第十九章 ~悪夢
広げた両手は真っ赤な血に染まっていた。
目の前には、リンの母親が倒れていた。
胸には小さな刀が刺さっていた。
あれは、そうだ、元服の祝いにと、父のくれた守り刀。
母の形見の刀だった。
傍らにはリンが立っていた。
幼いリンではない。
今の成長した姿のリンだった。
リンを、呆然と見上げた。
ごめん…
喉から搾り出すような声でそう告げた。
僕が殺した。僕は君がほしくて。どうしてもほしくて。
だから、僕が、殺したんだ…
絶望が胸を浸す。
僕は、なんてことをした。
リンの大切な母上を…
自分の叫び声で目が覚めた。
恐ろしい夢だった。
全身まるで夕立にあったかのようにぐっしょりと汗で濡れそぼっていた。
ぜいぜいと息が苦しい。心臓の音が全身に共鳴している。
まだ半分くらい夢の中にいるようだった。
ゆっくりとからだを起こすと、辺りには真っ赤な花が溢れていた。
それが夢の中の真っ赤に染まった手を思い出させて、享悟は、もう一度悲鳴を上げた。
***
あの、真っ暗い夜。白銀の鬼の生まれた夜。
戦いの痕を残したままリンのところには戻りたくなくて。
清んだ水鏡に己の姿を映してみた。
月明かりのない、月立の夜。
満天の星を背負ってそこに映ったのは、白銀色に染まった鬼の姿だった。
呆然とした。
声も出なかった。
きっと、これは罰だと思った。
永遠に刻まれた罪の印だと思った。
白銀はところどころ赤く染まっていた。
手で水をすくって、ゆっくりと髪を洗った。
ぽろぽろと涙も落ちていった。
鬼になるとはこういうことかと思った。
水を飲んだだけでは本物の鬼ではなかった。
戦場に出ても、まだ、鬼にはなっていなかった。
けれども、とうとう、鬼になってしまったのだと思った。
策を以って人心を操り、人の運命を狂わせる。
そういうことを、どこか楽しんでいる自分にも気づいていた。
もうずっと前から自分は鬼であったのだけれど。
とうとうそれが、姿形に現れたのだと思った。
護法になったのだから、これは当然のことだ。
戦場で戦う護法は、何千、何万と、直接その手にかけるのだ。
それというのも、義のためだ。
これでようやく大勢の人々は圧制から逃れられる。
新しい為政者は、きっと、良政を敷くだろう。
民は安んじ、豊かな実りと、穏やかな日々は、長く続くに違いない。
もう、誰にも、踏みにじられることはない。
遠く遠く、人々の歓声と祭り囃子の幻聴が、聞こえた気がした。
否。
そんなことのために、自分は戦ったのではなかった。
自分は、ただ自分のために、自分の望みのためだけに…
魚なら、何匹も殺してきた。
生きているのを、ヤスで突いて捕まえた。
それは、食べるため。
リンや爺婆に食べさせるため。
悪い事だと思ったことはなかった。
食べなければ、誰も、生きてはいられないのだから。
護法が戦うのも、生きるため。
島の民を、生かすため。
義を護り、弱い人々の力になるため。
決して、私利私欲のためではない。
否。
そんなものは、ただの綺麗事だ。
幼い頃から体に刻み込まれた技は、いとも容易く、事を成し遂げた。
あれほど懊悩した日々が嘘のように、呆気なく、終わった。
それは、ごろり、と音を立てて、足元に転がった。
恨みを含み、白く濁った眼を見開いて。
その光景は目に焼き付いて、二度と忘れられなくなった。
う…
突然、悪心に襲われ、激しく嘔吐した。
吐いても吐いても、そこに血が混じっても、吐き気は収まらなかった。
涙が溢れた。
自分がからからに干からびるのではないかと思うくらい、水分が出ていった。
顔を映した桶の水に、顔ごと突っ込んだ。
息が苦しくなっても、そのままでいた。
このまま、息が止まってもよいと思った。
やがて目の前が真っ赤に染まり、それから黒く塗りつぶされていく。
完全な闇に落ちるその寸前、突然そこに、光が差した。
光のなかにいたのは、リンだった。
なんてことだ。
僕は、こんなことで負けて、リンを置いて行こうとしているのか!
