序章 ~約束
あけびをたくさんもいで、ふたりはまたあの石塔のところへと戻ってきた。
他には、ゆっくり腰を下ろせそうなところもなかったからだ。
リンは取ってきたあけびを石塔に一度供えた。
ナムナムナム、とまたあのお祈りをしてから、供えたあけびを取って少年に手渡してくれた。
「リンはいつもこんなふうに、ここを参ってくれているの?」
少年が尋ねると、リンは、うん、と元気よく頷いた。
「お母さんが言ったの。
ここは、可哀そうなヒメギミのお墓なんだよ、って。
だから、リン、ときどきお参りしているの。」
可哀そうな姫君、と繰り返して少年は苦く笑った。
「みんなから疎まれ、こんなところに、ぽつんと埋められて。
それでも、参ってくれる人がいたんだな。
もしかして、掃除をしてくれたのも、リンなのかな?」
人通りのない場所の割に、石塔の周りは綺麗にされていた。
リンは、うん、と誇らし気に頷いた。
「草がぼうぼうだと、ヒメギミは悲しくて、怖い幽霊になっちゃうから。
ヒメギミがヤスラカニ寝られるように、リン、お掃除したんだ。」
母親の教えなのか、ときどきたどたどしい言葉になりながらも、リンは説明した。
その健気な様子に、少年は思わず微笑んでいた。
「有難う。感謝する。
同族からは憎まれ、蔑まれて、墓も建ててもらえなかったのに。
見ず知らずのリンに、これほど親切にしてもらって、きっと喜んでいると思うよ。」
「ヒメギミ、嬉しい?」
リンは嬉しそうにしてから、少し、首を傾げた。
「あれ?
でも、どうして、ヒメギミのお墓をキレイにしたら、お兄ちゃんがお礼を言うの?」
ああ、それは、と少年は石塔を見上げた。
「ここは僕の母のお墓なんだよ。」
ええっ、とリンはのけ反った。
もうそろそろこの驚き方にも慣れてきたなあ、と少年は思った。
「だけど、リンはいつもこんな淋しい場所にひとりでいるの?」
うん、と言ってから、ナイショなんだけど、とリンは声をひそめて続けた。
「ここは、鬼に護られているんだって。
だから、ここにいれば、アンゼン、なんだよ?」
「それはどうかな。
鬼は、リンまでは護ってくれないんじゃないの?」
「鬼はそんなケチじゃないよ!」
「いや、ケチとか言う前に、鬼なんだから…」
少年はいろいろと呆れてしまった。
墓を守っていてくれたことは有難い。
けれども、幼子がこんな場所でひとりでいるのは、やはり、よいことではないと思う。
少年はわざと脅すように言った。
「鬼は怖いんだよ?
リンなんか、一口でぺろりと食べられてしまうかもよ?」
「大丈夫。鬼は、ビジンには弱いんだよ。
リンはビジンだから、鬼もきっと勝てないよ。」
確かに勝てないなあ、と少年は苦笑した。
それから、少し真面目な顔になって言った。
「だけどね、鬼は、美人を攫うんだ。
綺麗な姫君や幼い子どもは、鬼に連れて行かれるんだよ。」
少年は言い聞かせるようにリンの目を見つめた。
「今まで、本当に、有難う。
でも、もう、ここへは、来てはいけない。
鬼の島へ連れて行かれたくないだろう?」
リンは恐々と聞き返した。
「鬼の、島?」
「そう。」
「そこって、遠い?」
「うんと、うんと、遠い。」
「もう、帰ってこれない?」
「もう帰ってこられない。」
「じゃあ、お母さんにも、もう会えない?」
「お母さんにも、もう、会えない。二度と。」
少年がきっぱりと言うと、リンの目にみるみる涙が浮かび上がってきた。
「お母さんに、会えないの?」
泣きそうになりながらそう尋ねるリンの頭に、少年は優しく手を置いた。
「大丈夫。そうならないために、もうここには来ないようにするんだ。
分かった?」
「うん。分かった。」
リンは素直に頷いた。そっか、よかった、と少年は笑ってみせた。
少年の笑顔を見て、リンもにっこり笑う。
さっき泣いたばかりなのに、もう笑うのか、と少年は思った。
「リンねえ、お母さんのこと、大好きなの。」
リンは打ち明けるように言った。
「お母さん、昼間はお仕事だから、一緒にいられないけど。
夜は帰ってきて一緒にご飯食べて、一緒のお布団で寝るのよ?」
