第二十章 ~鴛鴦
その日、享悟はリンの許には訪れなかった。
一日、蔵に籠って調べものだと言っていた。
夕方には会いに来てくれるだろうと思っていたけれど、享悟は姿を現さなかった。
よほど、忙しいのだろうか。
仕方ないと、リンは思った。
享悟はいつも、とても忙しい。
翌日も。そのまた翌日も。
享悟はリンの許には訪れなかった。
もしかしたら、急なお役目が入って、そのまま島を出てしまったのかもしれない。
そういうことは、これまでにも何度もあった。
そのたびに、リンは不安になった。
もう二度と、このまま享悟に会えなくなるような気がした。
けれど、数日すると、必ず享悟は帰ってきた。
手に取ることすら躊躇うくらい立派なお土産を持って。
ごめんね、リン。
あの優しい笑顔でそう言われると責める気持ちは消え失せた。
だから、リンは待った。
月立の月が丸くなるまで。
これまでは、いつもその間に帰ってきてくれた。
けれど、今回は、享悟は帰ってこなかった。
爺婆に聞いてみても、享悟が今どこにどうしているのかは分からなかった。
勇気を出して、貴島の家まで行ってみた。
すると、応対に出た奥方に、享悟の行方を知らないかと逆に尋ねられてしまった。
知らない、と答えると、役に立たない守護だね、と返された。
いつかこんなことになるのじゃないかと、なんとなく思っていた。
自分はちゃんとした守護じゃないから。
享悟は自分を置いて行くんだと、どこかで思っていた。
そんなときは永遠に来なければいいと、そう強く願っていたけれど。
そのときは、やっぱり、こうして、来てしまった。
遠く遠く。海のずっとむこうを見つめる。
この海の向こうに享悟はいるのだと思う。
世界中の海はみんなどこかで繋がっていると、いつか享悟が教えてくれた。
だから、海を見ていれば、このずっとむこうに享悟がいると思っていられた。
リンは目をこらした。
どこまでも続く海原の向こうから、享悟の乗った舟の来るのが見えないかと。
来る日も。来る日も。
いつも髪にさしている簪を抜いて手に取ってみる。
最初のお役目の後にもらったものだった。
この後にもたくさんもらったけど、それは全部、箱の中に大事にしまってある。
享悟はそれには不満そうだったけれど、そこはリンも譲らなかった。
こんなにたくさんあるから、もうお土産はいらない。
そう言っても、享悟は高価なお土産を買ってくるのをやめない。
けれども、リンはやっぱり最初の簪以外は、一度も身につけることはしなかった。
この簪だけは、特別だったから。
リンの一人前になったお祝い、と言って享悟がくれたものだったから。
他のをつけるためには、この簪を外さなければならない。
けれど、この簪だけは、外したくなかった。
立派な品だったのに、毎日海風に晒されているうちに、少しずつ色が褪せてしまった。
先についていた鈴は、もう随分前から海風に錆びて、音もしなくなった。
そっと指で撫でる。
毎日、柔らかな布で丁寧に磨いている表面には、使い込まれたもの独特の艶がある。
彫り込まれた竜胆の金箔は薄れてしまったけれど、指の腹には馴染んだ花の姿を感じた。
日ごろから簪をさしている人なんて島にはひとりもいなくて、リンも最初は躊躇っていた。
けど、享悟はどうしてもさしてほしいと何度も言う。
とうとう根負けしてさすようになった。
すると、若い娘たちや、そうでない女たちも、簪や小さな飾りをつけるようになった。
島自体、以前より裕福になって、のんびりと華やいだ気分がゆったりと流れるようになった。
それもみんな、白銀の鬼のもたらした幸のおかげだと、みな言っていた。
お役目をこなすたびに、享悟は少しずつ磨り減っていくようだった。
会いにきてくれても、ひどく疲れた顔をしているときもあった。
無理せずに家で休んでいてほしいと言ったら、リンといるほうが回復するからと言われた。
なら、家に行くと言うと、それはやんわりと断られた。
享悟にはいつも、そこ以上は踏み込ませてもらえない一線のようなものがあった。
護法の任に就く前は、毎日一緒にいられた。
それがどれだけ幸せなときだったのか、今になってようやく分かった。
鬱々として眺める海は、もう昔と同じ色には見えない。
何も変わらない景色のはずなのに、ここには享悟はいない。
満ちた月が消えてしまうまで待っても、享悟は帰ってこなかった。
もうこれ以上は待たない。
リンはそう心に決めた。
***
享悟が行方を絶つ前の日に、会いに来た人のことを、リンは覚えていた。
確か、岬の末の姫、と言っていた。
今はどこかに嫁いでいるのだったか。
嫁ぎ先は婆に尋ねると教えてくれた。
嘉島という家だと言う。
十頭領家ほどではないにしても、由緒のある旧家だ。
訪ねるには少しばかり気後れしたけれど、そんなことを言っている場合じゃないと気を取り直した。
行ってみると、立派な門構えの大きなお屋敷だった。
門は開けっ放しで、中で働く大勢の人々がよく見える。
通りかかった下働きの娘に、リンは声をかけた。
「あの。こちらの奥様にお会いしたいんですけど。」
「奥様ですか?少々お待ちくださいませ。」
娘は目を丸くして、それから、ばたばたと走って奥へ行ってしまった。
しばらくして戻ってきた娘は、矍鑠とした老女をひとり伴っていた。
老女は、白い長い鉢巻をして、手に薙刀を携えていた。
「こちらが、あの、お客様です…」
下働きの娘はおどおどと老女にそう言うと、逃げるように小走りで去って行った。
リンは老女の顔をまじまじと見つめた。
「あの、この島の人は、ひと月くらいで急に年をとる、とか…?」
「なにを言うか、この小娘。無礼にもほどがある!」
老女は甲高い声でそう言うと、ぶんっ、とリンの胸元に薙刀を突きつけた。
「道場荒らしなら、堂々とそうおっしゃい!」
「はい?あ、いえ、そんなことは、ありません、ですよ?」
リンは大慌てで両手をぶんぶん振りながら後退った。
老女は訝しげに目を細めると、眼光鋭くリンを見据えた。
「丸腰で道場破りの猛者…にも見えない、かしら?
