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花咲鬼  作者: 村野夜市
14/42

幕間 ~忌子

照太というのは、爺婆の一人息子だった。

本来ならば家を継ぐために護法の水は免除されるはずだった。

けれど、照太は自ら水を飲み、護法になった。

その後、十頭領家のひとつ、岬家の養子になり、岬の末姫がその守護に就いた。

末娘を守護に就けるために、岬が無理やり養子にしたのだと島では言われている。

そうして護法になったが、お役目中に行方を絶ち、未だに消息は分からない。

しかし、護法ならば、おそらくはもう、生きてはいられないほどの年月が経っていた。


「これを見てくだされ。」


婆はそう言って懐から一本のクナイを取り出した。


「それは…リンの母御の持っていた?」


何かの手掛かりになるかもしれないと思って、享悟が持ち出したものだ。


婆は頷くと、外から差し込む光のなかにクナイを差し出した。

ゆっくりと傾けていくと、柄に開いた小さな穴に入った光が、床に照の文字を描き出した。

享悟は思わず歓声を上げた。


「すごい!そんな仕掛けがあったなんて!」


「これは、うちの爺様が、照太が養子に行くときに、作ってやったものなのです。

 護法さまの武器というには、なんとも頼りないですけれども。

 クナイは苦無とも申しますからのう。

 いつも懐に入れておいて、お守り代わりになるように、と。」


「頼りなくなんかない。

 それ、毒を注入する仕掛けをしてあるよね?

 流石、じっちゃんだ。

 ひとつ間違えれば、あの毒で僕は死んでいたよ。」


あのとき享悟はとっさに傷ごと腕の肉を抉り取った。

その判断がもう少し遅かったら、命を落としていただろう。


「僕のからだは毒には慣らしてあるし、処置も遅くはなかったと思うんだけど。

 それでも、あの後少し、からだに痺れが残った。」


照太は毒の使い手だった。

武芸の腕のほうは、あの爺の息子にしては大したことがないと言われていたが。

その穴を補うように、ありとあらゆる毒を知り尽くし、様々な場面で駆使していた。


照太の毒の知識は婆譲りだ。

草木や石ころ、海のもの、いろいろなものの持つ薬効を、婆は熟知していた。

毒は薬にもなるし、薬は毒にもなる。


享悟も婆から同じように仕込んでもらった。

ただ、享悟は毒よりも薬のほうにより強い関心があった。

照太と享悟はその辺り、表裏一体とも言えるかもしれない。


「照太兄は妻子を護るために、そのクナイを渡していたんだ。」


養子に行くときに、実の父親からもらったものだ。照太もそれは大切にしていただろう。

それを渡しておくのなら、よほど大切な相手のはずだ。

確かに、このクナイであれば、武器を扱い慣れなくとも、相手に致命傷を負わせることができる。

いざというときに身を護るには、とてもいい武器だった。


「母御がそれで僕を刺してくれてよかった。

 そのおかげでリンの身元が分かるなんて。」


享悟は思わず嬉しくなってそう言った。

すると婆は神妙な顔をして、享悟をじっと見詰めた。


「坊ちゃんはお怪我をなさって、死にそうな目にもおあいなさったというのに…

 本当に、お優しい方じゃ。」


「僕は優しくなんかないよ。

 自分の目的のためには、どこまでも非道になれる鬼だからね。

 こんな僕が、少しでもまともな人間に見えるとしたら…

 それは、全部、リンのおかげだ。

 リンを大事にしようとすると、僕はいい人になれるんだ。」


守護は護法の人としての魂を守ると言う。

リンは享悟の人としての魂を守ってくれている。

まだ正式な結契は交わしていない。それどころか、真名さえ教えていない。

それでも、リンがリンとしてそこにいるだけで、享悟は鬼にならずに人のままでいられる。

享悟にとって、もう既にリンはそういう存在だった。


「けど、照太兄には、岬の末姫という守護がいたよね?

