第十七章 ~花車
享吾が島へ帰った翌日、キギスはキギスで動き始めた。
護法が赤ん坊を預けた娼妓を探す。
しかし、その護法の名も娼妓の名も分からない。
おまけに、そのときからもうかなりな年月が過ぎている。
人の入れ替わりの激しい花街で、そんな昔のことを調べるのはそう簡単ではないと思えた。
ただ、その護法は、娼妓と姫とを都の外れで暮らさせていたらしい。
つまり、娼妓は身請けされたということだ。
護法は遊ぶ金に糸目をつけない。
けれど、娼妓を身請けする護法はあまりいない。
金の力で妓楼の檻に閉じ込めるようなことはしても、全てを引き受けて連れ帰りはしない。
妓に執着する護法も、美しく着飾った娼妓と楽しく遊びたいだけ。
生身の女としての妓の生活まで引き受けるつもりはない。
独り占めしたければ檻に閉じ込めておけばいい。
衣食住の世話のような面倒なことは見世に任せておくほうが楽だ。
おおかたの護法はそんなものだ。
敵娼どころか、手下である自分のために家まで用意してくれた享吾は、よほどの例外である。
それほど珍しいことだから、あるいは、そこから何か辿れるかもしれない。
キギスのいる楼閣は尾花の郷でも一番の老舗だった。
その名も、尾花。
主人はこの辺りの一番の長老で、たいていのことは見知っているらしい。
ただ、滅多に見世には顔を出さない。
見世を取り仕切っているのは数人の花車たちだった。
実際に何人いるのか、正確な数はキギスも知らない。
花車たちはみな、かつては尾花の有能な娼妓だった者ばかりだ。
キギスについている花車は、みなから凪砂さんと呼ばれて親しまれていた。
気っ風のいい美人で、現役で見世に出ていてもおかしくないようにも見える。
本当の年齢は、尾花の主人の他に知る人はいない。
面倒見のいい姉御肌で、直接には関わらない娼妓たちの間でも人気者だ。
娼妓たちは口を揃えて、あの人はいい人だと言う。
話しかけやすいし、どんなことでも親身になって相談に乗ってくれる。
あの人についてもらえるなんて、とキギスはみなに羨ましがられていた。
ところが当のキギスは、この凪砂さんが少しばかり苦手だった。
どこが、どう、というわけでもない。
ただ、なんとはなしに、苦手なのだ。
けれど、長老に会うのは難しそうだし、まずは凪砂に話を聞くのが一番手っ取り早いと思えた。
享吾にも、凪砂には話を聞くようにと言われている。
享吾という人は、他人には無関心なようで、案外、よく人を見ている。
その享吾にそう言われるのだから、凪砂が何か知っている可能性は高いだろう。
凪砂の部屋は、板場のすぐ横にある、三畳ほどの小部屋だった。
調度は小さなちゃぶ台ひとつきりの、質素な部屋だ。
キギスが訪れると、凪砂はにこにこして、お茶を淹れてくれた。
「久しぶりだねえ。癪は治まったのかい?」
「おかげさまで。」
嬉しそうに話しかける凪砂に、キギスはむすっと返した。
いつもにこにことなんでもお見通しなこの感じが、なんとも苦手なのだ。
「お前さまのぬしさまはお優しゅうて、結構なことだ。
我儘を言う女郎には折檻をなさるぬしさまもあるのだよ?」
仮病のことはすっかり見抜かれている。
にこにこしながら凪砂はやんわりとたしなめた。
「美しゅう着飾り、艶やかに微笑んで、ぬしさまの無聊をお慰めするのが娼妓の役目。
甘える振りは大いに構わないけれど、本当に甘えてはいけない。分かるね?」
キギスは素直に手をついて、すみません、と頭を下げた。
凪砂はにこにこと、分かったならいいんだよ、と言って、もうそれ以上は責めなかった。
