序章 ~別離
その後は、あちこちをリンの案内で歩き回った。
リンは食べられる木の実をよく知っていて、ふたりでとって食べるのも楽しかった。
秋の一日は短くて、あっという間に夕方になっていた。
からすの声を聞いて、リンは、もう帰らなくちゃ、と言った。
「そうだね。暗くなるとお母さんが心配するよね。」
そう言いながらも、どこか名残惜しそうに少年はリンを見た。
「…もう少し、君と遊びたかったな…」
気が付くと、思わずそう本音を漏らしていた。
ずっと、自分の気持ちなど押し殺すことに慣れていたはずだった。
何かを望んだことなどなかった。
ただ、与えられるものを享受して、与えられないものは最初からないものだと諦めた。
それなのに、今、少年は、もう少しリンといたいと望んでしまっていた。
「また明日、遊べばいいよ。」
あっさり言われて、少年は目を丸くした。
「また明日?」
そんなものがあるとは想像だにしなかった。
「明日は遊べない?」
尋ねるリンに、大急ぎで首を振った。
「そんなことはないよ!」
「じゃあ、また明日。」
差し出された小指を、少年は不思議そうに見返した。
「それは、なに?」
「ゆびきり。知らないの?」
「…どうすればいいの?」
リンに教わって小指をからめる。
リンの小指は小さくて、少年は力を入れ過ぎないように気をつけながら、そっと揺らした。
リンは指切りの歌を歌う。
ゆびきった、で指を離されて、少年はとたんに、不安そうな顔になった。
「これで、約束できたんだよ。約束破ったら、ハリセンボンなんだからね?」
少年のほうがずっと年上のはずなのに、リンはすっかりお姉さんぶってそう教えた。
今日一日で、ふたりはすっかりそういう関係に収まっていた。
けれど、リンはもちろん、少年にもそれに異議を唱えるつもりはなかった。
少年は離された小指をまじまじと見つめた。
「約束?」
「そうだよ。約束。」
「約束したら、明日もまた、会える?」
「うん。」
リンがうなずくと、少年はいきなり笑い出した。
「ふふ。ふふふふふ。」
「…どうしたの?」
怪訝な目を向けるリンに、少年は嬉しそうに首を振った。
「ううん。いいね、ゆびきり。うん。そっか、約束か。」
ふわり、ふわ、ふわ。
辺りに一気に花が溢れた。
けれど、今日一日で、こんなことは何度もあったから、もうリンも驚かなかった。
「あ、また、花だ!」
リンはせっせと花を拾い集めて言った。
「このお花、ずっと消えなければいいのに。」
「うーん、今まではずっと、こんなもの早く消えろって念じてたからなあ。
リンが消えないほうがいいなら、そうできないかやってみるかなあ。」
少年はやたらと嬉しそうにしながら、何度も何度も小指を眺めていた。
それから、リンを見て言った。
「もう遅いから、お家に送っていくよ。」
「いいよ、いつもひとりで帰ってるから。」
リンにあっさり断られて、少年は憮然とした。
「暗くなったら、怖い鬼が出るよ?」
わざと脅すように顔を作って見せる。
「…鬼?」
怯えた顔をするリンに、少年は慌てて両手を振った。
「いや、大丈夫。鬼もリンには悪いことはしないよ。うん、リンなら大丈夫。」
しかし、そう言うと、またあっさりと振られてしまった。
「じゃあ、怖くない。ひとりで帰る。」
「いや…あの…ねえ、リン?」
少年はしばらく考えてから続きを言った。
「僕、ひとりで帰る自信がないんだ。だから、一緒に帰ってくれると嬉しいんだけど…」
「なあんだ、それなら、いいよ。」
あっさり頷いたリンに、少年はこっそりばれないようにため息をついた。
***
少年の差し出した手をリンは素直に握った。
手の中に握り込んでしまえるくらい小さな手のぬくもりに、少年はまた嬉しくなっていた。
小さな足がちゃんとついてこられるように気をつけながら、少年はゆっくり歩いた。
都に入り、市場の辺りを通りかかると、辺りは人でごった返していた。
こんな刻限にこんな場所を通ったことなどないリンは、ただ目を丸くして呆気にとられるばかりだった。
辺りを行き交う人々は、みんな何かに急いでいて、きょろきょろしている幼い子どもに気づかない。
何度も突き飛ばされそうになるリンを少年は庇いながら歩いていたけれど、とうとう堪り兼ねたように小さなからだを抱き上げた。
「どうしたの?お兄ちゃん。何か怒っているの?」
リンに心配そうに言われて、少年は一瞬絶句した。
「あ。いや、リンに怒ってるわけじゃないよ。
それより、大丈夫?人が多くて歩きにくいよね。」
「遅くなってごめんね、お兄ちゃん。
お兄ちゃんのお家はどっちなのかな?
