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花咲鬼  作者: 村野夜市
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第十四章 ~照太

お役目を終えて島に戻った享悟は、早速、古い護法の記録を調べることにした。

代々、貴島の家は、護法たちの総元締めのような役目を負っている。

これまでの護法とその守護とのことはすべて記録に記されているはずだ。

膨大な量の書付は、本家の蔵にしっかりと収められていた。


貴島の本家に行くのは気が重い。

そこには、父と、継母、弟がいる。


継母が父の後妻として嫁いできたとき、享悟は正式に家を出て、別宅に移った。

生母が閉じ込められていた牢屋敷だった。


自分を騙して鬼の島に連れてきたと言って、生母は父を恨んでいた。

来る日も来る日も、都の家に帰してほしいと懇願していた。

けれど、父は決してそれを許さなかった。

享悟が生まれた後も、両親は変わらなかった。

父から逃げるために、母は最後の手段を使った。

泳ぎなど知らない都の姫だったのに、着物を着たまま海へ飛び込んだ。

何度も何度も溺れて、何度も何度も海から引き上げられた。

思い余った父は、この牢屋敷を建てて母をそこに閉じこめた。

けれど母は、隙をついては同じことを繰り返した挙句、とうとう本懐を遂げた。


後に遺された牢屋敷に、享悟は世話係と共に移った。

新しい妻子を得た父は、それに反対しなかった。

やがて、成長した享悟は、世話係を自分たちの家に帰し、そこで一人暮らしを始めた。

誰にも気遣う必要のない暮らしは、むしろ気楽で居心地よかった。


それ以降は、本家は極力避けてきた。

護法になったときに、一度だけ挨拶に行ったきり、ほとんど顔も合わせていない。


継母と弟とはもともと疎遠だったから、それほど変わった気もしなかった。

ただ、父とだけは、家の後継として、公式な場には一緒に出ていた。

けれど、貴島の後継を弟に譲ってからは、そういった場に出ることもなくなった。


父と会うのはいまだに、どこか気まずさを伴う。

当主である父に断りもなく、無理やり護法になったことを、父はどう思っただろう。

尋ねたこともないし、今さら尋ねる勇気もない。

父の出るような場は極力避けてきたし、どうしてものときにも、席はなるべく遠くにした。


用のある書付は、全て蔵にあるはずだった。

ただ、蔵の鍵は母屋にあって、それだけは取りに行くしかない。

なるべく誰とも顔を合わさないように、と願っていたが、いきなり継母に出くわしてしまった。


「これはこれは、惣領殿。久しくお顔を拝見いたしませんでしたな。」


継母はにこやかに現れた。

反射的に嫌な顔をしてしまうのをなんとか堪えると、淡々とした無表情になった。


「ご無沙汰しております、母上。」


早く逃げ出したい気持ちを抑えて、なるべくゆっくりと頭を下げる。

端から見ると、堂々と礼儀正しく見えるらしいが、実際のところはそんなものだ。


「なんの、母などとは思うておられませんのに、無理してそう呼ぶこともない。」


継母は、冷笑するように鼻で笑って、そう返した。


「…今日は蔵の鍵を拝借いたしたく…」


とっとと要件を済ませようと話しを変えたが、そうあっさりとは解放してくれなかった。


「そのようなもの、何になさいます?」


話しを聞く気など毛頭ないくせに、わざわざそんなことを聞いてくる。


「調べものを…」


「まあまあ、お忙しい白銀の鬼様が、あのような埃ぽいところでいったい何をお調べか。」


蔵の鍵など普段は使うこともなくかけっぱなしなのだから、すぐに貸してくれればよいのにと思う。

あれやこれやと詮索されるのを、のらりくらりとかわして、ようやく鍵を手に入れた。

小半時は経っている。

ため息を吐きたくなるのを堪えて礼を言うと、そそくさとそこを逃げ出した。


せっかくつかんだ手掛かりだ。なんとしても、真実を掴みたかった。

リンが本当に鈴姫なら、芹の郷に両親が健在なら、そこへ返してやらなければならない。

リンのことはずっと、何か尊い存在から預けられた宝物のように思っていた。

いつかは返さなければならないものだと、自分に言い聞かせてきた。

とうとう、そのときが来てしまったのかもしれない。

それは淋しく辛いけれど、それがリンにとっては一番善いことなはずだ。


けれど、不安や懸念の消えない状況で、ただ返すことはできない。

返すからには、リンにとっては最善の状況にして返さなければ。

それだけは、自分に残された役目だと思った。


まずは乳飲み子の暗殺に関する記録を探してみた。


正式に依頼されたお役目は、まず十頭領の会議にかけられる。

そのお役目に護法が果たすべき義があるのかどうか、審議されるのだ。

十頭領にはお調べ方という直属の組織があって、その者らが下調べに向かう。

依頼主の素性、お役目の内容、正当な報酬額…

すべてはお調べ方の報告から判断されるのだ。

お調べ方はよほど重要なお役目でなければ、護法ではない者が就くことが多かった。

