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花咲鬼  作者: 村野夜市
21/42

第十五章 ~水七

翌日、享悟は早朝から蔵に籠っていた。

昨日懲りたから、鍵は借りっぱなしにしてあった。

とりあえず、誰からも文句は言われていない。

義母も弟も、古い記録などに興味のある性質ではない。

鍵のことなど、もうすっぽり、記憶から抜け落ちているのだろう。

父は享悟が記録を調べても咎めたりはしなかった。


無機質で単調な数字と言葉の羅列を丁寧に読み込んでいった。

昔見たときには、この文字から感じることはなにもなかった。

けれど、今は違う。

単調な数字のひとつひとつ、決まり文句のひとつひとつの後ろに、人がいる。

人のいるところには、思いがある。熱や涙や痛みがある。

リンと出会っていなければ、そんなものを知ることもなかったのだと思う。

知らないまま自ら命を絶っていたのだと。

そんなことにならなくて、よかった。

今は、リンと出会えて、それを知ることができて、本当によかったと心から思う。

今ならそう簡単に命を絶とうとも思わない。

護法になってしまった以上は、人並みの寿命はもはや望めなくなってしまったけれど。

時間は短くなっても、リンとの時間は、人として過ごした大事な時間だ。

それを守るためになら、どんな痛みも苦しみも、命や魂さえも、差し出しても惜しくない。


うっかり物思いに沈んでいる間に、時間が経ってしまっていた。

リンが傍にいると気になって調べものどころでないと昨日言ったことを思い出す。

傍にいなくても、リンのことを考え始めると、ついつい仕事がお留守になってしまう。

しかし、心の中からリンを追い出すのはとても難しい。

困ったな、と小さく笑う。

ダメだ、リンを思っていると、困らされることすら、笑ってしまう。


「天下の白銀の鬼様も、そんなお顔をなさるのですね。」


凛とした声に、思わず笑顔が凍り付いた。

しまったと思った途端に、いつもの無表情になる。

そのまま淡々と声のしたほうへ軽く会釈した。


「お待ちしておりました。」


「わざわざここにひとりで来るように、謎かけをなさったのでしょう?

 リン様に余計なことをお聞かせしたくない、ということなのかしら…」


冷ややかに言って陰のなかから姿を現したのは水七だった。

享吾は相手を見て確認することもなく、淡々と言った。


「先にそちらのご用件を伺いましょう。

 昨日わざわざ来られたのは、僕に何か用があったからでしょう?」


水七はほんの少しだけ躊躇ってから、思い切ったように口を開いた。


「リン様は、照太兄様のお子様なのですか?」


ほんのわずか、誰にも気取られないほどのわずかな間、享吾は息を呑んだ。

やはり、忌み子はいたのか。


もうすっかり解決済みな気持ちになっていたのに、ふいに、それは再び、浮上してきた。

忌み子。護法照太の子ならば、それは確実に忌み子になる。

しかし、リンは鈴姫じゃなかったのか…

それに安堵していたというのに。

まとわりつく影のように、それは、ふわり、と浮かび上っては、また沈んでいく。


けれど、動揺など微塵も表さず、享悟は淡々と応えた。


「照太殿には、子があったのですか?」


「…ええ。」


水七はひどく言いにくそうに俯いて、けれど小さく頷いた。

享悟は能面のような無表情になって水七に言った。


「しかし、そんなことを僕にお尋ねになるとは妙ですね。

 護法は守護との間にしか子を成せぬはず。

 もっとも、それはとてつもない禁忌を犯すことになりますけど。

 もしも照太殿が子を成したのなら、その子の母親は、貴女しかいないのでは?」


享悟の指摘に、水七は気まずそうに俯いた。


「…わたくしは、照太兄様の守護でしたが、真の守護ではなかったのです。」


やはり、婆の推測は当たっていたのか。

享悟はそう思ったけれど、あえて素知らぬふりを通した。


「はて?守護に真も偽もないでしょう?

 だいたい、岬ともあろう家なら、結契の儀も盛大に執り行われたはず。

 衆人環視の許で、おふたりは引き合わせられたのでしょう?

