第二十六章 ~宿願
夜が明ける前に、リンは貴島の屋敷に戻っていた。
リンはどうしてもそうしたいと、皆に頼んだのだった。
爺婆の家では、いろいろなことが話し合われた。
結局、昨夜は一睡もしていなかったけれど、リンは、ここしばらくないくらいに、からだに力がわいてくるような気持ちになっていた。
太郎たちと一緒に、リンは、享悟を探しに行くことになった。
その前に島で片付けておきたいことがあるのだと、申太夫は言った。
そのために、今日一日、時間がほしい、と。
リンも、その間に、文悟にきちんと話しをしたいと思ったから、ちょうどよかった。
戻った貴島の屋敷はひっそりとして、誰もリンが抜け出したことに気づいた者はいないようだった。
食べかけのまま放置された食膳も、申太夫の置いておいた置手紙も、そのままになっていた。
「ほんなら姫さん、こっちの野暮用が済んだら、またお迎えに来ますよって。」
食膳の脇にしゃがみこんで、せっせとつまみ食いしながら、申太夫は気安く言った。
「なんなら、おいら、姫の護衛に残りましょうか?」
雉彦は心配そうにリンを見つめた。
申太夫は小芋を摘まんだ指を舐めてから振った。
「あかんあかん。
姫さんのお傍におりたいんは分かるけど、いきなりあんたがこの座敷におったら、一体どこから入ったんか、て大騒ぎになるやろ?」
「そんなヘマはしません。
床下か天井裏にでも隠れて…」
「ええから。
それより、こっち、手伝うて。
はよ終わらせて、堂々と、姫さん、もらって行きましょ。」
「文悟さんには、わたしからちゃんと話しておきます。」
リンは皆にむかって言った。
「キョウさんの居場所が分かったから、そこへ迎えに行きます、って。
みなさんと一緒だから大丈夫です、って。
そう言えば、きっと、行かせてくれると思います。」
「我らも一度、その文悟殿にはご挨拶せねばなるまい。
鈴姫のことは我らが護衛をして、きっと、白銀殿の元に届ける、と。」
太郎はおおらかに頷いた。
「岬も、白銀殿の居所を知っているのに、そちらへはむかわずに島ばかり探しているようです。
そもそも白銀殿を始末するつもりなどないのでしょう。
ならば、姫が行かれることを邪魔することもないと思います。」
戌千代は何度も何度も細かく頷いた。
「まあまあ。
こっちのことがうまくいったら、貴島の奥方さんも、姫さんのこと、気ぃよう、出してくれはるわ。
そのために、おっちゃんら、ちょっと頑張ってくるよって、姫さんはここで、わたしらの無事を祈っといてくれるか?」
ぱくぱくとつまみ食いされた食膳は、いつの間にかすっかり空っぽになっていた。
それに戌千代は眉をひそめて言った。
「サル殿。姫の食事を横取りするとは、なんと意地汚い。」
申太夫は心外だというように戌千代を見返した。
「横取り、て。
姫さんは、高倉のおばあちゃんのおにぎりを、三つも食べてきたやんか。
お腹、すいてへんやろ?」
「サル殿は五つ、食べたでしょう?」
「そら、食べたけど。
このお膳、もうじき下げられて、朝餉が来るんやろ?