 リンの母御は…」


岬の末姫ではなかった。

岬の末姫の顔は享悟もよく知っているから間違いない。

百歩譲って乳母だったとしても…

岬の姫が子を産んだ、などという話しは享悟も聞いたことがない。

たしかに、享悟は長い間、屋敷に引きこもっていたけれど。

もしも、そんなことがあれば、大事件だ。流石に知らないわけはない。


「護法が守護との間にしか子を成さないのだとすれば、おかしいよね?」


さっき婆の言ったことと矛盾している気がして、享悟は思わずそう尋ねた。

婆はそれに応えて言った。


「岬の末姫と照太との間には、完全な結契は成されておらなかったのかもしれませぬ。」


「え?けど、結契の儀式はちゃんとしたんだろう?」


「結契の要は儀式ではありませぬ。

 護法が守護を見定め、己の魂に守護の印を刻むことです。」


互いを自らの護法、守護と認め、正面から互いの目を見交わす。

結契の要はその瞬間だ。

その瞬間に、護法の魂には守護の印が刻まれ、以降、二度と消すことはできなくなる。


「儀式の最初に、護法は守護と見合わせられるじゃないか。

 ずらっと並んだお偉いさんたちの前でさ。」


岬の守護姫の結契となれば、それは、家を挙げて盛大に執り行われただろう。

立ち合いは十頭領全員揃ったはずだ。


「そんな場所で、なにかごまかすとか、絶対に無理だ。」


「ごまかすとは、また、ぞんざいな口のききようをなさって…」


婆は享悟の言葉遣いに諦めたようなため息をついてから続けた。


「照太は目が見えませなんだ。

 もしも、結契に問題があったとすれば、そのせいではないかと。」


「照太兄が?目が見えなかったの?」


そんなことは享悟も知らなかった。

照太とは享悟も幼いころに何度も会っている。

爺婆に頼まれて届け物などもしていた。

岬の養子になった一人息子に、爺婆は遠慮して直接会おうとはしなかった。

けれど、親としては気がかりだったのだろう。

頭領家の子どもだった享悟は、岬への出入りも気安かった。

その享悟にあれこれと持たせては、照太に届けさせていたのだった。


「照太は護法の能力を得て、目の見えている者のように暮らせるようにはなりましたが。

 目は治ってはおらなかった。

 儀式の見合いは、そのふりをしただけでしょう。」


婆はもう一度、今度は違うため息を吐いた。


「おそらくは岬もそれを承知していたのでしょう。

 岬の末姫は、からだが弱いことを理由に照太には付き従いませんでした。

 しかし、どんな事情があろうとも、護法について行かぬ守護など、あり得ませぬ。」


「じゃあ、照太兄の守護はいなかったの?」


婆は無言で頷いた。

享悟はそれを聞いて青ざめた。

守護なしで照太はお役目を果たしていた。

まるで即席の護法たちのように。

それは、かなり命懸けのことだ。

守護を持たない護法は、とても狂いやすい。

護法の能力は本来の人間の能力から理性の枷を取り払ったものだ。

理性を失った本能は、簡単に暴走する。

怒り、恐怖、苦痛、そういったものを抑えきれなくなって、護法は簡単に狂うのだ。


「守護はなくとも、そう簡単には狂わぬ護法もいる。

 外で水を飲まされた護法でも、何年もお役目を果たし続ける者も稀におります。」


「けど、それって、奇跡のようなことだろう?