あの鬼の島に。
この修羅の世界に。
怒りが沸いた。
弱い自分にだった。
リンを護るため、護法になった。
だったら、最後まで、リンを護り抜け。
穢れたこの手は、もうリンに触れることはできないけれど。
それでも、リンを護る力にはなれる。
井戸の水を汲んで、頭からばしゃばしゃと被った。
天の真名井の水でさえ、この穢れを清められはしないだろうけれど。
せめて、目に見えるところは、綺麗にしていこうと思った。
帰るころには、朝日が差していた。
明るい昼間の世界には、昨夜の出来事は悪い夢のようだった。
力任せに引き開けたその扉から、リンはころりと転がり出てきた。
まるで降ってわいた宝玉のようだった。
手の中に転がり込んできた、宝の玉だった。
一晩中、戸に凭れていたのだろう。
そうして、自分を待っていてくれたのか。
嬉しかった。ただただ、素直に、嬉しかった。
もう二度と、歓びなど感じられないと思っていたのに。
もう二度と、歓びなど、感じるまいと思っていたのに。
変わり果てた享悟の姿に、リンは驚いていた。
まんまるく目を見開いて、ぽかんと口も開いていた。
無理もないと思った。
それでも、受け容れてほしいと、願った。
この穢れた自分を。
せめて、リンを護ることを。
赦されたいと願った。
そして、手から零れ落ちた宝玉は、もう一度、この手のなかに、戻ってきた。
この宝玉は、己のものではないけれど。
己のものにすることは、できないけれど。
天から預った、大切な大切な宝物。
お返しするそのときまで、大切に護るもの。
もう一度、心に誓った。
そのとき、白い花が降った。
リンを護る意志に、一切の濁りはない。
一点の混じりもないその意志のような、白い花だった。
けれど、それを最後に、享悟はもう、花を降らせなくなった。
数々の任務をこなし、力をつけて、護法としての名も世間に広まった。
己を人質にリンを護ると豪語できるほどにもなった。
けれど、もう、享悟は花を降らせない。
うんと昔。ずっと昔。初めて、あの竹林でリンと出会った日。
享悟は花を降らせていた。
たくさん、たくさん、降らせていた。
笑うたび、花が溢れていた。
青い青い花だった。
幼いリンが、それを見て、喜んでいた。
ずっと厄介者だと思っていた力なのに、リンを喜ばせられるのが嬉しくて、そうしたらまた余計に花は降った。
島に戻って、護法になってからも。
ときどき、花は降った。
それはいつも、唐突に。
リンの笑顔がはじけると同時に、花もまた溢れて降った。
けれど、少しずつ、花は降らなくなっていった。
結契の後は、いっそう降らなくなっていった。
それでも、まったく降らなくなったわけではなかった。
ほんのときたま。雨上がりの虹が見られる程度には降っていた。
だけど、あの白い花を最後に。
花は一切降らなくなった。
お役目をこなすごとに、享悟は少しずつすり減って、心から笑えなくなっていった。
そして、花を降らせる力もまた、享悟から失われていった。
リンは預った宝物。
いつかは返さないといけないもの。
この手から、零して落とさないといけないもの。
永遠には護れない。
どれほどそれを望んでも。
この手のなかには、つかめない…
それは、どうしようもない、真実、だった。
***
人をこの手で殺めたのは、結局、後にも先にも、その一度きりだった。
しかし、間接的には、多分、もっと…
背負った罪の刻印はもう永遠に消せない。
ずっと、花を出すことはなくなっていた。
もう、あの力はなくなったのだと思っていた。
たいして困るわけでもないし、いっそこんな力など、なくなってしまえばいいのにと、ずっと思っていた。
だから、気にしないようにしていた。
けれど。今。
花が、溢れていた。
赤い、花だった。
心がざわざわする色をしていた。
無造作に腕で花を退ける。
どうせ幻。すぐに消える。
なんとか息を整えて目を上げる。
ぼんやりと目に入る光に、ああ、朝か、と思った。