「そっか。仲良しなんだね?」
「とっても、仲良しなんだよ。」
得意そうなリンの笑顔を、少し眩しいと少年は思った。
けれど、リンはすぐに、しまった、という顔になった。
「お兄ちゃん、お母さんがいなくて、淋しいね?」
え?と少年は驚いた目をした。
けれど、すぐに、小さく首を振った。
「いや。
淋しくは、ないかな。」
「じゃあ、悲しい?」
少年の笑顔に、すっと冷たい陰が差した。
「…悲しくも、ないかな。
悲しくないことが、悲しいくらいに。」
少年の言葉にリンは首を傾げた。
少年は冷たい笑みを頬に浮かべて続けた。
「僕のお母さんは僕のことが大嫌いで、傍に行くといつも叱られた。
今も、僕なんかにはお墓に来てほしくない、って思ってるに違いない。」
リンは叱られた子どものようにいったん下をむいたけれど、また思い直して、もう一度少年のほうを見上げた。
「けど、お兄ちゃんは、お母さんのこと、大好きだよね?」
リンの言ったことに、少年ははっとした目をして、その顔をまじまじと見つめた。
そんなことはない。
そんなはずはない。
喉まで出かかった言葉は、声にならなかった。
しばらくの間、そのまま少年は息をするのも忘れて、リンの目をじっと見ていた。
けれど苦しくなって思わず大きく息を吸ったとき、先に目を逸らせたのは、少年のほうだった。
「だから、さっき、お兄ちゃん、泣いてたんだね。」
リンの声が聞こえていた。
少年は、リンの言った言葉の意味をじっと考えた。
自分は、母親が好きなのだろうか?本当に?
いや、そんなはずはない、と即座に思う。
けれど、では、あのとき、どうして、自分は涙を零したのだろう。
手を合わせたとき、何かが、胸のなかから、せり上がってきたのだ。
何か、得体のしれない感情が。
あれは、一体なんだったんだろう。
熱くて、冷たくて、苦くて、重くて…
怒り、ではない。
憎しみ、というのとも違う。
後悔や、憐み、でもなかった。
もっと、単純で、簡単で、混じりけのない気持ち。
もしかしたら、あれが、リンの言う、悲しい、という気持ちなんだろうか。
黙っていると、リンは少年の手を両手で包み込むようにそっと握った。
「淋しいときは、淋しい、って。
悲しいときは、悲しい、って。
言えばいいんだよ?」
淋しい?
悲しい?
いや、違う。
そういう感情は弱い者が持つものだ。
弱さは…
いや。
そうか。
弱さは悪ではない、の、か…
では、この感情の正体は、悲しい、なのだろうか。
自分は今、悲しい、のか。
はらはらとまた、涙が溢れ出した。
リンは少年の顔を覗き込むようにして言った。
「悲しいのは辛いけど。
大丈夫だよ。
お兄ちゃんが悲しくなくなるまで、こうしていてあげるから。」
…リンの親が、リンに対して、そうしてやっているのだろう。
リンはただ、その真似をしているだけだろう。
そう思うのに。
そう、思う、けれど…
リンの手は、とても小さくて、少年の手の半分くらいしかなかった。
その小さな手に縋りつくように、思わず、ぎゅっと握りしめてしまった。
リンは、あっ、と小さく声を漏らした。
それにはっとして、少年は慌ててリンの手を離した。
自分の力は、リンには強すぎるのだと思った。
「…悲しくなくなるときなんて、くるかな?」
何かを抑え込むように、少年は俯いて、言葉を絞り出した。
けれど、次の瞬間、はっと少年は視線を上げた。
リンはもう一度、少年の手をしっかりと握っていた。
「悲しくなくなるまで、ずっと一緒にいる。
リンがいると、悲しいことは半分になって、嬉しいことは倍になるって、お母さんはいつも言うよ。」
幼いリンの真っ直ぐな瞳に、少年は思わず笑みを返していた。
笑みと一緒に、涙が零れた。
「そんなこと言ったら、本当に、ずっと一緒にいて、って言うかもしれないよ?」
わざと脅すように言ったのに、リンは明るく頷いた。
「分かった。ずっと、一緒にいる。」
少年は息を留めて、そのままじっとリンを見つめた。
けれど、ひとつ呼吸をしてから、きっぱりと首を振った。
「いや、やっぱり、いい。