 なにか…狂わないための秘策でもあるならともかく。」


「秘策、と言えるかどうか…」


「あるの?」


からだが動かない享悟は身を乗り出すことはできなかったけれど、気持ちは乗り出していた。

婆はもったいぶるように少し待たせてから言った。


「坊ちゃんも、そうするおつもりだったではありませんか?」


「僕も?」


いきなりそう言われて享悟は驚いた。

いや、秘策など、心当たりはない。


「儀式や作法というものは、それを行うことで、人の気持ちを整えるもの。

 けれど、何より大切なのは、儀式や作法そのものではなく、人の気持ちそのもの。」


それは幼い頃から何度も婆に言い聞かせられてきたことだった。


「狂わないぞと、自分に言い聞かせる、とか?」


享悟の答えに、婆はかすかに笑って首を振った。


「どれほど言い聞かせたところで、狂うときには狂う。

 護法とはそういう悲しい生き物です。」


「それなら、秘策なんかないじゃないか。」


「しかし、坊ちゃんも、守護をお取りになるおつもりはなかったのでしょう?」


いきなり何を尋ねるんだ、と思いつつ、享悟は頷いた。


「この年になってから護法になる者に守護なんて就けられないって分かってたし。

 なにより、護法は守護を優先して護らないといけない。

 リンの他の誰かを、リンより優先するなんてこと、僕にはあり得ない。

 僕はリンを護るために、護法になったんだから。

 他の誰かを無理やり守護に就けられるくらいなら、守護なんかいらない。」


「それじゃよ。」


「どれ?」


婆に指さされて、享悟は顔を顰めた。

人を指さすのは無作法だとさんざん言うくせに、ときどき婆もこういうことをする。


「坊ちゃんはリンを護るために護法になったのでしょう?

 リンを護るためには、狂ってなどいられない。

 狂いかけても、坊ちゃんは必ず、自分で正気に返るでしょう。

 そうしなければ、リンを護れませんからね。」


「そ、っか。」


婆の言うことは享悟にもなんとなく分かった。

いや、分かってみれば、簡単なことだ。


「譲れない目的…みたいな?」


「自分の望みよりも大切な何か、ですかな。」


婆の言葉に享悟は頷いた。

もちろん、享悟にとってリンは、自分の望みなんかより百万倍大切だ。

リンを護るためなら、どんな敵でも倒してみせる。

それが自分の暴走する本能だったとしても。


「確かに。

 僕は守護なしでも、狂うことなんて心配していなかった。」


「それこそは、守護を取らずとも護法になれる者の条件なのですよ。」


なるほど。享悟は納得した。

照太もそうやって守護なしでお役目を果たしていたのか。


「けど、守護のいない照太兄が、どうやって子を成したんだろう?」


護法は守護との間にしか子どもを成せない。

そして、照太には守護はいない。

なら、照太の子どもはどうやって生まれてきたんだ?

享悟は首を傾げた。


その享悟に婆はちらりと苦笑してから答えを明かした。


「真の守護と出会ってしまったのでしょう。

 島の外で。」


「真の守護?

 守護に真も偽もあるの?