人は見かけにはよらないと言いますけれど…
貴女、武芸の嗜みは?」
老女は薙刀を納めると、リンにそう尋ねた。
「あんまり…いえ、全然、です。」
「あたくしに弟子入り志願、というわけでもなさそうね?」
「ああ、はい。すみません…
あの、キョウさんに、武芸とかは、危ないからやめろって、言われてて…」
「キョウさん?」
「あ。えっと…貴島家の享悟さんです。護法さんの。
わたしはその、守護?ということに、一応、なってて…」
「まあ!では、貴女があの、白銀様の?」
途端に老女は目の色を変えた。
「うっすらぼんやりとしたお嬢さん、だとは噂に聞いておりましたけれども。
白銀様は、己の守護は滅多に人前にお出しにならないから。
こんな、どうということはない、普通のお嬢さんだったの?」
老女の物言いはなかなかに失礼だったが、リンは怒るより笑い出してしまった。
「すみません。
キョウさんはすっごく立派な護法さんなんですけど、わたしは全然釣り合ってなくて。
こんなのを守護にしておいてくれるくらい、キョウさんは、優しい人です。」
あっけらかんと返されて、老女はぐっと口ごもった。
流石に失礼だったと気付いたらしい。
けれど、リンのほうにはまったく悪意はなかった。
「それより、あの、すみません…えっと、その…水七さん、じゃあ、ない、です、よね?」
申し訳なさそうにリンはそう尋ねた。
老女のほうも、ようやく誤解に気付いて、やれやれという顔になった。
「あんな小娘とあたくしをお見間違えになったとおっしゃるの?
流石、うっすらぼんやり…」
つけつけと言いかけて、慌てて咳払いをしてごまかす。
「嫁は、宅のバカ息子が…誰か、水七を呼んできなさい。」
いつの間にか周囲から人影は消え去っていたが、老女の声には大勢が一斉に返事をした。
ばたばたと走り去る足音も複数あった。
どうやら、かなりの人数が、固唾を呑んで物陰から様子を見守っていたらしかった。
「あの、もしかして、水七さんの旦那さんのお母さん、なんですか?」
ようやく事情を察したリンが恐る恐る尋ねる。
老女は胸をそらして高らかに宣言した。
「そうですよ。この家で奥様と言えば、あたくしに決まっているでしょう?」
「ああ、なるほど。それは、失礼いたしました。」
ポンと手をうち、明るく謝るリンを、老女は目を眇めて観察するように見た。
「貴女が白銀様の守護…なるほど、ねえ…」
観察というより値踏みだった。
「水七は支度に時間がかかるでしょうから。
よろしければ、あたくしのお部屋でお茶でも如何かしら?」
誘っているようだが、どこか有無を言わせない強引な感じが漂う。
「あ。はあ。いただきます。」
思わずリンはそう答えていた。
***
半刻後。
嘉島家の奥座敷からは、朗らかな笑い声が轟いていた。
「まあ、白銀様は、釣りがお下手でいらっしゃるの?
それはそれは。
天は二物を与えませんわねえ。」
口元を抑えて楽しそうに談笑するのは、薙刀の老女改め、この家の奥方、シカだった。
「それで、好物はおにぎり?
十頭領家の総領坊ちゃまなのに、随分、庶民的なご嗜好だこと。
親近感を覚えますわ。
ますます、好きになってしまったわ。」
嬉しそうにばんばんとリンの背中を叩く。
「そんな地味なご趣味だから、守護にも貴女をお選びになったのかしら。」
「なるほど。それは、わたしも気付きませんでした。」
あはははは。声を合わせて二人笑った。
どうやらこのシカは、悪気はなく、言いたいことを言ってしまうところがあるらしい。
繊細な娘なら傷つくかもしれなかったけれど、幸い、リンはけろりとして共に笑っていた。
そもそもどちらにも悪気などない。
「あら、お茶がもうないわ。
お菓子も、もっと召し上がれ。
貴女、少し細すぎるのではなくて?
もう少し召し上がらなくては。」
シカは上機嫌でリンに茶菓を勧める。
「そうそう、都から取り寄せたとっておきのがあるのよ。
ちょっと待ってらしてね。
誰か、誰かいないの?」
「はい。ただいま。」
シカの呼び出しに、間髪を入れず、下女が答えた。
どうやら部屋のすぐ外に控えていたようだった。
「いつもは、こんなではないのよ?
ふすまのむこうで聞き耳でも立てているのかしら。
きっとみんな、貴女に興味津々なのね。」
声を潜めてシカは悪戯を告白するように言った。
「興味津々って、わたしに、ですか?」
「だってほら、貴女、噂の白銀様の守護ですもの。」
「そっか。キョウさんの人気って、すごいんですね。」
素直に同意するリンをシカはまじまじと見て言った。
「白銀様は、もっと貴女を表にお出しになればよいのに。
貴女なら、ちゃんとみなさんに受け容れらるでしょうに。」
「受け容れられる?」
「だってね、ほら、白銀様は、みなの憧れの君ですもの。
なまじな守護なら認められない、って方は大勢いらっしゃるのよ。
だから、白銀様も貴女のことをみんなから隠していらっしゃるのですわ。
きっといじめられるとでもお思いになったのね。
でもね、あたくしは思いますわ。
貴女を守護になさったのは、他ならない白銀様ではありませんか。
ならば、もっと自分の選択に自信を持つべきだわ。
白銀様はもっと堂々となさっていればよろしいのよ。」
「…もしかして、流石のキョウさんも、わたしのことは恥ずかしかったんじゃ…?」
「そんなことはありませんことよ!