島には護法にはならずとも、武術に長けた者や目端の利く者は大勢いる。

その者らの中には、お調べ方として活躍し続ける者も、多くいた。

けれど、彼らは護法からは一段低く見られていて、その氏名は記録されなかった。


十頭領の会議にかけられたお役目は、たとえ却下されたものでも、全て記録してある。

依頼主の名前とお役目の概要は請けたものも請けなかったものも記録してあった。

請けたお役目には、他に、報酬と引き受けた護法の名前、かかった日数等も記されている。

請けなかったお役目には、その理由が書いてあった。

会議で誰がどんな発言をしたのか、簡単な議事録もあった。


ところが、そこでいきなり躓いた。

どこを探しても、乳飲み子の暗殺のお役目など見当たらない。

おかしい。そんなはずはない。

享悟にはその記録を読んだ記憶が確かにあった。

乳飲み子の暗殺など依頼する輩がいるのかと、ひどく嫌悪感を持ったから、よく覚えている。

しかし、お役目に付けられた通し番号に抜けはなかった。

なのに、そのお役目の記録はどこにも見当たらないのだ。


紙を何枚も綴じて綴りにしてある記録を、享悟はひっくり返してみた。

どこかに紙でも挟まっていないかと、振ってみる。

しかし、何も落ちてきたりはしなかった。


この綴りにはよく見覚えがあった。

昔、全て記憶するようにと父に言い渡されて、嫌々ながら何度も読み返した綴りだ。

いずれ、十頭領の家を継ぐ身には、必要な知識だと言われた。

見るのも憂鬱だった表紙の紺が、今は妙に懐かしい。

小さな染みが虫に見えて、それに触らないようにしていたものだ。

その染みは今も残っていて、確かに虫に見えた。


書き写そうとしてうっかり小口につけてしまった墨の線も、くっきりと残っていた。

父にばれたら叱られると思って黙っていたけれど、父は気づかなかったのか何も言わなかった。

その線を追って、何気なくぱらぱらと紙を送っていて、はっと気づいた。


一枚だけ墨の線の途切れている紙がある。


文字を指で追いながら、その紙に書いてあることを丁寧に読み込んでいく。

そこに並ぶ日付は、ちょうどその辺りに挟まっていても妥当な頃合いだった。


これ一枚だけ、後から差し替えられたのじゃないか。


それは何の変哲もなさそうな、お役目の記録だった。

とある貴族の神詣の旅の護衛を引き受けたものだった。

引き受けたのは照太だった。

岬の養子になった、爺婆の一人息子だ。

岬にしては平和なお役目だなと思う。

もっとも、岬とはいえ、そうそういつも剣呑なお役目ばかりやっているわけではない。

旅の間、その貴族には特段危険もなく、お役目は平穏に終わった。

何も特筆すべきこともないお役目は、他の記録に比べても、簡単に短く記されていた。


…しかし、おかしい。


享悟にはこのお役目の記録を読んだ記憶がなかった。


確かに、これはたとえ読んだとしても、記憶には残りにくいお役目かもしれない。

それでも、享悟はこの綴りにあったお役目については、隅々まできっちり記憶していた。

そうするようにと、父からきつく言われたからだった。

父は、どんな小さなお役目でも、決して蔑ろにするなとうるさかった。

その奥に大切な何かが隠れていることもあるから、と。

何年も経ってから、そのことに気づくことがあるから、と。


なるほど、こういうことだったか、と今になって思った。

口煩い父のことはあまりよく思っていなかったが、今だけは、感謝したくなった。

もっとも、その当時の父が、今のこの現状を予想していたわけではないだろうが。

皮肉なものだ、と少しばかり笑いがこみ上げてきた。

父も自らの改竄を暴かれることになるとは、よもやまさか、思いもしなかっただろう。


とはいえ、これだけで記録が改竄されているという証拠にはならない。

この記録が偽物だという証拠もない。

享悟の記憶に誤りのないことは、享悟自身には分かっているが、それは証拠にはならない。


依頼主の貴族に当たってみる、という方法はあるだろう。

しかし、もう二十年近く前のことなのに、正確な日付の記録まで残してあるだろうか。

一日二日日付がずれただけでも、その証明は無意味になる。


ただ、この記録が後から差し替えられたものなのは間違いなかった。

それは偶然ついた墨の跡がくっきりと証明してくれていた。


何故、記録を差し替えなければいけなかったのか。

差し替えたという事実が、そこに書かれていたことの重大さを証明しているような気がした。


しかし、公式の記録を改竄するなど、よほどのことだった。

もしも、それが誰かの一存で為されたとすれば、大問題だ。

ばれたらただじゃすまない、どころの話しではない。

下手をすれば、家が取り潰されるほどの大ごとだ。

そんな危ない橋を、あの父が渡るはずがない。


けれど、もし、それが誰かひとりの都合じゃなく、みんなの都合だったとしたら…

十頭領のすべてが同意をして、この記録を書き換えたのだとしたら…


父は、あの気質だから、おそらく、記録の改竄には反対するだろう。

それでもそれが行われたのなら、それはおそらく、父ですら逆らえない相手にさせられたということ。


いったい、何が、あったんだ?


