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花咲鬼  作者: 村野夜市
29/42

第二十三章 ~追討

高倉の家に帰ろうとリンは道を急いでいた。

誰かに会えば、拘束されてしまうかもしれない。

いや、本当ならば、水六自身、真っ先にリンを拘束しなければならなかったはずだ。

それを水六は見逃してくれた。

それどころか、危険を教え、警告までしてくれた。

水六のくれたこの僅かな猶予を無駄にするわけにはいかないと思った。


黄昏時も近づこうかというころ、リンは海岸沿いの通りに差し掛かっていた。

このまま海沿いの見晴らしのいい場所を通るのは危険かもしれないと、ふと思った。

少し遠回りだけれど、島の中央の山を突っ切って行こう。

そう考えて振り返った。


「おや、こんにちは。」


いきなりそこにいた人物に声をかけられて、リンは思わず悲鳴を上げそうになった。

にこにこと親し気にこちらを見下ろしているのは、享悟の継母、貴島の奥方だった。


「リン殿。

 こんなところで会うなんて奇遇だねえ。

 これもきっと何かの縁だ。

 どうだい?うちに寄ってお茶でも。」


仲の良い知り合いとでも行き会ったかのように、のどかに笑いかけてきた。

しかし、そんな言葉をかけられるような間柄だったことなど一度もない。

ずっと、道で会って会釈をしても、嫌なものでも見たかのように顔を顰められるだけだった。


思わず絶句していると、奥方は片方だけ眉を上げて、リンを見た。


「おやおや。わたしのこと、お嫌いかえ?」


「い、いえいえ、とんでもない。」


両手を肩から振って否定した。

奥方はにやりと微笑んだ。


「なら、ちょうどいい。

 ここらでそろそろお互いの誤解を解いておこうじゃないか。

 いずれあんたはうちの嫁になる人だ。」


一瞬、享悟の?と思ったけれど、そんなはずはなかった。

とすると、享悟の弟の、ということか?


しかし、今日はつくづく、降後の話しばかりされるものだ。

それだけ享悟にその時が近づいているということなのだろうか。

けれど、その事実を突きつけられることを、リンの心は思い切り拒絶していた。


まだ、キョウさんがどうなったのか、それもはっきりしていないのに。

いや、たとえはっきりしてしまったとしても、リンは、享悟の他の誰の嫁にもなるつもりはなかった。


とにかく、この場は逃げなくては。

リンはそう決意した。

その耳元へ、奥方はすっと寄って告げた。


「惣領殿に正式な追討令が出された。

 このまま高倉の家に帰れば、あんたは即座に捕縛される。

 狂った護法を呼び寄せる餌にするためにね。

 護法を喚ぶには、守護に悲鳴をあげさせるのが一番だ。

 あんたには、死なない程度に苦痛を与え続けられる。

 そうして、あんたの護法の名を大声で泣き叫ぶようしむけられる。

 抵抗したって無駄だよ。拷問を生業とする者も、この島にはいるんだから。

 けど、いずれうちの息子の嫁になる娘を、そんな傷物にされるのは真っ平ごめんだからね。

 悪いことは言わないから、うちに来なさい。」


耳打ちされた言葉の意味を理解して、リンは目を見開いた。

巧妙に逃げ隠れしている護法を捕まえるには、闇雲に探すよりこの方法が一番確実なのだ。


表情を凍り付かせたリンを見下ろして、奥方はまたにやりと微笑んだ。


「あんた、忌み子なんだってねえ?

 よかったよね。親に感謝しな?