いえ、むしろ、白銀様は、貴女のことを隠して独り占めなさりたかったのかも。
そうに違いありません。
貴女をみなに知られたら、減るとでも思っていらっしゃるのよ。」
「へ、減る?」
「そんなことはありませんよ、もちろん。
白銀様のご心配など、杞憂もいいところです。
一度お目にかかって、直接お説教してさしあげたいわ。
年寄りの値打ちなんて、そんなところにしかありませんものね。」
「そんなことはありませんよ。
シカさんは、薙刀もできるし、こんな大きなお家の奥様だし。
お友だちも好敵手もたくさんいらして、なんだか楽しそうだし。
息子さんもいて、お嫁さんもいて、大家族で、それ、作ってきたの、シカさんですよね。」
シカは口を噤んだまま、しばらくまじまじとリンを見ていた。
沈黙に耐えかねたリンが居心地悪そうにもじもじすると、ふっと小さく笑う。
その目はとても優しかった。
「なるほどねえ。
そりゃあ、白銀様も貴女のことを手放さないわね。」
シカは深く納得したように頷いた。
少しの間に、シカは随分、リンのことを気に入ったようだった。
最初の、うっすらとぼんやり、な印象はすっかり払拭されたらしい。
気難しいと有名なシカも、リンの傍は不思議に居心地がいい様子だった。
そうして気づくと、いつの間にやら朗らかに笑い声を上げていた。
そこへ、外から遠慮がちに声がかかった。
「奥方様。若奥様のお支度が整いましてございます。」
ああそうか。若奥様と言えばよかったんだ、とリンは思った。
シカはどこか嫌味の混じった視線をふすまに向けてひとりごちた。
「まあまあ。ようやっとですか。
お入りなさいな。」
シカの声と同時にすっとふすまが開いて、そこに水七が手をついていた。
久しぶりに見る水七は、少し痩せていて、けれど、どことなく艶めいて美しかった。
その水七の後ろから、どすどすという足音と共に甲高い声が聞こえた。
「母上!水七にお呼び出しとはいったい何の御用なのですか?
お小言なら、あたしが伺いますと…」
「これ。控えなさい。お客様の前ですよ?」
シカが叱るようにそう言うのと、この家の若旦那が部屋に踏み込んできたのとはほぼ同時だった。
「あ。」
部屋の中にいたリンに気付いて、若旦那はぽっかり口を開いたまま黙った。
「水七に御用があるのは、こちらのリン様ですよ。」
シカはあきれたようにそう言うと、リンにむかって、謝るように笑いかけた。
「まったく、失礼な息子夫婦で恥ずかしいわ。」
「ご無沙汰しております。リン様。」
水七は嬉しそうに目を上げてリンを見た。
「さてさて。ここからは女同士の大事なお話し。
ほら、邪魔者は行きますよ。」
シカはさっさと立つと息子の襟首を掴んでそのまま後ろにぐいと引っ張った。
「水七。お話しはここでなさいな。
お茶やお菓子も揃ってますからね。」
ちらりと水七を振り返ると、そう言い置いて、あとはずんずんと息子を引き摺って行ってしまった。
***
水七は静かにふすまを閉めるとリンの前にむき直った。
礼儀作法の苦手なリンは、なんとか失礼のないようにと頑張ってお辞儀をした。
「お久しぶりです。水七様。」
「まあ、どうぞそんな他人行儀なのはよしてくださいまし。
義母もご覧になられましたでしょう?
この家の家風はもっとざっくばらんな感じですわ。」
水七は楽しそうにそう言って微笑んだ。
「ところで、わたくし、みなさん、とか、みなさま、とか呼ばれるのは嫌いですの。
昔、兄にそう呼ばれてさんざんからかわれたので。
どうぞ、みぃ、とお呼びくださいませ。
姉たちや、照太兄様、主人も親しい方たちはみなそう呼んでくれますわ。」
「え?いや、でも、わたしがそう呼ぶのは、ちょっと畏れ多い、と申しますか…」
腰のひけるリンに、水七はずいっと詰め寄った。
「貴女はわたくしの最初のお友だちですもの。
十分にそう呼ぶ資格はあります。」
「え?お友だち…?」
いつの間にそんなことに?というのは、畏れ多くて口に出せなかった。
「貴女の保護者様からもお許しを得ておりますからね。」
食い下がる水七に、享悟はしぶしぶ頷いた、というのは、水七はあえて言わなかった。
享悟、の名を聞いたリンは、少しばかりほっとしたように頷いた。
「そうですか…キョウさんが…」
それから、ぺこり、と頭を下げた。
「えっと、じゃあ、どうぞよろしくお願いします。
その、みぃ、さん?」
まだ少し遠慮があるのか、どことなくぎこちなく呼ぶ。
水七は、あら、と微笑んだ。
「さん、は不要でしてよ?みぃ、と呼んでくださいませ。
ああ!でも、貴女は、白銀様のことも、キョウさん、とお呼びですわね?
さん、をつけたほうが貴女が呼びやすいのであれば、もちろん、それでも構いませんわ。
言葉も、もう少し砕けた表現になさってもよろしくてよ。
そのほうがお話ししやすいでしょう?
ああ、わたくしのほうは、この口の利き方がもう板についておりますので。
申し訳ありませんが、こちらを通させていただきますわ。
このほうが話しやすいものですから。ごめんあそばせ。」
「…はあ…」
押しの強い水七に一気にまくしたてられて、呆気に取られたリンは、それしか出てこなかった。
言うだけ言うと、水七は、いきなり口を閉じて、じぃぃぃぃっとリンを見つめた。
「ところで、わたくしに御用とは一体、なんでしょう?