あれから、いくつ、朝と夜とを繰り返したのか、分からない。
リンは、心配しているだろうか。
あの日、水六からの任務を請けて、享吾はすぐに出立した。
いや、しようとした。
いつもの、舟をつけてある秘密の洞窟。
島にはたったひとつだけ桟橋があり、外との行き来はそこから舟を出すしかない。
と思われていた。
けれど、享悟はこっそりこの洞窟を使っていた。
そこは島のいわば裏側にあって、少し突き出した岬のようになった場所だった。
一見、急峻な崖と尖った岩場しかない、ように見える。
その実、崖の内側は空洞になっていて、舟を付けることのできる小さな入り江もあった。
小さい頃、いじめっ子から逃げ回っていた享悟は、偶然、この洞窟を見つけて、以来、ここは享悟の秘密の隠れ家になった。
洞窟の入り口は海にむかって開けていて、普段は海の底に隠れている。
享悟ほど泳ぎの達者な者でなければ、見つけられないようなところに、その入り口はあった。
引き潮のほんの僅かな間だけ、小舟一掃ようやく通れるほどの隙間が開く。
もっとも泳ぎの得意な享悟は、いつも海に潜って中に入っていた。
少しずついろいろな道具も持ち込み、数日ならそこで暮らせるほど、物も揃えられていた。
舟も一艘、そこへ繋いであって、島への出入りもここからしていた。
表側の桟橋と違ってここの利点は、リンの住む高倉の家に近いこともあった。
それで享悟はいつも、誰にも気づかれることなく、真っ先にリンのところへ帰ることができたのだった。
ただ、この場所の難点は、真水が手に入りにくいことだった。
水を入れた袋を背負って海を泳ぐのは骨が折れる。
雨水を受ける桶も作ってあったけれど、海風の強いこの場所では、雨水も塩辛かった。
真水さえ手に入れば、何日でもここにいられるのだけれど。
幼いころから、何度もそう思ったが、それだけは、解決できなかった。
もっともここは、昼間もあまり日が差さなく、風も通らないから、じめじめしていて、薄暗い。
幼い頃は安心な場所だったけれど、リンをここに案内したいとは、到底、思えなかった。
最初のお役目のときも、リンを連れて出立したのは、ここではなくて、表の桟橋だった。
今は単独で舟を出し入れする他は、わざわざ訪れることもない場所だった。
その洞窟に、この数日、享悟はずっと留まっていた。
今日こそは、舟を出そう。今日こそは。
そう毎日思うのに、どうしても、そこから舟を出すことができないでいた。
出立の前はいつもリンには会っていかない。
会えば、行きたくなどなくなるに決まっているから。
一刻も早く出立すれば、一刻も早く帰ってこられる。
その一心で、馬車馬の如くがしがしと、前へ前へと突き進む。
ずっと、そんなふうにやってきたのだ。
最小限の代償で最大限の効果を挙げる。
護法としての享吾はそんな評価を受けている。
けれど、それは、なるべく早く帰りたい、それだけを考えてお役目に臨むからだ。
有能が聞いて呆れる。
自分の根っこのところは、いじめっ子から逃げ回っていたころから、そう変わってはいない。
いかに効率よくお役目を果たし、いかに被害を抑えるか。
考えるのはそれだけだ。
余計な派手さは不必要。とっとと片付くなら、それにこしたことはない。
人は殺さない。殺せば必ず恨みを買う。恨みを買えば、仕返しを食らう。
幽霊の類は怖くない。しかし、人には必ず係累というものがいて、それが現実に害を為す。
恨みを買えば、それだけ面倒は増える。
八方丸く収めるなんて、そんな都合よくはなかなかいかないけれど。
丸ければ丸いほど、後々の余計な仕事を減らせるから。
余計な仕事が増えれば、また、リンの傍を離れて行かねばならなくなる。
被害はなるべく小さく。被害を大きくすれば、それだけ困る輩も増えて恨みも買う。
ひたすらにそれを避けて、まるくまるく、ただまぁるく。
それもこれも、とにかく、リンの傍になるべく長くいたいから。
かくして、歴代最強の護法、なるものは誕生したのだ。
少しでも早くリンの許へ帰る。