 だいたい、結契も交わさずに、守護になるなんてあり得るの?」


「ええ。間違いなく、儀式も見合いもなく、その娘は照太の真の守護になった。

 照太の魂にその存在が刻みつけられたということです。

 どうしてそれができたのかは分かりませぬが。

 なにより、リンが生まれてきたことは、それが成った証。

 およそ奇跡にも近いことだと思います。」


「奇跡、か…」


それを言うなら、享悟がリンに出会ったことも奇跡に近い。

あのときあの場所で出会っていなければ、享悟は生きてここにはいなかった。


「リンのあの母御は、照太兄の真の守護だったってわけか。

 その出会いはまさしく奇跡。

 リンがその子どもとして生まれてきたのも奇跡。

 そのリンに僕が命を救われたのも奇跡。

 本当に、奇跡尽くしだ。」


享悟はしみじみと呟いた。


「リンが坊ちゃんと出会えたことも、奇跡なのだと思います。

 坊ちゃんと出会ってなければ、リンも護法たちに殺されていたかもしれません。

 リンを護ってくださって、有難うございます。」


婆は深々と頭を下げた。


「礼を言われるようなことではないよ。

 先に僕のことを救ってくれたのは、リンだ。

 だから、リンを護るのは、僕にとって必然なんだ。

 あのときから、僕の命も魂も、リンのために使うって決めたんだから。」


生きる価値のない、存在する意味のない享悟に、リンは、生きる価値と存在する意味をくれた。

リンこそは、享悟の生きる意味と存在する理由だ。


「そっか。」


そのとき、享悟は気づいた。


「真の守護って、僕にとってのリンみたいなものなんじゃないかな。

 僕は自分の守護にしようと思ってリンを島へ連れてきたわけじゃなかったけど。

 でも、今、護法になって、リンの他に自分の守護はいないって思う。」


「あるいは、そういうこともあるのかもしれませぬ。」


婆も頷いてくれた。


「照太もそのような方と出会ってしまったのでしょう。

 そうやってリンは生まれてきた。

 そのリンは、また坊ちゃんの守護になる…

 巡る因果のように思います。」


「巡る因果か…」


こういうのを縁と言うのかもしれない。


享悟の生まれたとき、照太は既に岬の養子になっていた。

だから、同時に爺婆に育てられていたわけではない。

それでも、照太は爺婆の息子で、享悟にとっては兄のような存在だ。

リンは、その兄の子どもなのか、と思うと、しみじみと感慨深かった。


「世界って、狭いね。」


「まったく。」


しかし、リンは、島を滅ぼすと言われている忌み子だ。

リンが忌み子だということに気づけば、岬は必ず、命を狙ってくるだろう。

どうにかして、この事実は隠し通すしかない。

享悟は身震いをした。


「坊ちゃんにこのクナイを見せられたとき、わたしたちはとても嬉しかった。

 坊ちゃん、わたしたちをリンに会わせてくれて、どうも有難うございます。」


婆は深々と頭を下げた。


「けど、まだ、リンをちゃんと護れると分かったわけじゃない。

 どうやって護っていくか、よく考えないと。」


享悟は決意を新にするようにひとつ頷いた。

その享悟をなだめるように、婆は言った。


「当面は、岬もリンに手出しはしてこないでしょう。

 リンは坊ちゃんの守護になる娘。

 貴島の護法様の守護姫に手出しをする者はこの島にはおりません。」


「けど、それもずっとじゃないよね…」


護法の寿命はそれほど長くはない。

守護が十五になればお役目に就くけれど、そこからもって五年。

下手をすれば、もっと早くに命を落とすこともある。

リンと享悟がお役目に就くのは十年後でそこからせいぜい五年。

つまり、安全が確保できているのは、この先十五年だけだ。


「リンの生涯、僕が護ってあげられればいいのに。」


できることならたとえ死霊になったとしても、リンの傍にいて護ってやりたい。

享悟は強くそう思う。

いや、しかし、幽霊にずっと傍に憑いていられるのは、流石にリンに迷惑かな?

悪霊に付きまとわれていては、リンも幸せにはなれないかもしれない。

それは享悟も困る。


「なるべく早く、リンは島から出したほうがいいかな…」


リンの命は岬に狙われている。

島に置いておけば、リンは岬の手の届くところにいることにもなる。

それは、あまりに危険に思えた。


「リンはまだ、五歳の童。

 いくら賢い子だとは言え、ひとりきりで生きていける年ではありませぬ。

 たとえ、信頼の置ける家に預けたとしても、そこが護法に襲われればひとたまりもありません。」


確かに、リンの母親はあのような奇禍に遭っている。

岬は容赦のない家だ。

下手をすれば預けた一家ごと全員惨殺、などということにもなりかねない。


「灯台元暗し、とも申しますでしょう?

 少なくとも、リンの命を獲ろうとやってきた者らは、リンの顔は知りませんでした。

 ならば、すぐさま正体がばれる、ということもありますまい。

 島に子どもが連れてこられることは、そう珍しいことでもありませんしの。

 それに、島にいれば、わたしたちや坊ちゃんも、近くにいてやれます。

 幼い子どもにとって、安心して頼れる者がいることは、とても重要なことかと。」


自分がリンの傍にいたいから、必死にリンを島へ置こうとしているんじゃないか。

そんな疑念を享悟は持っていた。

けれど、婆の言葉に、少しほっとした顔になった。


「そぅ…だよね?