前後のお役目の記録にも目を通してみた。

護法になって自身もお役目を引き受ける身になって初めて実感できる内容もあった。

この当時のお役目は、今に比べると、多少、規模は小さめのものが多かった。

難しそうなお役目は、ことごとく断られている。

このころの護法は戦に奇跡を呼ぶ存在ではなかったようだ。

もっとも、奇跡は滅多に起こらないからこそ、奇跡なのだろうけれど。

どんな不利な状況であっても、確実に勝利に導く。

そんなふうに言われるようになったのは、もう少し後のことのようだ。

十頭領の会議は、お役目の難易度と護法の力量とを諮るのが主目的だった。

お役目に対して倫理的な審議をする場ではなかった。

議事録を読むとそれがよく分かった。

そして、そこで発言する頭領たちの性質もよく読み取れた。

常に慎重な姿勢を崩さない者。革新的であることをなによりよしとする者。

情に訴える者。あくまで義を押し通す者。

中でも、父である貴島の頭領の発言には、思わず頷いてしまうところが多かった。

ずっと、好きでなかった父親に対しての見方が、少しだけ変わった気がした。


同じ年の記録を一通り読み通して気づいた。

その年には、攫われた子どもを救出したお役目もない。

前後の年には、年に一度くらい、その手のお役目もあった。

けれど、その年には一件も、幼い子どもの関わったお役目はなかった。


もうひとつ、気づいたことがあった。

それは、どこにも、芹の郷の記録がないことだった。

それもまた、不自然なことだった。

ここに記録がなければ、享悟はいったいどこで芹の郷のことを知ったというのか。

護法になった後も、一度も関わったことなどない土地なのに。


やはり、記録は抹消されたのだ。乳飲み子のことも。芹の郷のことも。


享悟がこの記録を覚えさせられたのは、貴島の後継者だったときのことだ。

正式に任ぜられたのが、十歳のとき。

そして、それを辞退したのは、十五歳のとき。

その間は、確かにその記録はあった。

記録が抹消されたとすれば、その後だ。


なんのために、その記録は抹消されたのか。

ご丁寧に、偽の記録に改竄されてまで。

もしも、記載事項に誤りがあったとしても、前の記録は消さずに追記されるのが通例だ。

一度でも書かれた文言を消去することなどあり得ない。

影も形も残さずに、消し去ってしまうなど、あってはいけないはずだった。


とにかく、尋常な事態でないのは間違いなかった。

これほどの大きな事実に、今の今まで自分が気づかなかったのが不思議だった。

リンに関わることなら、何一つ見逃さないつもりでいたのに。

これでリンを護っている気になっていたことを、おこがましく思った。


この綴りからは、それ以上つきつめてももう分かることはなかった。


今度は、護法の記録を当たることにした。

歴代の護法の名前も記憶させられたが、それは、大役を果たした者だけだった。

末端の護法はほとんど使い捨てのような扱いで、その名前は覚える必要はないと言われた。

そういうところも、貴島の護法を好きになれない理由だ。

全ての者は等しく尊い、などと綺麗事を言うつもりはない。

けれどこの島は、人ひとりの命をあまりにないがしろにし過ぎだ。


歴代の護法は、守護の名前と共に記録してあった。

それぞれの名前の横に、護法になった年と亡くなった年が書き込んである。

あとは、果たしたお役目とその報酬とがごく簡単に箇条書きにされていた。


意外に思ったのは、同じ日付に亡くなっている護法と守護が思った以上に多いことだった。

護法は、決して自らの守護を自らより先には死なせない。

それは掟でもなんでもないが、護法ならば必ずそうするのだ。

ここの記録を見ても、ひとりとして、守護より後に死んだ護法はいない。

息をしなければ死んでしまうというのと同程度に、護法にとって、それは揺るがない事実だ。


では、同じ日付に亡くなったこの護法と守護には、いったい何があったのだろう。

共に、戦場に果てた組もあったかもしれない。

守護によっては、護法と共に戦場に出て戦う者もいる。

そんなときも、護法は何よりも優先して、守護を護っているはずだ。

ときには、お役目や味方の勝利を犠牲にしたとしても。

ならば、どういう状況なら、同時に死ぬことになるのだろう。

護法は、必ず、守護より先に死ぬ。それは、水が低いところへ流れるのと同程度の真理。

けれど、護法を失った守護は、誰も護れない。

護法の最期のときは、突然やってくるという。

酷使した肉体が限界を超え、耐え切れなくなった瞬間、護法はみるみる朽ち果てるのだと。