貴女のほうから訪ねてくださったのはとても嬉しいですけれど。
わたくしとお茶を飲みにいらしたわけではないのでしょう?」
話しをむけられて、リンは気を取り直して話し出した。
「あの、前にキョウさんがみぃさんに何か尋ねたいことがある、って言ってましたよね。
そのことを教えてもらえないかな、って…」
それを聞いた途端に、水七は用心深い目になって、リンのことを見つめた。
「それを聞いてどうなさるおつもり?」
いきなり凄みのある目をする水七にリンは、ごくりと唾を呑んだ。
「それは…その、聞いてみないことには分かりませんけど…
実は、キョウさんは、みぃさんとそんな話しをしていたすぐ後に、行方が分からなくなってしまって。
どこへ行ったかも、何をしに行ったかも、分からないんです。
最初はお役目なのかと思って待ってたんですけど…
もうひと月も、連絡もなくて。
貴島の家に行ってみたら、貴島の家の人もキョウさんの行方は分からなくて。
それで、お役目じゃなくて、キョウさんはいなくなったんだ、って分かって。
だから、なにか、探す手掛かりはないかと思って…」
経緯を話すリンに、水七はみるみる目を丸くした。
「それは、本当なのですか?」
「…嘘はついてません。
貴島の家の人も、嘘をつく理由もないし…
これまでもお役目のときには、ふらっといなくなって、ふらっと帰ってきてたから。
だから、最初はいつも通りのお役目なのかと思ってたんです。
でも、お役目なら、貴島の家の人は知らないはずはないだろうし…」
「いいえ、嘘だと疑ってるわけではありませんの。
そうではなくて…
白銀様は、あの後、行方不明になられたの?」
「ええ。だから、なにか、キョウさんの行方の手掛かりになりそうなこと、知りませんか?
みぃさんは、キョウさんとなんのお話しをしたんですか?」
水七はぐっと押し黙ると、じっとリンの目を見つめた。
リンは今度はその目を真っ直ぐに見つめ返した。
水七はひとつ頷いてから、話し始めた。
「あのとき、白銀様とわたくしの話したのは、照太兄様のことでした。」
「しょうたにいさま?」
「わたくしが守護としてお仕えしていた護法様です。
いえ、それも、正確には少し違うのですけれど…」
水七は言いにくそうに一度口籠ってから、改めて覚悟を決めるように目を上げた。
「このことはもう白銀様もご存知のことですから、貴女にはお話ししましょう。
ただし、他言無用、だということは、ご理解ください。」
リンが頷くのを確認してから、水七はおもむろに口を開いた。
「わたくしは、照太兄様の真の守護ではありませんでした…」
そこで一度、深呼吸をする。
そのあとは一気に打ち明けた。
照太には真の守護との間に子どもがいた。
水七はそれがリンなのではないかと疑っていた。
けれど、享悟はそれを否定した。
リンと爺婆との間には血縁はないのだと。
照太との関わり、照太が盲目だったこと。
そして、たったひとつだけお役目を請けていたこと。
語り始めるとそれはとても長い話しだった。
けれど、そのどこに享悟の行方の手掛かりがあるのか分からない。
水七は、あのときのことを丁寧に思い出しながら、話しを再現していった。
ただ、たったひとつだけ、照太の真の守護がリンの母親だったことだけは隠していた。
それを話してしまうのは、享悟との約束に悖ると感じたからだった。
だから、照太の真の守護のことは、なるべく当たり障りのないようにしか話せなかった。
リンは長い話しをじっと聞いていた。
水七の話しは驚くことばかりだった。
偽物の守護、の言葉には、つきりと胸が痛んだ。
守護に真や偽があるということをリンは初めて知った。
ひどく不安になってくる。
自分はやっぱり、偽の守護だったのかと思う。
水七の苦悩も、他人事ではなかった。
「みぃさんは、小さいころからちゃんと修行もして、ちゃんと儀式もしたんですよね?
それでも、真の守護じゃなかった、って…
わたしは、修行もぜんぜんしてないし…
結契、ってのも…キョウさんは、した、って言ったけど…
きっと、多分、あれは、ちゃんとしたわけじゃないと思うし…」
「貴女がそんなふうに悩んでいらっしゃると、白銀様もおっしゃってましたわ。」
水七にそう言われて、リンは顔を上げた。
「けれど、白銀様は、貴女は確かに自分の真の守護だ、と。
そうはっきりとおっしゃいました。」
心細そうな表情をするリンに、水七は安心させるように微笑んでみせた。
「真の守護になるために必要なことは、厳しい修行でも、正式な結契でもないのかもしれません。」
水七は言葉を選ぶように首を傾げながら、そう話した。
「残念ながら、真の守護にはなれなかったわたくしに、その神髄は到底分かりかねるのですけれど。
ただ、白銀様のおっしゃることを聞いて、そう考えたのです。
そして、おそらく、白銀様は、その神髄をちゃんとご存知なのだと思います。
そのうえで、リン様を、ご自身の真の守護だとお認めになっている、と。」
分かったような分からないような…
情けない顔になるリンに、水七はまた少し笑ってみせた。
「白銀様は、掟を遵守することは、必ずしも、最善ではないのだとおっしゃいました。
大切なのは、その神髄を守ることなのだと。」
「じゃあ、照太さん、の真の守護さん、って人は、その神髄、ってのが、できてた、ってことですか?
けど、そもそも、どうしてその人が、真の守護だ、って分かったんですか?