 護法は、結契の儀で守護の目を見た瞬間、魂に刻印を受けてしまいます。

 それ以降は、たったひとりの守護に縛り付けられるのです。」


結契の儀は、婚礼の儀式にも似ている。

享悟のときのそれは、異例中の異例だった。

守護のリンが公には認められず、享悟はふたりきりで、半ば強行突破したのだ。

本来なら、十頭領家の長がずらっと居並び、その前で、護法と守護は引き合わせられる。

そこに一切の誤魔化しはあり得ない。

目を見て、互いに真名を交わす。

たったそれだけのことだが、護法は以降、永遠にその守護に縛り付けられる。

万が一にも大人しく儀式に従わない者がいれば、控えている護法たちに即座に取り押さえられる。

未だ儀式を終えていない護法に、それに逆らう力はない。

守護殺しなど、よほどのことがない限り、成功しない。


享悟に言われて、水七はますます気まずそうに俯いた。


「……。

 結契の儀は行いました。

 けれど、照太兄様は、わたくしの目はご覧になれませんでした。

 正確には、ご覧になったふりをなさいました。

 照太兄様は…、目がお見えにならなかったのです。」


その事実もまた婆から聞かされていた。

無言のままの享悟に、水七は、重い罪を告白するように、打ちひしがれて続けた。


「照太兄様の目がお見えにならないことを、わたくしは、結契の儀のときまで知りませんでした。

 兄様自身も覚えていないほど幼い頃に、疱瘡の病で見えなくなったということでした。

 それを隠し通すようにと命じたのは父でした。」


「では、照太殿は、貴女とは正式な結契を交わしていなかったのですね?」


「結契などなくとも。照太兄様は、れっきとした、わたくしの護法様ですわ。」


水七は気丈に面を上げた。


「しかし、見交わしは、成されていなかったのですね?」


享悟は念を押した。

それに水七は観念したように頷いた。


やはり、水七は照太の正式な守護ではなかった。

照太には別に正式な守護があった。

婆の予想は的中していた。


「しかし。

 見交わしもできぬのに護法になるなんて。照太殿はずいぶん危険な真似をしたものだ。」


思わずそう呟いてしまっていた。

護法の危さは、嫌というほどよく分かっている。

一度狂いかけてリンに引き戻されたとき、守護とはこれほどに大きな存在かと実感したのだ。


その享悟の言葉に、水七は眉を吊り上げた。


「酷いことをおっしゃらないでくださいまし。

 そもそも、兄様は、高倉のご夫婦の一人息子。

 水など飲む必要もなかったのに。

 それでも、あえて、自ら、飲むことをお選びになったのですわ。」


水七の熱い怒りとは反対に、享悟は冷ややかに言った。


「余所者同士の二代目は、余所者と同じ扱いをされますからね。

 照太殿が水を飲んだ年は、他にひとりも護法になった者がいない。

 他の年であれば飲まずに済んだ方も、次々と飲まされたのでしょう。」


護法がいなくなれば、島の暮らしは途端に困窮する。

護法を作り出すことは、島の命綱だ。

しかし、それでも、守護を就けることは不可能だと分かっている島の者に、水を飲ませることはない。


「照太兄様は、自ら望んで水を飲まれた、とおっしゃってました。

 自分のために、そうしたのだ、と。」


悲しそうに水七は言った。


「…そうしなければ、周囲の目があまりに厳しかったからですよ。

 余所者のくせに、家をつくり、それを繋いでいくつもりか、と。

 あの爺婆は、なりそこないの夫婦、と口さがない者たちから言われていました。

 照太殿もそれを聞いて、せめて自分が正当な後継だと証明したかったのでしょう。

 水を飲んで護法化しなければ、真っ当な島の民だと認められますから。

 しかし、それで護法になってしまったとは…」


享悟は苦々し気に目を細めた。


「水に馴染んだ照太殿を、岬はすぐに養子にしたんですね?」


水七は辛そうに目を伏せた。


「養子、というのは、かなり当たり障りのない言い方です。

 実際には、父は、高倉のご夫婦に大金を渡して、無理やり兄様をうちに連れてきたんです。」


大金を渡した…?

むぅ、と享悟は唸り声を漏らした。

なるほど。それで、爺婆は、照太に会いに行かなかったのか。

照太に対してあまりに申し訳ないと思っていたのかもしれない。

どれほどの大金だろうと、爺婆は進んで我が子を売るようなことはしない。

けれど、岬という旧家を相手に、爺婆には逆らう術もなかったのだろう。

貴島は守ってやらなかったのか。

いや、むしろ、岬への橋渡しをしたほうか。


「それは、貴女を照太殿の守護にするためですね?」


水七はうつむいたまま、小さく頷いた。

護法の兄弟姉妹は優先して守護に就けられる。

我が子を守護に就けるために、わざわざ島の外から身よりのない子どもを連れてきて、水を飲ませる者もいる。

護法がいなければ立ち行かない島なのに、それでも、我が子を護法にしたい親はいない。


「お屋敷では、照太兄様は、水六兄とわたくしの守役になりました。

 水六兄とわたくしは、照太兄様のことを、にいやと呼んで、とても慕っておりました。」


島の家は、ことに頭領家は子だくさんなことが多い。

跡継ぎを絶やさないためにだ。

子どもたちには世話役がつけられ、実の親よりも世話役に懐いていることも多い。

享悟にも、幼いころから、爺婆という世話役がつけられていた。


しかし、守役に就いた照太は、まだ十かそこらの年だったはずだ。

照太が世話をした水六と水七は、まだ一歳と生まれたばかりの赤ん坊。

その世話をするのは、照太にとっても、楽な仕事ではなかっただろう。


けれどまたそれは、水七と照太との絆を強くするという意味もあったのかもしれない。

見交わしの成らない護法と守護だとしても、強い絆はそれなりに護法の守りになる。

そうやって共に育ち、長い時間を共にすることで、確かに絆は育っていったのだろう。


「父母から引き離し、屋敷に引き取ったのは、盲目ということが誰にも分からないように、訓練をする目的もあったのでしょうね。」


護法は通常の人間よりも優れた五感を持っている。

たとえ目が見えなくても、見えているようにふるまうこともできるだろう。


「うちに連れてこられた兄様は、徹底的に日常生活の訓練をさせられたそうです。

 そうして、誰も照太兄様の目がお見えにならないとは気づかないほどになりました。

 幼い頃の兄様の病を知ってらした方も、護法になって目も治ったのかと思ったそうです。」


照太が盲目であることを岬の当主は隠していた。

もしも、それが知れてしまえば、水七は照太の守護にはなれない。

見交わしのできない護法は、守護を得ることはできないからだ。

照太が盲目であることは、なんとしても、隠し通さなくてはならないことだった。


「照太殿は最初から、守護を就けることのできない護法だったのですね?」


「それがどれだけ危険なことか、その頃のわたくしにはよく分かっておりませんでした。

 わたくしはずっと、照太兄様の守護になることにためらいを持っておりました。

 わたくしはからだも弱く、到底、守護の務めを果たせるとは思えません。

 何度も父に、照太兄様の守護は他の方にお譲りするようにと願いました。

 けれど、父は聞き入れてはくれなかった。

 心配はいらない。守護としてついて行く必要はないから、と言って。

 本当は、必要ないというより、ついて行ったところで、わたくしには守護の務めは果たせなかった。

 たとえ、照太兄様が狂気に堕ちても、わたくしには喚び戻すことなどできなかったのです。」


水七から聞いた話をゆっくりと吟味するように享吾はしばらく黙っていた。

それから、おもむろに口を開いて言った。


「守護を辞退すれば、あなたは、護法の水を飲まなければならなかった。

 けれど、それほどにからだが弱いのであれば、おそらくあなたは護法化に耐えられない。

 命を落としていたかもしれません。

 父上としては、それを見過ごすことはおできにならなかったのでしょう。」


「照太兄様も同じことをおっしゃいました。

 何もしなくていい。ただ、名前だけ、自分の守護でいてほしい、と。

 目の見えない自分は、まともに見交わしを成すことは、誰ともできない。

 ならば、小さいときからよく知っているわたくしに、守護の座に就いてほしい、と。」


「照太殿は、貴女が自分を慕っていることに気づいていたのでしょう。

 たとえ守護はなくとも、確実に自分を待つ人がいると思えば、護法はそう簡単には狂いません。」


享悟は慰めるように言った。


「しかし、盲目では護法のお役目を果たすことは難しかったのではありませんか?