 リンだってまだあんなに幼いんだし。

 それに、リンが照太兄の子どもなら、爺婆にとっては本当の孫だ。

 爺婆に世話してもらえるなら安心だよね?」


「照太が護法になったとき、わたしたちは、もはや孫の顔など見ることはないと思っておりました。

 なのに、照太はリンを遺してくれた。

 照太の子どもを、この手で世話してやりたい。

 照太にしてやれなかった分も、リンを可愛がってやりたい。

 手前勝手な理由で我儘なことを申しておるのは分かっていても、そう願わずにはおれませぬ。」


婆はどこかしんみりと、淋しそうな目をしてため息を吐いた。


「なんにせよ、僕らはもう、リンをここに連れてきてしまったし、僕の守護にもしてしまった。

 今さら、それを変えることはできないんだ。

 だとしたら、これから先、リンにとって一番いい道を選んでいこうと思う。」


「もちろんです。

 我ら夫婦も、坊ちゃんにどこまでも付き従う所存ですとも。」


享悟にとって、数少ない、駆け引きなしに信頼できる相手。

そんな爺婆の協力を得られることは、何より心強かった。



***



ようやく享悟が起き上がれるようになったときには、暖かな春の風が吹き始めていた。


動けるようになってすぐ、享悟はリンに会いに行った。

リンは享悟を誰だか分からなかった。

享悟の姿はそれほどに変わり果てていた。

享悟は、都のはずれの竹林で一緒に遊んだ、お兄ちゃん、だとリンには告げなかった。

リンの都での記憶は、もう曖昧になりかけていた。

そうなるように仕向けてほしいと、爺婆には頼んであった。

母親のことを忘れてしまうのは淋しいだろうけど。

あの恐ろしい出来事をいつまでも抱えさせておきたくはなかった。


また明日。

そう言ってゆびきりした約束は、かなえられなかった。

けれど、もうリンが忘れてしまっているなら、享悟はそれでいい。

また明日。

そう言って約束した事実を、享悟だけ覚えていれば、それでいい。


半年ぶりに会ったリンは、少しだけ背が伸びて、少しだけ前よりふっくらしていた。

けれど、それは間違いなく、リンその人だった。


一瞬だけ、享悟は、前のように、リンがこの胸に飛びついてくるところを想像した。

けれど、リンにとって享悟は、初めて見る、大きくて恐ろし気なもの、だった。

リンは最初、差し出した享悟の手を取ってはくれなかった。


そんなことは全然現実的ではないけれど、もういっそ、リンを帰してしまいたくなった。

あの都のあの時間のなかへ。

ずっとリンのいた平和な時間の流れのなかへ。

帰せるものなら、帰してしまいたかった。


享悟はリンを怖がらせたくはなかった。

だけど、近づかない、ということの他に、リンを怖がらせない方法が見つからなかった。


一瞬、道を見失いかけた。

後悔はしない。それだけはしたくない。

けれど、享悟のしたことは本当にこれでよかったんだろうか。

リンを護りたい。願うのはただそれひとつ。

だけど、そのために、享悟はリンを不幸にしてしまっているんじゃないだろうか。


なのに、リンは言った。怖くない、と。

成り行きだろうと、気紛れだろうと、関係ない。

それはもしかしたら、優しいリンの気遣いだったのかもしれないけど。

鬼の享悟は、そんなリンの優しさにつけこむことを躊躇わなかった。


すべての迷いの生じる前に。