残しといたら、もったいないやんか。」
「ああ、はいはい。
おふたりとも、姫の前でみっともないっすよ?」
雉彦は申太夫と戌千代の襟首を掴むと、ずるずると引きずっていく。
それを見ていたリンは、ころころと笑い出した。
「騒がせて申し訳ない。
リン殿。少し、休まれるといい。
それでは、我らは行くとしよう。」
太郎は、そう言い残すと、仲間たちと一緒に去って行った。
***
リンを貴島の屋敷に残して、太郎たちがむかったのは、古井戸のある島の社だった。
社に宮司はおらず、無人だった。
井戸はしめ縄で厳重に取り囲まれていたが、申太夫はひょいとそれを持ち上げてくぐった。
「え?ちょっと、そんなことして、いいのですか?」
戌千代は心配そうに引き留めようとしたが、そのときにはもう、申太夫はしめ縄に囲まれた中にいた。
「まあ、大丈夫じゃないっすか?」
「戌殿もさあ、ここから入られよ。」
雉彦も太郎も知らん顔をして入っていく。
太郎などは、その下をくぐれるように、しめ縄を持ち上げて、戌千代を振り返った。
そうして、四人で井戸を取り囲むと、申太夫は懐から竹筒を一本取り出した。
栓を抜くと、中に入っていた液体を、とぽとぽと井戸に注ぎ込む。
特に色も臭いもなく、強いて言えば、朝の光を少しばかり反射して、きらきらと光ってはいたが、ただの清水のようだった。
「さてと。ほな、帰りますか。」
竹筒一本分、まるまる井戸に注ぎ込むと、申太夫はあっさりきびすを返そうとした。
おう、そうか、と太郎もそれに続く。
なんだ、これくらい、おいら、いらなかったじゃないっすか、と雉彦は多少、不満気だった。
「え?
あの?
もう、終わり、なんですか?」
戌千代ひとり、面食らった顔をして立ったまま、申太夫に言った。
「ああ、そやで?」
申太夫はあっさり返すと、にっこり微笑んだ。
「さてと。
ほんなら姫さん取り返して、さっさとこんな島、オサラバや。」
「え?
もしかして、サル殿がどうしてもやっておきたかったことって、これなんですか?」
戌千代はまだひとり戸惑っているように尋ね続けた。
「そやで?」
あっさり答えた申太夫を見て、戌千代は、何かに気づいたようにはっとした顔をした。
「!!!
まさか、それは、島の人を皆殺しにする毒薬!」
「んなわけあるか!
ったく、どんだけわたしのこと、悪人や思うてんねん…」
申太夫は呆れたように説明した。
「むしろ、これは、解毒薬。
井戸の毒を中和する真名井の水や。」
「井戸の毒?」
「この井戸にはな、大昔に、毒が放り込まれてん。
毒、いうか、呪い、な。
それが、鬼になる水の正体や。
ここの井戸水は、地下を通って、島中に流れてるから。
島の井戸水を飲んでる人たちも、少しずつ、皆、護法化するんや。
大元の呪いは長い間、ここに留まってて、そやからここの井戸の呪いは島のどこより濃い。
けど、これを中和したら、島中に流れた呪いも、少しずつ、なくなるはずや。
そして、これからは、この水を飲んでも、誰も鬼にはならへんのや。」
話さなければ戌千代は納得しないと諦めて、申太夫はそんな話しをした。
「けど、こんなとこ、長居は無用や。
もし、これが島のモンに見つかったら、わたしら、鬼どもによってたかってくびり殺されてしまう。
そやから、さっさと逃げるで?」
「お、応!
心得た。」
くびり殺される、の語に驚いた戌千代は、慌てて首を何度も縦に振った。
ようやく解放されて、さて行こう、とした申太夫の前に、木の陰からゆっくりと人影が姿を現した。
「げ。」
とっさに身構える四人の前に、人影はゆっくりと膝をついた。
「…ご初代様…申公様…」
重々しくそう声をかけた人影に、申太夫は構えを解いて立った。
膝をついていたのは、岬の先代、千風だった。
申太夫はひょいとしゃがみこむと、気安く声をかけた。
「なんや。千風さんか。
びっくりさせんといてぇな。」
申太夫はけろっとそう言うと懐から岬の護法札を取り出した。
「ちょうどよかった。
これ、返しに行かなと思うてたんや。
どうも、おおきに、有難うな。」
振り返って仲間たちからも札を受け取ると、四枚まとめて、千風に差し出す。
千風はそれを受け取って、大切そうに懐にしまい込んだ。
「…いつから、気づいてた?」
申太夫はにやりと笑って尋ねた。
「初めて、お会いしたときから。」
そう答えた千風に、申太夫は、いややなあ、と苦笑いした。
「それならそうと、先に言うてくれたらええのに。
わたし、なんや、若者に混じって張り切ってるみたいで、恥ずかしいやんか。」
「…いつか、あなたが、島を滅ぼしにくる、と。
頭領を継いだ者には、その絵姿と共に、伝えられておりました。」
千風は懐から折りたたんだ古い紙を取り出して見せた。
指先でつまむようにして、申太夫は紙を開くと、書いてあったものを見て、笑い出した。
「うわあ。
わたし、どんな悪者やねんな?