まだ帰り道は分からない?」
リンは自分のことよりも少年のほうを心配している。
そのことに気づいて、少年は一瞬目を丸くした。
それから、優しい優しい目をして、リンのことをちょっと見上げるように軽く微笑んだ。
「ああ…っと…もうちょっと行けば…分かる…かな…?
それより、リンのお家は?市場の近くって言ったよね?」
「もうすぐそこだよ。
だから先にお兄ちゃんのお家を探そう。」
大真面目に心配しているリンに、少年は少し困ったように返した。
「いや!僕の家はいいよ。それより、リンのお家に行こう。
遅くなってごめんなさいって、僕もリンのお母さんに謝りたいから。」
「遅くなったのはリンが悪いし、お母さんは悪いと思ったら、自分で謝りなさいって言うよ。
でも、ごめんなさいって言ったら、ちゃんと許してくれるよ。」
「なら、僕もちゃんと謝るよ。
それに、明日も…明後日も、その先もずっと、リンとは友だちになりたいから、ちゃんと、ご挨拶しないとね。」
「ふうん…そっか。」
すんなり納得されて、少年は少しほっとした顔をした。
抱き上げたまますたすたと歩きだす少年に、リンは少し不満そうに言った。
「お兄ちゃん、もう下ろしてよ。」
「あ。…ここだと危ないから、もう少し人ごみを抜けたら下ろしてあげるよ。」
「えー、やだなあ、なんだか小さい子みたい…」
「もう少しだけ我慢して?
こんなところ、手を繋いでたって迷子になりそうだから。…その、僕が。」
「そっか。お兄ちゃんが迷子になったら大変だもんね。」
即座に納得したリンに少年は苦笑する。
リンは最初は不満そうだったけれど、すぐにいつもとは違う目線の高さにご機嫌になった。
いつもは見えない店の棚の上の物もよく見えて歓声を上げる。
「わあ、すごいすごい。
いろんなものが見えるよ。」
はしゃぐリンに、少年の視線も柔らかくなった。
「そんなに暴れたら危ないよ?落としちゃうかも。」
わざと少し揺すってみせると、リンはきゃあ、と歓声を上げた。
子どもの甲高い声に驚いて振り返った人たちも、仲のいい兄妹だなあという目をして微笑む。
自分の腕のなかですっかり安心しきっている小さな生き物の温もりに、少年は心が満たされていく。
この世界には、こんな幸せがあったのかと思う。
あのとき、この喉に刀を突き立てなくて、本当によかった。
リンと出会えてよかった、としみじみ思っていた。
***
リンの案内で市場の裏手に回った少年は、駆け出してきた複数の男たちに危うく突き飛ばされそうになった。
腕の中のリンを守りつつ、寸前でさっと体を翻す。
その身のこなしは、長年武芸の鍛錬を行ってきた者のそれだった。
振り向いて男たちの背中を見据えた目に、さっと冷たい殺気が走った。
その視線の鋭さに、リンにお姉さんぶられておろおろしていた少年の面影はなかった。
「お兄ちゃん?」
腕の中の幼い声に、少年はこちら側に引き戻された。
不穏なものを感じ取って不安そうに見上げるリンに、安心させるように微笑んで見せようとしたけれど、少年は、ふ、と、眉を顰めた。
「…!」
「さっきの人たち、リンのお家から出てきた。」
リンの言ったのと、少年が駆け出したのはほぼ同時だった。
***
入り口の引き戸は開け放してあった。
外には何の痕跡もなく、中からは何の物音もしない。
一見、風を通すために、戸を開け放してある、と思えなくもない。
けれど、そこに踏み込む前に、少年には中の惨状の予測がついていた。
ここへ、リンを連れて入ってよいものか…
踏み込むことを躊躇って、戸口の前で立ち止まってしまう。
するとリンは、一瞬のうちに、少年の腕から滑り下りると、先に家の中へと駆け込んでいた。
予想のつかなかったリンの行動に、少年には引き留める暇もなかった。
一瞬の後、弾かれたように、少年もリンの後を追っていた。