 あんたの血を入れれば、貴島の家も安泰だ。」


何のことかわからずに首を傾げるリンの手を、奥方はいきなり掴んだ。


「いいから、おいで、って。

 こんなところでぼーっと突っ立ってたら、見つかって捕まっちまうよ。

 悪いようにはしないから。

 ほら、言うことを聞きなさい。」


ぐいぐいと力任せに引かれて、思わず足がついて行ってしまう。

そのままリンは貴島の本家へと連れて行かれた。



***



迷路のような屋敷の廊下と座敷をいくつも渡った。

頭領家の屋敷というのはどうしてこう、どこもかしこもだだっ広いのだろう。

そうして辿り着いたのは、貴島の屋敷の一番奥の座敷だった。


「無粋な連中はなかなかここまでは入ってこられないからね。」


貴島の奥方は得意げに胸をそらせて言った。

そこへ、報せを受けたのか、享悟の弟が駆けつけてきた。


「母上?兄上が何か、大変な事態だとか。」


リンも直接会ったのは初めてだった。

享悟の弟は護法でもないのに護法のような筋肉質の大男だった。

武芸の腕前も並みの護法よりも上らしい。

恵まれた体格を活かし、大斧を振り回して岩をも砕く、怪力だ。

けれど、気は優しくて力持ち。弟君の性質はもっぱらそう噂されている。

少なくとも弟君には、奥方に対しているときほどの威圧感は感じなかった。


同じ武芸の達人でも、享悟の父は力より磨きぬいた技を持つ人だった。

そういうところは、享悟は父親によく似ていた。

しかし、弟君はそこは似なかったらしい。

見た目も弟君は父親にも享悟にもまったく似ていなかった。

強いて言えば、弟君は奥方にそっくりだった。


「兄上のことはお前は心配しなくていい。

 それより、ほら、お前の嫁御を捕まえてきたよ。」


奥方は籠に入れた虫かなにかのようにリンを指さした。


弟はちらりとリンを見ただけで、また奥方のほうへ向かった。


「そんなことより、兄上が!」


奥方はやれやれとため息を吐いて見せた。


「仕方あるまい。

 どのみち護法など、いずれ狂うものだ。

 あれはまあ、島のためにはよく働いたけどね。

 無理ばかりしていたから、その分、狂うのも早かったんだろう。」


奥方の口ぶりは、まるで何かの道具でも壊れたかのようにあっさりしていた。


「護法の運命さね。あやつもとうに分かっていた。

 分かっていて、あやつは護法になった。

 そこの娘を救いたいばっかりにね。」


奥方はふんと鼻を鳴らしてリンを見下ろした。


「せっかくあやつが命をかけて救ったんだ。

 後はこのわたしが引き継いでやろうじゃないか。

 なになに、なさぬ仲とは言え、母子なんだから。

 お前も兄上のお古じゃご不満かもしれないけれど。

 なにせ、この娘の血は特別製だ。

 この嫁さえいれば、貴島の家も安泰。

 お前も大手を振って、貴島の跡取りになれる。

 跡継ぎさえ生まれれば、あとは、妾でも何でも置けばよい。

 よかったよかった。いや、めでたいねえ。」


「母上!家の一大事に何をおっしゃってるんですか!」


たしなめようとする息子を、奥方は面白くなさそうに見た。


「一大事なもんかえ。

 お前にとってはこの上ない吉日じゃないか。

 ようやくあの目障りな惣領殿が消えてくれるんだから。

 ああ、そうだ、善は急げ。

 早速、夫婦の盃を交わしてしまおうか。

 なら、急いで、お仕度をしないと。」


奥方はわざとらしいくらいうきうきと立つと、リンを見下ろして舌打ちをした。


「しかし、なんともみすぼらしい娘だこと。

 これが貴島のご正室とはねえ。

 仕方ない。せめて、見目くらいはもう少し整えさせようか。

 息子殿も、華燭の典くらいはしておかないと体裁もつかないね。

 なにせ、これで晴れて貴島の若殿。

 いや、よかったよかった。」


ひとりでそう言うとそそくさと座敷を出て行ってしまった。


母親の浮かれた様子に弟君は舌打ちをしてから、リンを見た。


「申し訳ない。

 あの母は兄上の母君への嫉妬から少しおかしくなってしまったのだ。

 あれも昔は、島一番の女丈夫と言われたそうだが。」


くい、と頭を下げると、そのまま行こうとして、足を止めた。


「貴女をわたしの嫁に、という話しは、母の妄想だ。

 気にしないで頂きたい。

 ここからは自由に出て行って頂いていい。

 ただ、兄上に追討令が出たというのは本当だ。

 ここにいれば安全だが、むやみに外を歩くのは危険だ。

 追討隊の連中に見つかれば否応なく拘束されるだろう。

 物騒な連中もうろついている。

 白銀だなんだと持ち上げていた連中も、今は掌を返したように兄上を非難しだした。

 羨望は一瞬で悪意へと翻る。

 貴女を捕まえて酷い目に合わせようという不心得者も多い。」


弟君はそう言うともう一度舌打ちをした。


「まったく、兄上は何をしているのだ。

 何より大事な守護をこんな目に合わせるとは。

 あり得ないだろう。」


忌々し気にそう言うと、リンのほうを気の毒そうに見た。


「しかし、わたしにも貴女を護って差し上げる余裕はない。

 この家を守るために、わたしと父は、兄上の追討隊に参加せざるを得ない。

 ここを出て行くのなら、何も貴女を護ってくれるものはない。

 自分のことは自分で護るしかない。」


弟君の言葉にリンはひとつうなずいた。

そのリンの表情に、弟君は一瞬だけ全ての動きを止めてから、突然視線を逸らせると言った。


「しかし、そうだな。

 今、ここを出て行くのはあまりに無謀だ。

 せめて、もう少し、周囲の状況の収まってからにしたほうがいいだろう。

 今なら大丈夫だとお報せするから、それまではここにいてもらえないか。

 わたしのことなど信用する気にはなれないかもしれないが。」


どこか自信なさそうに付け加えた弟君に、リンは首を振った。


「キョウさんの弟さんのおっしゃることですから。もちろん、信じています。」


そう断言したリンを、弟君は、ほう、と見つめた。


「文悟。」


「へ?」


「弟さんではなく、そう呼んでいただけないかな。

 わたしの名は、貴島文悟だ。」


「あ。…はい。文悟、さん。」


リンが恐る恐るそう呼ぶと、文悟はかすかに微笑んだ。


「なんと響きのよい声だ。鈴を振るような声とはそういう声を言うのだろうか。

 およそ文物などには縁のなさそうな怪力男に、文悟とはなんの悪い冗談か。