「しかし、お前さまのぬしさまは、本当にいい方だね。
あれほどに気の利く方もそうはあるまい。
裏方の面々にも、下働きの娘たちにまで、いつもお心づけをくださるのだよ。」
「あの方は、気配りの権化っすから。」
「まったくだねえ。
おまけに護法様とは思えぬほどの弁えのよさ。
酒を飲んで暴れたことも一度もないし、宿酔いすらしたことがない。
少しばかり変わったご趣向をお持ちだけれど、それも、お前さまにとっては却って安心というもの。
こんな田舎の花街では、陰間もそうはおらぬからね。
一途にお前さまにご執心で、他の女の色目に動じる心配もない。
聞けば貴島の頭領筋だとか。
つくづく、お前さまもよいぬしさまに見初められたものだ。」
「あ…ああ…ははははは…」
実は、凪砂には、キギスは男だということは知られているのだ。
というか、キギスは見世物師の雉彦と同一人物だということも、凪砂は知っている。
以前うっかり雉彦の姿のままキギスの部屋に帰ったところに出くわしてしまった。
大事な護法様の敵娼に、他所の男が出入りしたのかと、凪砂は怒り狂った。
間男を叩きださんと、鬼の形相で薙刀を突きつけた。
仕方なく、本当のことを打ち明けざるを得なかったのである。
しかし、その後の享悟の対応には、流石のキギスも面食らった。
話しを聞いた享悟はすぐに飛んでいって、凪砂に内々に話しがしたいと申し出た。
そして、凪砂に金貨の袋を握らせて、さも重要な秘密をうちあけるように言った。
自分には衆道の趣向がある、しかし、それは誰にも知られたくないのだ、と。
そんな話しは、キギスも聞いたことはなかった。
一瞬、身の危険を感じたが、後でふたりきりになったとき、享悟に正すと笑い飛ばされた。
秘密を共有すれば味方になってもらえるだろう、と享悟はあっさり言い切った。
嘘の秘密だろう、と追及すれば、まあ、いいじゃないか、と軽く流す。
たとえ嘘の秘密でも、味方の増えるのはいいことだ、とけろりとして言った。
ここは花街、嘘のひとつやふたつ、徒花のようなものだろう?
ろくろく遊んだこともないくせに、享悟は、あっけらかんとそんなことを言ってのけた。
「そうだ、いっそ、白銀の鬼は衆道の噂を流しておこうか。
そうしたらまとわりついてくる女どもの視線も、少しはましになるかもしれない。」
「男どもの視線が増えるだけかもしれませんよ。」
「…それはそれで面倒だな。噂を広めるのはやめておこう。」
享悟が余計なことをやめてくれて、キギスはとりあえず、ほっとした。
それ以来、キギスは妓楼に出入りするときには、きっちりとキギスに化けることを忘れなくなった。
しかし、自分が本当は雉彦であることを凪砂に知られているのは、存外助かる場面も多かった。
なにかと困ったことになるたびに、さりげなく、凪砂が助けてくれるのだ。
大事なお客様の秘密を守るために、凪砂は協力を惜しまないらしい。
そのくらい享悟はいいお客だということもあるのだろう。
キギスは享悟はこの際とばかりにわざとキギスの秘密を打ち明けたのではないかと思う。
そうして、よりしっかりと秘密を守れるように協力者を作ったのだと。
そのくらい享悟なら知らん顔をしてやりそうだった。
凪砂は何より心強い協力者だ。
享悟は多少人間不信のきらいもあるけれど、人を見る目はあるのだ。
「ところで、ねえ、凪砂さん?ちょっと教えてほしいことがあるんですよ。」
ひととおり挨拶をこなしたところで、キギスは本題に入った。
「尾花の郷で、護法様に身請けしてもらった娼妓って、いるんですか?」
「おや。お前さま、身請けをねだろうと考えているのかい?