 日常生活や鍛錬程度なら、護法の五感をもってすれば、それほど難しいことはないでしょう。

 けれど、実際に戦場に出たときに、それが通用するとは思えません。」


「はい。ですから、照太兄様は、他の護法様の伝令のようなことばかりなさっていました。

 父が手を回して、そのような任務を照太兄様へ回すようにしていたようです。

 自分の任務に危険はないから、心配はいらないと、照太兄様はおっしゃいました。

 あとは、市井を歩いて、情報収集のようなこともしていらっしゃいました。

 優し気な見た目をしておられましたから、人の中に混ざってもあまり目立たなかったのです。

 穏やかな聞き上手で、照太様に気を許して話をしてくれる人は大勢いたようです。

 講釈師の真似事をしていたこともあるとおっしゃってました。

 兄様は面白いお話しをなさるのがとても上手でしたから。」


「講釈師?そんな護法もがいるんですか?」


「そうしているときはとても楽しいのだとおっしゃってました。

 小さいころ、水六兄とわたくしは、照太兄様によく面倒を看てもらいました。

 兄様は毎晩寝る前に、いつも面白い話をしてくれました。

 だから話がうまくなったんだ、って、笑っておられました。」


享悟は照太のことはあまりよく知らない。

けれど、ふと、幼い子どもたちを寝かしつける影が思い浮かんだ。

ぬくぬくとした幸せな寝床。にいやのことが大好きで、きらきらした目で見上げる子どもたち。

そこにいた照太も、きっと、幸せだったに違いないと確信できる姿だった。

だからこそ、照太は、自らの守護に水七を望んだのだろう。

たとえ、真の守護にはなれないとしても。


「照太兄様は優しい方でした。

 優しくて、明るくて、楽しい方でした。

 とても真面目によく働く方でした。

 怒ったところなど、見たこともありません。

 叱らなければいけないときも、優しく諭してくださる方でした。

 父のしたことにさえも、怒りではなく、恩を感じる方でした。

 自分は幼いころに目が見えなくなって、両親にも迷惑をかけるばかりだった。

 けれど、護法になったおかげで、日常生活には困らなくなった。

 その上、岬の養子になれて、両親にもいくばくかの恩返しができた。

 ご自身の身の上を、そんなふうにおっしゃる方でした。」


享悟は感心するような唸り声を上げた。


「それはまた、よくできた人物ですね。」


照太のことをよく言われるのは嬉しいのか、水七は少し微笑んだ。


「水六兄は意地悪で、わたくしは泣かされてばかりいました。

 その兄を叱ってくれるのが、照太兄様でした。

 わたしくは、水六兄よりも、照太兄様のほうがずっと好きで。

 照太兄様が本当の兄様ならよかったのにと、どれだけ思ったことか。」


「照太殿はよい守役だったのですね?」


享悟のその言葉に、水七は悲し気に微笑んだ。


「幼いころのわたくしは、守役ということがよく分かっておりませんでした。

 照太兄様のことは、従兄の兄様のようなものかと思っておりました。

 けれど、あるとき、兄様はおっしゃいました。

 兄様はわたくしたちを主と思ってお仕えしている、と。」


その言葉に水七は傷ついたのかもしれない。その声は少し震えていた。


「そのころから、だったかもしれません。

 わたくしが、ことさら、兄様に辛く当たるようになってしまったのは。」


水七は辛いことを思い出すようにため息をついた。


「照太兄様のご両親は、他所から連れて来られて、どちらも護法にならなかった方でした。

 そのせいで照太兄様は、口さがない人たちから、なりそこないの子、などと呼ばれていました。

 わたくしも、なりそこないの子の守護、と陰口を聞かれました。

 それが、悔しくて…わたくしは、照太兄様に八つ当たりしてしまいました。

 でも、照太兄様はそんなわたくしに怒ることもなくて。

 ただ、ひたすらに、いつも、優しかった。」


いつか享悟の見たふたりの姿は、そのころのものだったのかもしれない。

つん、と顎を逸らせた少女に辛抱強く語りかけていた護法。

あのとき、あのふたりの間には、間違いなく優しい空気が流れていた。


零れそうな涙を必死に堪えつつ話す水七の横顔には、激しい後悔が滲んでいる。

享悟はそんな水七を無表情なままじっと見つめていた。

そして、水七の言葉が途切れると、淡々と言った。


「貴女のご不満も、もっともなことでしょう。

 本来ならば、守護の任に就くまでは、自らの護法は分からぬもの。

 けれど、その年の護法はたったひとりだったために、貴女の護法は島中に知れ渡っていました。

 貴女のような十頭領家のお嬢様なら、守護に就くのも十頭領家の護法のことが多い。

 けれど、照太殿の出自は、到底、誇れるような家柄ではなかった。

 そんな護法の守護となれば、陰口もいっそう酷かったことだろうと推察します。」


享悟の台詞は、ちょっと聞くと、水七を宥めるようでいて、その実、照太を酷く貶めてもいた。

そのことに気づいた水七は、きっと眉を吊り上げた。


「照太兄様を侮辱するのは、たとえ、貴島の若様だとしても、捨て置けません。

 家柄なんて、そんなに立派なものなのですか?

 十頭領家だなんて偉そうに言って、鬼の島の首領というだけのことではありませんか。

 みんな威張ったり、つまらない陰口を聞いたり、足の引っ張りあいのようなことばかりしているのに。

 照太兄様のほうが、ずっと、立派な良い人物でした!」


享悟は軽く苦笑する。その笑みは、いつか享悟が見た照太の笑みにも似ていた。


「貴女が本心ではそう思っていてくださることを、照太殿は分かっていたと思いますよ。

 ずっと、幼い頃から、貴女を見ていたのでしょう?