護法はもちろん、最期のときまで、守護の安全を確保しようとするだろう。

けれど、そんな護法にとって、一番どうすることもできない守護の敵。それは、守護自身。

護法の後を追うことは、守護にとっては固く禁じられた禁忌。

けれど、命のない守護には、もう誰も、これ以上の罰を与えることはできない。


同じ日付の並んだ組には、何人も名の知れた護法がいた。

つまり、それだけ有能な護法が多いということだ。

護法の働きは、守護の能力に左右されるとも聞く。

有能な守護の就いた護法は、その能力以上の働きをするのだと。

そして、得てして有能な守護は、情の深い人が多い。

今生は何をしても結ばれぬ運命だとしても、来世を信じて…

そう思ったのかどうかは、記録には書かれてはいないけれど。


自分もまた、期待以上の護法なのだとすれば、それは、リンの力に他ならない。

あれほど有能な守護は他にはいない。歴代最有能守護、と言っていいと思う。

もっとも、自分の守護を客観視できる護法などいないから、享悟の証言など誰もあてにしない。

それはともかく、有能な守護ほど護法に対する情が深いのなら、リンは何より、危ない。

何をどう滾々と言い聞かせても、リンはときどき、享悟の言うことを聞かない。

それも、どうしても聞いてほしいことに限って、聞いてくれない。

もしも、リンの目の前で、自分に何かあったら…?

そんなことは、想像もしたくない。

リンを傷つけ、害する者など、全て滅ぼしてくれよう。けれど、もしもそれが、リン自身だったら…


胸の奥が、かっと苦しくなる。息をするのも辛い。

考えただけでも、そんなことは認めたくない。認められない。

そうだ。そんなことにならないように。

自分はまだ自分であるうちに、リンを確かな相手に託すつもりだ。

誰の手からも、リン自身の手からも、リンを守ってくれる相手に。

だけど、そんなこと、自分は耐えられるのだろうか。

自分以外の誰かが、リンを守る、という事態を。


いや。

今は、とりあえず、考えるのは止そう。

そうだ、早く調べものを先に進めないと。


享悟は頭を振って昏い想像を追いやると調べものを再開した。


果たしたお役目の多い少ないは護法によって極端に差があった。

実入りのいいお役目をいくつもこなす護法がいる一方で、安いお役目ばかりの護法もいる。

護法の実力とは、これほどに差のあるものなのかと思った。

実入りのいい護法のいる時代は、島の暮らしも裕福だった。

けれど、その護法ひとりいなくなっただけで、途端に島は困窮した。

つくづく、護法などというものに頼る島の暮らしの危うさを思った。


十頭領家出身の護法は、平均的に、稼ぎのいい護法が多かった。

しかし、飛びぬけて稼ぐ護法は、えてして、外から連れてこられた子どものなった護法が多かった。

鬼になるために連れてこられて、縁もゆかりもない人々のために働く。

彼らはいったい何を思ってお役目を果たしたのだろう。


以前、この記録を読んだときには、何も思わなかった。

けれど、今色々なことを思うのは、自分もまた護法になってお役目を果たしているからだろうか。

リンと出会い、リンを護るという目的のために、働いているからだろうか。


ずらりと並ぶ護法と守護の記録をひとつひとつ丁寧に確かめていく。

単調な作業のようだが、思ったほど苦痛じゃない。

ふと、その中に、何のお役目も果たしていない護法がひとりいるのに気づいた。

せっかく護法になったのに、何ひとつお役目を果たさないというのはおかしい。


護法になれる者は少ない。

十頭領家の者なら、ほぼ確実に護法化する。

けれど、頭領家の者たちは、ありとあらゆる特権を使って、子どもを護法にさせない。

十頭領家以外の島の住民の子どもは、滅多なことでは護法にはならない。

外から連れてこられた子どもは、護法になるのは、五部五部といったところだ。

だから、護法は貴重だ。

護法になった子どもには、守護をつけ、その心と魂を護る。

守護には、護法と違って、厳しい修行がある。

享悟はリンにはそれを一切させなかったけれど。


ひとりの子どもが護法になれば、生まれたばかりの赤子から守護が選ばれる。

そして、その守護は物心つくや否やのころから、厳しく律せられて育てられる。

なるべく長く、護法を働かせられるように。

そうして、島に富をもたらすように。

そうまでして作った護法が、何もせずに終わるなんて、あるはずがない。


その護法は、照太だった。

享悟は、おや、と思った。

照太の名はさっき見たばかりだ。

貴族の神詣の護衛のお役目に行ったのではなかったか?