それは、諦めたほうがいい。
護法様はどれほどに情けが深く見えても、身請けはなさらぬものだよ。」
「はあ~、やっぱり~…」
残念そうにため息をついて見せるけれど、それは先刻承知のことだ。
だからこそ、珍しい例はなかったのかということを、どうやって聞き出そうかと考える。
下をむいたまま考えていると、うつむいたキギスを慰めるように凪砂は言った。
「まあ、まったくないわけじゃないけどね。
そうさねえ、白銀の鬼様なら、あるいは、身請け、してくださるかもしれないねえ。
一度、様子を見て、ねだってみるといい。
しかし、うまくやるんだよ?
優しく見えて、男ってのは、肝心な話になると逃げてしまうものだからね。
って、お前さまも男だったねえ。」
あはははは、と楽しそうに凪砂は笑った。
キギスは探るような目を上げて凪砂に尋ねた。
「まったくないわけじゃない、ってことは、昔はあったんですか?」
少し踏み込んで聞いてみる。
わざとらしいかな、と思ったけれど、凪砂はことさらに気にした様子はなかった。
世間話の続きのように凪砂は記憶を辿って話してくれた。
「そうさね、ふむ。
確か、大昔に、一度だけ、あったかな。
あの護法様も、なかなか優しい方だった。」
「あったんですか?!」
思わず食いついてしまったけれど、凪砂は僅かな望みに縋りたがっていると取ってくれたようだった。
「そんなに身請けされたいのかい?
しかし、素の姿など見せては、愛しい護法様に呆れられて捨てられるかもしれないよ?
もっとも、お前さまは今でもかなり素のまま接しておられるようだけれどねえ。」
う。痛いところを突かれた。
素に戻るのは享悟とふたりきりのときだけのつもりだったけれど。
案外、普段からぼろは出ていたのかもしれない。
キギスはあらためて気を引き締めることにした。
凪砂は楽しそうにキギスを見ていたけれど、どこか懐かしむように言った。
「そうさね、あの娘も素朴な娘だったよ。
みな無理して自分をよく見せたがるものだけれど。
あの娘は、そうしなかった。
田舎育ちの純朴な娘でね。
そんな知恵もなかったんだ。
正直、見世での人気はいまいちだったんだが、それがとある護法様のお目に留まってね。
どのみち他の客などついたこともなかったのに、護法様はその妓を囲われた。
そして、とうとう身請けまでなさったのだよ。」
「で?その妓の名前は?」
「美波。
生まれ育ったのが海の近くだったそうでね。
源氏名ではなく、本名だと言っていた。
そういうところも、素朴な娘だったねえ。」
「美波。
それで?その美波さんは、その後、どうなったんです?」
「さてね。
護法様とふたり、都のほうへ行くと言っていたけれどね。
けれど、護法様は所帯を持つことは許されていないのだろう?