 そんなことも分からないほど愚かな方だとは思えません。」


享悟は非礼を詫びるようにゆっくりと頭を下げた。

水七は呆気にとられたような顔をして、それから寂しそうに微笑んだ。

零れそうだった涙は、いつの間にか止まっていた。

もう取り戻せない時間を惜しむように、水七は静かに語った。


「あの年、我が子を守護にと望む親は、ことのほか、大勢いたそうです。

 そんななかで、父は十頭領家の力を使って我意を押し通しました。

 照太兄様のご両親に大金を渡して、その身をお金で購うようにしてうちに連れてきました。

 そのやりように、島の人はみな不満を持っていました。

 けれど、面と向かって十頭領家に文句を言える人はいません。

 照太兄様はその側杖をくらわされたのです。

 皆から陰口をきかれ、爪弾きにされました。

 守護に就いたのがわたくしでなければ、照太兄様もあんな仕打ちを受けることはなかったのに。

 その年の、たったひとりの護法として、もっと大切にされていたでしょうに。

 なのにわたくしは、照太兄様を庇いもせずに、ただ自分の不満ばかり押し付けていました。」


「岬が守らなければ、照太殿はもっと酷い目にあっていたかもしれません。

 守護を就けることは不可能な護法なのですから。

 さっさと使い捨てにされていたことでしょう。

 娘を守るためとはいえ、岬は、照太殿のこともちゃんと守ったのですよ。」


享悟は穏やかに続けた。


「貴女のお父上だけではありません。

 十頭領の家は、なるべく我が子を守護に就けようとするものです。

 後継として護法の水を免じられるのはひとりだけ。

 他の子は、守護に決まっていなければ、みな水を飲まされる。

 そして、十頭領家の血筋であれば、ほぼ、必ず、護法になってしまうのですから。

 現に、貴女の姉上もおふたり、護法になっていらっしゃる。

 もうこれ以上はたくさんだったのでしょう。」


「父はわたくしの話しなど、ほとんど聞いてくれませんでした。

 わたくしの不満も愚痴も、すべて受け止めてくださったのは、照太兄様でした。

 わたくしは、照太兄様に対して、いつも子どもじみた態度で接しておりました。

 優しさも慈しみも、溢れるほどに注がれていたのに、それに気づこうとすらしなかった。」


「照太殿はあなたの本心を分かっていたと思いますよ。

 ずいぶん昔、おふたりの姿を遠目に拝見したことがあります。

 照太殿は咳をするあなたを労わっておられました。」


「…わたくしは、からだが弱くて…

 照太兄様の守護でありながら、守護の務めも満足に果たせぬ有様でした。

 そんなことまで、わたくしは、兄様への八つ当たりの材料にしていました。」


「守護の務めなど、護法は何も求めていません。

 ただ、幸せに笑っていてくれればいい。

 護法が守護に求めるのは、そんなことだけです。」


「…照太兄様も、同じことをおっしゃいました。

 自分についてくる必要はない。

 ただ、ここで元気に待っていてください、と。」


享吾は水七にむかって頷いて見せた。


「僕も、リンに同じことを言います。

 大切な人の身に危険があるくらいなら、安全な場所にいてくれるほうがいい。

 帰る場所の目印になってくれれば、何があっても、自分はそこを目指して帰ってくるから。」


「守護は護法様の行くところならどこへでもついて行き、その魂を守るもの。

 ずっと、そう信じてきました。

 けれど、わたくしには、それがとても難しかった。

 無理について行っても、熱を出して、結局、お役目の妨げにしかならない。

 照太兄様は、そんなわたくしに、島で待っているようにおっしゃいました。

 けれどわたくしは、それはわたくしを真の守護だと認めていないからだと情けなく思っておりました。」


「リンも同じように悩んでいます。

 多分、それは、余計なことを吹き込む輩が多いせいでしょう。

 護法と守護のあり方は、その組み合わせの数だけあってよいと、僕は思います。

 掟通りでなくても構わないと。

 けれど、外からの力は、無理やり既存の箱にすべてを押し込もうとします。

 逆らえば逆らうほど、その力は強くなって、やがて皆、耐え切れずに屈してしまう。 

 箱の中に納まって、そして今度は、自分以外の誰かも、同じ箱に押し込もうとする。」


「貴方は屈しないとおっしゃるのですか?」


水七の挑むような視線を受け止めて、享悟は不敵に笑った。


「僕は、生まれる前から、掟破りの権化のようなものですから。

 僕の両親の経緯は有名ですから、ご存知でしょう?

 僕自身のしてきたことも。今現在していることも。」


けろりとしてそう言い放つ。

水七はただ目をぱちぱちさせて、そんな享悟のことを見つめるばかりだった。

これまで、水七の周囲には、こんなことを堂々と口にする者はいなかった。

いったいどう返せばいいのか、その言葉も見つからない。

水七の顔にははっきりとそう書いてあった。

享悟はそんな水七の目を真っ直ぐに見据えてゆっくりと言った。


「掟は必ずしも正義だとは限りません。

 いいえ、正義は必ずしも、掟の範囲に収まっているわけではないと言うべきか。

 掟というものは、なるべく大勢の人間がうまく進めるための、大きな道のようなものです。

 それを行けば、大抵の者は迷うこともなく目的に辿り着ける。

 けれど、道は本来、ただひとつではない。

 細くても、曲がりくねっていても、そこへ行く道はあるのです。

 たとえ回り道に見えたとしても、その道に意味のあることもある。

 どの道を辿るか、それは本来、自分で決めることです。

 己の正義に恥じぬ道を、己で選ばなければならないのです。

 しかし、掟は違う道を一切排除してしまうこともある。

 だから、破りたくなる者も、破ってしまう者も、現れてしまう。

 破ろうとして破る者も、破るはずはないのに破ってしまう者も、ただ、自らの正義に従っただけ。

 けれど、大勢の作った道を逸れるには、それだけの覚悟というものが要ります。

 道に迷うかもしれない。最悪、目的地にたどり着けないかもしれない。

 誰にも理解されないかもしれない。それどころか、邪魔をしようとする者が現れるかもしれない。

 その危うさをも全て背負った上の覚悟です。

 覚悟のない者は、ただの掟破りとして排除されるのみ。

 照太殿は滅多にないほど肚の座った、覚悟のある護法だったのでしょう。」


享悟はにやりと笑った。


「僕の前に、そんな掟破りをする護法がいたとは。

 案外、掟破りの護法は、僕の思うより多くいるのかもしれません。」


「照太兄様は、掟破りの護法だった、とおっしゃるのですか?