それならば、幾ばくかの報酬は得ているはずだ。

腐っても貴族。護法の報酬をケチったりはしないだろう。


しかし、そのお役目はおそらく、改竄された記録だ。


照太本人のことはあまりよく覚えていない。

爺婆の息子だけれど、年も離れていたし、一緒に暮らしたこともない。

爺婆からの届け物を手渡すと、いつも、すいませんねえ、と腰を低くして、謝っているのだかお礼を言っているのだかな若者だった。

直接話したことは、あまりなかった。


照太がお役目を果たしていた期間はとても短かった。

守護との結契の成った翌年に亡くなっている。

これは下手をすれば、護法としてお役目に就いていた期間は、実質、一年あるかないか、だ。

もしかしたら、最初に請けたお役目でいきなり失敗したのだろうか。

いやしかし、貴族の護衛で失敗するだろうか。

それに、もし失敗したのなら、それはお役目の記録のなかにきちんと記されているはずだ。


照太が護法であった期間のお役目を、もう一度丁寧に読み返してみる。

けれど、照太の名が書かれているのは、あの貴族の護衛、一件きりだった。


お役目にはひとつにつき、何人もの護法が派遣されることもある。

担当の護法の名前はいちいち覚えなくてもいい。

父はそう言った。

当時の自分は、やらなければならないことが少しでも減ったことに喜んだ。

けれども、今は、それが恨めしかった。

やはり、お役目と一緒に、護法の名前も覚えておけばよかった。


しかし、乳飲み子の暗殺は十頭領の会議で却下されたお役目だった。

そもそも、担当の護法など決まっていなかったはずだ。


それにしても、照太はまったくと言ってもいいほど活躍のない護法だった。

護法であった期間も、とても短い。

照太が任務に就いていた期間には、他の護法も、稼ぎのいいお役目はまったくと言っていいほどなかった。


しかし、照太はいったい何で亡くなったのだろう。

その理由は書かれていなかった。

もっとも、それは不明な護法は多い。

日付のあるのはいい方で、最期は年しか分からない護法も多い。

照太も年しか書いていなかった。

お役目の最中に殉死した護法は、その最期は分からないことも多いのだ。

行方不明になって、それきりの護法もいる。

行方をくらませた護法は、実害のない限り捜索もしてもらえない。いなくなればそれきりだ。

高額な報酬は後払いで、それが目当ての護法には、行方をくらませる理由がない。

守護のいる護法ならば、正気を保っていれば、まず、守護を置いて行きはしない。

理性を失っているのなら、どのみちもう使いものにならない。

狂ってしまった護法は、もれなく岬に始末される。


そういえば、照太はお役目の最中に行方を断ったと。

確か、婆は前にそんなことを言っていたのではなかったか?


