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花咲鬼  作者: 村野夜市
30/42

幕間 ~雉彦

貴島享悟。

主の真名だ。

名字のある家なのかと少し驚いた。

土着の士とも、落人の裔とも、確かなことは分からないけれど、故郷の島では代々頭領になる家柄らしい。

家には使用人も大勢いて、若様、と呼ばれて育ったのだそうだ。


主の住む島もまた貴島という。

貴島の貴は鬼の転化だろうと主は言った。

古くは、鬼島、だったと。


貴島の住人は生来、体も大きく力も強い。

何もしなくてもその身体能力は都の人間を上回る。

けれど、島にはさらに、護法という秘術がある。

それは人間の体を根本から作り変える術らしい。

そしてそれに成功した者は、本物の鬼になる。


人間の能力のあらゆる枷を取り払い、極限まで高めた存在。

護法とはそういうものだ。

無意識に人間は自らの肉体に枷を嵌めている。

良心、常識、恐怖…

護法は、そういった心の枷を取り払い、引き換えに極限の力を得る。


けれどそれは両刃の刃だ。

枷はまた、その身を守る手段でもある。

守りを外して極限まで酷使されたからだは、そう長くはもたない。

護法とは自らの生命を削って、無敵の力を手に入れる鬼だった。


護法の目には光と影の他は何も見えないそうだ。

護法にとっての世界とは殺戮と陰謀に満ちたもの。

残されるのは焦燥と恐怖の衝動のみ。

その衝動に突き動かされて、護法は戦う。


人としての心を封じ込めて護法は最強の鬼になる。

そんな護法の、人としての心と魂を守るのが、守護という存在だ。

自らの守護だけは、護法にも明るく色鮮やかに見えるのだそうだ。


護法の心が安らげるのは、唯一守護の許だけ。

護法の視界のなか、守護だけが色を持つ。

耳に入る音は全て警戒の対象だけれど、守護の声だけは、心地よく響く。


けれど、そんな守護は護法の唯一の弱点でもある。

護法はその役目柄、恨みを買いやすい。

護法を操るため、或いは単純に無力化するために、守護の身は常に危険にさらされている。


だから、護法は守護を護る。

時には役目を放り出しても護る。

自らの命さえ投げ打ったとしても護り抜く。

護法にとっての守護とはそういう存在だった。


姫を傷つけてしまったときの主の狼狽と慟哭の理由がようやく分かった。

失えない大切なものを手に入れることの幸福と不幸とを同時に見た気がした。


よくそんな恐ろしい世界で生きていられると、おいらは思わず言ってしまった。

そしたら、主は小さく笑って、リンがいるから、とだけ言った。



***



おいらの話もしておこう。

おいらは、主より先に、主の守護と出会っていた。

あの頃のおいらは、生きるためと称して、ろくでもない稼業にどっぷりとはまっていた。

戦場の死体から金目の物を剥ぐ。

ときにはまだ命のある者からも。

どうか助けてくれと虫の息で縋る手を振り払い、こんなことをしなければならないのも、もとはと言えばお前らのせいだと、わざと心を恨みでいっぱいにして。

そうしないと生きていられなかったからだ。


戦場に仆れた者らは、あるいはほとんど、おいらと大して変わらない者たちだった。

家に帰ればいい父親やいい息子。

田畑を耕し、嫁や母親に虐げられて、たまの祭りの酒に酔う、平凡で平穏な男たちだった。


けど、それでも。

おいらの故郷の村は、戦に踏みにじられた。

何の罪も咎もなく…


弟妹は大勢いた。

十歳だったおいらを頭に十一人。双子はいない。

