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花咲鬼  作者: 村野夜市
15/42

第九章 ~雉子

この頃は日暮れが早くて、花街には早々にぽつり、ぽつりと明かりが灯り始めていた。

明るい光は、かえってその周囲を暗くする。

光の中、格子の向こう側から無数の白い手が伸びて、道行く者たちの袖を引く。

遊んでお行きよ、と気だるげに呼びかける声がする。


そんななか、誘惑に目もくれず、目抜き通りを黙々と歩く、ひとりの護法がいた。

無造作に縛った白銀色の波打つ髪が、嫌でも目立つ。

護法にしては華奢なからだつきで、甲冑もつけず、簡素な野良着ひとつ。

腰には何の武器も帯びていない。

無表情なうえに、この上なく地味な形をしている。

一見すると、少しばかり背の高い百姓、といった風体だ。

髪を縛る赤い紐の鮮やかさだけが、わずかにその容貌に華やかさを添える。

よくよく見ると、姿勢もよく、すっきりと伸びた背も、すんなりと細く長い手足も形よい。

目には英知の光を宿し、引き締まった口元には、強い意志を感じさせる。

姿も目鼻立ちも整った美丈夫だ。

何気ないようで、油断なく運ぶ足取りは、長年武道の修行を修めた者のそれだ。

その人こそ、知る人ぞ知る、白銀の鬼こと、貴島の享吾だった。


享悟の目指していたのは、この街一番の見世だった。

遠目にその灯りの見えだした辺りで、享悟は僅かに眉を顰めた。


見世の前には野次馬の人だかりがしていて、その中で、ひとりの護法が騒いでいた。

全身を覆う盛り上った筋肉が、甲冑越しにもよく分かる。

周囲より頭ひとつ抜きん出た小山のような男だった。


護法は手に持った袋をいきなり地面に投げつけて言った。


「ほら、金だ。これで文句はないな。」


足元に転がった重そうな袋から後退りながら、花車らしき初老の女は震える声で言った。


「お許しくださいませ。この妓には決まったお客様が…」


「そいつには、腹を下したとでも言っておけ。

 その妓は俺が目をつけたんだ。」


震えながら応対する花車の後ろには、小柄な若い娼妓がひとりいた。

まだ少女と言ってもいいくらいの年ごろに見える。

はっとするほどに可憐な風情で、怯えたようにかたかたと小さくからだを震わせている。

黒目勝ちの大きな瞳を見開いて、ほんのり刷いた頬の紅は、却って幼さを強調する。

思わず駆け寄って、守ってやりたくなるような美少女だった。


花車は荒れている護法をなんとか宥めようと、腰を低くして言った。


「この見世には他にも可愛い妓はたくさんおります。

 どうぞ、そちらもご覧になって…」


「ごちゃごちゃとやかましい。

 いいから、こっちへ来い。」


しかし護法は話しを聞こうともせずに、無理やり娼妓の手首を掴んで引き寄せようとした。


その手を、そっと横から抑える手があった。


「なんだ、お前?」


むっとして手の持ち主のほうへ目を上げた護法は、とたんに、かたかたと、小さく震えだした。


「あ、あ、あ、あなたは…っし、しろがねの…」


そのまま護法は崩れるように膝をついた。

膝をついてもなお人の背の高さほどもある大男だ。


「ぬしさま!」


娼妓は嬉しそうに叫んで割り込んだ手を掴んだ。

妓をすっと背中に隠して、白銀色の鬼は淡々と言った。


「僕の敵娼になにか?」


ちらりと向けた視線の、冷え冷えとした殺気に、沸騰していた鬼の頭も一瞬にして冷えたようだった。


「っこ、こここ、こちらは、あ、あ、あなたさまの、お、おんな、さまで…」


護法はさっきまでの勢いはどこへやら、すっかり歯の根が合わなくなっている。


「この妓は、なにか粗相でもいたしましたか?」


享悟の声は低く、けれど、ぞくりとするほどよく響いた。


「い、いえいえいえ、そ、粗相など…」


「ならばこの場はこれで…」


享悟は懐から重そうな巾着を取り出すと、護法のほうへ突き出した。


ところが、それを横からすっと白い手が遮った。


「もうぅ、ぬしさま、お帰りがあまりに遅いので、待ちかねてしまいましたわ。」


何を思ったのか、いきなり享吾の背中から現れた娼妓は、横からひょいと巾着袋をさらった。

そのまま、享吾の前に回り込んで、拗ねた顔をして見せる。

暴れていた護法のほうは、もうまったくの無視だった。


「今、話しをしている。ちょっと待ってなさい。」


享悟はそう言って、手で雑に娼妓を退けようとした。

その手に娼妓は縋りついた。


「もうっ、ぬしさまの、い、じ、わ、るっ。

 ほら、早く、中へ参りましょう。」


気心の知れた恋人に甘えるような娼妓の仕草に、享悟はやや戸惑った表情になった。


「いや、だから…キギス?」


「いいからいいから。あんな野暮天、放っておきましょう。」


キギス、と呼ばれた娼妓は、上機嫌で巾着袋を抱いたまま享悟の腕を引いた。

白くて細い腕に巾着袋はかなり重そうだったが、けろりとしている。

けれど、それに違和感を抱いた者は、その場にはなかった。


周囲の野次馬は、半ば呆気に取られて、事の成り行きを見守っていた。

その一点にむかって、ちょいとすみませんねぇ、とキギスは艶やかに笑って見せた。

すると、その辺りの野次馬は、慌ててどやどやと道を開いた。


「有難う、存じます。」


艶然とキギスは頭を下げる。

幼い顔に、つい、と浮かんだ色気に、目の合った者らは、一斉に赤くなった。

それもほんの一瞬で、キギスは恥ずかしそうにまた目を伏せる。

辺り一帯に一斉にため息が流れた。

全体に小造りな造作も、ちまちまとした動きも、この上なく愛らしい。

流石は希代の護法の敵娼かと、小さく呟く声も聞こえる。

耳聡くそれを聞き取ったキギスは、御愛想とばかりに、もう一度、にっこりと微笑んでみせた。


「手を、放してもらえないかな…」


そこへ、無粋な声が、ぼそり、と呟いた。

声の主は享吾だ。

享吾は、キギスにしっかりと握られた手を、さも嫌そうに眺めていた。

一斉にうっとりした人々のなか、享吾だけは醒めた目をしている。