照太の守護は、岬の末姫、水七だった。

享悟より少し年は上のはずだ。

確か、最近、どこかへ嫁いだと聞いた。


護法を失った守護は、早々にどこかへ縁付けられる。

守護を降りた娘は、嫁としての人気が高い。

幼いころから厳しい規律の許で育ち、命をかけて護法の魂を守りぬいた者。

なのに、この水七は、護法の行方不明から二十年近くも独り身を貫いていた。

たとえ、仕える護法が生死不明だったとしても、あまりにも長い。


この水七に話しを聞いてみようか。

享悟は即座に腰を上げると、水七のところへとむかうことにした。



***



享悟の生家の貴島家も、これから行く岬家も、共に十頭領家と呼ばれる家だ。

十頭領家は互いに往来も多く、子らもみな、幼馴染のようなものだった。

享悟は水七よりもその年子の兄の水六と縁があった。

岬の先代の当主には七人の子がいたけれど、男児は水六ひとりだけだ。

姉妹に囲まれた水六は、男の兄弟を切望していた。

水六に目をつけられたのが、水六より五歳年下の享悟だった。


岬はその担うお役目の特殊さから、十頭領家の中でも浮いた存在だった。

享悟は父母の評判のせいもあって、島の皆からの風当たりはきつかった。

いつもひとりぼっちだった享悟を、水六は弟のように可愛がってくれた。

からだの小さかった享悟は、同年代の子どもたちの間でよくいじめられていた。

けれど、水六がいれば、そんな悪ガキどもからも守ってもらえた。

水六は気紛れなところもあって、自分の都合のいいときにしか構ってくれなかった。

それでも、享悟は水六に懐いて、兄のように慕っていた。

享悟に泳ぎや釣りや、島の子どもたちの遊びを一通り教えてくれたのも水六だった。


そんな水六は早々に岬の家を継ぎ、その後は、享悟との縁も薄くなっていった。

享悟もリンと出会い、護法になって、すっかり水六とは疎遠になっていた。


妹の水七のほうが享悟とは年は近かったが、そちらとはまったく縁はなかった。

水七は、幼いころから守護の修行に忙しくて、姿を見かけることすらほとんどなかった。

からだが弱いのだと水六から聞いたことがあった。

触れれば折れてしまいそうな妹を、水六も扱いかねている感じだった。


水七の嫁ぎ先は、嘉島という家だった。

島の開祖のころからある旧い家だが、十頭領家には属していない。

その理由は、ただひとつ。

嘉島の家からは、ただの一度も、護法が出ていない。

水を飲めばほぼ護法化する頭領家と違って、嘉島の血筋は絶対に護法にならないのだ。


嘉島はそれなりに格のある家だった。

けれど、守護まで勤めた十頭領家の娘が嫁ぐには、やや、見劣りがした。

十頭領家の家長は、その血を薄めないために、十頭領家から嫁を迎える。

水七の嫁ぎ先も、普通なら十頭領家のどこかが妥当に思えた。

ただ、水七と年頃の釣り合う者は、今の十頭領家にはいなかった。

ずっと独り身を守っている間に、すっかり周囲に独り者はいなくなってしまっていたようだ。


嘉島の現在の当主は水七とは同い年の幼馴染らしかった。

十頭領家ではないけれど、それなりに格式のある旧い家だ。

嫁ぎ先としては、微妙に敬遠されたのかもしれない。

そこの惣領は一人息子だった。他に跡継ぎはいない。

おまけに、姑になる当主の母親は、当代一の烈女と噂されていた。

あの家とあの姑を背負う覚悟のある娘はなかなかいなかったということか。

ともあれ、こちらもすっかり嫁を取り損ねていたようだった。


水七の嫁入りは、いわば、姫君の降嫁に近かった。

下にも置かぬ扱いで、奥座敷に大切にしまいこまれていた。

嫁としての勤めなど、とんでもないという感じだった。


嘉島の屋敷を訪うた享悟は、玄関先でいきなり水七への面会は断られてしまった。

時を改めると申し出ると、水七はからだが弱く、とても人前には出られないと言う。

そんなに弱くてよく守護など務まったなと思う。

護法ほどではないにしても、守護もそれなりに健康で丈夫でなければ務まらない。

そのとき、享悟はふいにひとつの光景を思い出した。


青白く尖った顔をした折れそうに細い娘が怒りに震えながら、その細く美しい眉を吊り上げて叫ぶ。


「お前なんかに、仕えたくなど、なかった。」


たったそれだけ言うのにさえ、息が切れてしまう。

咳き込む娘の背中をひょろりと背の高い若者がなだめるようにさすっている。

若者はこちらに背を向けていて、だから顔はよく見えなかった。

ただ、その優しい口調だけよく聞こえていた。


「みぃお嬢さま、そんなにお怒りになったら、また、息が苦しくなってしまいますよ?」


「うるさいうるさいうるさい。

 いいから、もうお役目に行っておしまい。

 わたくしについてきてもらえるなんて、思わないことね。」


「分かってますよ。

 俺なら大丈夫っす。

 ちゃんと帰ってきますから、それまで風邪ひかないようにして、待っててくださいね。」


「うるさいわねっ。余計なお世話よ。

 だいたいっ、わたくしがこの季節に風邪をひかないでいられるなんて思うの?」


護法は苦笑する。

それから、この、怒りんぼでわがままで、どうしようもなく愛おしい守護の背中を優しく撫でる。


「俺のことは守らなくてもいい。

 貴女は貴女のからだを、なにより大切にしてください。」


「そんな当たり前のこと、いちいち言わなくていいのよ。

 わたくしの身になにかあったら、あんたなんか生きていられないんだから。」


「そうっすよ。

 だからちゃんとからだには気をつけて。

 お土産に、甘い飴を買ってきますから。」


「いつもいつもお土産は飴ばっかり。そういうのバカの一つ覚えって言うのよ。

 たまには違うものにしなさいよ。」


「違うもの?」


「その…花梨の蜂蜜漬け、とか。

 せ、咳止めにいいのよっ!」


「へえ。そんなもの、あるんっすか。

 分かりました。花梨の蜂蜜漬け、探してきます。」


「きっとよ?ちゃんと無事に帰ってきなさいよ?待ってるんだから!