少しでも長くリンの許に居る。
そうしなければ、自分はもうすぐにでも狂ってしまう。
少しずつ少しずつ、自分が壊れていくのが分かる。
現実の世界は、解けて崩れて、もう全てがまともじゃない。
夢のなかのほうが、まだまともな色と形を持っている。
そして、現実と夢の境界は、日に日に混ざり合って、どれが本当のことか分からなくなっていく。
リンの傍を離れると、崩壊は速度を増した。
あったはずの出来事をなかったと思い込む。
逆になかったはずの出来事が、あったような気になる。
そんなことを何度も何度も繰り返す。
やがて、あったこととなかったことの境界線は曖昧になって。
本当の真実がなんだったのか、分からなくなっていく。
リンの母親を殺したのは、誰だったのか。
ほしくてほしくて仕方なくて、この手で殺したのじゃなかったのか。
真実の境界も曖昧になっていった。
この手で殺すはずなどない。そう確信できたのは、随分前のこと。
もしかしたら、自分かもしれない。毎日のように見る悪夢に、そう思い始めている。
そのくらい、自分はリンを求めている。それだけは迷いようもなく確信できてしまうから。
もしかしたら、ずっと自分はリンから逃げたかったのかもしれない。
リンを傷つけるくらいなら、狂って死ぬほうがまだましだ。
どのみち、なかった、命なのだから。
役目を済ませて、リンの許へ帰る。
ずっと当たり前だと思っていたことが、崩れだしている。
心のどこかで、もう帰ることはできないと、思っている自分がいる。
リンの幸せを壊してしまったのは自分だった。
リンの許に恐ろしい鬼たちを引き込んだのは自分だった。
そんなつもりなどなかったなんて、言い訳にもならない。
壊してしまったものは、もう戻らないのだから。
いっそ、このまま霧のように消えてしまいたい。
こんな自分なのに、どうしてもう一度リンの許に帰れるなどと思えるだろう。
罪悪感に、がたがたと体が震える。
償いになるなら、なんでもしよう。
けれど、享悟に差し出せるものなど高が知れている。
リンから奪ったものに見合う価値のあるものなど、何一つない。
リンは、きっと、享悟のどんな罪でも即座に赦してしまうだろう。
けれど、だからこそ、享悟は自分で自分を許せない。
どんな謝罪も贖罪も、リンは要らないと言うだろうけれど。
罪を償うには、自分のすべてを差し出してもなお足りない。
護法になった自分は、もはや、魂まで汚れきってしまった。
リンに差し出すに相応しいものは、もうこの手のなかには何もない…
騙すようにして自分の守護にしたことも後悔していた。
それが一番リンを護るにいい方法だと思ったけれど。
本当のところは、自分がそう思い込みたかっただけなのかもしれない。
もっとよく考えれば、もっとずっと安全に確実にリンを護る方法だってあったのかもしれない。
これが最善だと思い込んだのは、きっと、自分がそうしたかったからだ。
自分の望みなど、もう捨ててしまえ。
何よりも、リンにとって一番よい方法を。
リンの安全。
ずっとそれが一番大事なことだった。
その思いだけは、どれだけ狂っても、揺らがなかった。
それを護るためにできることが、今の自分にはまだある。
水六の任務を果たす。
そうしなければ、水六はリンの安全を脅かすと言うのだから。
この任務を果たすために、今の享悟はなんとか自分を保っていた。
いつか自分はいなくなると、リンにも、ずっとそう言い聞かせてきた。
リンはいつだって、そんなときはもっとずっと先だと言い返した。
ずっとずっと先。もっとずっと先。まだまだ、今、じゃない。
リンがそう言うたびに、それを訂正してやらなければと思ったけれど。
自分もどこか同じように思っていたくて、強くは否定できなかった。
もっとずっと先。ずっとずっと先。
そんな日はいっそ永遠にこなければいいとすら思った。
本当は、もっと、ちゃんと言うべきだったのに。
リンが大事なら。リンを傷つけたくないのなら。