島を滅ぼす大悪人、て。
これは、手配書か?
それにしても、この絵、そっくりやない?」
笑いながら紙を仲間たちに回して見せる。
仲間たちもそれを見て、目を丸くしたり笑い出したりした。
ひととおり笑った申太夫は、小さなため息を吐いて言った。
「まあまあ、そもそもの諸悪の根源は、このわたし、やから。
ごめんやで?
早いとこ、この井戸だけは、なんとかせな、と思うててんけど。
この島に張られた結界は、ものごっつぅ強力で、わたしひとりの力では破れんかったんや。」
「この井戸だけは、なんとしても護らなければならないと。
ご初代様たちは、そう言い伝えを残しました。」
その言葉に、申太夫は悲しそうな顔をした。
「そう言うて、けど、この井戸水のせいで、どんだけの人が不幸になったんや?
頭領家に生まれて、鬼になった子らも。
他所から連れてこられて、鬼になった子らも。
この島で生まれても、水を飲んで鬼になってしまうかもしれへん。
自分はならんでも、自分の子はなってしまうかもしれへん。
ずーとずーと、その恐怖を抱いて暮らしている子らも。
こんなもん、ない方がええやんか。」
穏やかに諭す申太夫の腕に、千風は縋りつくようにした。
「しかし、そうしなければ、この島は!」
「大丈夫やて。
こんなもん、なくても、十分にやっていける。
この島の人たちは、みぃんな、根の優しい、気のいい人たちばっかりや。
勇敢やし、ちゃあんと、武芸の技も磨いてる。
真面目に働いて、からだ鍛えて、読み書きソロバンも、皆、ばっちしや。
長い間に培われた、泳ぎや操船の技術もある。
情報収集かて、分析かて、べつに護法さんやない人らがやってるやんか。
一致団結して協力すれば、きっとやっていける。
それに、嘉島っちゅう、ずーと先から、そうやって生き抜いてきたええお手本もおるやんか。」
申太夫は励ますように千風の肩に手を置いた。
「忌み子と呼ばれた子らかて、そうや。
鬼になった子の子には、直接呪いがいってしまう。
なんの罪もないのに、その子らのことを殺そうとしたんは。
わたしがこの島を滅ぼしにくる、いう伝説と、初代が全員忌み子やった、いうんとが、ごっちゃになったせいやろ。」
「…忌み子を殺していたのは、大昔の話し。
今やもう、ほとんど…」
「そら、見つけた子は、片っ端から、おサルが攫っていったからな?」
申太夫はけらけらと笑った。
「あの子らかて、別に、普通の子やで?