 そう言ってよくからかわれたから、あまりこの名は好きになれなかったが。

 貴女のその声に呼ばれると、そう悪い名でもないな。」


そう言うと、すっと背をむけた。


「兄上のことはどうなるのかわたしにも分からない。

 しかし、貴女のことだけは無事にここから逃がして差し上げる。

 その声でこの名を呼んでくださったお礼だ。」


それだけ言うとさっと座敷から立ち去った。



***



貴島の屋敷の奥座敷にたったひとり残されたリンは、不安でもじっとしているしかなかった。

今外に出るのは危険だというのはよく分かった。

そういう意味では、あのどこか意地悪そうな奥方も、いち早くリンを助けに来てくれたのだ。

文悟とは今まで一度も口をきいたことはなかったけれど、それほど悪い人間にも思えなかった。

享悟も、弟のことは、武骨で不器用だけれど真っ直ぐな人間だ、と言っていた。

享悟にそんなふうに言われるのだから、信じてもいいと思った。


奥の庭園に繋がる障子は開け放されていた。

広くて手入れもされ、とても綺麗なのに、どこか作り物めいて、物淋しさすら感じる。

見慣れた崖からのあの荒々しい海が、何故かとても懐かしかった。


日が暮れると、少し肌寒くなってきた。

しずしずと入ってきた端女らしき少女が、灯りをともしていく。

障子をお閉めしますか、と問われたけれど、リンはそれを断った。

寒くてもどこか開いて外が見える状態でいたかった。

少女は夕餉でございます、と食事の膳も運んできてくれた。

岬のお屋敷で出されたのと遜色ないほどの豪華な食膳だった。


こんなときなのにずらりと並べられたご馳走に、少し違和感を感じた。

それから、この家にいたころ、享悟は毎日こんなご飯を食べていたのだろうかと思った。

ご馳走なのにどこか冷たい。綺麗なのに作り物めいた料理。

婆の作る食事はもっと雑多でごちゃごちゃして味も大雑把だけれど。

もっとずっと美味しそうだったな、とリンは思った。


リンの作るおにぎりが一番美味しい。


享悟はよくそう言った。

こんなもののどこがそんなに美味しいんだろうとリンは思ったものだ。

最近でこそ少しばかり上達もしたかもしれないが、昔は形も大きさも不揃いで実に不細工だった。

リンの気持ちがいっぱい詰まってるから、美味しいんだよ。

享悟の言ったその言葉の意味が、なんとなくだけれど、今、少しだけ分かった気がした。


この家は、広くて立派で綺麗だけれど。

どこか、冷たい。

隙間風など吹き込むはずもないのに、どこか空っぽで、寒々しい。


享悟はこの家が苦手だと言って、滅多に帰らなかった。

生みの母の住んでいた小さな家にひとりで暮らしていた。

食事の支度や洗濯も全部自分でする。

婆は心配して、食事をしていけ、とよく言っているけれど。

享悟は爺婆にもあまり甘えることはない。

リンは、食事のときに享悟がいると、婆が張り切っていろいろ作るのが嬉しかった。

だから、享悟に食事をしていけとよくねだった。

そうすると、三回に一回くらい、享悟は一緒に食事をしてくれた。

享悟は好き嫌いもしないし、食べ方も上手い。

小さいころはよく魚の骨を取ってもらった。

リンの苦手な小骨の多い魚も、享悟がいると不思議に美味しく食べられた。

リンにとって、享悟はいつも優しいお兄ちゃんだった。


水七や水六にとっては、照太がそんな優しい兄やだったのかもしれない。

なんの心配も持たずに、無条件に甘えられる相手。

そんな照太が島にとって大きな裏切りになるようなことを犯したとしたら…

水七にも水六にも、そんなことは、信じられなかっただろう。

照太のことを恨めしく思ったかもしれない。

いや、それ以上に、照太をそんなところへ堕とした女のことを恨んだだろう。


リンももしも享悟がそんなことになったら…

いや、今まさに、そうなっている、のかもしれない。

享悟は島を裏切った堕法として、今、同胞たちに追われる身となってしまった。


享吾のことを恨めしくは感じなかった。

なにより、享吾をそんなところへ堕としてしまったのは、リン自身だ。

享吾が護法になってリンを守護にしてくれたから、リンは水を飲まされることはなかった。

護法になったのはリンのせいじゃない、と享悟は何度も何度も言うけれど。

リンがいなければ、享悟が護法になることはなかったのだから。

やっぱりそれは、自分のせいなのだと思う。

そして、悲しいことに、もうその事実はなかったことにすることはできない。

享悟は自分の未来と引き換えに、リンを救ってくれた。

享悟の犠牲にしたものを享悟に返したいけれど、どうしたってそれはもうできないことだ。


リンがいなければ、この僕はもっと早くにこの世にはいなかった。

リンがいたから、もう少し、この世界にとどまっていたいと思った。

だから、この命はリンのためにある。

リンを護ることは、僕の幸せなんだ。


享悟は何度もそう言ったけれど、リンはそれには納得できなかった。


享悟の命は享悟のもの、かもしれない。

享悟のものは享悟の好きにしていい、のかもしれない。

けれど。

享悟は享悟自身そう望むから、その命をリンのために使う。

それは違う。多分、きっと、絶対。


そうだ。

享悟の命は享悟だけのものじゃない。

高倉の爺婆だって、貴島の父君だって、それからリンだって。

それから、多分、水六も、水七も、平助も。

享悟のことを気にして大切に思っている人たちはいっぱいいて。

享悟の命は、その人たちみんなのものでもあると思う。

だから、享悟の命は、享悟ひとりの好きにしていい、なんてことは絶対ない。

なにより、リン自身、それには納得がいかない。


享吾とリンの言うことはいつも平行線だ。

お互いの心にお互いの言葉が届かない。

享吾はいつもリンのことを思ってくれているんだろうけど。

リンも享吾のことを思っているんだって、なかなか分かってくれない。


キョウさんの、バカ。


思い切りなじりたかった。

今もし、享悟がこの目の前にいたら、胸を叩いて、髪の毛をくしゃくしゃにしていたと思う。

そうでなくても細くてふわふわでもつれやすい髪の毛を、思い切りかき混ぜて。

きっと、享悟は困ったような、でも、どこか嬉しそうにも見える顔をする。

そうしたら、叩いても叩いても壊れない大きな胸にぐいと潜り込む。

リンが全体重を享悟に預けても、享悟はびくともしないから。

そこでそのまま一晩眠れたら。

きっと、全部消えてしまう。