 …って、その…お土産!お土産、待ってるんだから!」


真っ赤になってまた咳き込む守護を、護法はいたわるように慈しむように見守っていた。


あれは、いつのことだったろう。どこだったのだろう。

リンと出会う前は、牢屋敷の外に出ることは滅多になかった。

その滅多にない機会に、それはたまたま目にした光景だった。

守護が護法に投げつけている言葉はひどくとげとげしかったのに。

何故か、それでも何故か、ふたりのあいだにある空気が優しくて。

不思議なほどに、その光景は記憶から消えなかった。


あれは、水七と照太だったのではないだろうか。


その頃の享悟は、島のことすべてに関心がなかった。

過去のお役目の記録も、覚えろと言われたから、ただ記号の羅列のように覚えた。

その後ろに詰まった幾多の人や事情や思いについて考えたこともなかった。


自分のなかはいつも空っぽで、そこに何かを入れるべきだとも思わなかった。

ただ、風の通り抜けていく空洞のように、すべてはそこを通り過ぎるだけだった。


護法としての照太は享悟の記憶に残っていない。

そういう護法は他にも大勢いて、だから、なにも照太だけ特別なわけじゃないけれど。

あの頃は、今よりずっと護法の数も少なくて、こなせるお役目も少なかった。

これからの暮らしをどうやって立てていくか。

島の人々は、寄ると触ると、そんなことばかり話していた。


食料も衣服も自給できない島の暮らしは、すべて護法頼みだ。

この島は生贄を捧げなければ生きていけないところなのだと、子ども心に思った。

島のために鬼になる護法は島のための生贄だ。

まさしく、鬼の島だと、思った。住民はみな、鬼だと、思った。

そして、自分もその、同じ鬼なのだと、思った。


けれど、あの護法は鬼には見えなかった。

護法はもしかしたら、鬼じゃないのかもしれない。

初めて、護法というものを、違う目で見たのもそのときだった。



***



いつもの崖に行くとリンはそこにいた。

享悟のいないときは、畑か家かここにいる。

リンがいつも同じ場所にいてくれるということに、どれだけ安心するのだろうと、享悟はいつも思う。


「リン?」


少し離れたところから声をかけた。

なるべく早く近くに行きたいけれど。

あまり急いて、リンを驚かせたくはない。


「キョウさん!」


振り返って嬉しそうに名前を呼ぶリンを見ると、いつもあたたかいものが胸から溢れてくる。

ぱっと立って駆け寄ってくるリンを、そのままここで待つ。

本当は自分から走っていきたいけれど、それはぐっと堪える。

このリンの嬉しそうな顔を少しでも長く見ているために。


「おかえり、キョウさん。」


「今日は一日ほったらかしにして、ごめんね?」


「ううん。貴島のお家の用事は済んだの?」


家の用事だとリンには言ってあった。

それを聞くと、リンはついてくるとは言わないだろう。

貴島の家が、ことに、継母が、リンの守護を歓迎していないことは、リンも分かっている。

享悟は、継母の意見など全くこれっぽっちも気にしてはいないけれど。

ただ、こういうときの言い訳くらいにはなった。


調べものの話はまだリンにはしたくなかった。

もう少し、いろいろ分かってから、ちゃんとしようと思う。

けれど、今はまだ、リンには何も知らずにいてほしい。

リンが母親の元へ帰れることになれば嬉しいと思うのに。

同時に、自分はそれを、淋しいとも感じてしまっていた。


「うーん、ごめん。なかなか進まなくてさ。まだ、かかりそうだよ。」


享悟は残念そうに言った。

いや、本当に残念だった。

折角島にいられる間は、なるべくリンと過ごしていたいのに。

調べものの終わらないうちは、リンとはいられない。

そう考えたら、もう調べものなど投げ出してしまいたくなってきた。


「そっか。

 なにか、わたしに手伝えることは、ない?」


リンは殊勝に尋ねてくれる。

断りたくはないけれど、受け容れるわけにもいかない。


「ごめんね。

 けど、これは僕が片付けたいことだから。

 リンに余計な心配はかけたくないんだ。」


「…分かった。」


そう言いつつも、残念そうにうつむくリンがとても可愛い。


もう本当に、調べもののことなんかどうでもよくなってしまう。

それをなんとか堪えて、享悟はリンに笑いかけた。


「なるべく早く終わらせるから。

 今日はリン、お魚はいらないの?」


「今日はいらないよ。

 こないだもらった大きな鯛がまだあるから。」


「あのくらい、もうとっくにないだろうと思ってたのに。