心配、不安、恐怖。そういったものが、どんどん増幅していく。
希望、安心、安堵。あたたかくて柔らかなものは、どんどん零れ落ちていく。
大切なものは、光る砂のように、指の間から零れ落ちて、儚く消えていく。
あとの掌には、冷たくて何もない空虚だけ、ぽっかりと残る。
からっぽだった自分に少しずつリンがくれた優しいもの。
零さないように、ずっとずっと、大切に守ってきた。
いつか失くすことが分かっていたからこそ、大切に大切にしてきた。
それが、少しずつ、少しずつ、失われていく。
リンに会いたい。リンが必要だ。
矛盾する思いに心が引き裂かれる。
守護を置いていくなど、なんと愚かなことか。
島の煩いヒヒじじぃどもに、何度も言われた言葉が耳の奥でこだまする。
煩い。黙れ。
そんなことは、誰より自分が一番よく分かっていた。
分かっていても、それでも、連れて行くより、置いて行ったほうがリンは安全なのだから。
所詮、弱い自分には、リンを護ることはできない。
鬼の島でも、リンのためになるなら、利用しない手はないと思った。
リンの安全よりも大切なものなどないのだから。
本当は誰よりリンの傍を離れ難いのは自分自身だ。
けれど、そんなことより、リンの安全は大事。
一緒に行きたいと、リンは何度も何度も言ったけど。
これだけは、たとえリンの頼みでも聞けないと思った。
他のことなら、何を置いてもリンの意志は優先する。
けれど、リンの安全はリンの望みより大事だから。
ごめん、リン。
そう言ってお土産を渡しても、リンは嬉しそうにはしなかった。
最初の簪の他は身につけることもせずに、箱にしまい込んでいた。
なんとかのひとつ憶えじゃないんですから、簪ばかりそんなに要りませんよ。
キギスにそう言われて、なるほどと思って、櫛や根付にもしてみたけれど。
どれも身にはつけてくれなかった。
最初のも、しまい込みかけたから、それだけはどうしてもつけてくれとうるさく言って。
ようやくそれだけは、ずっと身につけてくれるようになった。
今から思えば、それほど上等なものでもなかったのに。
リンは大事そうに、こう、指の腹で毎日撫でていたっけ。
リンのその姿を思い出すと、心のなかにぽっと灯が灯る。
リンのことを思うだけで、今こんな状況にあっても、こんなにも胸があたたかい。
辛い思いや淋しい思いばかりさせているのに。
遠くにいても、いつもリンを思っている。戦いの最中でさえ。
護法の任に就く前は、毎日会いに行った。
たわいもない話をして、釣れない釣りをして。
そうしている時間は幸せだった。
リンはよく、ワカギミ、の話しをした。
憧れの人なのだと言っていた。
それが、あのときの自分なのだとはすぐに気付いた。
随分、美化されているところもあったようだけれど。
空を飛び水上を走り、白馬に乗って、リンを迎えにくるらしい。
どこの誰の話だ、それは、と思ったことも、何度かあったけれど。
リンがあんまり嬉しそうに話すものだから、ついついつられて聞いていた。
正直、少しばかり嫉妬を覚えたほどだった。
過去の自分の幻影に嫉妬などしても虚しいだけなのに。
その、ワカギミ、が自分だと告白する機会はついぞなかった。
言っても信じられないだろうと、そう思う気持ちのほうが強かった。
急激な護法化で、自分の姿はそのころとは似ても似つかないものになっていた。
再会したとき、リンは初めて見る者を見る目をして自分を見ていた。
その目のなかに僅かに恐怖心を感じ取って、享悟は決意した。
あのときのワカギミが自分だとは、金輪際、明かすまいと。
ワカギミのことなど、忘れてしまってくれてよかった。
その記憶には、どうしたって、母親のことがついてくる。
辛いあの出来事を、リンに思い出させたくなかった。
思い出して悲しくなるくらいなら、思い出さないほうがいい。
リン自身も、ワカギミのことは、夢かなにかだと思っているようだった。
それならワカギミはお伽の国の住人のままにしておこうと思った。