不安だったことも、辛かったことも、悲しかったことも。


リンの手は、いつもあと少しのところで、享悟に届かない。

リンの手の届かないところで水を飲んで、リンの手の届かないうちに護法になって。

享悟はいつも、リンの手をするりとすり抜けて、ひとり辛いほうへ行ってしまう。

へとへとになって帰ってきて、ほんの一瞬だけ、リンの手を取って。

けれど、またすぐにその手を離して、ひとりで行ってしまう。


でも、もうこんなことは、終わりにする。

享悟の手は、リンのほうから掴みに行く。


御形の郷。

水六の教えてくれた手掛かりの場所に一刻も早くむかいたい。

本当なら、こんな場所で足止めをされている場合じゃないのに。


だけど、その郷がどこにあるのかも分からない。

どっちに行けばいいのかも分からない。

島を出るための舟もどうやって用意すればいいのか。

そもそも、自分に舟を操れるのかも分からない。


急いては事を仕損じる。

穏やかに諭す享悟の声が聞こえた気がした。

まだ、もっとリンが小さかったころ、よくリンは享悟にそう言われていた。

もつれた糸玉をほどくとき。

ほつれた着物を直すとき。

ともすると、いらいらして大雑把に力任せになってしまうリンに。

享悟は、ひとつひとつ丁寧に、時間をかけてやることを教えてくれた。


今、手の届くところから。

気にかかることを、ひとつずつ、潰していく。

丁寧に。丁寧に。

あわてなくていい。できることからでいい。

コツコツとやり続ければ、そのうちきっと、全部、よくなっている。

享悟は穏やかに辛抱強く、リンにそう教えてくれた。


今、できることを考えろ。

くじけそうになる心を励まして、リンは自分に強くそう命じていた。



***



夜の明けないうちに、雉彦たちの一行は島に辿り着いた。

島影の見えたときには興奮していた連中も、今は緊張して黙りこくっている。

ただ、船べりを打つ波の音だけ、いやに大きく響いていた。


島に近づくに連れて、様子がおかしいことに誰ともなく気がついた。

島影の形に添って、いくつかずつまとまった光が、右へ左へと走っていくのだ。

耳をすませると風に乗って人々の叫ぶ声も聞こえてきた。


「なんや、お取込み中のようやね。」


呑気な台詞にも聞こえるけれど、それを言った申太夫は、気遣わし気に眉を顰めていた。


「誰かを探しているようですね。

 こちらにはいない、あちらを探せ、というようなことを言い合っています。」


風にのせられて届いてきた声を聞きとって、戌千代が言った。


「白銀殿を探しているのではないか。」


全員同じことを思っていたけれど、口にしたのは太郎だった。


「いよいよ、これはなんか、まずい、雰囲気っすかね。」


雉彦は唇を噛んだ。


明け方近く、見つからないように島の裏手に回って舟をつけた。

享悟に教えてもらった小さな洞窟だった。

洞窟の中に桟橋はなく、浅瀬に舟を浮かべたまま、全員、水の中に下りて歩く。

申太夫は最初ひどく嫌がったけれど、先に下りた太郎と戌千代に説得されて、なんとか舟を降りた。

全員降りるまで舟を支えてから、最後に雉彦は身軽に舟から飛び降りた。


皆、腰の辺りまでずぶぬれになって、なんとか陸に上がった。

まだ水は冷たく、濡れたからだは冷えてくる。

火を起こそうとして、雉彦は岸にあった小さな焚火の跡に気づいた。


「主もここにいたんっすかね。」


灰と焦げた小枝が、そこには綺麗に丸くまとまって残っていた。

丁寧に焚火の跡を調べている雉彦に、太郎は尋ねた。


「どうして主殿の焚火だと分かるんだ?」


「主の焚き付けの積み方は少しばかり独特なんっすよ。

 それにこの場所は、主の他には島の人間で知る者はいない、って主も言ってましたからね。

 ここにいたのは、主のはずです。」


「これ見ただけやのに、そんなこと分かるの。すごいな。」


「まだ、それほど古い跡ではなさそうですね。

 薪も湿っていないし、匂いもします。」


焚火の辺りを一緒に調べていた戌千代は、ふと、何かに気づいて地面を手で撫でた。


「…これ、は…」


指についたものの匂いを嗅いで、戌千代は顔を顰めた。


「血です。」


「えっ?!」


雉彦は慌ててその辺りを調べた。

灯りを近づけてよく見ると、大量に流された血がほとんど固まって岩肌にこびりついていた。


「…これは…命にも関わるほどの大怪我なのではないか。」


太郎は重々しく言った。


「そんな状態で、怪我人はいったいどこへ行ったのでしょう?」


戌千代の声は少し震えていた。

雉彦は辛そうに言った。


「護法の傷はついたそばから癒えていきます。

 普通の人なら死んでしまうくらい出血しても、無事なことも多い。」


「ならば、其許の主殿は、こんな怪我をしていても無事なのですか?」


「おそらく命には別条ないでしょう。

 …けれど、苦痛を感じないわけではありません。

 これだけ血を流すほどの苦痛なら、普通の人間だったら、痛みで息が止まってもおかしくない。」


「息が止まった?それはまずいのではありませんか?

 しかし、息が止まったのに、どちらに行かれたのですか?

 ご自身で歩いて行かれたのでしょうか?

 いや、そんなはずはないか。

 だとすると、何者かに連れ去られたとか?

 そもそも、怪我をするなどと、ここで何者かと戦ったということですか?

 しかし、ここは、秘密の場所だとおっしゃいましたよね?

 よもやまさか、秘密が暴かれたということですか?!」


心配のあまりか、おたおたと取り乱す戌千代に、雉彦はかすかに苦笑して首を振った。


「主は正気を取り戻すために自分で自分を傷つけるんです。

 おいらの見たときは、腕や足を、小刀で傷つけていました。

 けど、この血の量は、手足を傷つけた程度とは思えません。

 腹や胸を、力いっぱい突き刺し…」


戌千代は目をいっぱいに見開くと、雉彦の口を掌でぐいと抑えた。


「滅多なことをおっしゃるものではありません。

 それは其許にとって、大切な主殿のことなのでしょう?

 そんな方が、そんな大怪我をなさったなどと。

 平気な顔で口にしてよいことではありますまい!」


雉彦は別人のように低い声で返した。


「平気なんかじゃありませんとも。

 …けど、こんなことまでしないと、主は正気を保てなくなっている。

 怪我の程度より、そっちのほうがずっと心配なんっすよ。」


「正気を保てなくなっている?