みすみす不幸になるようなところへ行くこともなかったのに。
まあ、妓楼としては、金を積まれれば、断り切ることもできない。
お客様の事情に深入りするのも、野暮なことだしね。
なにより、美波はその護法様に惚れ込んでいた。
好いた男に望まれてついて行くなら、あとのことはもう全部、どうでもよかったんだろう。
護法様は尾花の主人に手をついて、どうか美波をください、ってね。
まるで婚儀を申し込むようだったよ。
主人も、感極まって、まるで実の父親のようにね。
こう、護法様の手を取って、どうか幸せにしてやってください、なんて、やってね。」
「凪砂さん、お詳しいっすね。
もしかして、その場面を覗き見でもしてたとか?」
キギスに言われて、凪砂は、悪戯のばれた子どものような顔をした。
「ありゃ、ばれちまったか。
その当時は、その話しは郷中に知れ渡っていたんだよ。
猫も杓子も、寄ると触ると、その噂をしたもんさね。
自分も美波のようになりたいと、郷中の娼妓はみんな思ったものさ。
こんな稼業だもの。病を伝染されたり、悪い男にひっかかったり、不幸になる妓は多い。
好いた男に身請けされるなんて、夢のまた夢だ。
美波なんて、取り立てて器量よしでも、何か特別な芸があったわけでもないのに。
あの美波さえそうなれるなら、自分もいつか、とみんな思っていたよ。」
凪砂は肩を竦めるようにして笑うと、内緒話をするようにキギスのほうへからだを近づけた。
「美波はね、身籠っていたんだ。
護法様の御子だ。
護法様は子を成せない。
それは有名な話しだったんだけどね。
その子は正真正銘、その護法様の御子だった。
身請けされて、愛しい男の子を産む。
これ以上に幸せな話しはないよね。」
「美波、さんには子があったんっすか?」
思わず声が大きくなるキギスに、凪砂は、しぃーと指を唇に当てる。
「護法様の子どもを産んではいけないと、島からはきつく言い渡されているんだ。
だけど、娼妓の子どもの父親なんて、分からないのが普通さね。
だから、こっそり産む妓もそこそこいるんだよ。
ただ、子どもが生まれても、所帯を持ってくれる護法様なんて滅多にいないよね。
それどころか、胎から出てくる前に行方を断っちまう護法様も多いのさ。
そんなとき、妓は泣く泣く子を捨てに行くんだよ。
それが普通、ってもんだ。
なのに、美波はそうならなかった。
こんな幸運な妓がいるものか、ってね。
みんなして、美波にあやかろうと、拝みに行ったものさ。」
どこまで本当の話しでどこから作り話なのか分からないような話しだったが、凪砂は楽しそうに話してくれた。
けれど、キギスはそれどころではなかった。
じゃあ、やっぱりリンは、美波の娘なのか。
リンは鈴姫ではなかったのか。
忌み子は存在していたのか。
じゃあ、鈴姫はどこへ行った。
また分からなくなっていく。
美波の生んだ子と鈴姫。
美波の傍には子どもはふたりいた?
けれど、実際にはそこにいたのは、リンひとりだけだったはずだ。
美波の生んだ子は、もしくは鈴姫は、どこへ行った?
依頼を受けた護法は、鈴姫の世話をさせるために美波を身請けした。
キギスの考えていたのは、そういう筋書きだった。
けれど真実は、護法は美波とその子と家族になるために身請けしたのか?
もしかして、その美波は、鈴姫を預かっていた娼妓と別人なのでは?
思いついた瞬間、即座に口に出していた。
「凪砂さん!その美波って人の他に、護法に身請けされた娼妓はいないんっすか?」
「おやおや。地が出てしまっているよ?
見世にいる間くらい、せめて、キギスの振りをしてもらわないと。
わたしだって、そうそう庇ってはいられないんだから・・」
凪砂は眉を顰めて説教口調になった。
それにキギスはぐいと迫った。
「今、そんなこと、どうだっていいんっすよ。
いいから、教えてください。
他に、護法に身請けされた妓はいたんっすか?」
凪砂はやれやれという顔をして襟元を直しながら言った。
「おりませんよ。
だから、滅多にないことだと言っているじゃないか。
そんな奇特な護法様は、照太様と白銀様くらい…」
「しょうた?それはその護法の名前なんっすか?」
「あ、…ああ、そうですよ。
でも、むやみやたらと、護法様のお名前を口にするでないよ。
ふたつ名のあるときにはそっちを呼ぶのが礼儀というもの。
けど、照太様には他に名がなくってね。
ろくなお役目を果たしていないから、って笑っておられたけど。」
懐かしそうに語る凪砂の話しを、キギスは半分くらい聞いていなかった。
他にはいない。
その言葉だけ、頭の中をぐるぐると回っている。
ならば、やはりリンと一緒にいた妓は美波だ。
では、美波のお腹にいた子、もしくは鈴姫はどこへ行った?