いや、本当は、あんなふうにリンと過ごせたあの時間こそが、お伽の国の時間だった。
そんなあたたかな時間はもう返ってこない。
小さな嫉妬をしていたことすら、今はもう懐かしい。
リンを護るため。
あらゆるものからリンを護りたくて。力を、富を、求め続けた。
正体不明の敵からも。
心無い島の鬼たちからも。
ただ、リンを護るために。強く、強くなった。
もうお土産はいらないから。
震える声でリンはそう言った。
あれは本当は、リンも一緒に行きたいと、そういうことだったのだろう。
けれど、とうとう自分はリンを置いてきてしまった。
多分、もうお土産は渡せない。
きっと、もう二度と、会えないだろうから。
いつも、実力ぎりぎりのお役目ばかり引き受けてきた。
なんとか果たせたのは、自分の実力じゃない。
リンの許へ帰りたいと、その一心のおかげだと思う。
歴代最強、なんて言われて、享悟の実力以上の力が出せたのも、全部、リンの力だ。
どんな護法だって、リンのような守護を得れば、歴代最強になるに違いない。
本当に、リンは自分にはもったいない。
そんなリンを、自分は守護にできて…本当に幸せだった。
リンには申し訳ないけれど、本当に、幸せだった。
今回のお役目は、今までのお役目とは桁が違っていた。
相手は得体の知れない忌み子だった。
しかも、ふたりを相手にしなければならない。
護法より能力に優れ、護法のような柵を持たないもの。
自分の実力を考えても、まともに適う相手だとはとても思えなかった。
リンの守護を失った自分に。
唐突にリンに会いたくなる。
柔らかなリンの頬にそっと手を触れると、リンは驚いたようにこっちを振り返る。
いったんまるくなった目が、にっこりと優しく笑う。
どうしたの、キョウさん。そう尋ねて、小さく首を傾げて。
何か答えようとしても、適当な言葉は見つからない。
落ち着こうと深呼吸をすれば、リンの匂いが胸のなかにいっぱいになる。
感覚のすべてをリンで満たすとき、享吾はようやくひとときの安らぎを得る。
手を伸ばしたら、リンの幻影は消え去った。
降り始めの初雪より儚かった。
たった一瞬だけれど、こんなに美しくて優しくて、安らぐことができて、幸せいっぱいになれて。
自分のような者にも、リンはこんな幸せをくれた。
あさましい自分は、もっとほしいと思ってしまうけれど。
そんなことは望むべきじゃない。
それでも、この幸せを知ることができて、よかった。
たとえ、この手に掴むことは不可能な幻でも。
美しいもので視界を一杯にした記憶は、何より、自分だけのものだ。
リンのことでいっぱいになったこの心は、他ならぬ自分だけのものだ。
お嫁さんにしてほしい、とリンに言われたとき。
頷かずにいるために、思わず自分のからだを傷つけた。
あのときのリンの落胆と驚きの表情が忘れられない。
リンにあんな顔をさせるくらいなら、他のことならなんだってするのに。
それでもリンは傷ついた享吾の手当を先にしようとした。
自分の心が血を流していても、享吾を優先しようとした。
護法の傷など、ほうっておいてもすぐに治ってしまうのに。
遠い遠い昔。まだ自分が護法ではなかったころ。
あの笑顔を永遠に自分のものに…
そんな夢を思い描いたこともあった。
リンを妻に迎え、子を成して、幸せな家を築く夢を。
みんな普通にやっていることだ。
どうして僕だけ、それを望んではいけないんだ…
いや、違う。
それは望まないと。そう誓ったから。
自分はリンを守護にした。
そうだろう、思い出せ。
忌み子を成し、鬼どもに追われるような未来をリンにもたらすわけにはいかない。
護ればいいじゃないか。今の貴島に自分より強い鬼はいない。
いや、たとえいたとしても、あやつらはみんな、ちょろい。
この僕の能力のすべてを使えば、リンと我が子を逃がすことくらい…
そうだ。
貴島の十頭領家のご初代様は、忌み子であったという。
だからこそ、十頭領家の血筋は水に馴染む。有能な護法になる。