享悟は誓いを急いだ。

どうか、この僕に君を護らせてほしいんだ。


真名を告げ、刀を授けるのは、命を預けることの証。

そして、それを受ければ、仕えることを誓ったことになる。


あのとき中途半端にしていた誓い。

享悟はリンに真名を告げた。

ふたりは真名を交わし、絆を結んだ。

リンにはその真意を知らせぬままに。


この要らない自分でも、リンのために役に立つ。

ただ只管、その事実が享悟には嬉しかった。

鬼になったことも、この先、幾多の命を奪うことになることも、少しも恐ろしくなかった。

少しでもリンの利益になるならば、どんなことも厭わない。

元々脆弱な倫理観など吹き飛んだ。

ちっぽけな自分のものでよければ、知性も肉体も良心も、すべて差し出そう。

享悟の命も魂も、すべてリンのものにしてしまいたかった。

けれど、あえてそれをリンに言葉にして告げることはするまいと思っていた。

もし告げて拒絶されたら、享悟には存在する理由がなくなってしまう。

要らないと言われないうちに、気づかれないように少しずつ。

それを心がけなければと思った。


享悟は穢れた鬼だ。

けれど、リンにはそれを知られたくない。

知られたら、リンに嫌われてしまうかもしれない。

それだけは嫌だった。

慎重に慎重を重ねて、享悟はリンに享悟の真実を隠した。

本心を悟られぬように。

棘だらけの本性は、醜い綿で何重にもくるみ込んだ。


不安に駆られるたびに、享悟は、リンに尋ねた。

僕のこと、怖い?

そのたびに、リンは必ず答えた。

怖くないよ。

リンがそう答えると享悟は確信していた。

確信していて、何度も尋ねた。

ただ、それを聞いて安心するために。


賢いリンは、享悟の魂胆なんてお見通しだったかもしれない。

それでも、リンは何度でも答えてくれた。

怖くないよ。

キョウさんが鬼なら、鬼は怖くない。

その一言に享悟がどれだけ救われるのか。

リンは考えもしないだろうけれど。


リンの言葉には計算は一切ない。

ただ単純に存在を肯定してもらえることが、こんなに幸せなのだと、享悟はリンに教えてもらった。


享悟は自分の裡側にある邪悪なものすべてを、鬼、の一言に集約していた。

その鬼を、リンは引き受けると言った。まるごと、全部。


享悟の時間には限りがある。

動けるうちに享悟はリンの安全を確保しなければならない。

そのために、享悟は鬼になったのだから。

それだけは忘れるまいと、心に誓った。



***



リンが忌み子だという事実は、かえってリンを護るかもしれない。


その方法を思い付いた享悟は、早速、行動を開始した。


貴島の本家に行くのは、いつもとても気が重かったが、このときは少しも苦にならなかった。

勝手知った生家だったから、誰にも見咎められずに、裏口からそっと奥方の部屋へと回った。


突然現れた享悟に奥方は驚いた顔をしたが、享悟が、しっ、と人差し指を唇に当ててみせると、出かけた悲鳴をぐっと呑み込んだ。


「惣領殿。ここはあなたのお家。

 帰ってこられるのならば、そのように忍び込んだりせずに、正面から堂々と入ってこられませ。」


それでも、憎々し気に享悟を睨みつけて、それだけは言った。

享悟は、ふふ、と余裕の笑みを浮かべて、奥方を見た。


「そのようなこと、僕に言ってもよいのですか?