修行も結契も関係ないのに…」
「それは、照太兄様とその方との間に、お子様がいらっしゃったからです。」
「お子様?」
「護法は、守護との間にしか、子を成せないのです。
もっとも、子を成すことは、一番重い禁忌です。
護法は罪を問われることはありませんが、守護は即座に断罪されます。」
「断罪?」
その言葉の重みにリンは目を見開いた。
水七は驚くリンをじっと見つめて、暗唱するように呟いた。
「護法様は守護に自分よりも大切なものができることを厭います。
たとえそれが我が子だとしても、我慢できずに、時には殺してしまいます。
我が子を失って守護が悲嘆に暮れれば、護法様はその守護をも殺します。
そして、守護を失った護法様は、自らの命もまた絶ってしまいます。
だから、守護は決して護法様と結ばれてはなりません。
これは島の掟です。」
「島の、掟…?」
「島の掟を暗唱することは、守護の一番最初の修行なのです。
禁を犯しても、護法様に咎めはありません。
けれど、守護は厳しい罰を受けます。
守護の本分を忘れれば、厳しい責めを受けるのは当然です。
守護の任に就けば、井戸水を飲むことは免じられます。
だから、島の親たちはみな、吾子を守護にしたいと望んでいます。
けれど、守護になれるのは、その年に護法になったのと同じ人数だけ。
それゆえに、守護には、護法以上に厳しい規律が求められるのです。
そして、それを破れば、厳しい罰も待っているのです。」
恋人にも、お嫁さんにもできないけど、僕は、君のこと、ずっとずっと、大好きだよ。
享悟の言った言葉をリンは思い出した。
享悟はリンに禁忌を犯させるまいと、そうしてくれていたのだ。
お嫁さんにしてください、という言葉を、リンはとても勇気を出して告げた。
けれど、それを享悟は、自分のからだを傷つけまでして断った。
どうして享悟がそんなことをしたのか、あのときのリンには分からなかった。
けれど、今になって、ようやく、分かった。
享悟はいつも、リンのことを考えてくれている。
何より、大切にしてくれている。
改めてそう思うと、胸がひどく辛く、苦しかった。
「わたし、護法のことも守護のことも、何にも分かっていませんでした。」
リンは悲しみと反省を込めてそう言った。
「全部、キョウさん任せにして。
キョウさんの言う通りにすればそれで大丈夫だ、って思って。
自分では何も考えていなかった。」
「白銀様は、あえて自分がそうしたとおっしゃってました。
貴女に、鬼の島の習わしなど教える必要はない、と。
なのに、こんなお話ししてしまって…
わたくし、白銀様に叱られてしまいますね。」
水七はわずかに苦笑して続けた。
「白銀様は、貴女に、掟を、守らせたくない、のではなく、教えたくない、のだ、と。
守らなくてはならない部分は、自分が守っていればいい、と、そうおっしゃいました。
あの方は、そうやって貴女を全力で守ってこられたのでしょう。」
水七の優しい瞳に、リンは思い切り首を振った。
「そうやって大変なこと全部、わたしはキョウさんに甘えてました。
キョウさんは辛いこと全部、わたしに黙って引き受けてくれてました。
けど、ずっとそんなことやってたから、こうしてキョウさんがいなくなっても探す方法も分からない。
どこにいるのか、どうしているのか見当もつかない。
こんなんでわたし、守護だなんて、やっぱり言えないと思います。
守護ってのは、護法を守る者だ、って、それだけはちゃんと知ってたのに。
それだけ知っててくれれば、十分だ、って、キョウさんは言いました。
だからわたし、キョウさんの守護になって、キョウさんのこと守るんだ、って、思ってたのに。」
リンは強く訴えるように水七を見た。
「もしかしてキョウさんはどこかでひどく困っているかもしれません。
だったら、わたしが助けに行かなきゃ。
みんなキョウさんのこと、強くて賢くて何でもできて凄い鬼だって思ってるけど。
確かに、キョウさんは、何でもできて、凄い人だけど。
でも、本当は、優しくて、戦とか嫌いで、お昼寝の好きなのんびり屋さんなんです。
もしもわたしがキョウさんの守護なら、そういうキョウさんこそ、守らないとダメなんだと思います。
護法でないキョウさんをちゃんと守らないと。
キョウさんが護法になる前の姿を、わたしは、たくさんたくさん知っています。
多分それが、本当のキョウさんの姿なんだとわたしは思います。
護法のキョウさんの傍にいても、わたしなんか、足手まといにしかならないけど。
護法でないキョウさんなら、わたしにも守れるかもしれません。
護法と守護になってからは、ずっと護法のキョウさんのことばっかり見てました。
強い鬼だ、凄い鬼だ、格好いいって、みんなの言うようなキョウさんの姿ばかり。
キョウさんはいつもどこか辛そうで。
でも、絶対に辛いって言わなくて。
わたしのことばっかり心配してた。
そんなんじゃダメだって、わたし、どこかでずっと思ってたのに。
ずっとそのままにしてきました。
でも、もう、それはやめます。
わたし、ちゃんとキョウさんを守れる守護になりたい。
キョウさんがわたしのこと、本当の守護だ、って認めてくれるんなら。
わたしは、そのキョウさんにきちんと応えます。」
懸命に訴えるリンを、水七は黙ってじっと見守っていた。
それから、優しく微笑んだ。
「わたくしにも、貴女のお手伝いをさせていただけないかしら?」
「いいんですか?」
目を丸くするリンに、水七は優しく微笑んだ。
「白銀様はわたくしがわたくし自身にかけていた長年の呪いを解いてくださいました。
受けた恩を返さないのは、わたくしの信義に悖りますわ。
こう見えて、わたくしも守護の修行は納めております。
それに一応、十頭領の名に連なる家の出身ですわ。
なにかお役に立てることもあるかもしれません。」
「嬉しいです。
水七さんに力になってもらえるとか、思ってなかったから。」
「あらあら、また、みなさん、になってますわよ?