計算が合わない、とよく言われた。

弟妹のなかには拾われた子どももいた。

両親は、捨てられた子どもを見ると、すぐに拾ってくるからだ。

けど、両親は、どの子どもも分け隔てなく育ててくれた。

悪いことをしたら、どの子だって叱られたし、善いことをしたら、力一杯褒めてくれた。

どの子が拾われた子で、どの子が両親の産んだ子なのか、あまり気にしたこともなかった。


そんな賑やかな家族だったのに。

山菜採りに行っていたおいらだけ助かった。


戦を憎んだ。

戦をしていた兵士を憎んだ。

戦を起こす大名を憎んだ。


憎い兵士が死にかけていても、助けるより、その身を剥ぐほうが、おいらにとっては重要なことだった。


お前らが悪い。お前らのせいだ。

助けを求める手を振り払ったとき。

まだ息のある体から物を奪うとき。

おいらの心の中はその言葉でいっぱいになっていた。

兵は生きるために戦うのなら、おいらは生きるためにこいつらから奪ってやる。

そう思った。


けど、おいらはまだ幼く力もなくて、そのうちにとっつかまって牢屋に入れられた。

自業自得だと思った。

このまま死ねばいいと思った。

ひとり生きていくことに疲れていた。


地下水の染み出す冷たい洞窟の牢屋。

そんなところであの姫と出会った。


荒み切ったおいらの目に、姫は輝いて見えた。

こんなに美しいものを初めて見たと思った。


身に着けたものはすべてとても質素だった。

けれど、よく洗いさらされ使い込まれて、何度も何度も丁寧に繕った着物は、清潔で柔らかくて着心地もよさそうだった。

ところどころわざとなのか、鮮やかな色を使って繕ってあって、それがまた都の洒落もののようだと思った。


丁寧な針目のひとつひとつに、贅沢はせずとも丁寧な暮らしぶりが透けて見えた。

穏やかで優しい人柄を偲ばれた。

頬は日焼けして指先は少し荒れていたけれど、それはまたよく働く証拠だった。

おいらはずいぶん前に別れた母親の手を思い出した。

長い睫毛はかすかに震えて濃い影を落とし、僅かに開いた唇は紅を刷いたように赤い。

こんなに綺麗なひとは見たことがなかった。

都の姫というものは、自らの足で歩くこともなく、箸より重いものを持ったこともないと聞く。

目の前のこの人は、固い足の裏と荒れた手をして、地面を踏みしめ、土や水を触って生きているのは間違いない。

およそ話しに聞いた都の姫とは違うのに、おいらにはその人を呼ぶのに、姫、という他に相応しい呼び名を思いつかなかった。


姫はうわ言のように、寒い寒いと繰り返していた。

けれど、そのからだは燃えるように熱かった。

湿った冷たい牢屋で少しでも温かみのあるのは自分のからだだけだった。

薬なんかない。

乾いた清潔な布もない。

おいらは、せめてぬくもりを分けるように、姫のからだを抱きしめた。

それ以外にできることはなかった。


熱のある姫はとても温かかった。

姫を温かいと感じることにおいらは罪悪感を感じつつ、気がつくと、姫を温めるより自分が温まることに夢中になっていた。

姫は細く頼りなく柔らかかった。

その息は熱くて、いい香りがした。

姫の息を胸一杯吸い込んで、おいらはどきりとした。

死体の身ぐるみを剥ぐより、悪いことをしてしまった気分だった。


姫のうわ言には、キョウさんという名が何度も現れた。

姫がその名を呼ぶたびに、何故か胸のなかがちくりとした。

こんなに苦しんでいる姫に名を呼ばれるキョウさんとは、いったいどんなやつなんだろうと思った。


目を覚ました姫は、おいらに、有難うと言った。

礼を言われるほどのこととは思えなかった。