 まさか、あんな真面目な兄様を?」


心底驚いている水七に、享悟は人の悪い笑みを返した。


「真面目ならば、掟を破らないとは限りません。

 真面目だからこそ、掟を破らざるを得ないかもしれない。

 大切なのは、何に対して、真面目であるか。

 守るべきものがあるなら、たとえ掟からは外れたとしても守る。

 そういうことだって、あるかもしれません。」


水七は目を丸くして享悟を見ていた。


享悟はその水七に尋ねた。


「ひとつ、教えてください。

 貴女はどうして、照太に子がいることをご存知だったのですか?

 誰がそれを貴女に告げたんです?」


「それは…水六兄が…」


「水六兄、か。」


享悟は短く呟くと、重ねて尋ねた。


「あとひとつだけ、教えてください。

 照太が行方を絶ったのはいつなんですか?」


「たった一度きり請けたお役目の最中です。

 伝令ではなく、ちゃんとした護法らしいお役目だ、とおっしゃっていました。

 しかし、その最中に行方を断ち、そのまま島には戻りませんでした。」


享吾は目を見張った。


「たった一度きり請けたお役目?

 それは、貴族の神詣での護衛ですか?」


「…いいえ、そうではないと、思います…」


水七は自信なさげに俯いた。


「そうではない?

 では、いったいどんなお役目だったんです?」


重ねて質問されて、水七はますます困った顔になった。


「照太兄様は、お役目については、あまり詳しくは話してくださいませんでした。

 貴女は何も心配しなくていい、と、いつもそうおっしゃって…」


「なにか、気づいたことはありませんか?

 辛そうにしていたとか、行きたくなさそうにしていた、とか…」


「それは、むしろ、逆です。

 最後のお役目に出る直前、兄様は妙にご機嫌だったのは、はっきりと覚えています。

 今度のお役目は、とても難しいけれど、とても尊いお役目だ、とおっしゃっていました。

 俺は誰も殺さずに、皆が平和に暮らせるようにしてみせます、とも。」


「誰も殺さず?

 そうおっしゃったんですか?」


確認するように繰り返す享悟に、水七はしっかりと頷いて見せる。

すると、いきなり享悟は楽しそうに笑い出した。


「そ、っか。

 誰も殺さず、か。

 なるほど。流石だ。」


「……?あのぅ…」


訝し気に聞き返す水七に、享悟は明るく言った。


「ああ、すみません。

 でも、聞けば聞くほど、面白い護法ですね。

 直接会えなかったのが、とても残念です。

 師になってほしかったな。」


「まあ、兄様が、貴島の若君の師匠ですか?」


水七は心底驚いた顔をした。

貴島家の惣領たる享悟には、幼いころから錚々たる師がついている。

それは島でも一二を争うほどの実力者揃いだ。

照太は護法とはいえ、特に秀でた技能を持っていたわけではない。

多少、話しがうまくて、人に好かれることくらいだろうか。


水七の反応に、享悟は、ひどいなあ、と小さく笑った。


「…でも、僕を育ててくれたのは、実質、高倉の爺婆ですからね。

 僕は照太殿と同じ人たちに育ててもらったわけだ。

 照太殿は僕にとっては兄のようなものですね。」


ひとしきり楽しそうに笑ってから、享悟は水七に言った。


「これだけは、お話ししておきましょう。

 照太殿は、貴女の思っているような人物ではありませんよ。

 仮にも護法なら、そんな絵に描いたような好人物なわけないじゃないですか。」


享悟は、今度はいったい何を言い出すつもりなのか。

びっくりして目を丸くするばかりの水七に、享悟は穏やかに微笑んで見せた。


「貴女にとって、照太殿は護法ではなく、優しい兄様だったのでしょう。

 けれど、照太殿はあくまで、護法です。もはや人ではない。鬼なのです。

 貴女と出会ったとき、既に照太殿は護法になっていました。

 人の持つ愛情や真心を、護法は持ち得ません。

 甘い言葉も優しい態度も、全ては自らに有利なように事を運ぶため。

 護法は全力で守護の心を捕らえにいく。

 そうすれば、守護に自分を守ってもらえると知っているから。

 貴女は、照太殿の真の守護ではなかったかもしれない。

 けれど、たとえ仮だとしても、照太殿は貴女を、自分の帰る場所の目印にしていたんでしょう。

 だから、照太殿は貴女の心を捕まえようとした。

 お気の毒に、貴女はずっと長い間、鬼の罠に嵌っていたのですよ。」


「しょっ…照太兄様は、そんな方ではありませんっ!」


強く否定する水七を、享悟は憐れむように見た。


「ほら、そのようにすぐに感情的になる。それこそは、貴女が鬼に心を奪われている証拠。

 けれど、鬼は決して、貴女に真心は返しません。

 守護の心得にも、護法には決して心を許すな、とあるでしょう?

 一番基本的な心得なのに、それを忘れてしまう守護のなんと多いことか。

 いや、多いからこそ、この心得は何度も何度も、繰り返し言い聞かせられるのに。

 それでも、守護は護法の罠に嵌ってしまう。

 護法の態度を愛情だなどと誤解してしまう。

 優れた守護ほど情が深いのだと聞いたことがあります。

 そんな守護が命を懸けて自分を護る護法に対して、情の移らぬはずはない。

 護法にとっては守護の存在こそが、この世に自分を留める杭のようなもの。

 あらゆる手を使って、守護の心を自分に引き寄せようとする。

 それは護法の生きるための本能。

 ただの人の柔らかな心を持った守護にとっては、それは拷問にも等しい。

 守護の優しい心はあっという間にたぶらかされてしまう。

 ことあるごとに、甘い言葉を囁き、戦場の極限状態にあって己を護ってくれる鬼に。

 護法は、たとえ足蹴にされ、踏みつけにされても、守護に従います。

 それは、力のある鬼を従えるために、大昔のご先祖の編み出した呪いなのです。

 護法の守護への態度は、その呪いのせいでしかありません。」


水七は、信じられない、というように享悟のことを見つめた。


「…いきなり、なにをおっしゃるの?

 まさか、貴方のリン様に対するお気持ちも、その呪いのせいだとおっしゃるのですか?」


間髪入れずに享悟は返した。


「もちろん、そうです。

 僕は護法です。

 僕に人のような心はありません。」


享悟の口元は微笑んでいるのに、目は笑っていない。

噛んで含めるように話す口調は優しいようで、どこか冷たい。

その冷ややかな態度に、ぞくりと寒気がして、水七は、思わず自分を抱きしめる。

それでも、水七は言わずにはいられなかった。


「リン様がお気の毒です。

 貴方のことを、あんなに慕っていらっしゃるのに。」


「リンは僕の守護ですから。

 慕っていてくれなければ、困るのですよ。

 僕がここに間違いなく帰ってこられるように。」


「そんな…それでは、まるで、リン様のことを利用しているような…」


「それが守護の任というものでしょう?