それに、照太はどうしたのだろう。
そもそも、一緒に都に行ったのだろうか。
享悟に聞いた話しでは、リンは父親は知らないと言っていたそうだ。
そのときには照太は一緒にはいなかったということだ。
やっぱり、分からない。
いや、ますます、分からない。
しかし、照太と美波。
そのふたりの名前が分かったことは大収穫だ。
これを享悟に伝えれば、きっともっと新しい事実を知ることができるだろう。
美波と照太の話はもうこれ以上は引き出せそうにない。
そう思ったキギスは、なるべくわざとらしくならないように話しを変えた。
「ところで、凪砂さんも、いっとき、ここを離れてたそうっすね?
それって、身請けじゃなかったんっすか?」
凪砂は思い切り苦笑してキギスをぶつ真似をした。
「悪かったね。
身請けされるほどの器量よしじゃなかったんだよ。」
「じゃあ、年季明けで?
いったん足を洗ったのに、また舞い戻ったんっすか?」
凪砂はちらりとキギスを見ると、ふふ、と小さく笑った。
「あたしは小さいころから花街育ちで。
外の世界はよく知らなかったんだ。
いや、外の世界は恐ろしいところだよ。
結局、暮らしていけなくて、ここに舞い戻っちまった。」
「外の世界って、どこに行ったんです?」
凪砂は遠くを見るような目をした。
「いろんなところへ行ったよ?
都にも行った。
だけど、ここよりいいところはなかった。
だから、ここへ帰ってきたんだ。」
「けど、お座敷には出ないんっすね?
凪砂さんよりもっと年増でも、お座敷に出てる人もいるでしょう?
花車より稼げるでしょうに。」
「ちょいと、古傷があってね。
そんなもの、寝間で見せようものなら、お大尽が震えあがっちまうよ。」
古傷?と呟いたキギスに、凪砂は、ふふ、と小さく笑った。
それはもうそれ以上そのことについて尋ねても、何も答えてはくれない合図のようだった。
「それにね。」
凪砂はそう言って大切そうに胸のあたりを両手で抑えた。
「こう見えて、あたしは、ひとりのぬしさまに、操を捧げているんだ。」
乙女のように微笑む凪砂に、こんな顔もするんだ、と、思わずキギスは見惚れていた。
「へえ~。凪砂さんに、そんな人がいたなんてね?」
「こら!
それは失礼ってもんだろ?
あたしにだって、そりゃあ、いろいろあったのさ。」
凪砂はまたキギスをぶつ真似をしてから、どこか寂しそうに笑った。
花街の娼妓の恋は往々にして実らない。
ここに咲くのはひとときの徒花。
どれほどに美しく見えても、幻に過ぎない。
「それで?そのぬしさまは、今はどうしているんです?」
それでも、娼妓たちにとっては、大切な花。
その花について語るとき、娼妓たちは、ひととき、幸せになる。
だから、キギスもそう話しをむけてみた。
凪砂は、ちらりとキギスを見てから、あの人は、ここにいるんだよ、ともう一度、胸を抑えた。
「ぬしさまは、あたしの命になって、今も、ここに、いるんだよ。」
叶わなかった恋を、生涯の支えにしているのか。
そう思ったキギスは、もうそれ以上は凪砂には尋ねなかった。
凪砂のほうからしようとしない話しを、無理やりに聞き出すことはない。
凪砂は、そんなキギスを見て、ふふふ、とまた笑った。
「それにね。
あんたたちの世話だって、なかなか楽しい仕事だよ。
あたしはやっぱり、ここに舞い戻って正解だった。」
「まあ、おいらも、凪砂さんにはさんざん世話になってますから。
凪砂さんがいてくれて、よかったっすけどね。」
キギスは思わずぺこりと頭を下げた。
その頭を凪砂はぺしりとはたいた。
「こら!