 リンはもう少したくさん食べなきゃダメだよ?」


「うちはおじいちゃんとおばあちゃんとわたしだけだから。

 そんなに食べられないよ。」


ころころと笑うリンに、享悟は目を細める。

こんな何気ない会話をしているときが一番幸せだ。


そこへ、涼しげな声が割り込んだ。


「もし。貴島の白銀の鬼様の守護殿は、貴女様ですか?」


「はい?」


振り返ったリンを背中に隠すように、享悟は前に立った。


「貴女は?」


青白く尖った顔。折れそうに細いからだ。

幾分、年は取っているけれど、見覚えのある姿だった。


「わたくしの用のあるのは貴方ではありませぬ。」


立ち塞がる享悟にも臆せず凛とした声に勝気な印象がある。


「水七殿、ですね?」


名を呼ばれた水七は、警戒するように享悟のほうを見上げた。


「わたくしが用があるのは、貴方の守護殿です。」


「今日貴女を訪ねたのは僕です。用があるのも僕。

 リンは預かり知らぬこと。」


享悟は冷ややかに返した。

ただならぬ享悟の気配に、リンは心配そうな顔をする。


「どうしたの?キョウさん。

 わたし、よかったら、お話し、聞きますけど。」


享悟の脇から顔を出してそう言うリンに、水七は微笑みかけた。


「リン様、あなたとは一度お話ししてみたかったのですよ。」


相手はリンのことは知っていたようだ。

享悟の守護だから、リンのこともそれなりに島に知れ渡ってはいた。


「あの…」


島の住人のことは爺婆と享悟の他にはほとんど分からないリンは、困ったように笑い返した。


「水七、です。」


「み、な、さん…?」


話しを続けようとしたリンの前に享悟は割り込んだ。


「岬の末の娘。いや、今は嫁いで違う名を名乗っておいででしたか。

 まあ、そんなことはどちらでもいい。

 お伺いしたいのは、あなた自身のことではありません。

 あなたの護法、照太のこと。

 行方不明になった照太は、もしかして、忌み…」


「おだまりなさい!」


水七は激しい調子で、享悟の言葉を遮った。

驚いたリンが反射的に身を竦ませるのを、享悟はそっと背中に隠すように引き寄せる。


「話しを聞く気になっていただけましたか?」


真正面からその目を見据える享悟を、水七もきっぱりと見返した。


「無礼者に語ることなど何もありません。」


「そうですか。ならば、もうあなたに用はありません。

 どうぞお引取りください。」


冷たく突き放すようにそう言うと、享悟はあっさり背をむけた。

それがあまりにあっけなくて、水七は引き止めるように手を差し伸べかける。

それを享悟は見事に無視した。


「ちょっと、貴方!」


水七は柳眉を逆立てて何か言おうとしたけれど、享悟はもう一切聞いていなかった。


「キョウさん、なんか、失礼だよ…?」


リンは心配そうに水七の様子を伺って、たしなめるように享悟を見上げた。

そのリンに、享悟は他には絶対に見せない笑顔を返した。


「いいんだよ。

 折角、リンといられる時間を、邪魔する権利なんか誰にもないんだから。」


「…でも…」


「明日もこの面倒な護法について調べないといけないからさ。

 また朝から本家の蔵にお籠りなんだ。

 今くらい、リンを堪能させて?」


「面倒な護法?」


「照太っていうんだ。

 なんかいろいろとややこしい感じの護法でさ。

 どうにもなんか人に言えない秘密がありそうなんだよね…」


「…そうなんだ。

 調べものなら、わたし、何か、手伝えないかな?」


「リンが僕以外の護法について詳しく知ろうとするなんて、僕が耐えられないから。

 リンに手伝ってもらうわけにはいかないな。

 それに、リンが傍にいたら、僕は調べものよりリンのほうが気になってしまう。

 だからね、ほったらかしにして悪いけど、もう一日だけ、調べものをさせてほしいんだ。」


「キョウさんがしないといけないことなら、何日だってわたしは構わないよ。」


「そんな淋しいこと言わないでよ。

 そんなに何日も、僕が耐えられないから。

 あと一日。それが、限界だ。

 それで分からなかったら、もういい。諦めるよ。」


享悟はちらりと後ろを振り返った。

そこにはもう水七の姿はなかった。


「水七さん、帰っちゃったね。」


享悟のわずかな視線の動きに気づいて、リンが言う。


「そんなこと、リンは気にする必要ないんだよ。」


享悟はリンにもう一度にっこりと笑いかけた。







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