 あなたの秘密を守るために、こうしてあげているのに。」


きり、と奥歯をかみ締めて、奥方はますます享悟を睨んだ。


「して。ご用はなんでございましょう。」


さっさと本題を話せとばかりに切り返す。

それに享悟はますます余裕の笑みを浮かべた。


「他ならない、僕の可愛い弟のことです。」


「可愛い?」


奥方は聞き返したが、享悟は弟のことは本当に可愛がっていたから、ふむ、と一瞬、納得した顔になった。

それから、話しを聞こう、というように、享悟のほうにむき直った。


その奥方に享悟はおもむろに語り始めた。


「頭領家のご初代は忌み子だった、という伝説はご存知ですか?」


「わたしとて、頭領家の娘。

 そのくらいは存知ております。」


訝し気に返す奥方に、享悟はまた、ふふ、と笑った。


「頭領家に生まれた者は、水を飲めば、ほぼ必ず護法になる。

 それは、ご先祖の忌み子の血を引くから、という伝説は?」


「…知っています。」


「だから、頭領家を継ぐ者は、必ず、頭領家の者と娶せられます。

 それは、ご初代から連綿と続く、忌み子の血を薄めないため。

 忌み子の子孫は、確実に護法になれるからです。

 家から必ず護法を出すがゆえに、頭領家は頭領家を名乗れるのです。」


享悟はまるで講釈か何かのように語った。


「……、それが、なにか?」


奥方は必死に平静を装うとしていたが、動揺しているのは明らかだった。

享悟の言いたいことにようやく気づいたようだった。


「文悟はあなたの血を引く息子。

 あなたは間違いなく頭領家の血筋。

 ならば、文悟も、五割の確率で水を飲めば護法になる。」


享悟はなにか楽しいことでも話すように嗤った。


「しかし、残りの五割は…」


途中で言葉尻を濁した享悟に、奥方はまた悔しそうに奥歯をぎりと噛みしめた。

まるで刃のように鋭い奥方の視線にも構わず、享悟は楽しそうに続けた。


「幸い、文悟は水を飲まずに済みました。

 そうして、貴島の家を継ぐことも決まりました。

 いずれ、文悟には、どこかの頭領家から娘が嫁いでくることでしょう。

 そのふたりの間には、また子どもも生まれることでしょう。

 その子どもがひとりしかいなければ、問題はない。

 家を継ぐ子どもは、水を免除されますからね。

 いや、問題はあるけれど、先送りにできる。

 孫の代になってしまえば、もはや、あなたの知ったことではないかもしれない。

 しかし、文悟の子どもがふたり以上いたときには…恐ろしい賭けがまた繰り返されることになる。」


憎々し気に睨みつける奥方に、享悟は余裕の笑みを返した。


「文悟には頭領家以外の血が入っている。

 もしも子どもにその血が受け継がれてしまったら…

 その子どもは、水を飲んでも、護法にはなれないわけです。

 その確率は、二割と五部。まあ、そう悪い賭けではないかもしれないけれど。」


くっくっく。享悟はわざと耳障りな嗤い声を立ててみせた。


「文悟には、お子は必ずひとりと、言い聞かせ…」


悔しそうに言い返そうとした奥方の言葉を、享悟はまた遮った。


「それは、無理だと思いますよ?

 父が、あなたを後添えにしたのは、どうしてだか分かりますか?

