第二十七章 ~船出
朝餉を運んできた少女は、空っぽになった食膳を見て、目を丸くした。
毎度毎度、ほとんど手のつけられていない膳を下げていたのに。
今日の膳には、ころんと杏子の種だけしか残されていなかった。
「昨夜はよくお召し上がりになったんですね。」
思わずそう言って預りものの姫君を見上げてしまう。
この姫君、なんだか毎日、辛気臭い顔をしていて、話しかけても、ろくすっぽ返事をしない。
なにか言っても、ぼそぼそとよく聞こえないから、聞き返すのも面倒で、もうあまり話しかけないようにしていた。
けれど、今朝は、姫君は、にこにこと頷いた。
「いつも、美味しいお食事を用意してくれて、有難う。
ずっと、食べられなくて、ごめんなさい。」
少女はもう一度目を丸くした。
こうして笑っていると、すごく、普通の人に見える。
昨日までとはまるで別人だ。
「…もしかして、病気かなにかだった、とか…?」
はっと気づいて、そう尋ねていた。
元気がなかったのは、病気だったからか。
だとしたら、自分はずいぶん冷たい対応をしてしまった、と後悔した。
「…病気…ううん。
いや、…うん。
病気だったんだ、と思う。わたし。」
姫君は曖昧に頷いた。
すぐさま、少女は急いで部屋から駆けだそうとした。
「薬師、呼んできます!」
「あ!ちょっと待って!」
姫君は急いで少女を引き留めた。
「もう、大丈夫、だから。」
そりゃ、そうか、と思った。
病気は治ったから、ご飯も食べられたんだ。
少女は急いで姫君のところに駆け戻ると、その手を両手で握った。
「ごめんなさい。
あんたのこと、ずっと、嫌なやつだと思ってた。」
「…いや、実際、嫌な奴、だったのは本当だから。」
姫君はそう言って笑った。
少女はますます罪悪感にかられて、姫君の手をぎゅっと握った。
「ううん。あんたは嫌なやつじゃない。
病気だったんなら、仕方ない。
本当に、薬師はいいの?」
「うん。もう、大丈夫。」
にっこり微笑む姫君の笑顔を、少女は眩しいと思った。
「これからは、もし具合が悪いなら、すぐに言って?
我慢しないで。」
少女は姫君にきっぱりと言った。
姫君は、有難う、とまた笑った。
「あんた、文悟様のお嫁様になるんだよね?
だったら、ずーっとずーっと、あたしがこのお屋敷でお世話してあげるから。」
少女は力を込めてそう言った。
姫君はちょっと困ったように笑った。
「…それは、ちょっと、遠慮します、かな?」
そう言う姫君に少女は詰め寄った。
「なんで?あたしじゃ不満?」
少女は目を逸らせずに、真っ直ぐに答えた。
「いいえ。そうじゃなくて。
わたしは、文悟さんのお嫁さんには、ならないから。」
「ええっ?」
少女はひどく驚いてのけ反った。
心底信じられないことを聞いた、という顔をしていた。
「なんで?文悟様、素敵でしょ?
強いし優しいし格好いいし。
あんなにいい旦那様、いないよ?」
姫君は同意するように大きく頷いた。
「うん。文悟さんはいい人だよ?
だけど、わたしの好きなのは、キョウさんだから。」
「白銀様?
けど、あの人は、もう狂った、って…」
「狂ってないよ。
キョウさんは狂ってない。」
きっぱりと断言する姫君を、少女はまじまじと見つめた。
その目は次第にうるうると涙を湛え始めた。
「…おかわいそうに。
でも、白銀様は、もう、ダメなんだよ?