たしかに、能力、いう意味では、ちょっと特殊な子もおるけどな。
ちゃあんと、愛情受けて、あかんもんはあかんを教えて育てたら、みぃんなええ子に育つわ。」
千風に笑いかける申太夫の笑顔は、作った笑みではなかった。
「忌み子狩りなんか、もうせんでええやん。
あんたのお家かて、そのせいで、もうずーと、島の人らからも悪う言われて。
誰も、なぁんも、ええことないやんか。」
それに、と申太夫は、千風の目を覗き込んだ。
「わたしに気づいていながら、あえてそれを止めへんかったんは、あんたも、ええ加減、同じこと、思うてたからやろ?」
目の合った千風は、じっと申太夫の目を見返してから、ふっと力を抜くように息をした。
「一水…二水…照太…
子どもたちを、三人も、護法にしました。
水七は照太を待ち続け…水六はその照太を恨んで…」
「それかて、全部、井戸水がなかったら、なかった悲劇や。
だからもう、それは、やめにしよう、て。
みぃんな、薄々、思うてんのやろ?島の人たちは。」
千風は、小さく、けれど、きっぱりと頷いた。
申太夫は懐から何やら包を取り出して、千風に差し出した。
「これは、ご隠居、貴方に渡しておきますわ。
護法になってしもた子らに、一粒ずつ飲ませたってぇや。
そしたら、体内の呪いも流れて、元の人間に戻れるから。」
「!!!そのような秘薬があったのですか?」
「作ったんや。
これ作るのに、それはもう、それはもう、苦労したんやけど。
そもそも、真名井の水を探すところから…て…
苦労話語ってたら、日が暮れてしまいますわ。
それよりも、わたしらは早よ、これを、白銀さんに持って行かなあかんからね。」
申太夫はそう言うと、包を千風に押し付けて、さっさと立ち上がった。
「ほな。
後は任せた。」
軽く手を上げると、後は振り返りもせずに、去って行った。
***
千風と別れた後、四人はそれぞれの物思いに沈むように、みな黙って歩いていた。
島の社は貴島の屋敷からは少し離れた森の中にあって、そこへ戻るには少し歩かなければならない。
駆け通せばその時間は短縮できたけれど、誰も走ろうとはせずに、ただ、淡々と歩いていた。
飄々としてニタニタ笑いをいつも顔に張り付けている申太夫も、今は、笑ってはいなかった。
何かと申太夫に絡む戌千代も、今は、ただ、気遣わし気な目をちらりちらりとむけるだけだ。
雉彦も太郎も、何も言わずに、ただ黙々と歩いていた。
かさり、と木の葉ずれの音がして、その四人の前に、また人影が現れた。
すらりとした長身に、鍛えたからだ。
ただ歩いているだけでも、隙のない身のこなしが板についているのが分かる。
その人物は、声をかける前に、膝をついて恭順を示す仕草をした。
「はて?どちら様やったかなあ?」
申太夫は苦笑して尋ねる。
人影はよく通る低い声で言った。
「貴島、安悟、と申します。
享悟の父親です。」
「これはこれは。
お初にお目にかかります。
姫さんが世話になったなあ。
こっそり、いろいろと手、回してくれてたんやろ?」
「当家の護法の守護様なれば。
当然のことでとざいます。」
安悟は堂々と頭を下げた。
申太夫は親し気に安悟の手を取りながら、小さく呟いた。
「しかし、もうその、いちいち、ひざまずくのん、やめてほしいわ。」
小さな呟きもしっかり聞き取って、安悟は生真面目に返した。
「ご初代様にご無礼はできません。」
「ご初代様て、ただ、他の人より、長う生きてるだけやん。
それに、迷惑かて、いっぱいかけてるんやし。」
「ご初代様は、この島を興した大恩人なれば。」
「興した、て。
こんななんもない辺鄙なとこに流れ着いて、いろいろとまあ、やらかして。
あんたらに、厄介なもん残しただけの、モンやろ?」
申太夫はいやいやと首を振った。
「あんたらのほうが、よっぽど偉いやん。
護法さんにたくさんの決まりを作って、ホンマの鬼にせんように守ってきたんはこの島の人や。
守護なんて仕組みまで考えて。
いやいや、ホンマ、感心するわ。」