 護法と守護の関係は、鬼と鬼使いの契約です。

 その間には、愛情も恋情も、真心もありません。

 もしもあなたが、そんなものをあると勘違いしていたとしても。

 それは、照太殿があなたにそんな幻を見せただけ。

 あなたに自分を守らせるために。

 卑怯で狡い鬼の手管ですよ。」


「おやめください!

 …どうして、あなたは、そんなに、冷酷なことが言えるんですか…?」


享悟を見上げる水七の瞳には、涙が浮かんでいた。

けれど、享吾は動じることもなく、淡々と言った。


「鬼だからですよ。

 護法は鬼なんです。

 可哀相に、リンも騙されて僕を守っている。

 ただ、護法が守護を縛り付けている年月はそれほど長くはない。

 それだけは、救いだと思っています。

 守護の任を降りたとき、初めてリンの人生は始まる。」


享悟はちらりと蔵の入り口のほうへ視線を向けた。

そこには気配を押し殺すようにして佇む人影があった。

もちろん、享悟は最初からその人物の存在に気づいていた。

けれど、気づいていることは黙ったまま話しを続けていた。


冷淡な享悟の言葉に、水七は傷つき、涙を流した。

こんなふうに水七を傷つけるのは、本当は享悟の役目ではない。

それは、水七の就いた護法が最期にやらなければならなかったことだった。

守護をその呪縛から解き放つ。

けれど、照太はそれをせずに逝ってしまった。

まあ、いいだろう。同じ親に育てられた護法同士の縁だ。

照太もきっと、このままでは心残りだろうから…


人影は水七を心配するあまりに、いつの間にか身を乗り出してしまっていた。

すっかりあらわになったその姿に、享悟はほんの僅かに視線を揺らす。

けれど、そんな享悟の変化に、この場の誰も気づくことはなかった。


「貴女が嫁いだのはつい最近のことだったと聞きました。

 ずっと、待っていたんですか?戻らない照太殿を。」


「…それが、守護のお役目というものでしょう?

