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花咲鬼  作者: 村野夜市
12/42

幕間 ~鬼子

お前なんか要らない。

最初に享悟にそう言ったのは生みの母だった。

それ以降、様々な人々に、何度も何度も、同じことを言われた。

繰り返しそう言われて、その度に、自分は要らないものなのだと、再認識させられた。

いつしか享悟は、その言葉に傷つかなくなっていった。

その代わりに、自分は要らないものだということが、自分のなかに確固たる真理として確立した。


存在の初めから、この世界に拒絶されていた。

だから、享悟もこの世界を拒絶した。

自分ひとりに拒絶されたところで世界は何も困らない。

それもよく知っていた。

ここに生まれて存在してしまったから、ただ、無為にその存在を続けるだけだった。


雨露を凌ぐ屋根と、飢えないだけの食べ物。

それが無条件に与えられていただけでも、きっと幸せだったに違いない。

それすらも与えられない者のいることを、そのころの享悟はまだ知らなかった。

彼らのことを思えば、ずっとずっと幸せな生い立ちだ。

父母の愛は得られなくとも。

友の信頼は得られなくとも。

世話をしてくれる大人の手はあったし、表面上は若君と呼び、付き従う者らもあった。


存在そのものを脅かされるほどの脅威は、周囲にはなかった。

だから、ただ淡々と、ここにいる、ということを続けられた。

それがどれだけ幸運なことだったのかを、知ろうともせずに。


心を開くということを知らなかった。

信じることは弱みを見せるのと同じことだった。

そんなことは怖くて絶対にできなかった。


要らないものでも生きていくし、要らないものでもものを思う。

ただ、存在しているだけでも、最低限の居場所は必要だ。

この世界は居場所の奪い合いだ。

ただいるだけの者にも、そこから排除しようとする圧力はかかる。

ほんのわずかな居場所を作るために、享悟も戦わなければならなかった。


しかし、勝利は存外、あっさりと手の中に堕ちてきた。

その戦いはあまりにも容易かった。

実力のある者には無条件に従う。敵はそんな単純な者ばかりだった。

敵だと思った者たちを、いっそ哀れにも思った。

自分の根幹は、狡猾で残忍な性質だ。

騙すことにも精神を操ることにも、まったく罪悪感など感じなかった。

嘘と欺瞞こそ、いつも傍にいてくれた友だちだった。


生まれ乍らの鬼。

その自覚はあった。

そしてそんな自分を、誰に疎まれるより、享悟自身が疎んでいた。


そんな享悟を、必要だと、リンは言ってくれた。

無条件に享悟を受け容れてくれた。

それがたとえ、誰に対しても分け隔てなく与えられるものだとしても。

注がれた優しさと思いやりは、鬼の性質を根元から揺さぶった。

それは脅威ですらあった。

リンという存在は、享悟の何をしても埋まらなかった穴を、簡単に埋めてしまった。



***



享悟を鬼子と呼び、存在の最初から否定した母は、享悟のことを恐れていた。

近寄らないで、と叫んだあれは、母の恐怖の悲鳴だった。

母は、生み落としたばかりの我が子のことを、心底、怖がっていた。

ようやくそのことに気づいたのは、母が享悟を生んだ年齢を越えてからだった。

あのころの母はまだ幼かったのだと。


享悟には生まれた時から歯が生えていた。

牙のように鋭く尖った歯だった。

享悟を取り上げた産婆は、その魔歯を見てたいそう喜んだ。

これこそは、十頭領家の跡取りに相応しい、立派な鬼の子だ、と。

けれど、それを聞いた母は、そのまま気を失った。

自分は鬼の子を生み落としたのか、と。


母は都で父に見初められ、島に連れてこられた。

島にはときどき、こうして子どもや女が連れてこられることがあった。

世は乱れに乱れていた。

戦や流行り病などで、親を失くした身よりのない子どもはいくらでもいた。

決して、無理やり攫われてくるわけじゃない。

けれど、島に来てから、騙された、と思う者は少なくなかった。


連れてこられた子どもは、十才になると護法になる水を飲まされた。

島の民として認められるかどうかの試練だ、と言われれば、飲まない子はいなかった。

自分の生きていく場所は自分で作るしかない。

幼かろうと余所者だろうと、それが島の不文律だ。

護法になる確率は半々くらいだったけれど、一度なってしまえば、もう引き返せない。

護法になれば、島で生まれたばかりの赤子の中から守護をつけられた。

我が子が生まれるのに合わせて、他所から、ちょうどいい子どもを連れてくる親もいた。

その子どもを養子にすれば、きょうだいは優先して守護に就けるからだった。


護法になれば、他所から来た子どもであっても島中から盛大に祝われた。

十になったばかりの子どもには破格の待遇。有頂天になってもおかしくない。

翌日からは野良仕事からも漁からも解放された。

すべての仕事は免除され、遊んで暮らしていられる。

けれど、それは選ばれた赤子が一人前の守護に育つまで。

期限つきの極楽だった。

護法としてお役目に出たら最後、自らが壊れるまで、島のために働く。

その命も、そう長くはもたなかった。


水に馴染まなければ、島の旧い家の下働きをさせられた。

そこに自由はない。朝から晩まで追い回され、働き続ける。

食事も休息も最低限のものしか与えてもらえない。

水に馴染んだ者をうらやむこともあった。

島全体から祝福を受け、遊んで暮らす者たちを。

けれど、やがて、水に馴染まなかったことを、幸運だと思う日がくる。

一人前になり、所帯を持ち、島の民へとなっていくころには。