 それは、狂ってしまったということですか?

 しかし、護法が狂えば、大変なことになるのでしょう?」


「本物の鬼に、なってしまいはんのよ。」


横からぽつり、と申太夫は言った。


「そんなことにならんように、守護の存在はあるんやけどね。

 まったく、連れて行かへんなんて、自殺行為や。

 しかし、ここまで進んでしもうてたとは…」


申太夫はぶつぶつと独り言のように言いながら、丁寧に焚火の跡を調べていた。


「燃え方の違う薪が何種類かあるようや。

 ということは、ここで何回か焚火をしたんやろうな。

 けど、火を使うたら、どこから見られるか分からへんし、焚火は必要最小限にするはず。

 とすると、ここにしばらくの間、いてはったということか。

 今、どこ行かはったんかな…」


「主はもう島にはいないと思います。

 ここには主の舟も繋いであったはずです。

 それがないということは、主は、舟で出たということです。」


「ここにいたのは、出立の仕度を整えるためか?」


「…主は、旅をするにも、ほとんどいつも手ぶらです。

 大抵のものは出先で手に入れられますから。

 武器も普段持っているのは、小さな山刀一本だけです。

 その刀で料理もちょっとした道具作りも、なんでもやってのけるんです。」


「ならば、白銀殿はここでいったい何をしておられたのだ?」


「ここには真水もあらへんし、食料を手に入れるにもええ場所とは思えん。

 好き好んで長々とおるところやないな。」


「だとすると…」


「やむを得ない事情があって、足止めをくらっていた、ということだな。」


太郎の結論は誰もが薄々分かっていて、それでもあえて口にするのを躊躇っていたことだった。


どこに行くにも身軽に手ぶらで行く享悟が、準備の必要もないのに、数日そこに足止めをくらう。

そして、そこには大量に血の流れた跡。

あまりよい状況だとは誰の目にも見えなかった。


雉彦はもう一度地面の血に手を触れた。


「これだけの出血をしているということは、傷もそうすぐには癒えなかったのかもしれません。」


「こちらにも血の跡があるぞ。

 あちらのほうへとむかっているようだ。」


戌千代は点々と落ちた血の跡を見つけて言った。


「うわっ。こんな血ぃ流しながら、なに歩いてんねん…」


申太夫はぶつぶつ言いながらも血の跡を追っていく。

それは規則正しく水際まで続き、そこで途切れていた。


「やっぱり、舟に乗りはったいうんは、間違いなさそうやね。

 いったいどこ行ったんや?もちょっとここに残っといてくれたらよかったのに。

 行き違いになってもうたやんか。」


申太夫はどこか残念そうに言った。

戌千代は不思議そうな顔をした。


「はて。ここに残っていてほしかったとは、異なことを聞きました。

 鬼の居ぬ間に姫を誑かす、とおっしゃっていたのは、申殿ではなかったですか?」


「ちょっ、それは、言葉の綾やろ?

 真に受けんといてほしいわ。」


むっとしたように顔を顰めてから、はあ、とため息をついた。


「わたしかて、面と向かってちゃんと話して、納得してもらいたいと思ってるわ。

 いろいろ聞いてたら、話しの通じへん御仁でもなさそうやんか。

 別に、悪いことしよう、いうんちゃいますやん。

 生き別れの母娘を会わせてあげよう、言うてんのやろ?

 ちゃあんと筋通して、堂々と姫さん連れて行ったらええと思ってるやん。」


「なんだか、申殿がすっかり善人のようです。」


「って!なんやの、それは?

 さっきから聞いてたら、人聞きの悪い。

 わたしは元から悪人やないで?」


声を上ずらせて反論する申太夫に、その場の空気はほんの少しだけ和らいだ。


「しかし、白銀殿はもはや島におられないのであれば、仕方ない。」


そう言ったのは太郎だった。


「しかし、せっかくここまで来たのだ。

 ここはやはり、直接姫にお会いできないかな。」


「そうするしか、ありませんかね。」


雉彦もため息と同時に頷いた。


「おいらも、念のため、姫のご無事は確かめておきたいし。

 姫なら、主の行き先にお心当たりもあるかもしれませんし。」


「ほな、早速、姫さんのところへ案内してもらいましょか。」


あっさりそう言う申太夫に、雉彦は、やっぱり信用ならないという目をむけた。


「言っときますけど、おいらは、姫が主を裏切るような行動はしないと思います。

 説得でも口八丁でもなんでもしてみればいい。

 姫は、あの主が、何を犠牲にしても守護にほしいとすら思うくらいの守護なんっすから。」


むっとした顔の雉彦に、申太夫はにこにこともみ手をした。


「まあまあ。

 そんな姫さんなら、いろいろ抜きにしても、一度お会いしてみたいやん。

 悪いようにはせえへん、て。

 信用できんのやったら、あんたがとことんついてくればええねん。

 そんな賢い姫さんやったら、あんたとわたしとどっち信用するかなんて、心配ないやろ?」


「……。」


黙ってしまった雉彦に、太郎はかすかに苦笑した。


「とにかく、行くとするか。」


「ところで、ここからどうやって出るんや?」


洞窟を見回して申太夫は尋ねた。


「ああ。出るときには、さっき入ってきた入り口から泳いで…」


言いかけて、雉彦はしまったと気づいた。


「だから、わたし、泳がれへん、て。」


申太夫は怒ったように言った。


「あー…おいら、手、繋いであげましょうか?」


雉彦の差し出した手を申太夫はぱしりとはたいた。


「手、繋いでたって、泳がれへんもんは泳がれへんやろ!」


「ぼくも、自分だけならなんとかなりますけど…流石に、他人までは…」


戌千代は申し訳なさそうにする。


「仕方あるまい。我が背負ってやろう。」


背中をむけた太郎に、申太夫は、冷ややかに返した。


「太郎さん、あんさん、山育ちやんな?