 ついていくことはできなくとも、待つことくらいはできます。

 護法の亡骸を見ない限り、守護の任は解けないのですから。」


「建前は一応そういうことになっていますけどね。

 行方不明の護法を待つにしても、五年が限度でしょう?」


過去、それ以上長く存命していた護法はいなかった。

だから、その時間が経過すれば、守護は自動的に自由の身になるのが慣例だった。

けれど、水七は、それをはるかに超えても、まだ律儀に照太を待ち続けていた。

その呪縛は、今こそ解き放たれるべきだと、享悟は思った。


「…これに、見覚えはありませんか?」


享悟はそう言って懐からクナイを取り出した。


「それは!」


ちらりと見ただけで何かを感じたのか、水七は享悟の手からそのクナイを奪うようにして取った。

そのままむきを変えて、クナイの柄を明るいほうへ向ける。

柄には気を付けてみないと分からないくらいの小さな穴が開けてあった。

そこに光が差し込んで、細い、線を描く。

その線が床に当たるところに、綺麗に、照、の文字が現れていた。


「…照太兄様…」


水七は照の文字の現れた床に崩れるように座り込むと、そっと掌で床を撫でた。


「やはり、貴女もこれをご存知でしたか。

 しかし、見事な仕掛けだな…」


享悟は感心したようにクナイを見つめていた。

水七は少しばかり嬉しそうになって言った。


「照太兄様が、ずっと持っていらっしゃったものです。

 護法になったときに、お父様に作って頂いたのだ、と。

 お守りのようなものだとおっしゃっていました。」


水七はクナイを大切そうに両手で押し頂くと、愛おしそうにそっと頬ずりした。


「照太兄様…おかえりなさい…」


悲し気に、けれどどこか安堵したように、水七はほろほろと涙を流した。


ずっと物陰からこちらを伺っている影は、たまりかねたようにこちらへ駆け寄ろうとした。

それに享悟は、こちらに来るなというように、無言でさっと掌を立てて見せた。

ちらりと見た享悟の視線に射すくめられて、影はその場で立ち止まる。


享悟は目の前で泣く水七に、あえて何もせず、黙って見下ろしていた。

水七はしばらく泣いて満足したように、享悟のほうを見上げた。


「この仕掛けのことは、照太兄様が教えてくださいました。

 護法様は、戦場で行方知れずになることも多い。

 もしも、このクナイがどこかで見つかったら、自分はもうこの世にいないと思ってほしい。

 照太兄様はそうおっしゃいました。」


照太がもうこの世にいないことは、間違いようのない事実だ。

あれからもう随分時が経っている。護法には生きていられない時間だった。

それでも、その事実をこうして突き付けられれば、悲しいことに変わりはない。

水七をいたわるように、享悟は言った。


「紆余曲折を経て、ようやく照太殿はここに帰ってきたんですね。

 それでも、ちゃんと帰ってきたのだから。

 照太殿の守護ならば、褒めてやってください。」


水七は小さく頷いてから、享悟を見上げて尋ねた。


「これを、どこでお見つけになったのですか?」


その問いに、享悟は微塵の躊躇いもなく答えた。


「それは、リンの母親が持っていたものです。」


「!では、やはり、リン様は!」


水七の期待に満ちた目に向かって、享悟は淡々と首を振った。


「いいえ。おそらくリンは、照太殿の子どもではありません。」


「でも、これは、間違いなく照太兄様のものです。」


「…その辺りは、まだこれから解きほぐさなくてはならないのですけど…」


享悟はいったん視線を逸らせてから、再び、水七をじっと見据えた。

水七ははっと息を呑んだ。

けれどもう、水七は享悟の目に捉えられてしまっていた。


「水七殿、照太殿の守護は貴女ではなく、このクナイを持っていた人です。

 護法は守護との間にしか子を成すことはできない。

 照太殿に子があるなら、その子の母親こそが、照太殿の真の守護。

 そんなことは、聡明な貴女ならば、とっくにお分かりでしょう?」


水七の目にみるみる涙が溢れて溢れて落ちる。

享悟の言ったことは、もちろん水七も、分かっている。

分かってはいたけれど、認められなかった。

守ることもついて行くこともできなかった水七に、たったひとつ、できたこと。

それは、照太を待ち続けることだった。

けれど、それすらももう、必要ないのだと、改めて言葉にされたら。

あとは、涙を流す以外に何をするというのだろう。


享悟の言葉は、淡々と、容赦なく、水七に降り注ぐ。


「そのような涙を流して差し上げることもありません。

 照太殿は貴女を裏切った。

 あなた以外の誰かと結契を交わした。

 目の見えなかった照太殿がどうやって見交わしを成したのかは、僕にも分かりませんが。」


情け容赦のない享悟の言葉に、水七はその場に泣き伏した。

もうこれ以上、聞きたくなかった。

それでも、享悟は辛辣な言葉を降らせることをやめなかった。


「護法の間には、幻のような御伽噺が伝えられています。

 護法となるべき者には、すべて、守護に決められている運命の相手がいる。

 その相手と出会ってしまったら、もはや、護法になる運命からは逃れられない。

 気に病むことはありません。照太殿はそんな相手に出会ってしまっただけ。

 そして、貴女の運命の相手は、照太殿ではなかった、というだけ。」


「けれど、その方は、島の方ではないのでしょう?

 わたくしは、幼いころから、照太兄様の守護として厳しい修行を積んでまいりました。

 修行もしていないその方が照太兄様の守護になって、わたくしがなれないなんて。

 そんなの、おかしいと思います。」


涙を交えて訴える水七の言葉にも、享悟は表情を変えなかった。

ただ、もし、ここのリンがいたなら、きっと、享悟の背中をそっと撫でていただろう。

享悟の無表情は、表に感情を表さないための仮面だということを、リンなら知っていたから。

辛辣な言葉を投げつけられれば、人は傷つく。

けれども、投げつけたほうも、同じだけ傷ついていることもある。


守護の修行の厳しさを、享悟は知らないわけではなかった。

享悟自身も、十頭領家の跡取りとして、それなりに厳しい修行をさせられてきた。

そこに、嫌だと言う自由はなかった。

否、嫌だと言うことを思いつく自由すらなかった。

それは生まれたときから、当然のこととして、その身に課せられてきた。

逃げることもできずに、ただ毎日修行に明け暮れる。

そんな日々の辛さも、知らないわけではなかった。

けれど、それでも、いやそれだからこそ、今ここで、言葉を止めるわけにはいかない。

それは、水七をその呪縛から解放するためだった。


享悟はわざとらしくため息をついてみせた。


「おそらく貴女は、守護は島の者でなければならないと、ずっと言い聞かせられてきたのでしょう。

 本能のままに生きられる護法とは違って、守護には制約が多い。

 鬼を使いこなす技を、鬼使いは習得しなければならないのです。

 だからこそ、護法にはろくな修行はないのに、守護は幼い頃から厳しい修練を課せられる。

 それを修めた者でなければ、守護にはなれないと言い聞かせられる。

 けれど、僕の守護も、島の人ではありません。

 幼いころからこの島で育ちましたが、守護の修行は一切させていません。

 それでも、リンは立派に僕の守護を務めています。」


感情を伺わせない享悟の声のなかに、僅かに怒りが滲む。

リンに関わることには、つい感情を揺らしてしまう。

そうだ。リンは立派な守護だ。他ならない享吾自身がそれを認めている。

たとえ、有象無象どもに何を言われようと。それは絶対に譲らない。


水七は、はっと顔を上げた。その視線を、享悟は正面から捕らえた。


「幸い、貴島の息子として、僕のほうにある程度の知識はありました。

 それ以上の鬼の島の習わしなど、あの子に教える必要は感じなかった。

 それでも、リンは立派に守護としての任を果たしています。

 なにより、僕が狂いかけたとき、あの子はちゃんと召び還してくれた。

 何も教えなくても、そうできたんです。」


「…狂い、かけた…?」


呆然と繰り返す水七を、享悟はまるで嘲笑うような笑みを浮かべた。


「ああ、そうか。恐ろしいでしょう?