 あんなに母に執着していたのに。

 それは、子どもが僕しかいなかったからです。

 頭領家は、決して、家を絶やしてはならない。

 だから、子どもは複数、否、多ければ多いほどいい。

 島のうるさ方に、さんざんそう言われて説得されたからです。

 あなたを愛したからじゃない。

 だからこそ、あなたも父を裏切ったのでしょう?」


奥方は憎々し気に享悟を見た。


「否。

 先に裏切ったのは、あなたじゃない。父のほうだ。

 父は、どこの馬の骨か分からない娘を連れてきて、許婚者のあなたを廃した。

 そんな男を、今さら押し付けられたとしても、嬉しいわけありませんよね?」


享悟は嗤いながら続けた。


「しかし、同じことは、文悟にも起こるわけです。

 子どもがひとりしか生まれなければ、あと一人。もう、一人。

 側室を置いてでも、殖やそうとする。

 なになに、余ったら、鬼にしてしまえばいい。

 頭領家の血筋は、必ず護法になるんだから。

 側室を差し出す方だって、利益はある。

 頭領家に嫁入りが決まれば、水は免除されますからね。

 大事な娘を護法にするくらいなら、貴島の側室のほうがまだましだ、と。

 そう思う親は多いでしょう。」


あはははは、と享悟は耳障りな声を立てて嗤った。


その嗤い声をぴたりと止めると、冷たい目をして奥方を見据えた。


「助けて、あげましょうか?」


「そのような戯言、信用するとお思いか?」


精一杯言い返す奥方に、享悟は、ふふ、と小さく嗤った。


「僕の話しを聞けば、信用できると思いますよ。

 なにせこれは、僕にとっても、利のあることですから。」


一度もったいぶってから、享悟はいきなり核心から入った。


「簡単なことです。文悟に忌み子の嫁をあてがえばいい。

 忌み子の子どもは忌み子になる。

 水を飲んでも熱は出さない。

 それならば、文悟も疑いをかけられるようなことはない。

 あなたの憂いも永遠に霧消するわけです。」


「忌み子の嫁?

 しかし、そのような娘はどこに…」


「僕の守護。

 あの娘は、忌み子なんです。」


「い、忌み、子…?」


奥方は青ざめて少しからだを引いた。

そのくらい忌み子は島では恐れられる存在だった。


「しかし、忌み子を庇いだてすれば、岬に…」


享悟はにやりと嗤って、奥方に近づき、声をひそめるように言った。


「岬はあの娘を忌み子だとは気づいていません。

 それに、忌み子の血を引けば、文悟の子は必ず護法の水に馴染む。

 余計な疑いをかけられる心配もなくなります。」


「…しかし…」


「あの娘の出自は頭領家ではありませんが、この僕の守護を下りた娘。

 文悟の嫁としても、見劣りはしないでしょう。

 それになにより、あの娘の生む子どもは、あなた方を救うはず。」


う。

奥方は言葉に詰まった。

それは、迷っている証でもあった。


「僕も、文悟を可愛い弟だと思うからこそ、こんな話しをしに来たのですよ?」


享悟は奥方の目を見つめた。

可愛い弟、のところで、奥方の目が変わった。


享悟が水を飲んだおかげで、文悟は水を飲まずに済んだ。

それも間違いのない事実だ。


「それで、わたしに何をしろ、と…」


奥方は同士のように声をひそめた。

享悟は満足げな笑みを漏らした。


「簡単なことです。

 リンを、護ってやってください。

 岬に気づかれぬように。

 あの娘が忌み子として始末されてしまったら。

 文悟を救うこともできなくなります。

 あの娘はあなた方にとっても、役に立つ。」


「…承知した…」


奥方は短く答えた。

その返答と同時に享悟はそこから姿を消していた。


使えるものはなんでも使う。

好悪も、善悪も、関係ない。

それが、リンにとって役に立つのであれば。


享悟にとって大切なのは、リンの安全を護ること。

それ以外は、どうでもよかった。


継母すらをも味方につけて、享悟はリンを自らの守護に就けることを固めていった。

それでもなお、強硬に反対を唱える者は、弱みを握り、周囲を固めて、ひとつずつ潰した。

弱点を突き、罠に嵌めるようなこともした。

命こそ奪わなかったものの、かなりの恨みを買ったのは間違いない。

それでも、躊躇も、罪悪感も、恐怖も感じなかった。


幼い頃からの享悟の悪評も、役に立った。

貴島の惣領とはいえ、島中から憎まれ、蔑まれていた享悟だ。

あんなやつがどうなろうと知ったことじゃない、勝手にしろ、と。

最後は皆に突き放された。


強い我を押し通すのは親譲りだと、聞かれる陰口が、享悟には耳に心地よい賛美の言葉に聞こえた。

生みの両親の行いを、有難いと思うときがくるとは、よもやまさか、思わなかった。


それでも、結契のあの瞬間まで、享悟は完全には安心していなかった。

もしかしたら、誰かが、頭領家の護法に余所者の娘は相応しくないと、余計なことをするかもしれない。

けれども、享悟は、リン以外の守護を受け容れるつもりはなかった。


あの夜。

誰にも祝われない、二人きりの結契の儀式の場で。

享悟は入り口に背をむけ、手にはヤスを握りしめて、自らの守護を待った。


どうかどうか。

リンが僕の守護でありますように、と。

心の底で強く祈りながら。











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