護法にするためではなく、誰かの嫁にされるために連れてこられる女もあった。

護法の水には男児のほうが馴染みやすかったから、連れてこられるのは男児が多かった。

そしてその半分は、水に馴染まずに島の者となった。

自然、島には男のほうが多くなってしまう。

彼らは嫁取の年頃になると、島の外に出て、妻となる女を連れてきた。

誰かの妻は、護法の水を飲むことは免除されていた。


父は、他所から来た者ではなかった。

それどころか、島で一番旧い家、十頭領の一の家の後継者だった。

島の名と同じ貴島を名乗るのは、始祖が島の最初の統領だったからだという。

小さな島の小さな共同体のなかでしか通用しないとしても、貴島家は島一番の名家だった。

そして、父は、文武両道に長け、いずれは島のすべてを統べる統領になると目されていた。


先々代の統領は祖父だった。

父は祖父の晩年に生まれた子で、祖父が亡くなったときは、まだ幼かった。

そこで、父が一人前になるまでの間、島の長老が臨時の統領に就いた。

父はその先代について、統領になるための様々なことについて仕込まれた。


一年に一度都へ行き、島に必要な物資を買い付けることも、統領の大切なお役目だった。

もちろん、実際の買い物はそれに従事している家が果たしているのだけれど。

統領はそれに同行し、あれこれと指示や決定をくだすのだ。


父が母を見初めたのも、そんなふうに都へ行ったときだった。


父の見た目は、それほど恐ろし気ではなかった。

都人よりは背も高く、力も強かっただろうけれど。

武人であれば、あの程度の者は、都にもいないこともないだろう。

幼い頃からさまざまな武術を修め、均整の取れたからだつきに眼光は鋭い。

それでいて、頭領家の長男として、厳しく躾けられ、物腰も穏やかに礼儀正しい。

美丈夫、と言っても差支えのない容姿をしていた。


母は都に立派な家屋敷があって、姫と呼ばれ、傅かれていた人だった。

触れれば落ちてしまう花のように、儚く美しい人だったという。

年頃になり、都の公達からは、求婚が引きも切らなかったそうだ。

けれど、どこか引っ込み思案で、押し寄せる恋文に返事をすることもなかった。

このまま生涯家にいて、尼のように暮らしたい、と言っていたそうだ。


先に恋に落ちたのは父だった。

見初めたのはどこぞの寺参りだか神詣でだか…

そんなときでもなければ、母は屋敷の外には出ない人だった。

あの御簾の内に都で噂の美姫がいらっしゃるらしい。

たまたま、そんなことを耳にして、父は好奇心で見に行ったそうだ。


父は一目で母に恋をした。

お役目そっちのけで足繫く母の家に通い、熱心に母を口説き続けた。

父の熱意に、母も少しずつ絆され、気が付くと恋に落ちていた。


母の家は、叶うことならば娘に婿を取り、生涯、家に置きたいと望んでいたようだ。

しかし、父は島の頭領家の後継であり、婿入りするわけにはいかなかった。

一度心を決めた母の決意は固かった。

周囲の反対を押し切り、父について島へ嫁ぐことを決めたのは母らしい。

父母の色恋沙汰など、享悟にとっては面映ゆいばかりだけれども。


母を島へ連れて行きたいと申し出た父に、母の両親は激怒した。

どこの馬の骨とも知れぬ化け物、と父を罵倒した。

どうしてもと言うのなら、親子の縁を切って勝手に行け、と言い渡された。


それでも、父も母も諦めきれなかった。

結局、母は実の両親から勘当され、生まれ育った都を捨てて、父に従うことを決めた。

母の両親は、娘は鬼に攫われた、と言ったそうだ。

父は姫君を攫う鬼のように、都で母を攫ってきたのだ。


しかし、島へ戻った父にも問題は残っていた。


頭領家を継ぐ者は、頭領家の血筋同志目合わされるのが島の不文律だった。

正統な後継の宣旨を受けたとき、父には頭領家の娘のなかから許婚者が選ばれていた。

頭領家の許婚者に選ばれれば、護法の水は免除される。

けれど、いずれ頭領家を支える者として、厳しい修行を課せられることになっていた。

許婚者としての修行も、守護の修行のように厳しいものだ。

礼儀作法、所作、学問に武芸、島独特の習俗や掟、人を導く心構え。

物心つくころから、朝から晩まで、奥方としての品位と格を叩き込まれる。

それは、守護の修行にも似た、厳しいものだった。

母を連れて帰ったとき、父の許婚者は、まだ少女といってもいい年齢だった。

けれどその年にして、いずれ貴島の奥方と呼ばれるに相応しい、強さと誇りを身に着けていた。

生まれたときから、貴島に嫁ぐための教育を受け、そのためだけに育てられてきた娘だった。


しかし、父は譲らなかった。

一の頭領家の名と力を駆使して、許婚者を廃し、母を自らの妻にした。

先祖代々の名声が地に堕ちようとも。人々に後ろ指を刺されようとも。

父は決して屈しなかった。

すべてを捨ててついてきた母に、それは父なりの誠意だったのかもしれない。

父の頑固さの前には、結局、島の人々もそれを受け容れるしかなかった。


ところが、島へ連れてこられた母は、島の暮らしにはなかなか馴染めなかった。

そもそも、初めて島の民を見たとき、その異様さにいきなり卒倒したのだそうだ。

貴島の民はみな、背も高く、筋骨隆々とした体格のいい者ばかりだ。

外から連れてこられた子どもたちも、この島で暮らすうちに、みなそうなっていく。

貴島とは、鬼島の転。

貴島の民は、島の外では鬼と呼ばれる人々だった。


都の力士よりも大きなからだ。ぎょろりとした目。

肌は潮に焼けて浅黒く、からだは大きく頑丈だ。

男も女も濁った強い酒をぐいぐいと呑み、大口を開けて笑い、しぐさのすべてが荒っぽい。

みな、都生まれの美しい母を、無遠慮にじろじろと見た。


食べ物も都のように洗練されてはいない。