また雉彦に戻ってるよ?」
あ、しまった、とキギスは舌を出す。
それを見た凪砂が明るく笑う。
ふたつの笑い声が一緒になって、小部屋のなかに溢れた。
縺れて絡んだ糸玉のような事実を解く糸口はなかなか見つからない。
けれど、諦めずに探し続けるしかない。
どれほど複雑に絡まり合っていたとしても、これは一本の糸なのだから。
享悟のお役目の間隔は半月と開くことはない。
キギスは享悟からの連絡のあるのを待つことにした。
しかし、それ以降、享悟からの連絡はふっつりと途絶えてしまった。
***
連絡を待ってひと月経った。
享悟のほうから連絡を取ってくれなければ、自分のほうからはどうしようもない。
そんな一方通行な関係に甘んじていたことを、キギスは今頃になって痛感した。
もうずっと、享悟には休む暇もなくお役目が課せられていた。
その間、連絡の途切れたことなど一度もなかった。
だから、こんなふうに連絡のつかなくなることなど、想像もしていたなかったのだ。
享悟の訪れのないキギスを、娼妓たちはみな遠巻きにして見ている。
そもそも正体を知られたくなくて、キギスのときにはあまり誰とも親しくはしていない。
すれ違っても、ろくに挨拶も交わさずに、露骨に視線を逸らされるのは、まだいいほうだ。
遠くから哀れみの視線を向けられたり。
ひそひそ話と共に、嘲笑するような声が聞こえてきたり。
中にはわざと聞こえるように、お見限りだの捨てられただのの言葉を投げつけられる。
恋仲なわけでもないのに、捨てられるも何もない、とは思いつつも、ちくりと心には刺さる。
そのくらい、享悟はもう、キギスにとっては、いて当たり前、の存在だった。
ずっといつもほぼ定期的に、享悟からの連絡はあった。
もうずっとそうだったから、それはあって当たり前になっていた。
あって当たり前のものがいつかなくなることを、知らなかったわけじゃないのに。
一度は失くして、その辛さも苦しさもまだしっかりと覚えているのに。
どうして、失くしたときのことを考えなかったのか。
そのときに備えようと思わなかったのか。
思えば、いくらでもその機会はあったはずなのに。
こんなに突然、失くしてしまうとは思いもしなかった。
けれど今更後悔しても、全てはもう手遅れだった。
とうとう凪砂にまで、最近、ぬしさまはどうなさったんだい?と尋ねられた。
それに、もう、いてもたってもいられなくなった。
すぐさま、雉彦になって妓楼をあとにした。
凪砂には、男の姿になって、護法様のところへ行くと告げた。
凪砂は、ちょっと目を丸くして、それから訳知り顔でにやりと笑うと、頷いた。
戦の最中にお呼び出しとは、護法様もお盛んだねえ。
なにかちょっと違うような気もしないでもないが。
とりあえず、説明するのは面倒なので、もうそのままにしておいた。
享悟はますます誤解されたようだが。
まあ、気にしないだろう。
貴島に渡る方法は、享吾から教わってはいたけれど、かなり難しい技だった。
享吾自身は、季節ごとの星の位置から割り出して、いつでも海を渡ることが可能だった。
しかし、雉彦がその道を見つけられるのは、年に二度、春分か秋分のころの満月の夜だけだ。
それはあとひと月後に迫っていた。
ぐずぐずしている暇はなかった。
僕になにかあったときには、島からリンを連れ出して、遠くに逃げてほしい。
享悟はそう言って、島への行き方を教えてくれた。
リンは守護を降りたら、多分、僕の弟に嫁入りさせられる。
けど、僕はリンを鬼の嫁にはしたくない。
だから、攫って逃げてくれないかな。
鬼というのは人の郷から女を攫って嫁にするものだろうと思う。
鬼の島から嫁を攫うってのは、前代未聞なんじゃないだろうか。
雉彦はそう思ったけれど、わざわざ口にはしなかった。