守護は、護法様には置いて行かれる運命なんだから。」
少女は同情するように言った。
それに、姫君は、ゆっくりと首を振った。
「ううん。わたしは、追いかける。
追いかけて、探して、見つけたら、今度こそ、もう、離れない。」
にこっとして一言ずつ決意するように言い切る姫君に、少女は、ほう、とため息を吐いた。
それから、にこっと笑いかけた。
「分かった。じゃあ、あたし、応援する。頑張って。」
明るく笑った少女に、リンは、もう少し早く、こうすればよかったな、と思っていた。
***
今朝は朝餉の膳もきれいに平らげた。
少女は自分の朝食も持ってきて、一緒に食べてくれた。
少女の朝食はリンのものよりも質素だったけれど、ふたりは互いのおかずを仲良く分け合って食べた。
朝餉の済んだ頃、突然、来客を告げられた。
誰だろう、と思う暇もなく、だしだしと床を鳴らして飛び込んできたのは、水七だった。
「あ。水七さん。おはよう。」
にこにこと手を振るリンに、水七はいきなり抱き着いた。
「え?」
水七はリンを抱きしめたまま、しくしくと泣き出した。
リンは驚いて、水七の背中を撫でながら、どうしたの?と尋ねるけれど、水七はいやいやをするばっかりで、何も答えなかった。
途方に暮れていると、貴島の屋敷の使用人に案内されて、平助が顔を出した。
「おやおや、愛妻殿。
そのようにされては、リン殿が困っておられますよ?」
苦笑しながら水七をたしなめようとしたけれど、水七はそれでもリンから腕を離さなかった。
「…申し訳ありません、リン殿。
今朝がた、岬の先代から、報せがあったのです。
今宵にもリン殿は島を立たれると。」
「あ。はい。
太郎さんたちが戻ってきたら、出発しようと思ってます。」
あっさりリンが答えると、水七は、いやあ、と声を上げて泣き出した。
「リン様、せっかく、仲良くなれたのに。
行ってしまわれるのは、嫌です。」
「これこれ。
そういうことを言うものじゃない。
リン殿は大切なご用を果たしに行かれるのだから。」
平助は宥めようとするけれど、いっこうに効果がない。
水七はぺったりと座りこむと、天井を仰いでおいおいと泣き出した。
リンはその水七を抱き寄せると、よしよし、と背中を撫でた。
水七はまたリンにしがみつくようにして、声を上げて泣いた。
水七の気のすむまで、リンはそのままじっとしていた。
やがて泣き疲れた水七が、すんすんと鼻を啜りだしたところで、リンは言った。
「みぃさん。有難う。」
「…リン様…」
水七はからだを離すと、リンの両手を取って、じっとその顔を覗き込んだ。
「お引き留めするつもりは、なかったのです。
けれども、リン様が行ってしまわれると思ったら、どうしてもこらえきれなくて…」
謝るようにそう言って頭を下げた。
「ううん。いないと寂しい、って思ってもらえるの、って、幸せだな、って思う。」
リンは水七と目を合わせて微笑んだ。
「キョウさんが追討されたとき、もうみぃさんとはこんなふうに話せないかなって思ってたから。」
「水六兄がなにか言ったのですか?
あの人の言うことなんか、無視ですわ。無視。」
無視を繰り返す水七に、リンは、少し苦笑した。
「わたしが、どうしても、キョウさんは狂ったって、言えなかったから。
そう言ったら、守れる、って言ってくれたんだけど。
水六さんも、守らないといけない大事なものがあるんだ。
誰にだって、あるよね?守りたいもの。」
問いかけるリンに、水七はリンの目を見つめ返した。
「みぃさんは、きっと、分かってくれると、思うんだ。」
けれど、リンがそう言うと、水七の目にはまたうるうると涙が浮かんできた。
「…分かります。ええ。
分かりたくはありませんけれど。
分かってしまいます。」
水七がそう言うと同時に、ほろりと大粒の涙がその瞳から零れ落ちた。
「わたし、まだ、守護だから。
護法さんを守らないと。」
リンはきっぱり言って、笑った。
それを見て、水七も泣きながら笑った。
「護法様に置いて行かれる守護の気持ちは、嫌というほど、存じております。
それでも、自分は護法様を守らねばと思う気持ちも、痛いくらいに分かります。
わたくしは、それでも、護法様を待つばかりで、追いかけることはいたしませんでした。
本当は、追いかけて行けばよかったのです。
ただ待っているくらいなら、追いかけて、こっちをむいてほしいと、言えばよかったのです。
どうして、そうしなかったのだろう、と。
ずっとずっと、ただそれだけを、長い時間、後悔し続けました。
後悔して、後悔して、後悔が重くなりすぎて、身動もできなくて。
重く重く沈んだこの身の周りを、ただただ、時間ばかり、過ぎていきました。」
水七は今度は自分からリンに笑いかけた。
その笑顔は雨上がりの虹のようだった。
「いってらっしゃいまし、リン様。
そうして、貴女の大切なお方を、きっと、取り戻していらっしゃいませ。
貴女なら、きっとおできになります。」
「うん。みぃさんなら、きっと、そう言ってくれると思った。」
リンが笑うと、水七も笑った。
そうして水七は、小さく付け加えた。
「兄を、水六を許してやってください。
しかし、兄も、白銀様を本気で追討するつもりはなかったのだと思います。
兄は、白銀様の行先を知っていたのに、船着き場に白銀様の舟があったからと、島の中ばかり探していたのですから。」
「…そっか。
水六さんにも、お礼、言わなくちゃ。」
リンがそう言うと、水七は安心したように笑った。
「リン殿。陸へ渡られるのであれば、嘉島の船に乗って行かれるといい。
ちょうど臨時便を出そうとしていたのです。」
平助が横から言った。
「陸から来られたご一行とご一緒に行かれるとか伺いましたが。
しかし、島の周りの海流はとても複雑ですし、慣れない者には舟を操るのも難しいでしょう。
大切なリン殿が小舟に揺られて難儀なさるかと思うと、うちの愛妻殿も気が休まらぬでしょうし。」
「臨時便?