姿もそのままの、まだぴくぴくと跳ねる魚。

こてこてと山盛りにされる白米。

茶碗になみなみと注がれる強い酒。


島の民にとって、それは心づくしのもてなしだった。

か細くひ弱な母に、せめて栄養をつけさせてやろうと、あれこれ心を砕いていたのだ。

しかし、母にとっては、その全てが脅威だった。

まだ生きている魚に箸をつけるなんて、到底できなかった。

山盛りの白米も、三口食べるので精一杯だった。

極めつけには、椀に注がれた酒を、飲み干せとうるさく言われたことだった。

しつこく責められ、なんとか少しだけ舐めてみたら、そのまま倒れて三日寝込んだ。


その辺りは、多少、父の許婚者だった娘の意趣返しもあったのだろう。

生まれたときから、いずれ頭領の妻になると言い聞かせられ、そのためだけに努力を続けてきた。

望みは封印し、我儘は抑え込み、ただひたすらに万人から愛される自分を作るためだけに。

けれど、その未来は、いともあっさりと覆された。

色恋など、どれほどのものだというのか。

積み重ねた年月より、それだけを言い聞かせられた人生より、恋情のほうが重いなど納得できない。

初恋すら封印した少女にとって、それは到底理解し難い宣告だった。

島中の尊敬を一身に集めて成長の途中にあった娘の心は、そのとき、ぽきり、と折れてしまった。

多少の意地悪、が、やがて度を越し、奥方を追い詰めていくとは、夢にも思わずに。

いや、気づいていた者もいたはずだ。

気づいていながら、知らぬ顔をした者も。


父は、鬼にしては優男だった。

けれど、武勇にも長け、決してなよなよとした頼りない男ではなかった。

ご初代様から連綿と続く、由緒正しい血筋。

貴島家は伝説になるような護法を何人も排出した貴い家柄だった。

島の皆からの信望も篤く、次期統領との呼び声も高い。

妾でもよいから寵を得たいという者も多かった。

そんななかで、並み居る志願者を押し退けて、許婚者の座に居座り続けた。

そのために必要な努力をし続けてきた。


父はいずれ島の統領となる人だった。

護法の稼いだ金子で、統領は島の暮らしに必要なものを手に入れてくる。

物資は島の人々に平等に分け与えられる。

その手配をするのは、統領の大切なお役目だ。

ゆえに、統領は皆から信頼され、人望のある人物でなければならない。

間違っても、私利私欲に走るような人物ではいけなかった。

もちろん、その統領の妻となる人も、奥方に相応しい人格者でなければならなかった。


そのすべてを、父は、あっさりと覆したのだ。


都から連れて帰った奥方は、島の民にとっては、なんの値打ちも感じられない娘だった。

鬼の島では、美しいことはそれほど重要なことと思われない。

優しい、も、嫋やか、も、頼りなく、あてにならない、と受け取られた。

強く、逞しく、多少のことでは動じない大らかさが、何よりよい嫁の条件だった。

母は島の民にとって、統領の正妻には到底認められないような類の女だった。


母にとっても、島の暮らしは到底無理なことだった。

来る日も来る日も、都に帰りたい、と泣き暮らす妻を、それでも父は手放してやらなかった。

なだめすかして月日を重ね、やがて母は身籠った。

子が生まれれば、少しは落ち着くだろう。

母の世話をしていた人々は、みなそう期待した。

しかし、それは見事に裏切られた。


生まれたばかりの赤子の口に、鋭く尖った歯を見つけて、母は、鬼子、と叫んで投げつけた。

柔らかい布団の上に落ちたから幸い怪我はなかった。

しかし、これには流石の父も、とうとう堪忍袋の緒が切れた。

赤ん坊は母親から引き離されて、世話係の手で育てられることになった。


最早それほどまでに破綻を来していたのなら、母を都に帰してやればよかったのだ。

しかし、父は母を帰さなかった。

離縁も許さなかった。

執念だと批判されても。

それでも、母を手放さなかった。

しかし、側室を娶ることを勧められても、頑として受け容れなかった。

父は父なりに、母のことを愛していたのかもしれない。


その父に、絶縁をつきつけたのは母だった。

都育ちでまったく泳げなかった母は、ずっと海を怖がって近づこうとはしなかった。

なのに、着物を着たままで、その海へと身を投げた。


一度目は失敗した。

母はすぐに引き上げられ、蘇生させられた。

二度と同じことを繰り返さぬように、わざわざ母のために建てた牢屋敷に閉じ込められた。

しかし母は監視の目を盗んでは、二度、三度と同じことを繰り返した。

そして、とうとう、その本懐を遂げた。


海から引き上げられたときには、もう息はなかった。

白い顔はどこか微笑んでいるようだった。

享悟はそのとき初めて、母を、美しいと思った。


もしかしたら、母は、死にたかったのではなかったのかもしれない。

ただ、この波の向こうにある、都に帰ろうとしていただけだったのかもしれない。

いや、もっと単純に、父の手から逃げようとしていただけなのかもしれない。

あのときの晴れ晴れとした母の顔は、ようやく自由になれた喜びの表情だったのだろうか。


記憶にある母の顔は、いつも眉を吊り上げて怒っていた。

怒っていない顔の記憶は、そのときの、たった一度きりだった。



***



少しして、父は、元の許婚者であった娘を後添えにした。

ふたりの間には、すぐに男児が生まれた。

妻子のいる温かな家庭は、父にとって居心地がよかったのだろうか。

貴島の本家はその三人の家になった。


享悟は、母の住んでいた牢屋敷に、世話係と共に移り住んだ。

継母にとって享悟は、許婚者を横から奪った憎い女の息子だった。

可能ならば、いっそ命すら奪ってしまいたかったに違いない。