ぬくもりをもらって安心したのはおいらのほうだった。

けれど、そう言われて妙に嬉しかった。

からだのなかにむくむくと力が沸くようだった。


姫はおいらをガキだと思ったようだった。

確かに、カラは小さいほうだったかもしれない。

しかし、姫が思ったほど、小さいガキだったわけじゃない。

けど、姫にガキ扱いされるのは妙に居心地よくて、だから、おいらはわざとガキのふりをした。


姫には戦う術も、力もなかった。

けれど、その目は凛として気高かった。

力で捻じ伏せようとする相手には、少しも怯まなかった。

妙なとこ正直で打算も裏切りも微塵もない。

そして、おいらのような賊を何のためらいもなく庇う人だった。


この修羅の世の中に場違いな仏だと思った。

いや、こんな修羅の世だからこそ、こんな仏が現れたのかもしれない。

主やおいらのような、修羅に堕ちた者を救うために。


とにかく姫は輝くように美しく、その上、天女のように優しく気高い人だった。


この姫だけは、汚してはならないと思った。

この姫にだけは悲しい思いをさせたくない。

もしも憂いがあるなら、すべて取り払いたい。

柄にもなく、そんなことを思った。


けれど、そんなことは所詮、夢のまた夢だった。

現実にはおいらに戦う力なんかなかった。

姫を助け出すなんて到底無理だった。

おいらは結局、姫を放り出して逃げただけだった。


姫を救い出したのは、鬼神だった。

鬼神は大きく速く強かった。

返り血に染まったその姿はあまりに禍々しかった。

これほどでなければ姫を守る資格はないのだと思った。

おいらごときでは到底敵わないと思い知った。


恐ろしさに立っていられないくらいだったのに、おいらはわざわざ鬼神の前に姿を現した。

どうしても、姫と鬼神に近づきたかった。

しかし、鬼神はおいらのことも殺そうとした。


あのとき、鬼神は本気だった。

刃は正確においらの急所を狙っていた。

姫に庇ってもらわなければ、おいらは確実にあの場で死んでいた。


主は波の荒い海中で、人より泳ぎに長けた魚を、一撃で仕留める腕を持っている。

何でそんなに上手いのかと問えば、リンは刺身が好物だから、と答える。

刺身にするためには、なるべく魚を傷つけずに捕まえたいのだ、と。

水の中でもなく、魚ほど素早いわけでもなく、うかつなおいらを一突きするのくらい、造作もなかった。


頭領家の若様は、幼いころから一通り武芸も仕込まれていて、主は刀も槍も、大名に仕える武将たちより見事に使いこなす。

それは見てくれのよさを競うお坊ちゃまの芸ではなく、命をやりとりする実戦の技だ。


しかし、あのときは、怒りに我を忘れていたと、主も後になって言っていた。

冷静で冷酷なのがウリな鬼も、守護を奪われて、冷静さを失うほどに頭に血が上っていたのだ。


いつもの主なら、姫のわずかな動きも察知して、刀を投げる手を止めていたはずだ。

そのくらいは余裕でやってのける人なのだ。

そうでなければ、あの予測不能なお姫様の無事を、長年ずっと護り続けるのなど、不可能だろう。

あの姫が怪我もせずにすくすくと育ったのは、ずっと主が隣にいて護っていたからに違いない。

いや、それでも小さな怪我は日常茶飯事で、だから主は、あんなに怪我の手当てに長けているんだけど。


だいたい、姫ときたら、人の好いのにもほどがあるというものだ。

いつも自分のことは後回し、できるかどうかより、やるかどうかが基本な人だから、怪我した鳥は拾ってくるし、高いところから降りられなくなった猫は必ず助けに行くし、行き倒れの狼にだって餌をやるに違いない。