 念のため伺いますけど、泳いだこと、ありますのん?」


「いや?ない。」


申太夫は青ざめた。


「そんなん、無理に決まってるやんか。」


「水を張った田の中は、何度も歩いたぞ。

 まあ、あれと、似たようなものだろう?」


太郎は呑気に言い切ると、あっはっは、と高らかに笑った。


「そんなわけ、ないやろ!

 一緒にしてたんか!

 あんたが一番恐ろしいわ!」


申太夫は悲鳴を上げた。

それから、ぶるぶると首を振った。


「泳ぐのだけは、わたし、勘弁や。

 しゃあない。わたしはここで待ってますから。

 みなさんでどうぞ。」


「しかし、一緒に来られなければ、どなたが姫を言いくるめ…」


「言いくるめるんちゃう、て!

 ちゃんと説明して、納得して、来てもらうんや、て!

 そんなん、太郎さんでも、雉彦さんでも、なんなら戌千代さんでも、できる、て!」


「ん?ちょっと待てよ?」


苦笑していた太郎は、洞窟の壁を見て何やら気付いたようだった。


「ここから、光が差してきている。」


「あー、もうすっかり夜明けなんですねえ。」


戌千代は呑気に頷いた。


「この洞窟、実は壁が隙間だらけみたいっすね。」


雉彦も壁を丁寧に調べて言った。


「ふむ。

 この辺か?」


ふんっ、と太郎は気合を入れると、大きな岩をひとつ、いきなりむんずと掴んで引き抜いた。


「え?

 うわっ!

 ちょっ!」


焦る雉彦の前で太郎は大岩を肩に担ぐと、ぽいっ、と海へむかって放り投げた。

どぼーん、とものすごい水しぶきが上って、洞窟全体がずぶ濡れになった。


「うわっ!ちょっ!ぺっぺっぺ!

 なんで、よりによって、水ん中、ほかすんや!

 その辺に転がしたらええもんを!」


盛大に頭から塩水を被った申太夫が、思い切り不満そうな声を上げる。


「どうだ。

 これで申殿も一緒に行けるぞ?」


太郎はぽっかりと開いた穴を指さして得意気に胸を張った。

よつんばいになれば、どうにか人が抜けられそうな穴だった。


「そら、どーも。おおきに有難う。」


申太夫は盛大なため息を吐いた。



***



人に見つからないように山道を抜けながらも、申太夫はぶつぶつと呟いていた。


「あんな簡単に道が開くのに、なーんで、おたくのご主人は、道、作っとかへんかったんやろ。」


「あー…主はたぶん、泳げるんで、道を作る、とかいう発想がなかったんだと思います。」


雉彦は苦笑しながらも答えてやっていた。


島のなかはそこいらじゅうで人が右往左往していた。

堕法はいたか、いやいない、とそちこちで叫びあっている。

その物々しい雰囲気に、太郎は眉を顰めた。


「まるで、咎人か何かを探しているようだな…」


「堕法、というのは、罪を犯した護法、という意味ですから。

 咎人といえば、咎人っすかね…」


「島のモンにとっては、護法さんってのは、諸刃の刃なんやろね。

 島に富貴をもたらしてくれることもあるけど、いったん狂えば手がつけられへん。

 島ごと破壊されてしまうかもしれんモンやなんて。

 そら、大騒ぎにもなるわ。

 普通はそうなる前に、守護が抑えるんやろうけど…

 これは、姫さんの身が、危ないかもしれん。」


「どうしてです?