そうしなかったのは、ひとえに、それは貴島の奥方として相応しくない行動だったからだ。

父は、享悟のおもざしが母に似ているからと言って、まともに顔を見ようともしなかった。

自分を捨てた妻の記憶には、もう蓋をしてしまいたかったのだろう。

そのためには、享悟の存在は邪魔でしかなかった。


しかし、本家から離れた暮らしは、穏やかで長閑な時間だった。

あの時間がなければ、享悟ももっとどうしようもなくねじくれた者になっていたに違いない。


本家の屋敷には、荒々しい護法たちがしょっちゅう出入りしていた。

彼らは表面上は、享悟を若様と呼び、尊重するふりをしていた。

けれど、陰では享悟を蔑み、冷笑し、憎んでいた。

島の人々はみな、父の許婚者だった娘のことを憐れんで同情していた。

そして、享悟を生んだ母の評判は、頗る、悪かった。

享悟は父を篭絡した悪女の生み落とした憎まれ子だった。

父の目を盗んで、彼らは享悟に罠を仕掛けた。

その罠に享悟がかかると、子どものように手を叩いて喜んだ。

命に係わるような大怪我はしなかったが、小さな怪我はしょっちゅうだった。


護法たちの交わす話も享悟は嫌いだった。

戦場で彼らはどんなふうに戦い、敵を滅したか、楽しそうに話していた。

残酷な殺戮も、彼らには自慢話だった。

耳を塞いでも、彼らの轟くような大音声は防ぎきれなかった。

何度も何度も、享悟は隠れて吐いた。

そんなところを見つかると軟弱者と謗られる。

頭領家の長男にとって、弱いことは罪だった。


彼らに仕事を割り振る父の姿を見るのも嫌だった。

戦を陰で操る鬼だと思っていた。

だから本家から離れられたことは、享悟にとってはむしろ有難かった。


牢屋敷と呼ばれていたが、屋敷がまるごと牢屋だったわけではない。

牢らしきものは、小さな座敷牢がひとつあっただけだ。

その部屋以外は、貴島の別邸に相応しく、一通り揃った立派な屋敷だった。


母が閉じ込められていた座敷牢は、本当に小さな部屋だった。

三方を壁に囲まれ、小さな窓には嵌め殺しの格子が付けられていた。

しかし、畳を敷き詰め、調度に贅を凝らした立派な部屋だった。

窓からは四季折々の見事な庭も眺められた。


父はよく母をその部屋から連れ出しては、庭を散歩させていたそうだ。

ただ、父のいないときには、母はその部屋から出ることは許されなかった。

三度の食事はその部屋に運びこまれ、母はその小さな部屋で寝起きしていた。

父が母にしたことは、守護を閉じ込める護法にも似ていると思ったことがある。

たとえ護法にはならなくても、この島の者はみな鬼の血を引いているということか。


母がいなくなるとすぐに、父はその部屋を取り壊してしまった。

母を思い出すものは何一つ置いておきたくないというように、持ち物も全て処分した。

享悟が移り住んだとき、牢屋敷とは言っても、牢屋、のようなものは何もなかった。

ただ、そこは、貴島の別邸、ではなく、牢屋敷、と人々にはずっとそう呼ばれていた。


世話係の老夫婦と享悟の三人が暮らしていくには、そこは十分な家だった。

島の集落からは離れたところになったから、周囲に人の立ち入ることもない。

その静けさは、享悟にとってはなにより有難かった。


享悟は母の血を濃く引いてしまっていたらしい。

顔だけでなく、からだつきも、島の子どもたちに比べればひどく小さかったし、おまけに弱かった。

幼いころは病気ばかりしていたし、成長してからも、何かあればすぐに熱を出して寝込んだ。

力も弱くて、同年代の子どもたちの遊びには到底ついていけなかった。

母親には鬼子呼ばわりされていたのに、皮肉なこともあるものだ。


島の価値観は単純だ。

強きは善。弱きは悪。

享悟が貴島の惣領でなかったら、ただ皆から捨て置かれ、見むきもされないだけで済んだだろう。

けれど、名家の跡取りにそれは許されなかった。

貴島の惣領には、強さも賢さも、あって当然のものだった。


そうでなくても、生まれる前から、両親もろともに、皆からの風当りは強かった。

母は、早々とそこからひとり離脱した。

父には、なんのかんのと言っても、強さも人望も、それなりにあった。

ただ、享悟には、強さも人望も、なにもなかった。


子どもは単純で残酷な生き物だ。

弱い者は侮られ、虐げられる。

まして、享悟は、大人たちから、侮ってもよい、と暗黙の了解をされていたような存在だった。

享悟にとっては、弱いことは罪も同然だった。

生き残るために、享悟は強くなるしかなかった。

強さは生まれつき与えられたものではなかったから、とにかく、只管に鍛錬をした。

けれど、どれだけ鍛えても、恵まれなかった体格は、いつまで経っても小さくひょろひょろだった。

丈夫なからだ。強い力。望んでも望んでも、それは手に入らなかった。

そして、それらを持って生まれた島の子どもたちには、力では到底、かなわなかった。


それでも、生きることを諦めたくはなかった。

だから享悟は、別の方法を考えた。

享悟の本性は卑怯で狡い鬼だ。

弱さを補うために、手段は選ばなかった。

卑怯で姑息な手段に、根は単純な島の子どもらは、気づきもしなかった。

正攻法でなければ、ただの力など、いくらでもねじ伏せられた。


そんな自分自身の姿を、自分で鬼だと思った。

母は享悟の本質を見抜いていたのだと思った。

母に憎まれたように、自分自身を自らを厭い、憎んだ。

ただ生きている、それだけのことが、享悟にはとても難しくて苦しかった。


十歳になったころ、正式に父から貴島の後継の宣告がなされた。

てっきり家は弟が継ぐものだと思っていたから、これには驚いた。

生まれたのは確かに享悟のほうが先だったが、享悟の血の半分は余所者だ。