誰にも気づかれないように、キギスは小さく舌打ちをした。


「いいえ。このわたくしを待たせた罰ですもの。この手は放しませぬ。」


享吾の渋い顔にもお構いなしに、キギスはわざとしっとりと、甘えるようにそう返す。

皆の羨まし気なため息がまた流れた。

そのまま手をしっかり握って、キギスはぐいぐいと見世のなかへと享吾を引っ張っていった。



***



建物の中に入ったところで、享吾は、すっ、とキギスの手を振りほどいた。

あまりにさり気なく、なんの力もかからなくて、キギスすら気づかなかったほどだ。

そのまま、勝手知ったふうに、享吾は二階へと上っていく。

置いて行かれたキギスは、もうぅ、とふくれっ面をしてみせてから、すぐに享吾を追いかけた。


専用の座敷に入って襖を閉めると、キギスはいきなり、ぺたり、と畳に胡坐をかいた。

途端に、美しい化粧も着物も台無しな姿になる。

着物の前はだらしなくはだけて、牛蒡のような足が二本、にょっきり覗く。

うっかりするとその奥まで見えてしまいそうで、享悟は慌てて視線を逸らせた。


「いくらなんでも、その行儀はないだろう?」


咎める口調の享悟に、キギスはひらひらと手を振って見せた。


「まあまあ、いいじゃないっすか、主。

 娼妓の衣装ってのは、なかなかこう、窮屈なもんで…」


さっきまでの小動物のような可憐さはどこへやら、話す声も心持ち低い。

キギスは横取りした巾着袋をどさりと目の前の畳に置いて享吾を見上げた。


「これはお返ししますよ、主。」


「ああ、それはそのまま取っておいてくれていいよ。」


手を振ってあっさり言う主人を、キギスは呆れたように見た。


「お手当も根回しの軍資金も、もう充分に頂いてますから。

 これはもらいすぎっすよ、主。」


「いくらあっても困ることはないだろう。」


「そのお言葉、そっくりそのまま、主にお返ししますよ。

 主こそ、これで姫に、気の利いた土産でも買ってやったらどうです?」


姫、の話をふると、いつも嬉しそうにする主人だったが、今日は違った。

享吾は憂鬱そうにため息をついて言った。


「リンへの土産なら、もうとうに買ってあるよ。

 けど、何を渡しても、あんまり喜んでくれないんだ…」


主人の憂い顔に、キギスはけろりと笑って言った。


「なんとかの一つ覚えみたいに、竜胆の簪ばかり買うからっすよ。」


「この間、君にそう言われたから、櫛にしてみたんだ。

 けど、リンはやっぱり使わずに、箱にしまい込んでしまった。」


もう一度ため息をつく主人に、キギスは呆れた顔をする。


「柄を変えるという発想はないんっすか?」


その提案には、享吾はきっぱりと首を振った。


「そればっかりは、聞けない。

 花はやっぱり、竜胆だ。

 あのときのあの竜胆の鮮やかな青が、僕には忘れられない。

 名前だってリンだし。

 竜胆は、あの娘の花なんだ。」


「って、そこは頑固なんっすね。」


キギスは肩を竦めてくすくす笑った。


「主は渡すことで自分が満足してるんでしょ?

 じゃあ、仕方ないっすね。

 姫の欲しいものをあげているわけじゃないんっすから。」


「ほしいものも、ちゃんと聞いているんだよ?

 そしたら、お土産はいらないから、一緒に連れて行ってほしい、って言うんだ。

 そればっかりは聞くわけにはいかないじゃないか。」


「あー、まー、それは、そうっすね。」


きっぱりと断言する主人にキギスも頷いてみせる。

その辺りの事情は、よく分かっていた。


「で、それがだめなら、じゃあ、なるべく早く、帰ってきてほしい、って。

 なにより、僕が一緒にいるのが一番いい、って言うんだよ。

 だから、僕は、可能な限り最速で帰ることにしてる。

 そうして、なるべくリンの傍にいるようにしてるんだ。

 君のおかげで随分助かってるよ。

 それにしても、これ以上は、流石に無理だよね。

 お役目を疎かにするわけには、流石にいかないしさ。」


キギスは、あー…と呆れた顔になる。

それに気づかずに、享吾は続けた。


「あと、怪我をしないで、って言うから、極力実戦も避けている。

 けど、そんなの、お土産とは言わないだろ?。

 あの娘は、自分のほしいものじゃなくて、僕のことばっかり言うんだ。」


「あー、はいはい。ごちそうさまっす。」


面倒臭そうに相槌を打って、キギスは呆れた顔で見上げた。


「主が愛されていらっしゃるのは、よっく分かりましたよ。」


「ほんっとうに、リンは優しくて愛に満ち溢れて、欲がないんだ。

 ああいうのを、天女って言うんだよね?」


うっとりとあらぬ方を見上げて、享吾は夢見るように独り言ちた。


「姫が天女ってのには同意しますよ。」


「だよね?

 でもさ、下界の僕としては、そんな天女に何か贈りたいんだよね。

 あの娘に、僕のあげたものを身に着けてほしいって、思ってしまうんだ。

 それも、護法の執着心かな?」


「…まあ、そのくらいは、普通に誰でも思うんじゃないっすか?」


「君も思う?」


「…ええ、まあ、思いますよ。」


それを聞いた享吾が心底安心したようなため息を吐くのを見て、キギスはやれやれと笑った。

この主人は、誰より、自分が鬼になってしまうことを恐れている。

確かに、お役目を果たすときの享吾は、鬼、と呼ばれる部分もあるかもしれない。

けれど、普段の享吾は、鬼とは程遠い存在だと、キギスは思う。


「最初にあげたのは使ってくれてるんでしょう?」


「今思えば、あれはずいぶん、見劣りのする品だったと思うんだ。

 僕自身の眼も肥えてなかったしさ。

 鈴も錆びついて音をさせなくなったし。

 塗りもくすんで、ところどころ剥げている。

 だから、もっといいのを着けてほしんだけど。

 リンは頑として、これがいい、って言ってきかないんだ。」


「姫は物を大切にするかたなんでしょう。」


「それはそうなんだけどね…」


「いいじゃないっすか。他のも、大切にしまってあるんでしょう?