一族にだけ伝わる、それは絶対に明かしてはならない秘密。
そもそも自分は忌み子の血を引く一族なのだから…
どうして、リンを、手に入れてはいけないんだ。
いや、だめだ。
そもそも、リンが子を成して、その子を愛しげに抱く姿に耐えられるのか。
自分よりも大切なものがリンにできることを、認められるのか。
しかも、それは、この世で一番醜い自分の血を引いているのに。
いや、しかし、それでも、リンがその子を愛していれば。
護れる、かもしれない。
リンの大切なものなら、リンと同じくらい大事だと、思うから。
それは、己の感情よりも、ずっとずっと、大事なのだから。
護法照太がそうしたように。
島の鬼たちを欺き、策を弄して妻子を護り抜く。
その気になれば、自分にだって、同じことができるのではないか。
いや違う。そうじゃない。
そもそも、忌み子を成すという前提から間違っている。
自分はそんなことはしない。
だめだ…
堂々巡りの迷宮に、また迷い込んでしまった。
もう幾日、こんなことを繰り返しているだろう…
纏わりつく幻影を振り払うように頭を振った。
いつもお守りのように持っている守り刀を取り出した。
リンと初めて出会ったとき、自分はこれで喉を突こうとしていた。
忌々しいこの刀を、だけれど、リンは、綺麗だと言った。
大事なものだと言った。
あのときから、これは、リンから授かった刀になった。
初めてのお役目のとき、リンを傷つけたのもこの刀だった。
あの過ちは到底許されていいものではなかったけれど。
それも、リンはあっさりと許してしまった。
あのときから、この刀は、享悟の宝になった。
守り刀という名前本来の用を為すものとなった。
ここについたリンの血。
この刀で自らを傷つければ、その血が自分の中に混ざりこむような気がした。
もう何度も何度もそうしてしまったから、そこにはもう享悟の血が何重にも絡みついてしまっているけれど。
玉も細工もすっかり古びている。
この刀が役目を終えるのも、もうそう遠くはないだろう。
淡く輝く玉の光をぼんやりと眺めてから、ゆっくり鞘を払う。
あれから一度も手入れをしていない刃は錆びついて、ぼろぼろと毀れ始めていた。
うっ。
腹に突き刺したところから、遅れて痛みが伝わってきた。
げほっ、とむせたのと同時に、消化管を逆流してきた血液が口から溢れ出す。
痛みに一瞬、頭が真っ白になった。
何もかも忘れて、ただ、生存本能だけに意識が塗りつぶされる。
そうだ。邪念など捨ててしまえ。
リンを手に入れる未来など、あり得ない。
正気を保つためにからだを傷つけることを、もう、何度も繰り返していた。
手足ではもう効かなくなってきた。
内臓を傷つけると、流石に痛みや苦しみは格段に増幅する。
けれど、このくらいの苦しみでなければ、もはや、正気に戻るのも難しい。
愚かな。
時間がないというのに。
傷の治るのにも時間がかかるようになった。
護法としての自分の時間にも、ゆっくりと限界は近づいてきている。
その限界のくる前に。
何を置いても、リンの安全だけは確保する。
相討ちならなんとかなるんじゃないだろうか。
護法なら、戦場で死ぬことはよくあることだ。
いやむしろ、リンに朽ち果てる姿を見られるより、ずっといい。
リンのために死ねるなら、それ以上に幸せなことなどあるだろうか。
自分の力が尽きようとしている今、このときに、すべての真実が明るみに出ようとしている。
運命のようだと思った。
今こそ、すべての邪念を捨てて、ただ、リンのために。
この邪な思いを叶えるより、ずっとずっと大切なことがある。
リンの未来を。特別なものなどなくていい。長く平穏な暮らしを。
それこそ、自分の心からの願いだ。
行かないと。
ゆっくりと立ち上がった。
手で抑えた傷口から血があふれ出した。
少し深く傷つけすぎたか。
ひとつ深呼吸をした。
それから、心身に鞭打って、歩き始めた。
後には赤い花が、むせかえるように咲いていた。