両親とも頭領家の血を引く弟のほうが、後継者として相応しいと享悟も思っていた。

父は享悟には直接会おうとはせずに、宣旨の文書だけ送りつけてきた。

しかし、それでも確かに、貴島の後継は享悟だと、正式に宣言したのだ。


あの継母がよくこれを承知したなと思った。

享悟が家を継げば、弟は護法になる水を飲まなければならない。

島の子どもたちは、ほとんどの場合、井戸水を飲んでも護法にはならない。

ただし、十頭領家の血筋だけは、これには当てはまらなかった。

十頭領家の血を引く者は、水を飲めば確実に護法になる。

もしかしたら、これこそが十頭領の家が島の名家でいられる理由かもしれない。

必ず身内から護法を出す。それが頭領の任を得た十の家だった。


確かに、弟のほうが優れた護法になる素質は持っていた。

五歳の年齢差があっても、当時の享悟は、弟より小さかった。

弟は、武勇に長けた父の血と、女傑と呼ばれた継母の血を引いたと、誰からも賞賛されていた。

鬼の子、という呼び名は、むしろ誇りになるような、立派な鬼の子だった。

当代の貴島の護法が享悟のようなひ弱な鬼では貴島の名折れと、父は思ったのかもしれない。

当時の享悟はそう思った。

しかし、継母は弟を護法にしたくはないだろう。

護法は自らの人生を引き換えにして、島の人々の生活の活計になるのだから。

どれほどの名誉と賞賛を浴びたとしても、我が子の人生と引き換えになどできるはずはない。

頭領家は様々だったが、長子が家を継がなければならないという決まりはなかった。

後継者は当代の頭領が一存で決めてよかった。

この宣旨はいずれ覆されることになるに違いない。

享悟は淡々とそんなことを思っていた。


父の真意を計りかねたまま、また歳月は過ぎた。

しかし、父は宣旨を覆すことはしなかった。



***



事が動いたのは、弟の十歳の誕生日の近づいたころだった。

突然、弟は、井戸水を飲むのは嫌だと言い出した。

井戸水の試練を受けるのは、島の民として一人前になるための通過儀礼でもある。

実際のところはどうでも、表面上は目出度い祝いの儀式だ。

それを、嫌だなどと、ましてや、貴島の血筋ともあろう者が、これほどみっともないこともなかった。


ほれ、あそこの父親は、嫁取りのときにもいろいろと…

過去をほじくり返して悪口を囁かれたのは父だった。

継母は、そんな父に振り回され、それでもじっと我慢をして、後妻という立場にも甘んじてやった。

まさに、嫁の鑑だった。

あそこの奥方もお気の毒に、と島人の同情は継母に集まっていた。


弟は、面白いくらい享悟とは正反対の性格をしていた。

一言で言えば、真面目で頑固な堅物だ。

姿かたちも父にはあまり似ずに継母にそっくりだった。

本人同士でさえ、自分たちがきょうだいだとはあまり思えないくらいに、似ていなかった。

享悟に後継の宣旨が下りた頃から、弟は立派な護法になるために日々の鍛錬を始めた。

そのころ弟はまだ物心のつくかつかないかの幼児だったのにだ。

それは、父の許婚者だった母親の姿にも重ねられ、皆からは賞賛の的になった。

弟は、どんないい噂を立てられても、それにいい気になるようなこともなかった。

武術の師範だった父について、黙々と、ありとあらゆる武道を修めた。

父は我子だからと言って容赦はしなかった。

その打ち込み様は、嫌々鍛錬していた享悟とは雲泥の差だった。

なるほど、あのくらいやらなければ強くはならないのかと、享悟は妙に納得したものだ。

あくまで逃げるために強くなろうとした享悟と、真の強者を目指した弟とでは、志の高さが違う。

弟にとっては、立派な貴島の護法となることは、幼いころから抱き続けた目標だった。

ある意味、貴島の正統な鬼らしい鬼だった。


享悟はこの弟のことは嫌いではなかった。

享悟の顔を見てもにこりともしないが、享悟を兄上と呼び、まともに口をきいてくれた。

曲がったことは大嫌いで、たとえどんな状況にあっても、絶対にやらなかった。

そんな弟を、窮屈そうだと思うときもあったけれど、心の底でずっと応援していた。


その弟が、あろうことか護法の水を拒絶するなんて、あり得ないと思った。

弟は、水を飲みたくないと言って、海に飛び込み溺れかけた。

そのとき初めて、享悟は弟が泳げないという事実を知った。


弟は、泳げないことをずっと隠していたけれど、自分では分かっていたようだった。

島の周囲の海は泳げない者が飛び込めばすぐにも命に関わるような荒い海だ。

泳げないのに海に飛び込む。それは命を捨てるのと同じことだった。

命懸けで弟は護法にはなりたくないと主張した。

護法という存在を憎んでいる享悟ならともかく、弟は護法になることに誇りを感じていたはずだった。

けれど、そうまでしてまで護法になりたくないのならば、享悟は弟の望みを叶えてやりたいと思った。


弟と五歳違いの享悟は、ちょうど、元服の年だった。

式の当日、やはり父も継母もそこには姿を現さなかった。

ただ、祝いの品として、生みの母の残した守り刀だけ送りつけられてきた。

享悟は元服の祝いに、母の墓に詣でる許しを願い出た。

許されなくとも勝手に行こうと思っていたが、父はあっさり許してくれた。


元服の式は、世話をしてくれていた爺婆が、ささやかながら温かく執り行ってくれた。

よく聞けば、父の元服式もこのふたりの手で行われたらしい。

このふたりは享悟の生まれる前から貴島の家に仕えていた。

享悟が物心ついたときにはもう爺婆だったし、記憶にある限りずっと前から爺婆だ。

本当の年齢は誰も知らない。


なかなか食えない爺婆ではあるけれど、享悟にとっては一応、育ての親も同然の人たちだ。