それは姫の魅力だとは認めるけれど、傍にいて護るほうはたまったものじゃない。

せめて、木に上るときには、代わりに上ってくれと言ってほしい。


しまった、話が逸れた。

話しを戻す。


万に一つも姫を傷つけることなどあり得ないはずの主が、万に一つの事態を招いてしまったのは、流石の主も、そうならざるを得ないような事情を抱えていたからだった。


あの朝、戦場に向かう途中、姫の異変を察知した主はすぐさま引き返した。

姫が攫われたことを察知した主は、姫を奪還するべく、雇い主の大名に願い出た。

その日は最終決戦の予定だったけれど、一日、延期してほしいと。

しかし、大名はそれを渋った。

あまつさえ、大名はその日のお役目を中断して戻ってきた主を責めた。任を果たせ、と。

いや、そこまでだったら、主もあれほどに頭に血を上らせることもなかったかもしれない。

真面目で責任感の強い主は、任務を中断したことに少なからず責任を感じていたはずなのだ。

それでも、その任務よりも優先すべき事態だったのだと、大名は分かっていなかった。

護法にとって守護という存在がいかに重要かを、大名は知らなかった。

そして言った。

飯炊き女のひとりくらい、いくらでも、代わりを差し出しましょう、と。


それは、護法には絶対に言ってはならない一言だった。

主は即座に大名を見限った。そして、単身、敵の陣の奥深くにある人質の牢へと乗り込んだ。


本来なら到底不可能だと思うような奪還だった。

しかし、勝算など、考えるどころか思いつきもしなかったそうだ。

守護を護る。それは護法にとってはどんなお役目より、自分の命より至上の任務なのだ。


「ただ、リンに会うまでは死にたくなかったから、なるべくこっそり忍び込んだ。

リンを見つけたら、無事に脱出させなければと思ったから、やはり、危険はなるべく回避した。

そしたら、奪還は案外すんなりうまくいった。」


そもそも、鬼としての強さがあったから、単身乗り込んでもなんとかなったのだろう。

それに、主は護法にしては珍しく、やたらと力任せに暴れる性質の鬼ではなかった。

追い詰められれば追い詰められるほど冷静になり、客観的に捉えた事実に、恐ろしいほどに冷酷に対処する。

その冷酷さはときとして、人としての感情を備えた者には、およそ理解の範疇を超えたものになるけれども。

それもまた、主の護法としての能力なのかもしれない。


そんな鬼の前に、おいらはうかうかと馬鹿面を晒したのだ。

それはもう、襲ってくれと言っているようなものだ。

それでも、ほんの僅かな刹那に主は投げた刀の軌道を逸らせたのだろう。

だから、姫は致命傷は免れていた。


姫を傷つけてしまった鬼神の慟哭は凄まじかった。

おいらは、このまま狂い死にするだろうと思った。

喉から噴き出す咆哮は人のものではなかった。


そんな鬼神を、姫は呼び戻した。

その姿はこの世界の何より気高く美しかった。

ああ、そうか、と思った。

姫は鬼神にとってかけがえのないものなのだ。

姫を失えば鬼神は、心も命も魂も、すべて共に失うのだ。

おいらの割り込む隙なんかあるはずもなかった。


おいらはすっかりこの二人に魅せられていた。

たとえ殺されても、二人の傍にいたいと思った。

鬼神はおいらに立ち去るように命じた。

その足においらは縋った。

本当に、足にしがみついて懇願した。


正気を取り戻した主は、おいらを殺さなかった。

いや、姫の怪我を治すことに集中していて、おいらのことなんか目に入っていなかった。

その隙においらは乗じた。隙に付けこむのは得意技だ。

おいらは必死になって主に気に入られようとした。

なんとか役に立つところを見せようと思った。


自分の生い立ちを、あのときほど感謝したことはない。

まだ家族と平穏に暮らしていた頃、幼い弟妹たちのために、おいらはよく薬草を摘みに行った。

その知識は姫のための薬草を探すのに役に立った。

主の必要とする薬草をおいらは山から見つけてきた。

主はそれを材料に姫のための薬を作った。

時には猛毒となるようなものもあったけれど、緻密な主の腕を以てすれば、毒草も効果絶大な秘薬になった。


ひとりで生きてきたことも役に立った。

山のなかには食べられるものがたくさんある。

罠を仕掛ければ、獣も捕れる。