 次々と使い散らしてそこいらにほっぽらかされているより、ずっといいっすよ。」


話しながら、キギスは面倒臭そうに、髪飾りを引っこ抜いてぽいぽいと投げ捨てる。

それから、ついでに帯もぐいと緩めた。

その様子を見て享吾がわずかに眉を顰めるのに、へらりと笑う。


「へへっ。すいませんねえ。おいら、お育ちがお育ちなもんっすから。」


悪びれないキギスに、享吾は苦笑を漏らしてから、すっと表情を改めた。


「それで、お役目のほうは、どうなんだい?」


「へいへい。細工は流々、仕上げは御覧じろ、ってね?」


節をつけてそう言うと、キギスは塗の手箱から紙束を取り出して渡した。


「根回しは済んでます。丸をつけたのが、話しのついたご領主で。

 その折には、一斉に蜂起してくださる、と。」


「思ったより多いな。

 支度金は足りたかい?」


「いっつも思うんっすけど、主って、金銭感覚、おかしいっすよね?

 国中買い占めようとでもおっしゃるんっすか?」


「人の意志を金でどうこうしようと言うんだ。

 それはそれなりに掛かるというものだろう。」


「そこはね、白銀の鬼のご要請となれば、進んで協力しましょうって方も多いってもんで。

 何と言っても今を時めく護法さまっすからね。」


嬉しそうににこにこ笑うキギスには、さっきの可憐さは見る影もなかった。

けれど、どこか人懐っこい、人好きのする笑顔だった。


「敵方の横暴は目に余る。機会さえありゃ、乗ってみたい。

 そう思っているご領主は、意外と多いもんなんっすよ。

 金なんかいらない、むしろ、こちらからご助力を差し上げたい。

 そんなことをおっしゃる方もいらっしゃるくらいで。

 いっそ同盟を、と持ちかける方もいらっしゃるんですよ?」


「助力も同盟もいらない。

 護法の参戦を見てからそんなことを言い出す輩は、勝ち馬に乗りたいだけだ。

 本当に義を重んじるなら、それ以前に、雇い主に助力を申し出たはず。

 なのに、雇い主からの要請は、みな一度断っているんだから。」


そう話す享悟の瞳は冷たかった。


「一斉に蜂起していただく必要もない。

 ただ手出しをせず、黙って静観してくれればいい。

 蜂起してもらったところで、出番もない。

 余計な恩の押し売りはいらない。」


ひゅぅ、と口笛を吹いて、キギスは肩を竦めた。


「相変わらず、人間不信、貫いてますね、主。

 姫みたいな守護もいるってのに、どうしてそこまで人を信じられないんだか。」


「リンのことは信じられる。

 それ以外は最初から誰も信じていない。

 君のことも。自分自身のことも。」


面と向かって信じられないと断言されたのに、キギスはへらりと笑った。


「そんな主だからこそ、姫がいないとだめなんでしょうねえ。

 姫は、お元気っすか?」


姫、の話しになった途端に、享悟のまとう空気は一気に柔らかくなった。


「変わらないよ。あの娘はいつも僕の心配ばかりしている。

 もう少し、自分のことも構ってくれればいいんだけど。

 この間なんか、夜なべをしてこんなものを作ってくれたんだ。」


享悟はそう言いながら、髪を縛っている紐を見せた。

それは真新しい綺麗な赤い紐だった。


「糸を花の汁で染めて、紐に編んだんだそうだ。

 お守りだ、と言ってくれた。

 自分ひとりじゃ、市に行くこともできないからと言って、全部、自分の手で作ったそうだ。

 すごいだろう?」


リンのことを話していると、この上なく穏やかな目をする享悟に、キギスはにこにこと言った。


「へえ。見慣れない紐だなあ、とは思ってたんっすよ。

 そっかあ、姫からの贈り物かあ。いいなあ。」


キギスは腰を浮かして回り込むように、紐を眺めた。

その瞳を懐かしそうに細める。


「流石、姫。なかなかうまく作ってあるじゃないっすか。

 おいらにも、作ってくんないかな?」


「今も君とお役目を果たしているということは、話してないからな。

 リンは、君とはあの船着き場で別れたきりだと思っている。」


「それはまた、意地悪っすね。

 おいらのその後の消息も、言っといてくださいよ。

 そしたら姫は、おいらにも、紐、作ってくれるかもしれないのに。」


「だめだ。」


即答する享悟に、キギスは肩を竦めて笑った。


「そう言うと思いましたけどね。

 しかし、赤とは、ねえ…」


訳知り気ににやにや笑うキギスに、享悟は眉を顰める。


「赤だとどうかしたのか?」


これだから朴念仁は、とキギスは得意そうに言った。


「知らないんっすか?

 運命の人とは赤い糸で結ばれてる、ってね?

 若い娘たちはよく言ってますよ。

 それ、主が運命の人だ、って言いたかったんじゃないんっすか?」


「え?

 …そう、なのか?」


戸惑った顔をする享悟に、キギスはあからさまなため息を吐いた。


「いい加減、観念して、姫を嫁にもらってやったらどうなんです?」


「それはできない。」


再び即答の享悟に、今度はわざとじゃないため息が零れる。


「姫はそれを望んでるんでしょ?

 主はもっともっとそれ以上に望んでるんでしょうけど。」


「望めば何でも叶うわけじゃないだろう?」


「叶うことだってあると思いますよ。

 少なくとも、婚儀に関しては、両方が望めば、大抵は叶うもんでしょう。」


「…これは、掟なんだ。」


「掟破りなんて、屁でもないくせに。

 姫のこと守護に据えたこと自体、すんげぇ掟破りじゃないっすか。」


「あのとき、掟を破ったのは、リンを守りたかったからだ。

 そして、今、掟を守るのも、リンを守るためだ。」


享悟は頑なに首を振った。


「昔、守護を娶った護法が、守護との間にできた子を殺したから、でしたっけ?