わたくしは、みなさんでなく、みぃさんですわ。よろしくて?」
リンは慌てて口を押えた。
そのリンに向ける水七の眼差しはどこまでも温かかった。
「あ。はい。
よろしくお願いします。みぃさん。」
リンは改めて頭を下げた。
そのとき、ぱんっ、といい音をさせてふすまが引き開けられた。
「それ、あたしにも手伝わせてもらえませんかね。」
そう言って姿を現したのは、この家の若旦那、水七の夫君だった。
「白銀殿には、あたしも恩義を感じているんですよ。
愛妻殿が手伝うとおっしゃるなら、あたしもそれに一口乗せてください。」
「え?…あの…」
突然の乱入に戸惑うリンに、水七は慌てて紹介した。
「ご無礼をお許しくださいませ。主人の平助です。」
ぽっちゃりして色白で、くりくりした目が印象に残る。
声とからだばかり大きい好奇心旺盛な仔犬のようだ。
困った顔をしている水七の前に、平助はずいと身を乗り出した。
「うちは十頭領家でもないし、護法も守護も出したことのない家なんですけどね。
島では旧い家ですから、もしかしたら、何かお役に立てることもあるかもしれません。」
「護法も守護も出したことない?」
そんな家もあったのかとリンは思った。
平助は自慢げに胸をそらせた。
「うちは十頭領家と同じくらい旧くからこの島にあるんですよ。
けれど、先祖代々、水に馴染んだ者はひとりもいない。
一応、十になれば井戸水は飲みますけれどね。
水に馴染んだことは、これまで、一度たりともありません。
確かに、島の人間は十頭領家でなければ滅多に水に馴染まないですけど。
一度もない、というのはうちの血筋だけですよ。」
平助は水七の肩にそっと労わるように手を置いた。
「だから、君はもう何も心配しなくていいんだよ、愛妻殿。
君の産む子どもたちは、護法の柵からは解放されている。
無理やり守護にして、人の恨みを買うことももうないんだ。
君はもう自由になっていい。」
ひとのよさそうな平助は、水七のことが愛しくてたまらないように、じっと見つめている。
それへちらりと視線を返す水七も、夫のことをとても大切に思っているようだった。
「なんか、お二人、仲良さそうで、いいですね。」
思わずそう言ったリンに水七は深く頷いた。
「わたくしたちがこうなれましたのも、白銀様のおかげなのです。
本当に、感謝してもしきれません。
けれど貴女と白銀様も、わたくしたち以上に仲良しではありませんか。
わたくし、ときどきお見掛けして、羨ましく思っておりましたもの。」
水七の言ったことに先に反応したのは、平助だった。
「なんと!それはそれは。寂しい思いをさせてしまってごめんよ。
それならそうと早く言えばよいのに。」
そう言ってリンの目の前で水七の肩を抱き寄せる。
水七はそれを多少冷たく突き放した。
「いえ、旦那様。貴方のことではございません。
この家に嫁ぎましてから、わたくし、寂しいなどと思ったことはございません。
むしろ、最近は、もうすっかり、お腹いっぱい…」
リンはこの仲良し夫婦にすっかり当てられて、ぽっかり口を開いたままただ眺めるだけだった。
水七、平助、それから、シカ。
みな一癖も二癖もあるけれど、人柄の温かな人たちだ。
護法にはならない旧い家という存在も、初めて知った。
つくづく、この島のことを、自分は何も知らなかったと思う。
「さっきのお話を伺ってね、あたしは思ったんですよ。」
平助は話しを全部立ち聞きしていたことを隠そうともせずに切り出した。
「白銀鬼殿というお人は、聞きしに勝るお人好しだ。
護法だとか鬼だとか、この島の人間は、そういうものに惑わされ過ぎているんです。
根はみんな心を持った同じ人間。
手前勝手も、打算的も、護法の専売特許じゃありません。
残忍だって、乱暴だって、護法でない人間にだって当てはまること。
なにより、白銀…、いや、もう、享悟殿と言ってしまいましょう。
享悟殿は、人一倍、優しくて強い男じゃありませんか。
彼が黙ってひとりで辛いことを引き受けてきたのは、よく分かりました。
けど、もう、それを知ってしまった以上は、いつまでもそんなままにはしておけません。
同じ島に生きる同じ人間として、あたしたちは、彼が困っているなら手を伸ばさないと。
それは当たり前のことだと思います。」
「有難うございます。」
リンは思わず頭を下げていた。
平助はそんなリンに、ちょっと眩しそうに目をぱちぱちさせた。
「貴島の護法の守護姫ともあろうお方が、嘉島なんかに頭をお下げになるとは。
いやいや、生きていれば、そんなこともあるもんですねえ。」
どこか自嘲的なその言い方にリンが首を傾げると、平助は軽く言った。
「嘉島は、ずっと、蔑まれてきた家なんですよ。
たったのひとりも護法を出していない家としてね。
島にはまったく貢献しない家、というわけです。
ことに十頭領家の方々からは、同じ人間として扱われないというか。
視界の端に入れるのも嫌だ、みたいな扱いでね。」
「…申し訳ないことです…」
小さくなって頭を下げる水七に、平助はにっこりと笑った。
「貴女はそんなことはなさいませんでしたよ、愛妻殿。
みなに蔑まれ、足蹴にされるあたしを庇ってくださった。
あのときの凛とした貴女の背中に、あたしは一目惚れしたんですから。」
へえ~と感心したように見るリンに、平助は自慢げに胸を張った。
「こう見えてあたしは、岬の水七姫のことは、ずっとずっと昔から存知上げているのです。
うちの愛妻殿は、筋の通らないことは決してしない方でしてね。
己の良心に決して恥じない生き方を貫くと決めている。
真の芯のある強い人なんです。
この方に味方についてもらえれば、それこそ百人力。
大船に乗ったつもりでどーんと構えておられるとよい。」
「ちょっと、旦那様、それは買い被りすぎ、というものです。」
「なにをおっしゃいますか、愛妻殿。
貴女はまさしく勝利の女神。
貴女に微笑んでいただくだけで、最早、成功をこの手に掴んだも同然です。
享悟殿の行方もちょちょいのちょいと掴めるでしょう。」
「…申し訳ありません、リン様。
この人に関わっているといつまで経っても話が進みません。
まったく、手伝いにきたのか、邪魔しにきたのか分かりませんわ。」
水七は横目で夫を睨みながらリンにむかって頭を下げた。
「もちろん、お手伝いに参ったのですよ。
話が頻繁に横道に逸れるのは、貴女が可愛すぎるせいです。愛妻殿。
邪魔をするつもりなど毛頭ありませんとも。」
平助はにこにこしながらけろりと言い放った。
「まあ、あたしもたいがいの妻バカですが、そこは享悟殿も勝るとも劣りませんよね。
あの方のリンバカっぷりには、あたしも呆れるを通り越して感心しております。
いやあ、あそこまで極められれば、それはそれで、お見事。」
「ちょっと!旦那様!