存在しない者。若しくは、軽んじてよい者。若しくは、いわれのない憎しみをぶつけてもよい者。

島中からそんなお墨付きを受けている享悟に、ただふたりだけ、普通の子どもとして接してくれた。

可愛がられた、とまでは思わなかったが、享悟が珍しく気を許せる人たちだった。


生みの母の墓は都の外れにあると聞いていた。

骨になってもずっと、父は母を手放さなかった。

いや、骨になってからのほうが、ずっと肌身離さず連れ歩いていた。

しかし、後妻を娶り、新しい家庭を得て、ようやく父は母をゆっくり休ませてやることにした。

せめて骨はずっと帰りたがっていた都に返してやろうと、母の生家に連れて行った。

しかし、そこはもう、母を引き取ってはくれなかった。

鬼に攫われた穢れた娘を、先祖代々の墓に入れるわけにはいかない。

そう、にべもなく断られた。


やむなく父は、都の外れに小さな墓を作って、そこに母を納めた。

都のほど近くの竹林に作ったのは、年に何度かのお役目のついでに参るつもりだったのか。

しかし、そこは小さな石塔がぽつりとひとつあるだけの、とても寂しい場所だった。


その墓のことは話しには聞いていたけれど、実際に行ったことはなかった。

島の子どもは元服するまでは島から出ることは許してもらえないからだ。

墓参りには、もちろん、父は同行しなかった。

代わりに世話係の爺婆が同行することになった。

統領が都へ用を足しに行くときに定宿にする宿がある。

そこへの手配は父が全部手をまわしてくれていたと、後になって知った。


この旅には母の墓参りの外に密かな企みがあった。

爺婆は、享悟の生みの母のことを、とても嫌っていた。

婆は享悟を取り上げた産婆で、立派な鬼の子だと喜んだその人だ。

どんな子だろうと、自分の子を憎むなどあるまじきことだ、と、婆は固く信じていた。

だから、母の仕打ちには、どうあっても納得いかないと、ことあるごとに息巻いていた。

享悟が心配だから都まではついて行くが、母の墓には行かない。

きっぱりとそう言い渡された。


実は、それこそが享悟の狙いでもあった。

いつも享悟の傍に付き従う爺婆から、享悟は一時、解放されなければならなかった。

密かな目的を果たすために。

墓参りはその体のいい口実に過ぎなかった。



***



正直なところ、母への思い入れはそれほどでもなかった。

懐かしいとも、悲しいとも、感じてはいなかった。

ただ、竹林のなか、ぽつりとひとつだけ立つ小さな石塔を見たとき。

むやみやたらと、胸のなかから込み上げてくるものは、あった。


島の墓場は、ある意味とても賑やかだ。

ただでさえ狭い場所に、先祖代々一族郎党、ぎっしりと詰め込まれている。

節目節目には、子々孫々親類縁者近所の者まで、大勢揃ってぞろぞろとそこへ押しかける。

草を毟り、墓石に酒をぶっかけ、山のように供え物をして、ついでにそこで酒宴を開く。

死者も生者も賑やかに、共に過ごすのが島流の供養だ。

そこは、暑苦しいけれど、寂しさとはまったく縁のない場所だった。


なのに、母は。

あんなに帰りたいと願っていた都に、やっと帰ってこられたのに。

風以外、誰も訪れることのないような、こんな寂しい場所に、ぽつんとひとりぼっち。

享悟は、初めて、母のことを哀れだと思った。


ふと、石塔の前の小さな花立に、萎れかけた花がさしてあるのに気づいた。

父がさしていったのか、と一瞬思った。

しかし、父はもう何ヶ月も都には訪れていない。

その花は、萎れてはいたけれど、まだ摘まれてからそれほど経っているようには見えなかった。


紫苑、撫子、紫桔梗。

どれも道端に咲いている花だった。

桔梗は少し枯れかけていた。

けれど、誰かが意図的にここへ持ってきたものなのは間違いなかった。


誰かが、母を悼んでくれている。

それがこれほどまでに胸に迫るとは思わなかった。

享悟は、そのとき初めて、心から母に対して手を合わせることができた。


墓には草も生えず、掃除もされているようだった。

墓を綺麗にしてくれたその誰かには、心からの感謝しかなかった。

なのに、見ず知らずのその人に、享悟はこれから酷い迷惑をかけることになる。

こんな場所で、亡骸を見つけさせるのだから。

享悟はその人に、心の中で何度も何度も詫びた。

けれど、もう決めた心を、変えることはできなかった。


享悟がいなくなれば、貴島の家の後継は、弟しかいなくなる。

十頭領家を途絶えさせるわけにはいくまいから、弟はきっと護法になる水を免じられるだろう。

自分がいなくなることだけが、家族のためにしてやれることだと思っていた。


最期の場所にここを選んだのは、あるいは、こんな自分を生んだ母を恨んでいたからなのか。

母の墓を自分の血で穢してやりたかったのだろうか。

それとももしかしたら。

享悟の中にも、生みの母を恋しいと思う気持ちがあったんだろうか。

せめて、最期くらいは、少しでも母の傍にいたかったんだろうか。

本当のところは、誰にも、享悟自身にも、分からなかった。

ただ、その場所はとても静かで、気持ちも凪いだ海のように穏やかだった。


元服の祝いにともらった、母の形見の守り刀を、享悟は静かに引き抜いた。

長い間放置されていたのか、刀身はすっかり錆びつき、鞘につけられた飾りもくすんでいた。

それを享悟は時間をかけて丁寧に研ぎ直し、磨き直した。

見事に輝きを取り戻した刀は、とても綺麗だった。

それはまだ嫁ぐ前の、娘だったころの母の持ち物だった。

よい家の姫君だったという母。

その母の身を護るために持たされていた刀だ。

母が両親に愛されていたことがよく分かるような立派な守り刀だった。

冴え冴えとした光を、刃は放っていた。

よく切れそうな刃だった。