 そんな掟ができたのは。」


キギスは享悟に以前聞いた話しを繰り返した。


「そんなの、その護法が愚か者だっただけでしょうに。

 主がそんな愚かなことするとは、思いませんけどね。」


「それだけじゃない…護法のおぞましさは、そんなことだけじゃないんだ。」


享悟はぶるぶると何度も首を振った。


「護法はあさましい鬼だ。

 守護に対する執着は、常軌を逸している。

 自分の外は誰とも、話すことも、目を合わせることも、姿を見ることさえ禁じた護法もいる。

 挙句の果てには、光も差さず、風も通さない暗い牢に守護を閉じ込めた。

 いや、そんなのはまだマシなほうだ。

 同じ理由で、守護の目を潰し、耳を潰し、喉を潰した護法もいる。

 手足をもぎ、柱にくくりつけておいた護法もいる。

 自らの死のときに、共に死ぬことを命じた護法も。 

 愛しさのあまりに、とうとう、髪の一筋、血の一滴も残さずに、守護を喰らった護法もいる。」


「…それは、なかなか、凄まじい、っすね…」


あまりに恐ろし気な護法の生態に、キギスはいい相槌を見つけられなかった。

それを享悟はちらりと見ると、冷たい微笑を口元に浮かべて続けた。


「護法の執着は限度を知らない。

 その昔、守護は護法に対する生贄のようなものだった。

 護法は手に入れた守護を好きにしてよかった。

 もちろん、守護を憎み、望んで傷つけたい護法などいない。

 昔も今も、護法はみな、誰より守護を大切にし、護ろうとする。

 その結果がそれなんだ。

 鬼には所詮、愛情など持てるはずもない。

 護法の内側にあるものは、執着、執念、妄念、妄執、そんなものだけだ。

 娶ったところで、幸せになどできるわけもない。

 己の欲望の赴くままに、やがて、守護の自由も尊厳も魂も、全てを奪いつくす。

 そして、己の愚かさから守護を殺した護法は、例外なく、狂気に堕ちる。」


キギスは以前、享悟の狂いかけたときのことを思い出した。

あのときのことを思えば、狂気に堕ちる、というのも、杞憂だとは言い切れなかった。


「だから、こんな掟ができた。

 掟の目的は守護を護ることではない。

 守護を失って護法が壊れるのを避けるためなんだ。

 護法になれる者は、少ない。

 そして働ける時間もとても短い。

 大切な島の活計を少しでも長く使うために、護法は守護に手を出すことは固く戒められた。

 その代わりに、お役目の合間に、花街へ行くことを勧められたんだ。

 護法は乱暴な者が多くても、金払いはいいから、見世もそうそう邪険にはしない。

 さっきキギスに手を出そうとしていた護法も、その類だろう。

 そういうことは、ずっとここにいれば、キギスだって、何度も目にしただろう?