 狂った護法の恐ろしさを、貴女は嫌と言うほど聞かされているはずだ。

 護法が獣に成り果てるという話しを。

 狂った護法は、破壊衝動だけに支配され、鬼の力を暴走させる。

 僅かに持ち合わせた思考力も判断力も、全て失ってしまう。

 獣に堕ちた護法を召び還すのは、守護にとっても命懸けのこと。

 少しでも恐れを抱けば、その瞬間に、守護は護法に縊り殺される。 

 もちろん、あのときの僕も、そうなっていました。

 けれど、リンはそんな僕をも恐れなかった。

 あえて護法の恐ろしさは教えてはいませんでしたけど。

 僕がまともな状態じゃないことは、見れば分かったはずです。

 普通なら、放り出して逃げたとしてもおかしくはない。

 僕はいつもリンに、危ない目に合ったら、とにかく逃げるように言い聞かせてきました。

 戦うな、逆らうな、まずは自分を守ることを考えなさい、と。」


水七の怯え切った目を覗き込むようにして、享悟は微笑む。

その目は、冷酷な鬼そのもののようだった。

享悟もまた、護法なのだと、水七は思い知る。

そして、照太もそれと同じものだとも。


「恐ろしい獣のように成り果てた僕を、リンは微塵も恐れなかった。

 僅かな迷いもなく召び還しました。

 守護の務めの中でももっとも難しい技を、あの子は教わりもせずにやり遂げたんです。

 しかも、そのときのあの子は、怪我をしていた。

 血を流し、痛みに気を失いそうになりつつも、僕を見捨てなかった。

 いや、あの子には見捨てるという発想すらない。」


享悟の表情はどこか誇らしげに見えた。


「あの子は生まれながらにして守護の素質を持っています。

 僕が護法になった真の理由は、リンという守護を手に入れたかったかもしれない。

 そのために、僕は、あらゆる手段を使いました

 人を騙し、家族を脅すことにも、まったく罪悪感を感じなかった。

 きっと、僕にも、鬼になる素質はあったのでしょう。」


そこで一呼吸置いて、享悟は静かに続けた。


「リンは、僕のたったひとりの大切な守護です。

 あの子がここで待っていてくれるから、僕はここに帰ってくる。

 けれど、貴女の鬼は、貴女の許には帰ってこなかった。

 照太殿の帰る場所は、貴女のところではなかった。

 僕の魂は、リンに固く結びつけてあります。

 リンは僕のたったひとつの光なんです。

 けれど、貴女は照太殿にとっての光ではなかった。

 護法になると、世界は色を失い、人はみな化物のような姿に見える。

 真昼間でも夜明け前のように薄暗く、物の形も、曖昧に溶け崩れて歪む。

 そんなところで、ただひとつ、守護の姿だけは、色と光を伴っている。

 それがどれだけ美しく安心できる場所なのかは、護法になった者にしか分かりません。

 それが、護法にとっての守護という存在。

 護法が強いのは、常に不気味な世界に怯えて身構えているから。

 不相応な力を手に入れるために護法の支払う代償は、決して安くはない。

 護法のいる現実は、いわば、恐ろしい悪夢のような世界です。

 夢ならば目を覚ませばそこから逃げられます。

 けれども、護法は、目を覚ますことすらできない。

 ただ、守護の傍らにいるときだけ、護法は自分が人間だったころのことを思い出せる。

 そうして守護への執着を深く深くしていく。

 その執着が、やがては自らの身を亡ぼすことが分かっていても。

 それでも、そうせずにはいられない悪夢のなかで、護法は足掻き続ける。

 歪んだ世界に五感をすり減らし、常に感じている恐怖は魂を蝕んでいく。

 いつか来る終わりの時間は、むしろ、護法にとっては救い。

 守護への執着に身を焼かれ、壊れていく世界に精神を蝕まれ…

 そうして魂ごと朽ち果てるのが、護法というものの運命です。」


「いいえ、それでも、魂は朽ち果てません。

 そのために、守護がいるのです。

 物質であるからだが朽ち果てても。

 魂だけは守りぬく。

 それが、守護の務めでしょう?」


反論した水七の声は凛としていた。


「貴方様の魂は、リン様がしっかりと守っておられます。

 そのことは、誰より貴方様がお分かりでしょう。

 たとえ白銀の鬼様と雖も、ご自身の守護を貶めることは見過ごせません。」


きっぱりと断言されて、今度は享吾が口を噤む番だった。

水七はそんな享吾に寂し気に微笑んでみせた。


「照太兄様の魂を守ったのは、わたくしではありませんでした。

 幼いころからずっと厳しい修行に耐えてきたのに、わたくしは守護にはなれなかった。

 けれど、守護になるために、大切なのは、修行をすることではない。

 もちろん、どこの誰の子として生まれたかでもない。

 貴方のおっしゃるのは、そういうことなのですね?」


享悟はひとつだけ深呼吸をしてから、肩の力を抜くようにして言った。


「貴女はもう守護になる必要はありません。

 これからは、貴女の守りたい人を守っていかれるといい。」


水七もどこかすっきりした顔をして頷いた。


「なんだか、ようやく霧が晴れたような気持ちです。

 そうだ。

 今度、リン様のところへお話に伺ってもよろしいでしょうか?」


「リンのところへ?

 いったい何を話すんです?」


リンの名前が出た途端に警戒心を顕わにする享悟に、水七はくすりと笑う。


「本当に、リン様のこと、大切になさっておいでですのね?」


「当然です。リンは僕の」


「大切な守護ですから?」


台詞を横取りされて、享悟が怪訝な顔になると、水七はまた笑った。


「わたくしが、リン様に照太兄様のことを聞くのではないかと、ご心配なのでしょう?

 そんなことはいたしません。」


「母親のことをお聞きになりたいのだとしても、あの子は何も覚えていませんよ。」


「それも、リン様に伺ったりはいたしませんわ。

 ただ、わたくしは、前から一度、リン様とはお話ししてみたいと思っておりましたの。

 リン様もわたくしも、共に、護法に置き去りにされる守護ですから。」


享悟がむぅと唸るのを確認してから、水七は言った。


「リン様のことを傷つけるようなことはしないとお約束いたします。

 失礼ながら、リン様がお話しをなさるのは、ご家族と貴方様だけ。

 他に友もいらっしゃらないとお見受けします。

 わたくしとて、友もなく、ひとりぼっちの身の上。

 よろしければ、お話し相手になってくださらないか、と。」


これ以上断る理由もなくて、享悟はしぶしぶ頷いた。


「分かりました。

 あの子と話せば、きっと、貴女も救われることでしょう。

 あの子が僕以外の誰かと仲良くするのは、正直、歓迎はしませんけど。

 ずっとほったらかしにされて、リンが淋しい思いをしているのも事実です。

 ただ、あの子を傷つけるようなことだけは、しないでいただきたい。

 リンを悲しませる者は、たとえ誰であっても、容赦できないと言っておきます。」


念を押すように見据える享悟の視線を、水七は今度は正面から受け止めた。


「貴島の若君。護法様に真心などないというのは、やはり間違っていると、わたくしは思います。」


享悟は一瞬、毒気を抜かれたような顔をしたが、すぐにまた無表情になって返した。


「どんなに優しげに見えたとしても、護法の優しさなど見せ掛けだけのもの。

 そんなものを真に受けてはいけません。

 貴女の許を逃げ出した鬼のことも、さっさと忘れておしまいなさい。

 それに、貴女はひとりぼっちじゃありません。

 貴女には今、貴女のことだけを心から大切に思っている人がいる。」


享悟は今度ははっきりと分かるように視線を逸らせて向こうを見た。

つられて同じほうを見た水七は、そこにあった人影にはっとした顔になった。


「昨日、貴女をお訪ねしたのですが、貴女は病で臥せっていると。

 ちょうど、あそこにいるあの方が、そうおっしゃったのです。」


享悟の声には僅かに笑いが込められていた。

水七は目を丸くして、それから、決まり悪そうに頭を下げた。


「申し訳ありませぬ。

 あれはわたくしの主人です…」


「夫君と護法とは、幾分、通じる部分もあるのかもしれませぬ。

 僕も、リンに会いたいなどと他所の男が訪ねてきたら、リンは寝込んでいると言うでしょう。」


水七はちらりと微笑んだ。

曇りのないその笑顔に、享悟もつられたように微笑んだ。





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