けどな、と申太夫は続けた。
「井戸の呪いは解きました。
なんも、相談せんと、やってしもて、ごめんな。」
安悟は、ふぅ、と息をひとつ吐いた。
「…此度の事態、皆に知れ渡れば、大事となりましょう。
しかし、わたしは、あえて報せるつもりはございません。」
「そら、それがええわ。
毎年な、誰が水を飲んでも、護法にならへん。
由緒正しき、頭領家の、ボンもお嬢も、護法にならへん。
そんなことが十年続いたら、皆、自然に納得するわ。
井戸水の効果が切れた、て。」
「…文悟には、子はひとりと言い聞かせるつもりでした。
その子の子も、そのまた子も。
貴島の家は、ずっと一子を守る家訓を遺しておこうかと。
そうすれば、水を飲むこともない。」
「もしかして、文悟さんのこと、知ってらしたんっすか?」
思わずそう聞いてしまったのは雉彦だった。
「……」
安悟はしばらく黙ってから答えた。
「妻には、幼い頃から思う人がおりました。
婚約は、妻がまだ物心つく前に、親たちが勝手に決めたこと。
妻もわたしも、それぞれに思う人と添い遂げるのがよいと。
若いわたしは思ったのです。
しかし、その後、妻の…」
申太夫はひらひらと手を振って話しを遮った。
「…まあ、人それぞれ、ご事情はあるということやね…
その詳しい内容は、よろしいわ。
けど、そんな妙な家訓、残さんで済んでよかったやんか。」
安悟はひとつ大きく頷いた。
「本当に思う人と添い遂げる。
これにまさる幸せはありますまい。
わたしの妻は、後にも先にも、京一人。
それを変えることはできません。」
安悟は頑なに言い切ると、懐から小さな石を取り出して、掌に握りしめた。
その石には京と刻まれてあった。
石を覗き込んだ申太夫は、小さく苦笑して尋ねた。
「もしかして、都から攫ってきた奥さんは、京さん、いわはったん?」
「はい。」
「それ、持ち歩いてるのん?」
「京の墓を作った石の欠片です。
せめてもの心のよすがにしようと、持ち帰りました。」
安悟はなぜか少し得意気だった。
申太夫は呆れた顔になった。
「ほんで、京さんのお子さんやから、享さんかいな。」
太郎は、掌に、京と享を書いてみてから、ほう、と感心したように唸った。
「なんやもう、この島の人て、みぃんな、愛が重たいな…」
「皆、鬼の裔ゆえに…」
「いや、ご先祖のせいにせんといてほしいわ。
わたしかて、そのひとりやで?
もっともわたしには、子はおらんけどな?」
申太夫はやれやれと肩を竦めた。
「白銀さんも、愛が重たいんは、親譲りか…」
「あの愚か者は、勝手に水を飲んで、護法になってしまったのです。」
安悟は悔しそうに言った。
「わたしは、もう二度と、家族から護法を出したくはないと思っておりました。
文悟もいずれ、なにかと理由をつけて、水は飲ませないつもりでした。
わたしのきょうだいも、護法になり、あるいは守護になって護法と共に、戦場にて果てました。
残ったのはわたしただひとり。
頭領家のこの呪われた血が、悔しくてたまりませんでした。
しかし、息子の思いは、誰より、わたし自身が、身に染みて、分かってしまうのです。
あの愚か者は、愚かなりに、守護を護ろうと、必死になっているのだと。」
「知ってる。
けど、あの姫さんは、ちょいとわけありやったから。
白銀さんほどのお人に護ってもらえへんかったら、無事には育てへんかったかもなあ。」
申太夫は安悟の手を握って言った。
「おおきに、有難う、言わせてもらいますわ。
姫さんのこと、護ってもろうて。」
けど、と続ける。
「ここからは、わたしらが、白銀さんを助ける番や。
姫さんも、大いにそのおつもりやし。
ちゃんと元の人間に戻してあげる。」
「そんなことが?可能なのですか?」
安吾は思わず申太夫の手を取っていた。
申太夫は思い切り胸をそらせた。
「任しとき。
それがわたしの長年の悲願やしな。
ああ、けど…」
申太夫は少し考えてから続けた。
「気の早いお話しやけど、享悟さんを、姫さんの婿にもらわれへんやろか?