 叶わぬ執念は金で胡麻化せ、というわけだ。

 本当に欲しいものには絶対に手が届かない代わりに、二番目や三番目なら好きにしていい、と。

 檻のなかへ閉じ込めることを要求しても、金さえ払えば見世は言いなりになる。

 まあ、その辺りは僕も利用させてもらっているから何も言えないけど。

 そうやって花街へ行き、挙句に敵娼を何人も殺してしまった護法もいる。

 けれど、花街の妓なら、たとえ殺してしまっても、金を積めば秘密裡に片を付けられる。

 そして、守護さえ無事ならば、護法はまだ護法として働ける。

 ろくでもないだろう?」


流石のキギスも挟む言葉を見つけられずに、ただ目をぱちぱちさせるだけだった。

享悟は片頬にだけ冷たい笑顔を貼り付けたまま続けた。


「この僕だって、同じだ。

 戦場は少しずつ護法を狂わせていく。

 お役目を果たせば果たすほど、裡側はどうしようもなく荒んでいくんだ。

 そうして少しずつ少しずつ、護法は壊れていく。

 以前、リンにつけた傷を、リンはもうすっかりよくなったと言う。

 僕も一度は確かによくなったところを見たはずなんだ。

 なのにどうしてかときどき、その傷が未だに癒えずに血を流しているように見えることがある。

 それはずっとずっと僕の胸を苛んでいる。

 けれどあるとき突然、僕は、自分がそれを嬉しいと感じていることに気付いたんだ。

 あの傷は、僕がリンに遺した印だと、そんなことを考えている自分に。

 耐え難いほどのこの胸の痛みすら、味わうことに快感を覚えていることに。

 僕はそのことに愕然とした。

 愚かしいより、いっそ、嘆かわしい、いや、忌々しい。

 やっぱり、僕は鬼だ。醜く穢れた鬼だ。

 リンは天性の守護の資質を持っている。

 僕が何をしても、あの娘はきっと受け容れるだろう。

 だからこそ、僕は、リンの傍にいちゃいけない。

 僕だって、いつリンの五感を奪い、手足をもぎ、髪の毛一筋残さず喰らい尽くすか分からない。

 自分にそんな可能性があると気づいているのに、傍になんか、いられないだろう?」


「そんなことにはなりませんよ、主は。

 たとえ、主が堕ちそうになっても、姫はそうさせません。」


そうきっぱり言い切ったキギスは、さっきの動揺からは回復したようだった。


「おいらのことなんか、信じなくてもいいっすよ。

 自分のことを信じられないのも、別に珍しい病じゃない。

 むしろこんな世の中、自分のことを信じていられるなんて、よっぽど幸せなやつだけでしょう。

 それでも主には姫がいる。

 姫は何があっても主のことを信じていてくれる。

 それだけでも、この世の幸せ全部集めたより、主は幸せを持ってますよ。」


すっと目を細めたキギスの横顔には、可憐な美少女の面影はもうどこにもなかった。

ただ、誰かを一途に想う少年の目をして、キギスは告げた。


「姫のこと、それでも要らないってんなら、おいらにください。

 おいらには主のような賢さも強さもありませんけど、この世の誰より姫を愛して幸せにしてみせます。」



声にならない気迫は、享悟のものだったのかキギスのものだったのか。

当人同士にさえ、それは分からなかった。


一瞬のちに、ふたりは周囲の状況に気づく。

ぴたり、とキギスの喉元に付けられた刃と、それを手に持った享悟。

どちらかがほんのわずかでも、身じろぎをすれば、よく手入れをされた刃はその白い喉を引き裂き、赤い血が吹き出す。

そのぎりぎり、髪一筋の間隙で、ふたりはなんとか踏みとどまっていた。


先に沈黙を破ったのは、キギスだった。

ふっと力を抜くように笑顔になる。

享吾も慌てて刃を引いた。

けれど、ほんの僅かに刃は当たってしまっていて、キギスの白い喉にすっと赤い筋が一本入った。


「主、あなたの姫への気持ちは、普通に愛情だと思いますよ。」


喉についた傷からつーっと血を流しながら、キギスは鮮やかな笑顔を向けた。

それは、誰にも媚びない、キギス本来の笑顔だった。

享悟ははっとした顔をして、それから、慌てたように懐を探りだした。


「っす、すまない。この僕としたことが。いったい、何をしたんだ。」


「いいっすよ、気にしないでください。

 今のはおいらがわざと主を挑発したんっす。

 主がこれでも怒らないようなら、本気で姫を奪いに行こうかとも、一瞬思いましたけどね。

 そんな必要、これっぽっちもありませんよね。」


キギスは傷のところに指を触れて、いたっ、と顔を顰めた。

いいから、触るな、と叱るように言って、享悟は懐から取り出した軟膏をキギスの喉に塗りつけた。

途端に、キギスは酷く顔を顰めた。


「うわ、なんっすか、この匂い。」


「我慢しろ。傷には効くから。」


「いや、それは知ってますけど…

 白粉の匂いと混じって…くっ、これは、なかなか手強いっすね…」


キギスはけほけほとむせて涙目になる。

それでも享悟は容赦なく薬を塗りつけると、手ぬぐいを出して器用に傷の上を縛った。


「う、わー。なんか、おいら、怪我人みたいっすけど?」


「怪我人だからな。」


「女郎が寝屋で刀傷沙汰っすか…

 この傷は、ぬしさまの悋気が激しゅうて…」


妙なしなを作って流し目を送るキギスを、享悟は憎らし気に見た。


「あんまり妙な噂を流すな。」


「本当のことでしょ?」


「…まあ、それは、そうだ、けど…」


むっつり押し黙る享悟に、キギスはくすくす笑った。


「いいじゃありませんか。白銀の鬼はキギスにご執心、にしておけば。

 余所の護法に言い寄られた敵娼に、お仕置きをした、と。

 そのほうがおいらの正体もバレにくくなるってもんですし。

 主も、余計な女に言い寄られなくて済むでしょ?」


「なるほど。」


すんなり納得する享悟に、キギスは肩を竦めて笑った。

戦ではびっくりするほど巧みな策略を立てる主は、こういうこととなるとすっかり素直な善人だ。

人の悪さで言えば、キギスのほうがよっぽど上手だった。


「これ、前に姫の傷に塗ってたやつっすよね?」


キギスは手ぬぐいの上から傷に触れて言った。


「なんか嬉しいな。姫とお揃いなんて。」


享悟はややむっとした顔をしたが、とりあえず、淡々と返した。


「リンの怪我にはいつもこれだ。」


「今でも使ってるんっすか?」


「あ、ああ、まあ、あの娘は何かと生傷が絶えないから…」


リンの話題になると、いつも、微妙に口数の増える享悟がキギスには楽しい。

黙って視線をむけるだけで、享悟はつらつらと話し出す。


「包丁など握らなくていいと言っているのに、料理をすると言ってはしょっちゅう手を切っている。

 それだけじゃない。

 からだを鍛えると言っては、棒を振り回してやっとうの真似事をしてみたり。