これなら、享悟のやせっぽっちの薄い咽など、何の抵抗もなく突き破るだろう。

痛みすら感じる暇もないかもしれない。

ざわざわざわ。竹林を風が渡っていく。


そのときだった。


かさり、と明らかに風ではない音に、享悟は思わず振り返った。

そこに幼い少女がいた。

少女が小さな手にしっかりと握っていた竜胆の花の色が、ひどく鮮やかに目に映った。


それが、リンだった。


こんな幼い子どもに、いったい何を見つけさせるつもりだったのかと戦慄した。

あと少し遅かったら、ここには享悟の亡骸が転がっていた。

自分のしようとしていたことが、どれほどリンの心を傷つけることになっていたか。

想像するだけで恐ろしくなった。


享悟は急いでリンの前から逃げだそうとした。

もしかしたら、享悟はリンに恐怖を感じていたのかもしれない。

その清らかで真っ直ぐな瞳に見つめられれば、臆病で卑怯な自分の本質は全て見抜かれる気がした。


けれど、リンが見抜いたのは、享悟の違う側面だった。

寂しいや悲しいといった感情は敵。涙を流すことは弱さの証。弱いことは悪いこと。

ずっとそう教えられてきた享悟に、寂しければ泣いてもいいのだと、リンは言った。


その言葉に、享悟は生まれて初めて、解放された気がした。

そうか、泣いてもいいのか、と思った途端に、すべての柵が、享悟の周りから崩れていった。


花が、溢れた。

舞い落ちる幻の花は、リンが胸に抱いていたのと同じ、青い竜胆だった。

頭領家の血を引く子どもには、何故かみな、このような、摩訶不思議な能力があった。

それは怪力であったり、動く物を瞬時に見る視力であったりしたけれど。

享悟のそれは、幻の花を咲かせる力だった。


気持ちが溢れると、花になる。

ただし、その花はとても儚くて、すぐにも跡形もなく消えてしまう。


享悟は自分のこの能力が大嫌いだった。

何の役にも立たない、軟弱で無駄な能力。

ずっとそう言われて、揶揄いや攻撃の材料にされるだけの力だった。


だからずっと、享悟は花を出さないように、気持ちを抑えてきた。

うっかり出してしまったときには、なるべく誰にも見つからないうちに蹴散らすようにしていた。


けれど、リンは、その花を綺麗だと言った。

蹴散らそうとした享悟を引き留め、花を大切そうに拾い集めた。


リンといれば、享悟は素のままの自分でいられた。

無理をして取り繕う必要も、必要以上に悪を演じる必要もない。

争うことは苦手で、ちょっと気の弱い、抜けたところのある少年。

そんなふうな自分でいられた。

リンの傍は、とても、居心地のいい場所だった。


友だち。約束。

リンは享悟にそういうものを教えてくれた。


享悟の捨てた刀を、リンはわざわざ探し出した。

そして、なんのためらいもなく、享悟に真名を与えた。


真名を告げ、刀を授けるのは、命を預けることの証。

そして、それを受ければ、仕えることを誓ったことになる。

そんな鬼の島のしきたりなど、リンは知る由もなかったけれど。


刀を受け取るとき、享悟はこっそり、リンに忠誠を誓った。

ただ、享悟はそのときは名乗らなかった。

名乗ってしまってはいけないと心のどこかが引き留めていた。

真名を告げれば、もう引き返せなくなると。


リンにそんなつもりなどまったくないのは分かっていた。

鬼の事情など、リンに告げる必要はないと思った。

たまさか出会い、言葉を交わしただけの、浅い契り。

これは、永遠に縛られる絆とは違う。

享悟は無意識に心の中で、必死にそう言い訳を繰り返していた。


それでも、享悟は誓いたかった。

自分に生きて行くことを示してくれた恩人に。

ただ、ひたすらに、心から、永遠の忠誠を。


しかし、疑うことを知らないリンの行動に、享悟は恐れ慄いてもいた。

ここは都だ。島の理屈は通用しない。もちろん、それは分かっていた。

都の人々は、島のように真名に拘ったりはしない。

それも知識としては知っていた。

普通の人間なら、真名を知ったところで、そうそう簡単に他人をどうこうできるものではない。

けれど、享悟は正真正銘の鬼の血筋だった。


危ない。危なすぎる。


なのに、リンは享悟にのたまった。

怖くないよ、と。

ご丁寧に、三度も。


享悟は誓った。

誓うしかなかった。

リンにとって悪い鬼には、絶対にならないと。

リンは穢れのまったくない至宝だった。

これを護りたいと、心の奥底から願ってしまっていた。


真の宝を護ると誓うとき。

鬼は真の護法となる。


昔どこかで読んだ言葉が、すとん、と心に落ちてきた。


水を飲んでも、本物の護法にはなれない。

護るべき宝を見つけたときにこそ、鬼は護法になるのだと。

享悟は水を飲まないうちから、護るべき宝物を見つけてしまったのだ。


リンが傍にいてくれれば、享悟は鬼ではなくて、護法になれる。


この穢れのない魂と、共に在りたいと望んだ。

リンの前だけでいいから、いい鬼になりたかった。

いや、できうることなら、ただの人になって、リンの隣に並びたかった。


リンは享悟と木の実やあけびを分け合って食べた。

それは、これまで食べたどんなものより、至高のご馳走だった。

これこそは、命を生かす食べ物だと思った。

享悟は生まれて初めて、生きたいと思った。

ずっとずっと満たされることのなかった空腹を、やっと満たされたと感じた。


お腹がいっぱいになるとリンはかぐや姫を探しに行こうと言った。


かぐや姫は竹林に棲んでいて、見つけた者に最高の幸せをもたらしてくれる。

リンは享悟にそう教えた。


けれど、いつか、かぐや姫は月に帰ってしまう。

享悟はその物語の結末を、知っていた。

ただそれは、リンには教えなかった。