主は大抵のことは何でもこなすけれど、料理はあまりうまくなかった。

姫のために粥を炊こうとして、黒こげにしたりべちゃべちゃにしたり、そのたびに悲しそうにため息をついていた。

薬はあんなに上手く作るのにおかしなものだ。


おいらはここぞとばかりに、腕を振るった。

両親は畑仕事に忙しくて、弟妹の食事の世話をずっとしていたから、料理にはちょっと自信があった。


ずっと仏頂面しか見せなかった主が、おいらの炊いた飯を食べたとき、ふっと表情を和ませたのが忘れられない。

これはもらった、と思った。


あの強くて恐ろしい鬼神が、普段は穏やかで物静かなのには心底驚いた。

鬼神はからだも大きくて頭も切れる。

けど、中身は人見知りのチビみたいだった。


主は少しずつおいらに心を開いてくれた。

いろんな話をしてくれるようになった。

話してみると、案外いいやつだった。

いや、いいやつどころか、こんなに純粋で、情の深い人間が、この世に本当にいたのかと驚いた。

一緒にいればいるほどおいらはその人柄に憧れて、気づけば、主、と親し気に呼ぶようになっていた。


あれこれと手伝いの真似事をしていたのは、少しでも役に立つところを見せて、傍にいる許しをもらうためだった。

けど、ずっとここにいて役目を手伝うのなら、正式に雇う、と主は言い出した。

おいらには願ったりだ。というか、こんな幸運なことがあってもいいのだろうかと思った。

自分の一生分の幸運を使い果たしたんじゃないかと心配だ。


主は最初、そう呼ばれるのを嫌がった。

キョウと呼べと何度も言われた。

けれど、気にせず呼び続けたら、そのうち諦めて何も言わなくなった


おいらは、主という呼び名が好きだ。

アニキというほど馴れ馴れしくもなく、殿というほど他所他所しくもない。

様付けにするとそれだけはやめろと睨まれた。

そう呼ばれていたころに碌な思い出がないからだそうだ。

おいらも、キョウさま、よりは、主、のほうがあの人には相応しいと思ったから、そこは言うことを聞いておいた。


姫のことを主はリンと呼ぶ。

姫はおいらにもそう呼んでいいと言ってくれたけど、おいらには到底そうは呼べなかった。

名を呼ぶなんてそんな恐れ多い。

真名とかそういうことは関係なく。

出会ったときには、お姉ちゃんと呼んでいたけれど、うっかり同じ年だとばらしてしまって、それ以降はそう呼べなくなった。

仕方ないから、姫と呼ぶことにした。

因みに、心の中では、出会ったときから、姫と呼んでいた。

姫もそう呼ばれると気まずそうにしていたけれど、押し通した。



***



主の故郷の貴島は、水も乏しく土も痩せた小さな島だ。

周囲の海は荒く、漁をするにも一苦労で、食糧の自給など到底不可能だった。

だから、護法と呼ばれるものたちの稼いだ金子で、米や生活に必要なものを贖って、人々はなんとか暮らしていた。


貴島の人々の暮らしは過酷だ。

護法の稼ぎでなんとか支えているけれど、護法には子孫は生まれない。

護法を作らなければ島の暮らしは立ち行かない。

けれど、護法を作れば作るほど、島の人口は減っていく。

それでも、島が滅ばないのは、実は、ときどき島の外から娘やこどもを、連れてくるからだった。


額に角こそないものの、貴島の民は男も女も、総じて大きなからだに力も強い。

細かいことに拘らない、よく言えば大らかな、悪く言えば大雑把な気質は、余所者の目には、粗雑で乱暴に映るようだ。


貴島の民は本来、情に厚く、お節介なほどに他人に関わる性質らしい。

幼い頃、主を虐める悪ガキどもを、世話係の婆は箒をもって追いかけまわしていた、と主はおかしそうに話していた。


「僕の本質は卑怯で狡い鬼だ。

 島のやつらは、単純で操りやすい。

 コツさえ掴めば、思いのままだった。」


主は自分のことをそう話した。


操ると言っても、みなの頭目の地位に躍り出たわけじゃない。

むしろその逆だった。

目立たず、誰にも気にも留められず。

主の目指したのはそんな位置だった。

抜きん出ることもなく。けれど、侮られることもなく。

案外、そういう場所を維持するほうが、難しいんじゃないかとおいらは思うけど。


そう嘯く主は、少しばかり鬼の目をしていた。

やはりこのひとも、心の中に鬼を飼っている。