 修行だと言っては、高いところに上ったり、わざわざ崖っぷちを走ってみたり。

 もう、いつ落ちるか、怪我をするかと、僕ははらはらして気が気じゃない。

 どうかやめてくれと、何度も何度も頼み込んで、ようやくしぶしぶやめてくれたけど。

 あれは、僕の目に隠れて、まだ何やらやっているに違いない。」


享吾はふぅとひとつ深いため息をついた。


「だいたい小さい頃から、僕の言うことなんて聞きやしない。

 危ないことばかりして、僕は、はらはらさせられ通しだ。」


「幼いころ、姫はお転婆さんだったんですね?」


昔のことに話しを向けられて、享悟はますます嬉々として話し出した。


「お転婆通り越してやんちゃ坊主のようだったよ。

 僕を木かなんかのようによじ登って、頭の上に座っては、馬の鬣のように髪を掴む。

 そうして、右へ行け左へ行けと、僕は馬代わりだ。」


「そ、それはまた…なかなか豪快なお姫さまだ。」


「僕もまだ未熟者だったもんだから、リンを木の枝か何かに引っ掛けたりして。

 いや、お互いに生傷は絶えなかった。」


「…すごい生い立ちっすね。」


その場面を思い出したのか、享悟はひどく楽しそうに笑った。

そんな享吾を、キギスも穏やかに見つめていた。

ついついリンの話をしてしまうのは、主の笑った顔が見たいからかもしれない。

享吾は、放っておけば重荷を全部ひとりで背負い込み、黙って傷ついている。

リンの話をするときだけ、享吾は本来の、穏やかで優しい主に戻ることができる。

そして、リンを思う間は、本当に幸せそうにする。

花街の役割が主を慰め癒すことならば、これこそ間違いなくキギスの役目だろう。

お役目を手伝うためにここに残ったけれど、今はそれ以上に享吾の力になりたくて働いている。

もちろん、享吾を真から癒せるのはリンただ一人なのだろうけれど。

守護を決して伴わない護法さまだから。

せめて、守護の許に無事に返せるようにするのは、自分の役目だとキギスは思う。


それに、リンの消息を聞けるのはキギスも嬉しかった。

ずっと離れているけれど、そんな気がしないのは、享吾が事細かく近況を伝えてくれるからだ。

リンのことを思うと、今も心の中に灯りが灯るような、ぬくもりを感じるような、そんな感覚を覚える。

リンを巡っては、享吾とは恋敵、なのかもしれない。

けれど、享吾を負かして、リンを奪い取りたい、とまでは思えない。

なにより、リンがそれを望むわけもない。

享吾の話のなかに出てくるリンは、真っ直ぐに享吾のことだけを思っているのだから。

ならば、やはり、この二人には、共に幸せになる道を選んでほしい。

幸せそうにリンのことを語る享吾を見ていると、本当に、心からそう思う。


「あの娘は、怪我をしても泣かないんだ。

 ただ、ころころと笑う。

 痛いより、僕のうろたえぶりがおかしいって。

 ひどい話しだろう?こちらは、心配しているのに。

 けど、笑われると、なんだか、怒る気にもならなくて。

 リンといると、いつも笑いが絶えなかった。

 びっくりもしたし、はらはらもしたけど、それよりもっと笑わせてもらった。

 リンと出会う前の僕はそんなに笑う子どもじゃなかった。

 リンがいたから、笑うことも、泣くことも、覚えた。

 リンと出会って、僕は、生きていることを、よかったと思った。

 この世に生まれてよかったと思った。

 あの、父と母にさえ、感謝したんだ。

 僕をこの世に存在させてくれたことを。

 だから、僕は何をしても、リンを護らなければいけない。

 それは、リンのためじゃない。

 全部僕のためだ。リンは僕の宝物だから。

 リンなしに、僕のいる価値なんかない。

 リンの都合は関係なく、僕はリンを護りたい。

 それがどれだけ手前勝手なことか、一応、自覚はしている。

 だけど、譲れないんだ、それだけは。

 リンを護るために、僕は生きている。」


享悟の瞳の中には、リンを護るという強い意志と、深い哀しみとが同居していた。

どれほどに愛しく、大切に思っていても、それは、愛ではないと頑なに拒む。

たとえ永遠に手の届かない存在だとしても、それでも、思うことだけで幸せになっている。

そんな深い思いを湛えた瞳だった。


キギスは享吾のそんな意地っぱりなところにも、どこか憧れを感じてしまうのだ。

そんなことじゃ、永遠に幸せになれない、とも思うのに。

敬愛する主人とその守護には、やっぱり、何を置いても幸せになってほしい。

けれど、今はまだ、そのために自分に何ができるのかは分からなかった。


穏やかに凪いでいた享吾の瞳が、ふいに強い光を帯びた。


「僕の時間は無限じゃない。

 僕がいなくなった後も、あの娘が無事でいられるように。

 そのためにできることは、全部、しておかないと。」


護法である享悟にとって、それは避けられない運命だ。

リンを護るために護法になったけれど、護法であるが故に、護れる時間は短い。

享悟の心のうちを思えば、キギスにはかける言葉は見つからなかった。



***



最初のお役目のとき、享悟はリンは自分の傍にいるが一番安全だと考えていた。

どんなことからも護って見せると自負していた。

人の目に触れないように、陣からは離れたところにリンを置いた。

なるべくお役目はリンの寝ている間に済ませて、リンの行動時間は一緒にいるようにした。

それでも、リンは攫われてしまった。

その恐怖は享悟を捕らえて放さなかった。


爺も婆も、鬼の島で長年生きてきた者だ。ただの老人ではない。

リンを護り、世話をしてもらうには、信頼のおける人々だ。

結局、リンを護るために、享悟はリンを島に置いておくことにした。


享悟が都から連れ帰った娘のことは、島中の誰もが知っていた。

享悟が突然水を飲んだことも、無理やりリンを守護に指名したことも、その当時の大事件だったから、おかげですっかりリンのことも知れ渡ってしまった。

父親と同じことをするものだという陰口を聞かれているのも承知していた。

ただ、父の前例のおかげで、多少は受け容れられやすかったのかもしれない。

そう思えば、僅かに父にも感謝した。


リンは享悟の守護であり、そうである限りは、その身の安全は保証されていた。

守護を傷つければ、護法は狂い、使い物にならなくなる。

享悟が護法をしている限り、そうして島の役に立っている限り、島の者はリンに手出しはしない。


万に一つ、忌み子だとバレてしまったとしても、貴島家の護法の守護に手出しなど、たとえ岬でも不可能だ。

いや、岬ならやろうとするかもしれないけれど、そのときにも、島の護法は使えないに違いない。

秘密裡に外から護法を送るにしても、そもそも、島では余所者は目立つ。