あのおふたりは、好き合うてるみたいやし、ちょうどええやん?
この先も、姫さんの身は、ずぅっと護っていかんならんし。
享悟さんがおってくれたら、安心なんや。
お宅の惣領息子と、跡継ぎの嫁と、どっちも取ってまうみたいで申し訳ないけど。
文悟さんにはまあ、どっかからええ嫁さん、もろうたって?」
「享悟も文悟も、思う人と添い遂げるのがよい、と。
親としては口出しをするつもりはございません。」
安悟はしっかりと頷いた。
「そうか。
まあ、こっちとしては、白銀さんと姫さんさえもらえたら、それでええねん。」
ほな、とあっさり手を上げる申太夫を、安悟はいつまでも頭を下げたままで見送っていた。
***
それは、長い間の悲願だった。
どうしてもこれだけは果たさなければと思い続けた責任だった。
そのせいで大勢の人の運命を狂わせた。
狂った運命を元通りにすることはもはや不可能だったけれど。
これ以上、悲劇を繰り返させないために、それは、絶対に必要なことだった。
ようやくそれをやり遂げて。
不思議に気持ちはしんとしていた。
取り立てて感動もなかった。
込み上げてくる歓びのような感情もなかった。
ただ、淡々と、真名井の水を注ぎ、淡々と、それは成し遂げられた。
終わってみれば、ひどくあっさりと、それは終わってしまった。
あんなに悩んだことなど、全部、夢、幻のように。
あんなに苦しんだことなど、全部、夢、幻のように。
けれど、まだ終わっていない。
あ~、疲れた、としゃがみこみたくなるのは、一度、こらえた。
全部、終わらせて。
今度こそ、ちゃんと、全部、終わらせたら…
「なあ。
これが済んだら、みんなで、温泉とか、行かへん?」
黙りこくって歩いている仲間たちに、申太夫は声をかけた。
みな、それぞれ物思いに沈んでいたけれど、申太夫の声に、一斉に顔を上げた。
「ぱあっとな、美味しいもん食べて、お酒も飲んで。
姫さんも、白銀さんも連れて行くか~。
ああ、けど、姫さんは、温泉、ひとりになってまうなあ?
あ!混浴にしといたらええか?」
「ちょっ!なんてことを!」
戌千代はそう言ったきり真っ赤になって絶句した。
「姫の風呂、覗こうったって、そうはさせませんよ?」
雉彦はじろっと申太夫を睨み据えた。
「なんや、あんたも見たいくせに?
なあ、あの姫さん、ああ見えて、なかなか…」
意味ありげににぱっと笑われて、雉彦は真っ赤になってひどく焦ったように返した。
「…な、なんということを…」
申太夫はそんな雉彦の肩を親し気に抱いた。
「大丈夫や、雉彦さん。
人間、正直に生きたほうが、からだにええで?」
「………愚か者!」
突然、一喝と共に、後ろから刀が振り下ろされた。
刃はつぶした模造刀だけれど、当たれば怪我をする。
しかし、申太夫も雉彦も、器用にひょいと避けていた。
「そこへ直れ。
その曲がった精神、叩き直してくれる。」
憤怒に顔を赤くして、戌千代が叫ぶ。
あっちゃ~、冗談やんか~、と申太夫は手をひらひらと振った。
「前から思っていたのです。
サル殿。
貴方は一度、成敗しなければならないと。
雉殿。
貴方も、サルに加担するなら、同罪です。」
ぶんっ!ぶんっ!
本気で振り回される刀から、ほんの髪の毛一筋ほどのところを、申太夫も雉彦も、ひょい、ひょい、と避けていく。
それはまるで、観客のいないまま繰り広げられる見せ物のようだった。
「あはははは。
それは、何か?
次の出し物にするのか?」
太郎は目の前の光景に楽しそうに笑っていた。