そして、それを良しとするかどうかはともかくとして、その鬼をいつの間にか飼い慣らしていた。


けれどその鬼も、姫の前ではすっかり形を顰めるのだ。


「リンは僕を優しいと誤解しているんだ。

 けど僕は、その誤解を解きたくない。

 むしろもっと誤解させておきたくて、必死になって、取り繕っている。」


そんなことを言って苦笑いをする主は、いや、姫にだけは本当に心から優しいのだと思う。


主が姫に惹かれた理由が、おいらには分かる。

姫は主がずっと憧れ続け、ほしくてたまらなかった宝、そのものだ。

そして多分、おいら自身もまた、姫のような宝をずっとほしいと願っている。


奇禍に遭い、みなしごになった姫を託されたとき、主は姫を気遣いつつも、その運命をどこか喜んでしまっていたと、ひどく辛そうに語っていた。

真面目な主は、そんな自分をひどく恥じて、罪悪感を感じているらしい。

自分は鬼だと思い込んでいるのは、きっとそんなところに理由があるのだろう。

もしかしたら、母上を攫った父上に自分を重ねているのかもしれない。

けど、主は父上とは違う。

姫を騙したり、自分の思い通りにするために嘘をついたりしたわけじゃない。

主のしたことは、むしろ人助けだ。


おいらだって、同じことが起これば喜んでしまうかもしれない。いや、きっと、喜ぶに違いない。

ほしくてほしくて堪らなくて、けど、手を出すべきじゃないと、いったんは手放した宝物。

それが思いもよらない道筋で、手の中に転がり込んできたとしたら。


姫の身の上に起きたことは、本当に気の毒だ。

けど、それは主のせいじゃない。むしろ主は姫の恩人と言ってもいい。

主もそんなふうに思えたら、きっと、今よりもっと幸せになれるだろうに。

けれど、そんなふうに思わないことこそ、主の主たる所以なのかもしれない。


姫には療養していると嘘を吐いたけれど、母上は致命傷を負っていた。

姫の身に迫る危険を案じた主は、一度姫を安全な場所に保護してから、再びあの家に舞い戻った。

案の定、主のいない間に、やつらは引き返してきたようだった。

家のなかはさっきよりもひどく荒らされていて、母上の亡骸も、なくなっていた。

それは何かを必死に探した跡のようだった。

いったいどんなやつらがどんな事情で姫を追っているのかは分からない。

けれど、姫の母上にあんなことをしたやつらに、正義などあるとは思えなかった。

荒らされた家の中を調べてみても、母子二人の慎ましい暮らしのほかに分かることはなかった。

けれど、姫の身の危険がなくなったわけではない。

戻ってきたやつら、は、姫を見つけられずに、今も姫を探しているに違いなかった。

何を置いても姫を護らなければならないと、主は考えた。

主は姫を島へ連れて行くことにした。

主と姫とは今日偶然出会ったばかりだった。

敵もよもや姫が鬼の島に保護されているとは思わないだろう。

もしも万に一つ、姫の居所を知られたとしても、貴島でなら、姫を護りやすい。

そして、そのために、主は自ら護法になることを選んだ。


島の生まれの子どもは十頭領家の血筋でなければ、護法の試練を受けても、大抵は水に馴染まないらしい。

護法になることは、まず、滅多にないそうだ。


不思議なことに、よそから来た子どもは、護法になることが多いのだそうだ。

何故なのかは誰にも分からないと言う。

けれど、それゆえに、よそから子を攫い、その子に水を飲ませることは、闇闇のうちに歓迎されることにもなってしまっていた。


よそから子どもを攫ってきては、鬼になる水を飲ませ、その鬼が戦場で稼いだ金子で、島の人々は生きている。

そういう言い方をするのもちょっとどうかと思うけど、主は島の人々のしていることを、そんなふうに言う。


確かに、よそから攫った子どもらが護法になってくれなければ、島の暮らしは成り立たない。

島の子はほとんど護法にはなれないのだから。

子を攫い、鬼に仕立てる。

ひどく悪い見方をすれば、貴島の人々のしていることは、それに近い。


しかし、連れてこられる子どもらは、みな、戦や何やで二親を失くし、身よりのない子が多かった。

飢えてのたれ死にをしたり、おいらみたいに小悪党の真似事をして生きていくのと、島に来て、可愛がられ世話をされて育ててもらうのとでは、どっちが不幸かは分からないと思う。