そんなのがあるんですか?」
嘉島は島の物資の買い付けを一手に担っている。
指揮を執るのは、島の統領だが、実際に働いているのは嘉島に属する人々だ。
嘉島の船はたくさんの物資を運ぶ大きな船だ。
普段、島の者たちが乗る小さな舟とは格段に安定感が違う。
統領が都へ渡るときも、使うのは嘉島の船だった。
「ええ。少しばかり私用なのですけれどね?
どうしても、取り急ぎ、買い揃えたいものができてしまって。」
平助はそう言ってちらりと水七のほうを見た。
すると、水七はわずかに頬を染めて、責めるような目を返した。
「…平助様…それは、お気が早いと、何度申せば…」
「え?へ?
お気が、早い?」
リンはきょとんとそのふたりを見比べている。
平助もほんのり頬を染めて、にこにこと水七に言った。
「なんの。
万が一、愛妻殿のお気に召さないようなことがあれば。
また、買いつけに行かねばなりませんから。
早いに越したことはありません。」
「気に入らないなんて申しませんわ。
それに、まだ、無事に生まれてくるかどうかも」
「無事に生まれてきますとも。
そうに決まっているじゃありませんか。
大丈夫。嘉島は安産の家系です。」
「…いえ、あの。
わたくしは、岬の者ですわ…」
「大丈夫。その胎にいるのは、嘉島の子。
ならば、きっと安産に違いありません。」
流石のリンも、ここまで聞いていれば、何を言っているのかは分かった。
「やったあ!
水七さん、おめでとう!!」
今度は思わずリンのほうから水七に抱き着いていた。
「ふっふっふ。
待望の嘉島の初孫ですからね。
母上もあれこれと買ってこいと、この間からうるさくてかないません。
愛妻殿も、今のうちから、お覚悟なさいませ。」
平助は威張るようにそう言って楽し気に笑った。
水七も笑いながら、そっと目尻の涙を拭った。
「申し訳ありません。
ここのところ、わたくし、少し、情緒不安定でして…」
「ううん。
みぃさん、だいじにしてね。」
リンはもう一度水七を軽く抱きしめた。
それから、平助にむかって言った。
「太郎さんたちは四人なんですけど。
一緒に乗せてもらってもいいですか?」
「もちろんですとも。
どーんと、大船で送って差し上げますよ。」
平助はそう言って、またからからと笑った。
***
午後になって戻ってきた文悟への挨拶も無事に済ませた。
リンの話しを聞いた文悟は、言葉少なに、そうですか、とだけ言った。
文悟と入れ替わりに、貴島の奥方も顔を見せた。
同じ屋敷にはいたはずなのに、顔を見たのは、あの山道で声をかけられて以来だった。
「行くんだって?」
誰かから話しを聞かされたのか、奥方はいきなりそう切り出した。
「まったく、あんなひょろひょろ坊主のどこがいいんだか。
うちの文悟のほうが、百倍、いい男だと思うけどね?」
リンはうまく言い返せずに、ただ苦笑のみ返すと、奥方は続けて言った。
「あんた、忌み子じゃなかったんだって?