 何故、姫の身に危険があるんですか?」


リンのこととなると、急に語気を荒げる雉彦に、申太夫はむぅと唸った。


「説明は後や。

 今は一刻も早う、姫さんの安全を確かめんと。」


ただならぬその様子に、雉彦もそれ以上は追求せずに、ただ黙々と足を急がせた。


人々はまだ享悟は島のなかに潜伏していると考えているようだった。

どうやら、島の正式な船着き場にある享悟の舟はそのまま残されているらしい。


高倉の爺婆の家までは人に見咎められることもなくたどり着けた。

雉彦が享悟に秘密の道を教わっていたおかげだった。


「なんにしても、つくづく、根回しのいいご主人やな?」


根回しって、と雉彦は舌打ちをした。

申太夫の言い回しには、どうにもいちいち気持ちを逆撫でされる。


「主は島の人たちに出迎えられるのを煩わしいと思っていて。

 あの洞窟に舟を隠して、この隠し通路を使って、こっそり姫のところへ帰っていたんです。

 足止めされずにまっすぐに姫のところへ帰りたいって。」


「ほんま、どんだけ好きなんやろな。姫さんのこと。」


「そりゃあもう、言葉なんかじゃ言い表せないくらいっすよ。」


大真面目にそんなことを答える雉彦に、申太夫の視線は意外に柔らかかった。


爺婆の家は固く戸を閉ざされ、中の様子はまったく分からなかった。

一見、誰もいない留守のようにも見える。

しかし、雉彦は、扉の前に立つと、享悟に教わった拍子で、扉を叩いた。


こんこん。と二度。

それから、少し間を開けて。こんこんこん。と三度。

これは本当にいないのか、と思ったとき、扉のむこうに僅かに人の気配を感じた。


「何者か。」


低い声で誰何される。

雉彦は享悟に教わった通りに答えた。


「高倉の爺婆様にございますか。

 貴島の主の言いつけで参りました。

 雉彦と申します。」


続けて何か言う前に、いきなり、がらり、と戸が引き開けられた。


「しょう、た?」


「は?あ、いや、おいらは…」


いきなりがばりと両肘を掴まれ雉彦はぎょっとした。

よくよく見れば、雉彦の胸のあたりくらいしか背のない小柄な婆が、穴のあくほどまじまじと雉彦の顔を見上げていた。


「ぎゃっ!」

「ぎゃっ!」


悲鳴が二つ、同時に上った。


極彩色に塗り分けられたその異様な風体に驚いた婆は、ぴょんと後ろへ飛び退いた。

その身のこなしは、到底老婆とは思えないほど身軽だった。

雉彦は雉彦で、妖怪じみた婆にぎょっとして、思わず叫んでしまっていた。


「なんじゃ、化け物のくせに、わしを見て叫ぶとは。」


妖怪かと思った婆に化け物呼ばわりされて、雉彦は焦って言い訳口調になる。


「いや、あの。おいら、別に化け物じゃないんっすけど…」


困ったように頭をかく雉彦を、婆はもう一度じろじろと見た。

それから、細く開けた戸口を通れるように、体を少し斜めにした。


「まあよい。話しは中でしてもらおう。

 どうぞ、お入り。」


「あ。はい。お邪魔しまっす。」


雉彦は後ろの仲間たちを振り返ると、先に立って家に入っていった。

他の者たちもぞろぞろと後に続く。


「お邪魔します。」


「うむ。」


「すんませんなあ。こんな朝っぱらから。」


「うむ。」


「失礼いたします。」


「うむ。」


三者三様に通り抜けるのを、婆は値踏みするような目で見ている。

最後の戌千代が通ると、その後ろでぴしゃりと戸を閉めた。

ぴったり閉まった扉からは中の光はもう外には漏れなかった。


土間の向こうに板間があって、囲炉裏の傍に老爺がひとり座っていた。

老爺は粗朶木を火にくべながら、ぽつりと言った。


「貴方のことは、坊ちゃんから聞いております、雉彦さん。

 いずれ、この島においでになる、と。」


「主は自分の身に何かあったときには、島へ行って姫を連れ出すようにおいらに命じました。

 今、主に何かあったのかどうかは、分かりません。

 けれど、主とはもうひと月以上、連絡の取れないままなんです。

 だから、主に何かあったからではなくて、何があったのかを確かめたくて、ここへ来ました。」


雉彦の言葉に老爺は頷いた。


「昨日、十頭領の名において、坊ちゃんへの追討令が出されました。

 このひと月、坊ちゃんは十頭領への定期報告を怠っていたようです。

 そのために堕法したと見做されました。

 今、島中を、坊ちゃんを探して、追討隊が走り回っております。」


淡々と語られた事実に、雉彦は目を見開いた。

一番考えたくない状況が嫌でも浮かんでくる。


「じゃあ、主は、狂って…」


「おられませぬ。

 それは間違いない。

 我らにも何の連絡もないが。

 あの方が狂うなどとは考えられない。」


雉彦を遮るように老婆は矢継ぎ早に言った。

そのあとを引き取って、老爺は言った。


「リンの身にも特段何も起きてはおりませぬ。

 坊ちゃんも護法なれば、常に狂気と隣り合わせなのは分かります。

 しかし、守護を失うようなことでもなければ、あの坊ちゃんが狂うことなどありえませぬ。

 あれほどに自己を抑制し、ただ只管にリンのことだけを大切にしておられるのに。」


久しぶりに耳にした、リン、という名に、雉彦は知らず、胸がどきりとした。

そうしてリンは当たり前のようにここにいて、暮らしているだと改めて思い知った。


「姫…リン様は、お元気ですか?」


思わずそう尋ねてしまっていた。

老爺は少し置いてから答えた。


「心労からか、最近、少し痩せましたかの。

 しかし、病気や怪我はしておりません。

 もともと坊ちゃんのおらん間は、食も細くなりましての。

 坊ちゃんはいつもお帰りになると、魚やら都の珍味やらを持ってきて食べさせておりました。」


リンにあれこれと食べさせようとしている享悟の姿は、雉彦には難なく思い浮かべられた。


「主は姫のことをとても大切になさってますから。

 おいらにもよく、リンがああしたこうしたと話してくれてました。

 それはもう、大切で可愛くて仕方ないみたいに。」


「もともと、坊ちゃんはリンを護りたくて護法になったようなものじゃもの。

 もっともあの娘がおらねば、今頃坊ちゃまは生きてはおられなかったかもしれぬ。」


老婆はしみじみとそう言った。


「姫は今、どちらに?」


雉彦は尋ねた。狭い家の中でこんな話をしているのに、いつまで待ってもリンは姿を現さない。

もしも家の中にいるのなら、こんなにいつまでも顔を出さないことはないだろう。


「貴島の家に連れて行かれました。

 追討隊に捕まれば、リンは、坊ちゃんをおびき寄せる餌にされる。