島の外であれば、どこから刺客を送られるか分からない。

結局は、島に置いておくことが、リンを護るためには一番なのだと、そういう結論になったのだ。


守護は護法のお役目には必ず同行してその魂を護るのがお役目だ。

なのに、享悟はリンをお役目に伴わない。

そんな横紙破りなことが島の煩さ方に容易に受け容れられるはずもない。

自分が言われるだけなら、そんなものは聞き流してしまえばいい。

けれど、リンにまでまことしやかな説教をされるのには迷惑した。

それを聞いたリンが、連れて行ってほしいと言うのにも閉口した。

誰より何より、リンと離れたくないのは享悟自身なのだから。

それでも、心を鬼にして、享悟はリンを島に置いて行った。

煩さ方の口は思いつく限りのありとあらゆる手段を用いて塞いだ。

ずっと憎んでいた生家の力を使うことも、継母を利用することすら躊躇わなかった。

けれど、最も効果的だったのは、享吾が優秀な護法として勤めを果たしたことだった。


誰の差し金だったのか、享吾には難易度の高いお役目ばかり与えられてきた。

そもそも、初めて果たしたあのお役目からして、他の護法が一斉に無理だと断ったものだった。

いつ死んでもいい、と、使い捨ての護法も同然の扱いを受けているのだと享吾には分かっていた。

けれど、そんな昏い連中の思惑の通りになるわけにはいかなかった。

何としても享吾はリンを護らなければならないのだから。

お役目を断る選択肢も、失敗する選択肢も、享吾にはなかった。

一度果たしても、二度、三度と、難しいお役目は降りかかってきた。

けれど、そのひとつとして、享吾は断らなかった。

リンのためならば、どんな無理難題も請けてみせる。

いつの間にか、お役目が難しければ難しいほど、それを楽しんでいる自分がいることに気付いた。

意外なことに、享吾はこの上なく、優秀な護法の素質を持っていたらしかった。

優秀な護法になることを望んだことはなかったけれど。

それもリンにとって有利にはたらくと思えば、自分自身を利用することにさえ躊躇いなどなかった。

むしろ、こんな自分がリンの役に立つなんて、嬉しくてたまらなかった。


絶体絶命の不利な状況を、享吾は自らの手腕でひっくり返した。

不可能と言われたお役目を次々に果たしたことで、享吾の評判は否応なく上っていった。


リンと出会わなければ、おそらく、享吾が護法になることはなかった。

というより、享吾は多分、生きていなかった。

皮肉なものだ。

リンがいたから、享吾はなるはずのなかった護法になった。

それどころか、歴代最強と言われるほどの護法になった。

享吾の働きで、島は潤い、人々の生活も豊かになった。

それもこれも、元はと言えば、リンのおかげだ。

島の人々はそんなことには気づかない。

いや、気づいていても、あえて口にしないだけかもしれない。

ただただ、彼らは享吾のことをもてはやす。

彼らは決して、リンのことは認めない。

そして、享吾は、そんな島人のことを、蔑んでいた。


それでも、そんな享吾にいちいち煩いことを言う口が減ったのは助かった。

褒められても嬉しくもなかったけれど、リンのことを何も言われなくなったのはよかった。

結局は、自分に力さえあれば、望みは叶えられるのだと悟った。

リンのために、ただひたすらリンのために、享吾は力を欲した。

そうして、ただ、ときどきでいいから、リンと一緒にぼんやりウキを眺めていられたら。

その僅かな平穏のためだけに、享吾は命をかけて、辛いお役目を果たし続けていた。



***



テルに、島に行くよりも、本土に残ってお役目を手伝うことをもちかけたのは、享吾だった。

島へ行けば、余所者のテルは間違いなく、護法の井戸水を飲まされる。

余所者は護法の水に馴染む可能性が高い。

しかし、護法になっても、この年になってしまったテルには、おそらく守護はつけてもらえない。

使い捨ての護法にされるくらいなら、このままここにいて働くほうがいいのではないか、と。


護法となった者には、ありとあらゆる享楽と贅沢が約束される。

賊をしていた頃のテルならば、或いは、命を縮めても、そうなってもいいと思っていたかもしれない。

けれど、もうテルは以前のような賊ではなかった。

お役目の手伝いならば、既にいくらか経験していた。

しかし、最初のお役目で、テルは大失態を犯した。

結局、尻ぬぐいは全部享悟にやらせてしまった。

あのとき何があったのか、享悟は一言も語らなかった。

けれど、その髪が真っ白になってしまったのは、自分のせいだとテルは思っていた。

それなのに、そんな自分が享悟に雇われてもいいのかと、テルは悩んだ。


その悩みを軽く吹き飛ばしたのは享悟だった。

失敗を知っているからこそ、そんなテルを雇いたいと。

テルは奮起した。

今度こそ、誠心誠意、主にお仕えします、と誓った。


小器用で目端も利き、人たらしの才もある。

するりと人の心に入り込み、いつの間にかすっかり信用させられてしまう。

けれど、その根底にあるのは、どこまでも情に厚い、面倒見のいい性質だ。

享悟にとってテルはこの上なく使い勝手のいい手下だった。

享悟が苦手としている交渉も、テルに行かせるとすらすらとうまくいった。

いくつか策を与えておけば、自分なりに考えて対処する頭もある。

いざというときの判断力や切り替えの早さも見事なものだ。

見栄や名誉の腹の足しにならぬものより、命や人を大事にする。

その揺らがぬ価値観も、享悟には心地よかった。

自分のことを小賢しいと思っているらしいが、享悟から見れば、十分に善良だ。

鬼の狡猾さには足元にも及ばない。

享悟はテルのことはなるべく穢さずにいたいと思っていた。

リンもきっと、そう望むだろう。

どこでどう習ってきたのか、自己流の武術はみるみる上達していたけれど。

享吾は、テルには一切、実戦はさせなかった。

とはいえ、敵方に潜入する危険な場面も多くある。

ならば、武術の心得もまったくの無駄にはなるまい。

現実に享吾の策を忠実に果たせば、テルの身に危険の及ぶことなど、爪の先ほどもあり得なかった。

テルを使うとき、享吾はそのことにはことのほか気を遣っていた。


享吾の気遣いに、テルは気づいていた。

だから、決して無茶な行動はしないように、自らをしっかりと戒めていた。

そうすることが、何より主の意思に沿うのだと、理解していた。


穏やかで理性的。命令は与えても、最後の責任は自分で取る。

テルにとって享悟は、この上もなくいい主だった。

金銭感覚はちょっとおかしくて、ときどき気前がよすぎるけれど。

意外にお人好しで世間知らずなのは、それなりにお育ちのいい証左だろう。

ときどき見かねて、横でぐいと引き締めてしまう。