ずっと一緒なんて、そういうわけにはいかないよ。」
「どうしていかないの?」
「え?そりゃあ、だって、その、リンだって、いつか大きくなったら、お嫁に行かないとだし…」
リンの真っ直ぐな問いかけに、少年はしどろもどろになりつつ答える。
けれど、リンはそのくらいでは諦めなかった。
「分かった。じゃあ、リンは、お兄ちゃんのお嫁さんになる。」
少年はますます焦った。
「いや、あの、だから、それは…
だいたい、リンと僕は年も離れているし…」
「お兄ちゃん、いくつ?」
「今年で十五。」
「リンは、五つだよ。」
「十歳も違うじゃないか。無理だよ。」
「十歳は離れすぎ?それだと、メオトになれない?」
夫婦などと大人びた言葉を知っているリンに、少年のほうが困り果てる。
「いや、なれないことはないかもしれないけど…
父も今の奥方は十二離れてるし…
って!あ、いや、そうじゃなくて…」
ひとりで墓穴を掘って埋まっていく少年に、リンは、ん?と首を傾げて見せた。
少年は一瞬固まってから、耳まで真っ赤になった。
「とにかく、そんな大事なこと、子どもが簡単に約束しちゃだめなんだよ?」
必死に言い聞かせている相手は自分なのかリンなのか、もう分からない。
そして、リンはまったく怯まない。
「子どもじゃなきゃ、いい?」
「え?」
「じゃあね、リンは大人になるまで、ずっとずっとお兄ちゃんと一緒にいる。
それで、大人になったとき、お兄ちゃんがいいよって言ったら、お兄ちゃんのお嫁さんになる。
それならいい?」
とうとう根負けして、少年は笑い出した。
「まあ、そんなに長く気が変わらなかったらね。
けど、そんなことありえな…」
「やったあ!嬉しい!!」
そんなことありえないと思うけど、そう言おうとした少年は、いきなりリンに抱き着かれてその先を言えなかった。
ぐいぐいと首を絞められて少し苦しいけれど、無理に振りほどきたくはない。
日向臭いリンのやけに高い体温に、少年は何故か泣きそうになって、慌ててそれをごまかそうと、わざと難しい顔と声を作った。
「そんな大事なこと、こんな簡単に決めるもんじゃないよ。
僕がもし悪いやつだったら、どうするの?」
あまりにも無防備なリンに、途中から、ちょっと説教口調になる。
リンがこんなふうに無防備だからこそ、他人に対して心を開けない自分と話ができるのだろうと、どこかで分かってもいるのだけれど、それにしても、危なっかしくて到底放っておく気にもなれなかった。
「お兄ちゃん、悪いやつなの?」
けれど、清んだ目をしたリンに面と向かってそう尋ねられると、慌てて両手を振って否定した。
「そんなことはない!…と、思う、…思いたい、よ…」
後半やや自信なさげになってから、ふう、とため息をひとつ吐く。
「他の人たちにとっては、どうか分からないけど。
少なくとも、リンに対しては、悪いやつにはならない。今、ここで誓う。」
拳で胸を叩いて見せる。それは少年の故郷での誓いの仕草だった。
「そっか。なら、いいじゃない。」
けろりと笑う幼いリンに、もう少年は口でも何でも勝てる気はしなかった。
「リンは変わっているね。僕なんかのどこがいいの?」
「うーん、分かんない。」
あっけらかんと堂々と返ってきたその答えに、少年は思わず苦笑した。
それから、眩しそうに目の前のリンを見た。
「分かった。大人になったリンがまだ僕のことを今と同じくらい好きでいてくれたら。
そのときには、お嫁においで。」
どのみち子どものたわごとだ。大きくなる前に忘れてしまう。
そう思うのに、それでも、今ここにいるリンの喜んでいる姿は、妙に自分も嬉しかった。
ひょっとして、万に一つ、もしかしたら、大きくなったらこの娘と、と、ちらりと、本当にちらりとだけ思ったら、途端に、ずっとずっと一緒にいる想像が、洪水のように自分の中に流れ込んできて、それだけでもう、自分は満たされて、淋しくなくて、幸せになれるような気がした。
「リンはもしかして、この世に舞い降りた天女なのかな?」
「テンニョ? 違うよ。
リンはリンだよ。」
リン、と少年は、口のなかであたためるように繰り返した。