貴島の島人は、たとえ拾った子でも、我が子になった瞬間から、とても可愛がるのだそうだ。

子は宝だと言って、我が子と分け隔てなく大切に育てる。


護法になる確率も、高いと言っても、半々、くらいだ。

水に馴染まなければ、他の島の子どもと同様に、島の誰かと縁づいて、島の人間になり切って生きていける。

だから一概に、連れてこられた子どもは不幸だとも言えないと思う。


たとえもし、護法になってしまったとしても。

そのとき選ばれた守護が十五になるまでは、とりたてて修行もなにも必要ないし、労役も免除され、のんびり好きに生きていける。


護法として働くのは辛いかもしれないけれど、それ以前に与えられた猶予期間に多少は覚悟もできるだろう。

それに、護法として得た報酬は、半分は島に渡し、残りの半分は本人の好きにしていい。


戦場から直接花街へ行き、お大尽のように金を使って遊び尽くし、金がなくなればまた戦場に行く。

そんなふうな生き方をする護法は多い。というか、ほとんどの護法は、そんな感じだそうだ。


主のような護法は、だから、ものすごく希少な部類だと言える。

もっとも、主にとっては、姫の傍にいることが、他の何よりも幸せなのだから、まああれは、当然と言えば、当然なのか…


本来なら引き取られた子どもである姫は、護法の試練を受けさせられる側だった。

けれど、主は、どうしても姫に護法の水を飲ませたくなかった。

そして、そうするために、主は、姫を自分の守護にすることにした。

誰かの守護に決まっている者は、護法の試練を受けることはないからだ。


「リンには、ただ健やかに成長し、幸せになってほしいと思った。

 優しいリンが、その優しさに相応しい温かな場所に、安心していられるようにしたかった。

 僕の命はあのときリンに拾われたようなものだ。

 だから、この僕のすべてをリンのために使おうと思った。

 僕の世界に色なんて元々ない。

 この先も、リンさえまともに見えるなら、それで十分だ。」


主は、頭領家の正統な血を引く惣領だ。水を飲めば護法になるのは、ほぼ確実だった。

それを分かっていて、いやむしろ、そうと分かっていたからこそ、主は姫を確実に守護にするために自ら護法になった。


「生きていたいと思うのも、リンがこの世界にいるからだ。

 リンを不幸にするくらいなら、僕の生きている意味なんかない。

 リンの幸福は、何を差し置いても優先させるべきものだ。」


真顔で主はそう断言する。

正式な護法と守護の関係になる前から、主にとっての姫は、護法にとっての守護以上に、大切な存在だったのだろう。


余所から連れてきた子どもは護法になることはあっても、守護になるなど、前代未聞のことだった。

ましてや、十頭領家の惣領の守護だ。

不遇の先妻の息子だとしても、由緒正しい血筋の護法に、訳の分からない、余所者の、守護が就くことなど、認められないと反対する者は多かった。


そのひとりひとりを、主は、あるいは説得し、あるいは懐柔した。

ときには弱みを握り、脅すような真似もした。

主は、姫には絶対にそんな顔は見せないけれど、姫以外の相手には、ときどき、ひどく冷酷で残忍な表情をする。

鬼の島の由緒正しい血を、濃く引いているのだ。


ぼんくらだとばかり思われていた主の変貌ぶりには、島の人々も多少は面食らったらしい。

しかし、その容赦のなさに、これこそは鬼に相応しい、と言い出す者も現れたそうだ。


「策を弄し、奸計で人を操る。

 僕の本質はそんな鬼だ。

 そんな自分を以前は嫌いだった。

 けれど、それもリンのためだと思えば、まったくなんの躊躇いもなく、僕は鬼になれた。」


主はありとあらゆる策を弄して、自分の守護に姫を据えた。

幼いころ、蔑まれ虐げられた場所から這い上がったように、一つずつ問題を潰し、一つずつ段階を踏んで、主は姫の立場を強く固めていった。


護法となった主は姿も大きく変わってしまった。

それ以前は都の人々とそう変わらないくらいに、細く華奢な姿だった。

けれど水に馴染んだそのからだは、島の他の者と同じような、分厚い筋肉と大きな骨格を持つ姿へと変貌した。


変わり果てた姿の自分を姫は恐れるかもしれない。

主はそう危惧していた。

どんな試練も乗り越えてみせるけれど、姫の拒絶だけは乗り越えられない。

主は、姫の前に出ることを躊躇った。

しかし、姫の愛らしさは、瞬く間に島中に知れ渡った。

今のうちにうちの息子の許婚者にしておこう、と冗談なのか本気なのか分からないことを言い出す者も現れた。

いやいや、あれほどのかわいらしさなら、いっそ護法になれば、さぞかし使えるのではないか、と噂する老人もあった。

そのどちらも、主にとっては、到底、容認するわけにはいかないことだった。

よからぬ輩が姫に手出しをせぬうちに。

主は誰のどんな思惑からも姫を守らなければならないと思った。


姫の前に姿を現すのは怖かったけれど、いつまでもそこから逃げているわけにもいかない。

意を決して姫と再会した主は、あっさりと姫に受け容れられて、心から安堵した。


「リンは僕を怖くないと言った。

 僕はリンを見くびっていた。

 たとえ異様な見た目をしていても、リンはそれで誰かを恐れたりはしない。

 幼くても、リンの目はいつも相手の本質を見る。

 リンを信じていなかったのは僕だった。


 リンは僕の声を優しいと言った。

 それどころか、僕の手を取って笑いかけた。