暮れ始めた家の中は、明かりもなくて、薄暗かった。
ひっそりとして、争った跡もなく、ものが壊れているようなこともなかった。
上がり框のところに、草履が一揃え、綺麗に揃えて置いてあった。
それを見て、リンは、母を呼びながら奥の部屋へと上ろうとした。
今度は僅かに少年のほうが早かった。
少年は脱いだ羽織をすっぽりとリンの頭へ被せると、羽織ごとリンを抱え上げた。
「ちょっと、なにするの、離して!」
力いっぱい暴れるリンにさんざん蹴られても、少年はリンを離しはしなかった。
「見るな。」
短く命じた声の低さに、リンはただならぬ気配を感じたのか、そのまま体を固くした。
「…お母さん?」
絞り出すような悲痛な声に、胸をえぐられながら、しっかりとリンを抱えて、少年は上がり框を上った。
「もし、如何なさいました。もし。」
リンを抱えたまま器用にしゃがみこむと、少年はそこに倒れている人影の肩をゆすった。
薄暗い部屋のなか、辺り一面の畳に、黒い染みがひろがっていく。
むせかえるような匂いが漂っていた。
「…う、う…り…り、ん…」
倒れていた女性は呻くようにそうつぶやいた。
今度は少年も引き留められなかった。
リンは被せられていた羽織をがばりと跳ね除けると、女性に縋りついた。
「お母さんっ!!」
少年は急いで羽織を女性の上に被せた。
けれど、肩から袈裟懸けに切り裂かれた傷と、そこから噴き出す大量の血を、リンはもう見てしまっていた。
「…お母…さん…?」
不安そうにリンの声が震える。
少年はたまらず目を逸らせた。
「お母さん!」
リンは母親に縋りついて体を揺すった。
母親は苦しそうにまたうめき声を上げた。
見かねて少年はリンの手を引き留めようとした。
そこで、苦し気な息遣いに交じって、母親が何か言おうとしているのに気づいた。
「…に…逃げて…リン…」
「逃げる?」
思わず聞き返したのは少年だった。
母親はうっすらと開いた眼を少年のほうへ向けた。
そしてそれがリンでないことを確認した途端に、その瞳に憎悪を滾らせた。
「っっっ!!!逃げなさいっ!!リンっ!!!」
どこにそんな力が残っていたのか、母親ははっきりとそう叫んだ。
「追手が。捕まったら殺される。リンっ!!」
「追手?殺される?」
聞き返そうとした少年の腕に、いきなりクナイが突き立っていた。
それは、市井で簡単には手に入らない変わった武器だった。
刺されたことよりもリンの母親がそんなものを持っていたということに少年は何より驚いた。
重傷を負っている母親に、もはや力はそれほどなかったのか、傷は浅かった。
けれど、傷の周囲はみるみるうちに紫色に変色していった。
「っ!っくっ…」
激痛を堪えて少年はクナイを引き抜いた。
「…っ、毒、か…これは、かなり、強い、な…」
少年は懐から守り刀を取り出すと、それで傷の周りをえぐり取った。
「ぅぅぅ、っくっ、っっ…」
必死に痛みを堪えると、滝のように汗が噴き出した。
羽織を引き裂いた布でぐるぐると傷を縛るけれど、その布もすぐに赤く染まっていく。
その横で、リンは必死に母親に取り縋っていた。
「お母さん!お兄ちゃんは悪い人じゃないよ。リンのお友だちだよ。」
「え?」
母親の瞳が不安げに揺れながらこっちを見た。
少年は応急処置を手早く済ませると、痛みを堪えて、母親に尋ねた。
「僕は、追手では、ありません。
事情を、教えて、ください。
お嬢さんは、僕が、きっと、護ります、から。」
けれど、さっきの攻撃に母親は残っていた力を使い尽くしてしまったようだった。
その目にはもう、少年の姿は映していなかった。
「…リン…逃げて…リン…お願い…どうか…どうか…リン…」
ふらふらと差し伸べる母親の手を、少年はぐいと掴んだ。
そこへリンの小さな手を握らせてやる。
「お母さんっ!!」