余所様を引き合いに出すばかりか、あまつさえ、おバカよばわり…
リン様、宅の主人が真に申し訳ありませぬ。」
水七は慌ててたしなめると申し訳なさそうに頭を下げる。
「あ。あー…あは、あははは…」
リンはごまかすように笑った。
確かに、享悟のリンバカっぷりは度が過ぎているとリンも思う。
もっとも、あまり人前ではやらないから、他人に知られているとは思わなかった。
平助は構わず続けた。
「もうね、からだじゅうからにじみ出ておられますよね。
可愛い可愛い可愛い、大好き大好き大好き、って。
視線から声の調子からちょっとした動きから。
全身全霊を込めて、リン殿のことを愛でておられる。」
「…そ、そう、ですか?」
ここまで力説されると、どこかくすぐったくなってくる。
リンは思わず俯いた。
「と、斯様に享悟殿というお方は、とても分かりやすいお方なのですよ。
お役目の外で行動を起こされるのは、リン殿に関わることのみ。
とまあ、それを踏まえたうえで、ここ最近の享悟殿の行動を思い返してみると…」
平助の言葉につられて、リンも水七も記憶を辿ってみた。
「この間帰ってきた後、キョウさんは貴島のお家の蔵に籠ってなにか調べものをしていました。
お家の用事だ、って言ってたけど…
なんだか、変わった護法さんがいて、その人のことを、調べている、って…」
「その変わった護法というのは、おそらく、照太兄様のことだと思います。」
「それはあたしもそう思いますね。
だからこそ、うちの愛妻殿のところへお見えになったのでしょうから。
しかし、どうして享悟殿は、照太殿のことを調べていたんでしょう?
家の用事というのは、おそらく、リン殿を遠ざけるための方便。
愛しいリン殿をわざわざ遠ざけてまで照太殿のことを調べていたのは、何故?」
水七は首を振って返した。
「けれど、享悟様は、リン様は照太兄様のお子様ではない、と…」
「そう断言できたのは、一度は享悟殿もそうではないかと疑って調べたから、ではないのかな?」
平助に言われて、リンも水七も目を見張った。
「でも、では、どうしてそうではないと確信を?」
「それなんだよね…」
平助は顎を掴んで首を傾げた。
「水七に会う前から、享悟殿は照太殿がリン殿の父上ではないと確信しておられました。
なのに、照太殿については引き続き、調べておられたわけです。
それは、何故なんでしょうね?
お役目に関わることならば、そういうことはお調べ方の仕事なはずです。
享悟殿自らおひとりで調べておられるというのはおかしい。
さっきも言ったように、享悟殿がわざわざ動くからには、それは必ずリン殿に関わるはず。
…そこになにか、あるはずなんですが…肝心なそれが、見えてこない…」
むぅ、と水七とリンとは同時に唸った。
「照太殿のお役目に、何かリン殿に関わるようなことはなかったんですか?」
「同じことを、享吾様からも尋ねられましたけれど…
申し訳ありませぬ。わたくしは、兄様のお役目については、ほとんど何も知らないのです。」
水七はしょんぼりと俯いた。
「でしたねえ。
それはさっきあたしも聞いてました…」
「けれど、照太兄様がお役目で島の外に出ていたのは、ほんのわずかな間ですわ。
そのころリン様は、まだ生まれたばかりの赤子だったのではないかしら…」
「生まれたばかりの赤子?」
平助はなにかにひっかかるようにそう繰り返した。
「リン殿は、ちょうどそのくらいのお歳なのですか?」
「ええ。確か…
だからこそ、わたくしはリン様が、兄様のお子様なのかと考えたのですから。」
むぅ、と唸ったのは、今度は平助だった。
「…あたしは、そんなに頭はよいほうではありませんでしてね…」
何を突然言い出すんだ、と見守る視線のなかで、平助はぽつりぽつりと言った。
「どうにも昔の記憶というものは、あれこれと混ざってしまっていて…
はっきりとは覚えていないことも多いのですけれど…」
す、と真剣な目をした平助に、水七とリンは思わず息を呑んだ。
「照太殿が護法に就かれたころ、と言いますと、ちょうど、水七殿は守護になられたころ。
あたしも、元服をいたしまして、嘉島の家を継ぐための修行を始めておりました。
そのころはね、この島も貧しくて…民の食糧をなんとか確保するために、奔走しておりました。」
平助は辛いことを思い出すように眉を顰めた。
「ちょうどそんなときです。
ひどく実入りのいい依頼があるらしい、と父から聞かされました。
これで少しは島の民の暮らしも楽になる、と思った矢先。
そのお役目は十頭領の会議で却下された、と。
あれには、父も酷く落胆しておりました。」
平助はひとつため息をついてから、続けた。
「けれど、そのお役目の内容を聞いて、あたしも、止むを得まい、と思ったんです。
それは、生まれたばかりの赤子の命を奪う、というお役目だったそうです。
そんなことをすれば、島の民は赤子の命を喰らう鬼になってしまう。
会議は護法様だけでなく、島の民の矜持も守ったのだと思いました。」
「…生まれたばかりの赤子…?」
奇妙に符合するその言葉を、水七は繰り返した。
それに平助は頷いた。
「けれど、そのお役目は却下されたんですよね?」
不安そうに見上げる水七を平助はじっと見返した。
「正式にはね。
けれど、この話には、続きがありまして…」
平助は言葉を切ってしばらく躊躇うようにしてから、続きを話しだした。
「半年ほど経ってから、だったでしょうか。
島に送り主不明の大金が送り届けられました。
受け取り人は、岬家の前のご当主、水七の父上です。
義父上は、それを全額、島へと寄進しました。
その金子のおかげで、島は持ち直すことができました。
そのことだけを取り上げてみれば、ちょっとしたいいお話のように見えなくもないのですけれど。」
平助は水七のほうを気遣うようにちらりと見て言った。
「送り届けられた金子は、きっちり、赤子の暗殺の報酬と同じ額だったそうです。」
水七とリンとは同時に目を丸くした。
「その少し前から、照太殿は行方を絶っておられました。
護法の行方不明はさほど珍しいことではありません。
お役目の最中に命を落とす護法も少なくないからです。
けれど、それまで照太殿はそれほど危険な場所に送られることはなかった。
突然の行方不明は、少しばかり奇妙でした。
しかし、照太殿はそれほど華々しい活躍をした護法ではありませんでした。
なので行方を絶ったと聞いても、気に留める者はそう多くはありませんでした。」
「まさか、照太兄様が、赤子殺しのお役目を果たしたとおっしゃりたいのですか?