 リンだけが、僕にとって価値のあるものだ。


 リンを幸せにするために、この僕の存在が役に立つ。

 僕は、やっと、僕を、いらなくないと思えた。」


嬉しそうにそう語る主は、自分のために姫をどうこうしようなんて考えていない。

ただ、姫のために。そのためだけに力を尽くせることを、自分の喜びに感じている。

案外主は、本当の幸せを持っているのじゃないかと、思うときもある。


しかし、姫は、キョウさん、と、竹林で出会ったお兄ちゃん、とを同一人物だとは分からなかった。

それほどまでに、この短期間に主の姿は変貌してしまっていた。

けれど、主はあえてそれを、姫に明かしはしなかった。

分からなくてもいっこうに構わなかった。

そんなことはもはや主にとっては、大して重要なことではなくなっていた。


あの出会いは主の人生を一変させた。

けれど、それは自分の事情で、姫には関係ない、と主は言う。

むしろ、その直後に起こったことは、姫にとってはこの上なく悲しいことだった。

老夫婦の尽力で、姫の辛い記憶は少しずつ書き換えられていた。

母上の怪我を隠すことはできなかったけれど、いつか迎えに来てくれると期待して、穏やかに待つ気持ちになっていった。

それに再び辛いことを思い出させることはないと、主は考えた。


姫は主に幸福を与えてくれた。

けれど、それはまた、姫の不幸の上に成り立ったものでもあった。

そのことを主はずっと負い目に感じていた。

だから、見返りを期待することなく姫に尽くすことは、当然と思っていた。


それを抜きにしても、主は生来、優しい性質なのだと思う。

ずっと一緒にいたおいらには、それはよく分かる。

ぶっきらぼうだけれど、ああ見えて、味方にはなかなか人望もある。

主は自分で思っている以上に、いいやつなんだ。


その主の優しさは、姫に対するときには、さらにもっと増大する。

ときには、姫本人にさえ呆れられるほどの、姫バカになる。

いや、姫以外はみんな、ときどきじゃなくて、四六時中呆れているけれど。


そんなに好きなら、もう仕方ないよな。

主を見た人々は概ねみなそう思う。

けど、多少なりと事情を知った者なら、そんな主のことを、哀れだとも思う。


どれほど大切にしても守護に恋をしてはならない。

それは護法に厳しく戒められた禁忌だから。


その昔、まだそれほど掟に縛られなかったころ、ある護法は、守護への思慕のあまりに、毛筋ひとつ残さずにその身を喰らい尽くした。

別の護法は、守護との間に子をなし、子を慈しむ守護の姿に、守護の心を子に奪われたと激怒して、自らの子を打ち殺した。

それ以来、護法の恋は厳しく戒められることになった。


主はこの話は姫にはしていないらしい。

そんな話をして姫を怖がらせたくないのだ、と。

自分さえちゃんとしっかりしていればいいのだからと、主は言う。

こんな話をして、万に一つも姫に怖がられるようなことになったら、それこそ主は生きていることさえ放棄しかねない。

もっとも、おいらは姫はこの話を聞いても、主のことを怖がったりはしないと思うけど。


護法とは自らの命を削って鬼の力を得る者。

けれど、その鬼の力は、ときとして、味方にさえ恐れられてしまう。

望んで鬼になる者などいない。

過ぎた力のもたらすものは、恨みや憎しみ、妬みや蔑み、そして悲しみと苦しみ。

どれひとつとっても人を幸せにするものじゃない。

この世界から色を失い、光と影しか見えない世界に行って、そうして得られるものに幸せはひとつもない。

大抵の護法は島の掟に縛られて、そうしなければ家族が暮らしていけないから、若しくは育ててもらった恩を感じるから、やむをえず、水を飲むのだ。

それでも主はあえて護法になる道を選んだ。

力と引き換えに、永遠に姫を手に入れられない運命を選んだ。


主の境遇は一見、不幸そうに見えるけれど、必要とあれば、それを変えることくらい、主にとっては、わけないことだっただろう。

それでも、あえてそうしなかったのは、そもそも、主が、この世界に執着などまったくしていなかったからだ。

この世界の居心地など、どうでもよかった。

留まることにも去ることにも、こだわりすらなかった。


その主が、初めて、この世界に執着した。

後にも先にも、その一度きり。たったひとりに対しての執着だった。

その執着さえも、主は自己完結して、自分一人の中に納めてしまうのだ。

それもこれも、全ては、姫のために。

それほどに、主は、姫を、大切に、大切に、思っている。


「ずっと、僕は、僕を、いらないと思っていた。

 この世界はひどく簡単で、つまらない。

 恐怖の混じる称賛の瞳も。

 侮蔑の滲む恭順の声も。

 力や策略を使って手に入れたものは、どれもひどく虚しい。

 けど、リンの安全のためになら、力も策略も、有難い道具だった。

 恐怖も侮蔑もむしろ誇らしい。

 僕は僕にそんな力があったことを、生まれて初めて感謝した。」


その気持ちはちょっと分かる、かもしれない。

おいらも、主に取り入ろうとしたときに、主に必要とされる能力を持っていたことを、有難く感じたものだ。


人は、自らの価値を認めたものに対しては、ひどく貪欲に、そして無欲になれる。

主を見ていて、おいらはそのことを知った。







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