕いっぱいになっていた。
その花にも、リンの涙は降りかかった。
すると。
赤い花が、一斉に、青く変わった。
そこへ、風が吹いてきて、さっとその花を吹き飛ばした。
風の中、青い竜胆は輝いて、ひとつ、またひとつと、消えていった。