けれど、いかな護法様と言えど、頭領の会議に逆らって勝手にお役目を請けることはご法度。
見つかれば護法様であっても厳しい罰を受けるはずです。」
「罰を受けたかどうかは定かではありません。
護法照太はその後行方を絶ったきりなのですから。
岬の身代は既に水六兄上に引き継がれていたために家へのお咎めもなかったようです。
けれど、義父上は金子を寄進された後、自ら蟄居なさったとか。」
「父がお役目を退いたのは、そのためだった、とおっしゃるの?」
「少なくとも、岬の家を水六兄上に譲ったときの、健康上の理由、というのは見当たらないかと。」
「…確かに、父はずっとぴんしゃんしておりますけれども。」
水七はどこか納得いかないように口を噤んだ。
「照太兄様は、そんな非道なことはなさらない方です。
罪もない赤子に手をかけるなど。」
辛そうに眉を顰めて、けれど、どこか訴えるように平助は水七を見つめた。
「あたしもね、そう思いましたよ?
照太殿の人となりは、それなりに知っておりましたしね。
けど、だからこそ、さもありなん、とも思わないことはありませんでした。
そのくらい、そのころの島の惨状は酷かった。
赤子に罪はない。けれど、島の民だって、ほとんどは罪のない人たちです。
幼い頃から慣れ親しんだ故郷の人々の苦境を救うためなら、見知らぬ赤子に手をかける。
それもあり得ないことだとは思いませんでした。
ましてや、島には金子が送られてきた。それで大勢の島の民は救われた。
そして、岬のご当主は謹慎蟄居なさった。
もしかしたら、この件はご当主と照太殿、ふたりで示し合わせてやったことではないかと。
当時、あたしはそう思いました。」
水七はそんな平助を慈しむように見つめる。
平助は水七に応えるように、軽く微笑んで、その笑顔をふいに輝かせた。
「けれどね、さきほど、おふたりのお話を伺って、あたしははっとしたんですよ!」
立聞きしていたことには悪びれもせずに、平助は嬉しそうに言った。
「照太殿は、行方を絶つ前に、貴女におっしゃったのでしょう?
今度のお役目は、とても難しいけれど、とても尊いお役目だ、と。
そして、俺は誰も殺さずに、皆がそれぞれ平和に暮らせるようにしてみせます、と。」
そのくだりは享悟が聞き咎めたところだったから、水七もなるべく正確にリンに伝えていた。
それを聞いた享悟は、楽しそうに笑っていた、とも。
水七もはっとしたように聞き返した。
「兄様は赤子を殺さなかった、とおっしゃるの?
けれど、依頼主は、報酬を払ってくれたのでしょう?」
「そこなんですよね。」
平助は首をひねる。
ずっと黙って話しを聞いていたリンは、恐る恐る口を開いた。
「…護法さんは、依頼主に対しては絶対の誠実を通します。
けど、依頼主以外には、嘘を吐くことは躊躇いません。
わざと敵方の陣に潜入して、その頭目に仕えるフリだってします。
護法さんが一番気にするのは、一番大切な目的を果たすこと。
そして、誰が本当の依頼主なのかは、当の護法さんしか知らないんです。」
リンは思わずそう言っていた。
それは、ずっとリンが見てきた、お役目に対峙するときの享悟の姿だった。
「照太さんにとって、依頼主は別の方だった、ということはありませんか?」
「なるほど!」
平助は我が意を得たりとばかりに膝を叩いた。
「そういう働き方は、本来の護法のやり方とは少し違っているんです。
護法とは鬼神の如き強さで、味方を率いて戦に勝利をもたらす。
ずっと、それが護法というものだと、外の者らはもちろん、島の者だって思ってきました。
けれど、そうではない護法というのが、誰より、白銀の鬼、享悟殿です。
そして、享悟殿の前にもひとり、そんな護法がいたわけです。」
「照太兄様が、そうだと?」
水七も目を丸くした。
「けれど…では、照太兄様に依頼をなさったのはいったいどなたなのでしょう?
それに、それは十頭領の会議にはかけられたのでしょうか?
利害の相反する依頼がふたつあるときには、どちらも請けない。
それが護法様の原則だったように思いましたけれど。」
「それを知るためには、やはり、義父上にお伺いするのがいいんじゃないですかね?」
「お父様に?」
「そうと決まれば善は急げ。
今から行きましょう。」
「え?ちょっ、平助様?」
そそくさと部屋を出て行く平助を、水七は慌てて追いかける。
リンも置いて行かれないように、急いでついて行った。