明らかに主人に対して失礼だろうという言動も、享悟は別に咎めもしない。

それどころか、自分に非があると思えば、素直に謝って従う。

あの素直さは、実は享悟の器の大きさだと思う。


お役目の手伝いをするのは相変わらず楽しかった。

策の全体像は、享悟はいつも教えてくれない。

ただ、具体的な動きをひとつずつ指示される。

テルに要求されるのは、それをひとつずつ確実に遂行することだ。

たとえ失敗しても、これが一番肝心なのだけれど、決して包み隠してはいけない。

失敗は絶対に報告しなければならない。ごまかすこともなく。正確に。

報告しても、享悟は決して怒ったりしない。

ただ、それに合わせて策を微妙に変化させる。

そうしてひとつずつ指示をこなしていくと、そのうち策の全体像は見えてくる。

小さな指示がぴたりぴたりと嵌って、大きな策の成るとき、いつも胸のすく思いを得られる。

その快感はなかなか癖になる。

そしてそれを得るために、ますますひとつずつの指示を正確にこなすことに夢中になる。


生きるためには、人殺し以外何でもやってきた。

けれど、あのとき享悟に出会って、恐ろしいのに離れられなくなって。

リンのことが心配でしがみついたはずなのに、いつの間にか享悟のことも心配になっていた。

気が付くと、享吾の人柄にすっかり魅せられているテルがいた。

享悟についていけば、いつかまたリンに会えるかもしれない。

そんな淡い期待がないとは言わないけれど。

もう今は、たとえそれが叶わなくても、それでも享悟に仕えたいとテルは思っていた。


根回しの終わるぎりぎりまで享悟はテルのところには来ない。

そして、お役目の最後の仕上げを済ませると、いつもとっとと島に帰ってしまう。

島に大切な守護を置いてきているから。

テルのおかげで、早く帰れるよ、と嬉しそうに言われると、ちょっと複雑な気持ちにもなるけれど。

リンは享悟の帰りが早いと喜ぶらしい。

そう聞くと、まあ、仕方ないか、と思ってやれる気もする。

テルにとって享悟はそんな主人だった。


享悟が与えてくれる給金は、テルにとっては暮らしていくには十分すぎるほどだった。

給金の他に享悟は住む家も用意してくれたけれど、そこにはテルは滅多に帰らなかった。

むしろテルが居場所に選んだのは花街だった。

情報収集のために入り込んだ花街で、テルは正体を隠して暮らすことにした。

それならば、と、享悟はテルに派手な化粧をし奇抜な衣装を纏うことを命じた。

あえて日常的に目立つことで、素に戻ったときの姿を人目から隠すためだ。

テルは面食らいつつも、親しくなった旅の役者から化粧を習い、道具一式を譲ってもらった。

極彩色に顔を塗り分け、目の覚めそうな衣装を身に纏い、飄々と暮らす歌舞伎者。

こんな奇抜な姿をしていても、不思議に受け容れられるのが花街だ。


その姿をしているときは、テルは、雉彦と名乗った。

真名を名乗らないのは、少しばかり護法の真似をしたかったからかもしれない。

ただ、親からもらった真名は、享吾とリンにだけ呼ばれたいと思った。

雉彦というのは、鳥の雉のように華やかだからと、誰かが勝手につけたあだ名だった。

巧みな話術と器用な手先、身軽なからだを活かして、雉彦は見世物師として暮らし始めた。

人好きのする人柄と、物珍しい出し物で、すっかり雉彦はひっぱりだこになった。


キギスの姿は実は享悟のためだった。

享悟はいつもお役目を終えるとどこにも寄り道をせず、一目散にリンの許へと帰っていた。

それを掟破りを犯しているのではないかと疑いをかけられたのだ。

キギスの物言いではないが、掟破りなど屁でもない享悟だけれど、この疑惑は塗れ衣だった。

自分はどう言われても構わないけれど、リンがそういう目で見られるのはたまらない。

そう考えた享悟は、不本意ながら帰りに花街に寄ることにした。

しかしどうせ寄るのなら、時間を無駄にはしたくない。

享悟はテルに女装をさせ、キギスに仕立て上げた。

金子を積んでこの街一番の妓楼へ預け、専属の敵娼にした。

気に入った妓を閉じ込める護法は珍しくなかったから、これはすんなりと受け入れられた。

妓楼の奥座敷に籠っていれば、正体を見破られる心配も少ない。

邪魔されずふたりきりゆっくり打ち合わせすることも可能になって、一石二鳥だった。

妙に小器用なテルは、キギスの役も見事にこなした。

陽気な歌舞伎者の雉彦は、可憐な美少女のキギスに見事に化けた。

あまりの可憐さに横恋慕しようという輩が続出したのは想定外だったけれど。

それも、キギスが白銀の鬼の敵娼だと知れると、大抵は大人しく退いていった。


こうして男の姿のときには雉彦、女の姿のときにはキギスの、二重生活になったのだった。



***



翌朝、花街の門まで享悟を見送ったキギスは、帰り道、あとをつけてくる者の気配に気づいた。

その横顔ににやりと人の悪い笑みが浮かぶ。


路地の突き当りに花街で暮らす女たちが願掛けをする小さな祠がある。

早朝でまだ人気はない。

キギスはそこへ入って行くと、小銭を投げて、祠の鈴を鳴らした。

両手を合わせて拝みながら、ちらりと視線を後ろへ投げる。

そこに勝ち誇ったように昨夜の護法が姿を現した。


「わざわざこんな場所に入り込むとは。

 襲ってくれと言っているのか?」


にやにやと笑っているのがまた、いかにも、だった。


キギスは両手を合わせ、か細く甲高い声で懇願した。


「わたしは、貴島の若君さまに操を立てております。

 どうかお許しくださいませ。」


「ふん、なにが白銀の鬼だ。

 あのような小僧より、わしのほうがずっといいと、お前に教えてやろう。」


「いえ、そんな、ご無体な。

 どうぞお許しくださいませ。

 あーーーれーーー」


顔を赤くした大鬼に対するのは、護法の半分の半分もないほどの小柄な娘だ。

掴んだだけで折れてしまいそうな細い首を目掛けて、護法は手を突き出した。

しかし、届いた、と思ったその瞬間、ぱっと目の前から妓の姿は消えていた。


おや?と辺りを見回す護法の腕の上に、からり、と音がして下駄が乗る。

え?と思う暇もなかった。


固い下駄で力いっぱい頭を蹴り飛ばされて、護法は一撃で気を失った。


「おやおや。護法さまともあろうお方が、益体もない。」


音もなく地面に降り立ったキギスは、優雅に口元を覆って、隠しきれないほどの大欠伸をした。


「昨夜はうちのぬしさまが、たいそうしつこうて。

 なかなか寝かせてくれませなんだので、すっかり寝不足。」


そんなことをつぶやきつつ、キギスはすたすたと帰って行った。







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