そんなことは、ありえないだろう、と思っていた。
なんのかんのと言っても、享吾はいつかきっとリンを娶るはずだ。
ずっとそう思い込んでいた。
そうでなくちゃいけないと思っていた。
べつに姫を迎えに行くわけじゃない。
主の様子を確かめに行くだけだ。
道を急ぎながら、雉彦はそう自分に言い聞かせた。
行かなきゃ状況は分からないんだから仕方がない。
鬼の島へ渡るのは正直恐ろしかったけれど、やむをえまい。
なんなら、姫には会わずに帰ってもいい。
物陰から主の無事さえ確かめられたら…
なんの、ちょっと忙しかっただけだろう。
それか、足でもくじいたとか。あれで、結構そそっかしいところもあるからな。
それとも、風邪でも引いたとか。鬼の攪乱とかいうもんな。攪乱は風邪じゃないか。
護法は怪我も病気もほとんどすぐに治るというのを思い出して、思わず舌打ちをする。
いやいや、そんなこと言って油断してるから、あれだ、ちょっと寝込んだだけだ。
いいや。とりあえず、主は風邪を引いたということにしよう。
しかし、護法にとりつく風邪なんて、強そうだな。伝染らないかな。
伝染されても困るな。よし。遠くから眺めて、元気そうな様子を見たら帰ってこよう。
声なんかかけなくてもいい。
心配したなんて、知られなくていい。
島に行ったなんて、秘密だ秘密。教えてやるもんか。
また連絡取ってきたら、知らん顔しといてやろう。
あんまり長くほったらかしにしたら、浮気をしてやりますよ、とか何とか言って。
ちょっと強めにつねってやろう。
しかし、主のからだはどこもかしこも堅そうだ。
つねったらこっちの指が痛いだろう。
指先を少し鍛えておくとしよう。
しかし、キギスの浮気って、誰とするんだ…?
悩みそうになって頭を振る。
いやいやいや。それはいい。
そんなこと、真面目に悩んでどうする。
とりあえず、主さえ無事なら、それでいいんだから。
姫にとっても、それが何より大切なんだから。
命に代えてもリンを護れ。
あの夜、主に命じられたことは、まだ終わっていない。
おいらは、一生かけて、あの命令を守っていく。そう誓ったんだ。
「もしもし。」
「……。」
「もしもーし。」
「……。」
「雉彦さん!こら!雉彦!!雉坊主!!!」
「は?」
妙な呼ばれ方をしているのに気づいて足を止めた。
そこへいつも笑っているような糸目が追いついてきた。
「は?や、あらへん。さっきから必死になって声かけてんのに。
なんや、拳握って何かの境地に入ってはるところ悪いんですけど。
どこ、行きはりますのや?」
声をかけていたのは申太夫だった。
他人の一大決心をいとも気安く尋ねてくる。
そのむこうには、戌千代と太郎の姿もあった。
「主と連絡がつかなくて…」
ずっと享悟のことを考えていたせいか、うっかり核心から口に出してしまった。
「ほう?」
申太夫の細い目の奥がきらりと光る。笑っているようで笑っていない目だ。
「…から、こっちから、行ってみようかな、って…」
言ってしまってから、しまったと思ったけれど、もう黙っていることは不可能だった。
小さくなっていく語尾を拾うように、申太夫はずいと近寄ってきた。
「行くってどちらへ?」
「主のいるところ、です。」
「それって、鬼の島ってことですか?」
「…ま、まあ…」
申太夫は少しばかりわざとらしく目を丸くしてみせた。
「あんさん、鬼の島への行き方、知ってはったん?」
「……まあ……」
何故だろう。話したくないのに、話させられてしまう。
「そらよかった。ほな、ご一緒させてもらいましょか。」
にんまりと、三日月のような目をむけられる。
疑問形のようだけれど、全く質問していない。断言だ。
そしてもちろん、断る余地などありそうもなかった。