そんなら、あんたなんかもう、用済みだよ。
どこへなと、好きなところへ行くんだね。」
「はい。
あの、その節は、助けていただいて、有難うございました。」
リンはとりあえずお礼だけは言っておこうと丁寧にお辞儀をした。
それを見た奥方は、ほんのちょっと目を丸くしてから、ふん、と視線をそらせた。
「あんたは文悟の役に立つと思ったから、連れてきただけだよ。
もっともさ、あの厄介な井戸水はもう効果がなくなったそうだから。
だったら、文悟の嫁の成り手なんて、島にいくらでもいるさ。」
奥方は小さくため息を吐いて続けた。
「だけど、一度狂った護法様ってのは、厄介なもんだからね。
取り戻そうったって、なかなかそううまくはいかないと思うよ。
まあ、いよいよってなったそのときはさ。
また島に帰ってきたらいいよ。
そのときは、貴島の護法に仕えた守護としてね。
文悟の嫁にしてやるよ。」
「大丈夫です。
キョウさんのことは。
きっと、取り返してみせます。」
リンが明るく答えると、奥方はまた、ふんと鼻を鳴らしたけれど、ふと思い出したように付け加えた。
「まあ、いいさね。
享悟もあたしの息子だ。
どっちにしても、あんたはあたしの嫁だ。」
にやり、と笑ってリンを一瞥すると、そのまますたすたと行ってしまった。
***
千客万来のしめくくりは、太郎たちだった。
昼過ぎ。奥方と入れ替わるようにして、皆、戻ってきた。
「嘉島さんが船、出してくれるねんて?」
何故か、申太夫は嬉しそうだった。
「おいら、舟、操れる、って言ったんっすけどねえ。」
反対に、雉彦のほうは少々、不満そうだった。
「たいそう立派な船だそうだな。楽しみだ。」
太郎は子どものように喜んでいた。
「僕も、大きな船がいいです。」
どうやら、雉彦ひとり、分が悪そうだった。
「テル、舟、操れるんだ。
ちょっと乗ってみたかったかも。」
リンがそう言うと、雉彦は途端に嬉しそうになった。
「いいっすよ。
なんなら、姫とおいらだけ、小舟で行きます?」
「なあんも、そないな無駄なことせんでも。
素直に乗せてもろたらええやんか。」
申太夫は冷ややかな目をして雉彦を見た。
「主はおいらに舟の操り方もばっちり仕込んでくれましたからね。
その腕を、姫にお見せしたかっただけっすよ。」
雉彦は少し拗ねたように言った。
「そっか。テルにはキョウさんが教えてくれたんだ。
いいなあ。」
リンは雉彦に羨望の眼差しをむけた。
「キョウさん、わたしには、どんなに頼んでも教えてくれなかったのに。」
「そりゃ、姫のことは、主が乗せたらいいでしょ?
というより、あんたに教えたら、勝手についてきそうだから、じゃないっすか?」
「確かに。」
リンはあっさり納得してから、けろりと言った。
「じゃ、今度、テル、教えてよ?」
「…ごめんこうむります。
そんなことしたら、主にどんなお仕置きされるか。」
雉彦はぶるぶると首を震わせた。
それにリンは明るく返した。
「大丈夫だよ。キョウさんは優しいから、お仕置きなんかされないよ。」
「何度も言いますけど、主が優しいのは姫に対してだけっすよ。」
「じゃあ、わたしがお仕置きされる。」
「主が姫にお仕置きなんかするわけないでしょ?
けど、なんもなし、なんてことはありえませんから。
直接、手を上げたりはしませんけどね。
回り回って、ちくりと痛い目を見るようなことは、されるでしょうね。」
雉彦はふんと一つ息を吐いた。
「やっぱ、ここは大きい船で行きましょう。
姫に、ちょっと教えて、とか言われると、困りますからね。」
「なあんだ。残念。」
「うっわ。そのつもりだったんだ。
やっば。おいら、命拾いしました。」
横目で睨む雉彦に、リンは、にっこり笑ってみせた。
「まあ、いいかあ。
わたし、舟は、キョウさんの操るのにしか乗ったことないし。」
あの初陣のときのことを思い出して、リンは、ふふ、と小さく微笑んだ。
その横顔をちらりと見て、雉彦は、ふん、と鼻を鳴らした。
「大事な思い出、ってやつすかね?」
「うん。」
リンは明るく笑って頷いた。
雉彦は軽く脇をむいて、リンに気づかれないようにため息を吐いた。
***
その夜。
島の表にある船着き場から、嘉島の臨時便は出発した。
帆を張った大きな船で、船員も何人も従事しているようだった。
岬、嘉島、貴島のそれぞれの家からは、荷車一杯の土産物が持たされていた。
この大きな船でなければ到底運べないほどの量だった。