リンの手と声は分かったのか、母親は小さく微笑んでからゆっくりと目を閉じた。
「お母さんっっ!!!」
取り縋るリンの手を、横から少年の手がぎゅっと掴んだ。
「行くよ。」
そのまま有無を言わさず、抱え上げた。
「やだ!お母さんっ!!」
殴られても蹴られても、暴れるリンを抱きしめて、少年はその場を立ち去った。
***
少年がリンを連れて行ったのは、都でも一二を争うほどの、格式ある老舗の宿だった。
都暮らしのリンでさえ、その前を通ることを躊躇するほど、立派な店構えだ。
そこの暖簾を、少年は泥だらけのリンを抱えたまま、平然とくぐった。
「おかえりなさいませ。」
そこかしこから声がかかり、田んぼに風が吹いたように、一斉に皆がお辞儀をする。
その間を少年は軽く目礼だけして、平気な顔ですたすたと通り抜けると、リンを抱えたまま、宿の玄関を上った。
脱いだ草履はすかさず女中がどこかへしまう。
小汚い子どもを抱えていることを咎める者もいなかった。
勝手知ったふうに案内も請わずに、すたすたと奥に向かう少年に、静かに声をかける者があった。
「貴島の若君様。お怪我をなさっておいででしょうか?」
ああ、と少年はリンの母親に刺されたところを見た。
周囲をえぐった分、傷は深くなって、固く縛った布に血が染み出していた。
「お手当いたしましょう。」
「いや、構いません。このくらい、唾をつけておけば治ります。」
あっさり断る少年に、若いおかみは、優雅に頭を下げる。
「そちらのお嬢様は、こちらでお預かりして、お着換えなと、お世話致しましょうか。」
控え目にかけられた声に、少年はちらりと視線だけむけて言った。
「いいえ。必要ありません。どうぞ、おかまいなく。」
リンはすっかり怯え切って少年の肩に顔を伏せたまましがみついている。
さっきからずっと、かたかたと、小さくからだを震わせていた。
慰めるようにその背中に手を置いた少年は、思い直しておかみのほうを見た。
「…けど、そうだな…湯浴みをさせてやりたい。その仕度と…着替えを一式、お願いできますか?」
「かしこまりました。」
綺麗な着物を着た若いおかみは、丁寧に頭を下げると、指示をしに立ち去った。
おかみと入れ替わるようにして、しわがれた声が響いてきた。
「坊ちゃん、ずいぶん遅くおなりかと思えば、どこでそんな姫君をかどわかしておいでか。」
「ばっちゃん?ああ、ちょうどよかった。この子をお風呂に入れてやってくれないかな。」
少年は親し気な口調になってそう言った。
少年を見上げていたのは、年齢不詳の老婆だった。
腰が曲がっているせいか、背は少年のさらに半分くらいしかなくて、髪は真っ白、顔も手も、そこもかしこもしわくちゃだった。
どう見ても百歳は超えていそうに見えるけれど、その瞳に湛えた光は、少年の目よりまだ生き生きとして、活力に満ち溢れていた。
「ゆっくりお風呂に入れて、美味しいものお腹いっぱい食べさせて、あたたかい布団に寝かせてやってほしい。」
「坊ちゃん、そちらの姫は、あなたの嫁御にするには、少しばかり、若過ぎやしませんかな?」
婆の台詞に少年はけほっとむせた。
「違うよ。そんなんじゃない。この子は、リンは僕の大事な友だちだ。」
「大事なお友だちならば、手ずからおもてなしなさるのがよろしかろうて。」
「そうしたいのはやまやまなんだけどさ。
僕はこれから少し行かなくちゃならないとこがあるから。
けど、もうリンは疲れ果てているから、休ませてあげたいんだ。」
頼み込む少年の顔を婆はちらりと見て、それ以上は何も言わずに丁寧に頭を下げた。
「御意、承りました。」
それに少年はほっとした顔をする。
「ほれ、お嬢様、こちらへおいでなさい。」
差し出された婆の手をリンはじっと見てからふるふると首を振った。
そのまま少年の着物にしがみついて、肩に顔をうずめてしまう。