 しかし、貴島にとって、リンは大事な後継ぎの嫁。

 そういうことに利用されるのはごめんだと思ったのじゃろう。」


「わしらとて、自らの手であの娘のことを守ってやりたいのですけどものう。

 追討隊の荒っぽい護法様相手に、年寄りふたりでは歯も立ちません。

 ここは悔しゅうても、貴島にお預けするほうが、リンのためだと思うての。」


ふたりは口惜しそうにそう言った。


雉彦の顔は曇った。

守護の任を降りたら、リンは弟の嫁にされるだろう。

そうなる前に連れて逃げてほしい。

享悟の言っていたことを思い出した。

いよいよそれが現実に近づいてきているのかと思った。

…そんなこと、金輪際有り得ない、と思っていたのに。

どれだけ否定しようと、いつかきっと享悟は、リンのために折れてやるだろうと思っていた。

リンを妻にするのは享悟の外にはあり得ない。そうでなくてはならない。

そうでなければ、雉彦とて、到底納得できない。


「まあ、姫さんの身の安全を第一にするなら、そうするのが一番でしょうなあ。

 利用できるもんは、なんでも利用させてもらわんと。」


どこか諦めたように申太夫はため息をついた。


「雉彦さんだけに任しておくのも心配やったんやろ。

 間に合わんことかてあるかもしれん。

 安全には安全を。

 何重にもそのための手ぇ、打ってはるんやろね。」


「主はいつもそうなんっすよ。

 策をめぐらすときにも、何重にも安全策を取ってね。

 こっちがダメなら、こっち、って、幾通りも筋は作ってあるんっす。」


雉彦は頷きながらそう答えた。


「しかし、白銀殿のもとに、一刻も早く守護殿をお連れせねばならないのでしょう?」


戌千代は心配そうに眉をひそめた。


「ひどい怪我をしておられる、とか。」


「坊ちゃんならば、多少の怪我は問題ないでしょう。

 ただ、此度は、帰ってくるなり何やら調べ物をしていたかと思うと、またすぐに出立なさったようじゃ。

 リンともほとんど会っておりませぬ。

 それは、心配じゃ。」


「お爺さま、お婆さまには、白銀殿の行き先にお心当たりはないのですか?」


戌千代に尋ねられて、爺婆は首を振った。

そうですか、と戌千代も残念そうに首を振った。


「姫さん連れて行くったって、行先も分からんのじゃなあ。」


申太夫はお手上げとばかりに天井を見上げた。


「貴島のお家にいて、姫に危険はないのですね?」


雉彦は念を押すようにそう尋ねた。

それに、婆は小さく頷いた。


「それは、それなりに大切には扱ってくれよう。

 貴島にとっては、いずれ、息子の嫁にと考えている娘じゃ。」


「よもや、さっさと既成事実を作って嫁にしてしまえ、なんてことは、ありませんよね?」


「は?既成事実て、あんた、意外と過激なお人やなぁ…」


雉彦の発言に、驚いたように目を剥いたのは申太夫だった。

賑やかな客人たちに思わず苦笑しつつ婆は語った。


「それは、ないじゃろうな。

 貴島の跡取りの婚姻となれば、それなりにきちんと披露もせんならんだろうし。

 しかし、今のところ、リンは堕法の守護じゃからな。

 見つかれば堕法と同じ罪人として、捕縛されてしまう。

 貴島も今はまだ、リンを堂々と表に出すわけにはいかんだろう。

 貴島に隠匿されとることは、まあ、気づく者はうすうす気づくじゃろうが。

 貴島に大っぴらに手を出せる家など、岬くらいじゃし。

 岬はリンを罪人にするつもりはないのでしょう。

 もしもそのつもりなら、さっさと捕縛したはず。

 あの日、リンは岬の本家に行っとったのだから。」


婆のその話しにふと、申太夫がひっかかった。


「岬の本家?

 姫さんは、いったい何しにそんなところへ行ってはったんですか?」


婆は首を傾げた。


「水六殿のご招待、ということじゃったかの。

 たいそうご立派な輿がお迎えにまいりました。

 なんで、水六殿がリンを招待なさったのかは、詳しいことは分かりませんが。

 その前日には水七殿にも会いに行ったようでしたから。

 もしかすると、水七殿の里帰りに誘われたのかもしれん。

 しかし、あの子が、用もないのに、そう、よその家をうろうろと訪ねるというのも妙なことで。

 いつも、暇さえあれば、崖のところで坊ちゃんの帰りをじぃーっと待っている子ですからのう。

 しかし…リンは坊ちゃんの行方を探ろうとしておったから…

 もしかしたら、それと何か関りがあったのかもしれん…」


「さきほどからおっしゃるその、岬、とはいったいどのようなお家なのですか?」


戌千代に尋ねられて爺は説明した。


「十頭領家のひとつ。主に、堕ちた護法の始末を担う家です。

 今も坊ちゃんの追討は、岬の護法の部隊が中心になってやっております。

 そのお役目柄、島の者らからは、煙たがられるというか、どことなく敬遠されておりましての。

 別段、罪を犯さぬ者にとっては、害悪などないのだが。

 貴島が島の顔、一の頭領家ならば、岬は島の裏の顔、仕舞の頭領家と呼ばれております。」


「その家に姫がいったいなにを…

 というか、主がその家に関わりがあった、ということっすか?」


雉彦は問いかけるように婆を見た。


「坊ちゃんと岬、…幼いころ、岬の水六殿は坊ちゃんのことをよう可愛がっておりましたが。

 岬の家督を水六殿が継いでからは、疎遠になっておったはず。

 リンは水六殿にいったい何を聞きに行ったのであろう…」


「その水六殿に、我らが話しを伺うことは、難しいだろうか?」


そんなことを言い出した太郎を、申太夫は信じられないものを見る目で見た。


「そない恐ろし気な鬼さんのとこへ、わたしらみたいな闖入者が顔出して大丈夫か?」


「岬は厳格な家ではありますが、水六殿個人は清濁併せ呑む情に深いところもあるお人。

 表立っては会えますまいが、こっそり裏から行けば、案外、話しを聞いてくれるかもしれませぬ。」


そう言ったのは爺だった。


「堕法の追討隊を指揮しているのは岬じゃが、水六殿は明らかにリンをわざと見逃している。

 案外、力になってくれるかもしれませぬ。」


婆もそう言った。


「ほんまに?」


不安そうに見上げる申太夫にさっさと見切りをつけるように立ったのは雉彦だった。


「とにかく、何もしないんじゃ、先には進めない。

 おいらは、その水六さんに会いにいきます。」


「あ、ちょっと、待ってぇな。

 誰も行かへんて言うてへんやろ。」


慌てて申太夫も追いかける。

後のふたりもそれを追っていった。







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