「鬼も退治したし。お土産もぎょうさんもろうたし。めでたしめでたしやな。」
遠くなっていく島影を眺めながら、申太夫は呟いた。
「いやいや、まだこれから主を探しに行くんっすからね?」
雉彦は念を押すように言った。
「リン殿。少しよろしいだろうか。」
そう声をかけてきたのは、貴島の安悟だった。
安悟はリンを送っていくと言って、一緒に船に乗っていたのだ。
安悟は赤い玉の連なった首飾りをリンの首にそっとかけた。
重たい首飾りを持ち上げて、リンは尋ねた。
「これは?」
「享悟の母親の形見です。
いつか、享悟に嫁がきたら、渡そうと思っていたものです。」
安悟は目を細めてリンを見ながら言った。
「これほど見事なものは、帝様でもそうそう持っておられますまい。
京はそれをたいそう気に入ってね。
これは何だと尋ねるから、珊瑚という海の宝だと教えたのですけれど。
そうしたら、自分も探しに行くと言い出して…」
安悟の語る京の話しは、享悟から聞いていた母親像とは少し様相が違う感じがした。
「泳げないのに、何度も海へ入って。
やめてくれと、頼んでいるのに。
わたしにも、同じような珊瑚の玉を取ってくると言って…」
安悟はまるで海の中に愛しい人が見えるように、遠い海を眺めた。
「とうとう海に取られたときに、だのに、あの人は、掌にこれを握っていたのです。」
安悟は懐から小さな布の袋を取り出すと、中身を掌に出して見せた。
リンはそれをよく観察してから安悟を見上げて言った。
「これは…色が違っているような…?」
「これは、真珠ですよ。
これもまた、珊瑚と同じ、海の宝です。」
安悟はその袋をリンに差し出した。
「これを、享悟に渡してやってください。
父からの婚礼の贈り物だと言って。」
「直接、お渡しには、ならないのですか?」
尋ねたリンに、安悟は寂し気に微笑んだ。
「あの子は…、享悟は、あまりにも京にそっくりで。
あの子を見ていると、京を思い出して辛くなるのです。
今でもわたしは、あの子とまともに話せないのですよ。」
確かに享悟もそんなようなことを言っていたなとリンも思い出した。
「でもこれは、大事な奥様の形見なのでは?」
リンが重ねて尋ねると、安悟は、ふっと笑って、懐からもう一つ、石の欠片を取り出した。
そこには、京、と彫りつけてあった。
「形見なら、これがあります。
それに、この真珠を見ていると、わたしは悲しくなってしまうから。
享悟に持っていてもらったほうがいい。」
安悟は少し強引にリンに真珠を入れた袋を押し付けた。
「どうか、頼みます。」
リンは受け取って大切に懐にしまった。
それから、安悟にむかって詫びた。
「…なんだか…あの…すいません。
なんだか、キョウさんから伺ったお母さんとは、違う感じがして…」
リンは懐のあたりを大切そうにに抑えながらそう言った。
それに安悟は小さく苦笑した。
「京は島の者にはあまりよく言われていませんから。
わたしは享悟に、それをちゃんと否定してやれませんでしたし。」
「キョウさんのこと、ずっと、お母さんは嫌っていた、って…」
「嫌っていた、というより、怯えていました。
享悟は生まれたときから歯がありましてね?
驚いた京は、思わず、取り落としてしまったのです。
けれど、それをずっと悔いていて。
もしも、また、同じことをしてしまったら、どうしよう、って。
享悟を胸に抱いてやることも、怖くてできないと言っていました。」
それは享悟から聞かされたのとも随分違う印象だった。
「京は、本当は、享悟を可愛がってやりたかったのだと思います。
だから、強くなりたい、といつも言っていました。
けれど、そのために、危ないことなどしてほしくなくて。
わたしは、京を、座敷牢に閉じ込めました。」
けれど、それは、逆効果でした、と安悟は寂しそうに言った。
「京はことあるごとに脱け出しては、海に飛び込みました。
こんなことなら、ちゃんと泳ぎ方から教えておくんだった。
ちゃんと教えておけば、あんなことにはならなかったでしょうに。
わたしは、京を守るには、危ないことから遠ざけるのがいいと思っていました。
けれど、京には、危ないものにも立ちむかう勇気があったのです。」
リンはじっと安悟の話しを聞いていた。
それは、享悟の知らない、本当の母親の姿だった。
いつか、享悟にも、この話しをして聞かせようと思った。
きっと、きっと、そうしようと、思った。