少年は苦笑して、優しくリンの背中を撫でて言った。
「大丈夫だよ。こんな妖怪婆みたいなばあさんだけど、悪い人じゃない。」
「妖怪婆とは聞き捨てならぬ。まあ、よかろうて。
ほれ、坊ちゃんはちぃとばかり御用を足しに行かれる。
その間、この婆とおりましょう。
大きなお風呂に入って、きれいなべべを着て、髪も結って差し上げましょうかの。
甘い蜜のかかった餅に、そうそう、舶来の珍しい菓子もあったかのう。」
ちらり、と腕の隙間から覗き見るリンに、知らん顔をして婆は続けた。
「そうじゃ、錦絵もありましたのう。昔々の絵物語じゃ。あれはどこぞの姫君の話じゃったか。」
「…ヒメギミのニシキエ?」
興味を惹かれたリンに、婆は、大きくうなずいた。
「左様。どこぞの姫君が鬼に攫われる話じゃった。恋人は姫を守ろうと、寝ずの番をしておったのじゃが…っと、この先は、後のお楽しみじゃ。」
「……」
リンは少年の着物から手を離すと、ゆっくりとその腕から下りた。
少年は苦笑してから、膝をつくと、リンと視線を合わせて言った。
「ちょっと戻ってお母さんの様子を見てくるよ。
お医師も呼ばないとだし。話しももう少し詳しく聞きたいし。
リンはちゃんと預かってますから大丈夫ですよ、って伝えておきたいしね。」
リンは不安そうな目をしながらも黙ってうなずいた。
少年はそんなリンの頭の上に、軽く手を置いて撫でてやった。
「大丈夫。何も心配いらない。ここには怖い人も来ない。
じっちゃんとばっちゃんと、お風呂に入って、美味しいもの食べて、今日はもうおやすみ。」
にこにこと笑う少年を、リンはじっと見てから、その袖をぎゅっと握った。
「怖い人、また来るって、お母さん、言ってた。お兄ちゃん、大丈夫?」
少年は少し目を丸くしてから、ぱっと明るく笑った。
「僕のこと心配してくれるの?大丈夫だよ。怖そうな人を見たらぴゅーって逃げてくるから。」
「なんの心配いりませんて。坊ちゃんはなりは小さいが、逃げ足だけは島一番だったからのう。」
横から婆も加勢する。
「島中の悪ガキどもに追いかけられても、逃げ回り隠れ回り、それはそれは見事な技でしたわい。」
「…それ、褒めてないよね?」
不満げに見上げた少年に、婆はにやりと笑って返した。
「なんの、わしが坊ちゃんをおとしめることなどありましょうや。この乳を与えてお育てしましたものを。」
「ばっちゃんは僕の生まれたときからもうばっちゃんだったじゃないか。乳なんか出るわけないだろう?」
「飲むほうは貰い乳をしましたがの。坊ちゃんはこのしわくちゃの」
「わーわーわーわーわーわーわー」
突然叫び出した少年に、リンは目を丸くする。
少年は婆の言うことをかき消すように大きな声で叫びながら、両手でリンの耳を塞いだ。
「ちょっ!ばっちゃん!リンになんてこと、聞かせるんだ!!」
「なんの、本当のことじゃ。」
「いいから!余計なこと言わなくていいから!!」
真っ赤になって取り乱す少年をリンは呆気にとられて見ていたけれど、そのうち、ふふっ、と笑い出した。
リンの笑い声に、少年は、はっと我に返ってじっと見る。
婆はしたり顔で、ほっほっほ、と笑った。
「リンどの、とおっしゃるのかの?今宵はおなご同士、坊ちゃんのあんなことやこんなこと、教えて進ぜようぞ。」
「ちょっ!ばっちゃん!」
少年は異議を唱えようとしたけれど、笑っているリンに負けて強くは言えなくなる。
婆の差し出した手をすんなりと握ったリンに、少しほっとしたような、どこか淋しそうな目を向けた。
「坊ちゃんも、あることないこと言われたくなければ、あまり遅くならずにお帰りあれ。」
老婆は少年に軽く釘を指すと、さあ、参りましょうか、とリンの手を引いて歩き出した。
素直について行くリンの背中を少年はしばらく見送ってから、すっと表情を硬くして、宿を出ていった。