リンのかぐや姫探しを、享悟は手伝うことになった。

それはとても楽しい時間だった。


リンに手下のように扱われるのも、不思議に居心地がよかった。

自分にそんな一面があったことに、とても驚いた。

心の底から誰かに尽くしたいと思ったのは、初めてだった。

自分にそんな気持ちがあったことにも驚いた。

けれど、そうすることで幸せな気持ちがもたらされることを、初めて知った。


竹林で、リンの見つけたのはかぐや姫ではなくて鬼だった。

かぐや姫を見つけたのは、享悟のほうだった。



***



その日の終わるのが怖かった。

リンと離れたくなかった。

けれど、やっぱり日暮れはやってきた。

悲しかった。

それでも、子どもを攫う悪い鬼にだけはなりたくないと思った。


けれどリンは、いとも簡単に、また明日、という約束をくれた。

ふたりは、ゆびきり、なるものをした。

約束という名の契約。

鬼にとってそれは、決して軽々しく交わしてはならないと、きつく戒められるもの。

それが、これほど甘美なものだとは思わなかった。

また明日、リンに会える。

そう思うだけで、夕暮れの日も、とても綺麗に見えた。


少しでも長く一緒にいたくて、享悟はリンを家まで送って行った。

自立心の強いリンは、享悟に送られることを断ったけれど。

そこは、狡猾な鬼の本領を発揮した。


享悟は、大切な人に不幸を運ぶ業でも背負っているのだろうか。

享悟なんかに関わってしまったばかりに、リンはあんな奇禍に逢ったのかもしれない。

今でも、そう思うたびに、胸が苦しい。


もっとなにか、リンのために、できることはなかったのだろうか。

最初から出会わなければよかったのか?

いや、それは不可能だ。

もっと早く、享悟はこの命を絶っておけばよかったのか?

そんなことは、流石に思いたくない。


リンに会って享悟は救われた。

けれど、それと同時にリンは、平穏無事な毎日を失っていた。


あのとき、もしもリンと出会っていなければ…


リンがいつものように早く帰っていたなら。

もしかしたら、リンは母親と同じ目に合っていたかもしれない。

リンがひとりで家に帰っていたなら。

奇禍をひとりでは抱えきれずに、ひとりぼっち、都を彷徨うことになっていたかもしれない。


そんなことを考えるのは、享悟にとって都合がいいからなのかもしれない。

だけど。せめて。それでも。

リンにとって、享悟は害悪をもたらすものではないと、そう思いたい。

あのとき、享悟はリンを救ったのだと思いたい。


攫うつもりなど、毛頭なかった。

もちろん、そうしたい気持ちがまったくなかったとは言い難いけれど。

それでも、それを抑える意志は、ちゃんと持ち合わせていた。


尊いリンの幸せの前には、享悟の薄汚れた願望など、粉微塵に吹き飛ばしてくれよう。

温かい母親の家以上に、リンにとって幸せな場所などない。


けれど、突然の奇禍は、リンからその場所を奪った。


なのにリンの母親に、リンを託されて。

それが心の奥の奥、取り繕うことの許されない本当の心の部分では、嬉しかった、なんて…


今だに、享悟はそのことを、リンにとても申し訳なく思っている。

いっそ自らの存在を消し去ってしまいたくなるほどだ。

なのに。なんの皮肉なのか。

そのことは、享悟のたったひとつの存在の理由にもなった。


あのとき、母親の命は、指の間からさらさらと零れる砂のように、失われようとしていた。

それでも、母親はリンの身の安全を何よりも気にかけていた。

享悟はどうすべきだったのか、どうするのが正しかったのか、今だによく分からない。

ただ、あのときの享悟は、何よりまず、リンの身の安全を図った。

あの場からリンを引き離し、安全な場所へと連れて行くことを優先した。


リンを預けて引き返したとき、あの家には誰もいなかった。

リンを追う者らと出くわすことを警戒していたが、その影もなかった。

しかし、瀕死の重傷を負っていたはずの母親の亡骸も、どこにもなかった。

男たちが戻ってきて、母親を連れ去ったのかもしれない。

床には母親のからだから流れ出た夥しい量の血の痕があった。

その血に染まった享悟の羽織も残されていた。

それらはあれが決して夢じゃなかったことの証だった。

なのに、それに関わった人々は、全員、姿を消していた。


なにか手掛かりはないかと享悟は部屋を捜索した。

狭い部屋のなかには、質素だけれど大切に使い込まれた道具類があった。

けれど、どれも取り立てて特徴のあるものではなかった。

たったひとつ、手掛かりになりそうだと思ったのが、クナイだった。

母親がリンを守ろうと、享悟の腕に刺したものだ。

刺した相手に毒を注入する仕組みは、なかなか精巧な作りだった。

床に転がっていたそれを享悟は持ち帰ることにした。


ただならぬことが起きたのだけは間違いなかった。

そして、そのなか、リンの身に危険が迫っているということも。


幼いリンは小さくか弱かった。

指先だけで、その命を奪ってしまえるほどに脆弱だった。

ほんの少し、目を離しただけで、零れ落ちてしまう命。

その事実に享悟は戦慄した。


弱く儚いのに、その存在はとてつもなく大きかった。

リンは、失われていいものじゃない。

だから享悟は、享悟の存在のすべてを懸けて、リンを護り抜くと心に決めた。


そのときの高揚感を、享悟は生涯忘れない。

あの気持ちを覚えているだけでも、ありとあらゆる試練を乗り越えて生きていく自信がある。

リンは享悟にそういうものを与えてくれた。


リンのためなら、何でもできる。

享悟のもつすべてを差し出そう。

もしも、今享悟がそれを持っていないとしても。

リンのためならば、なんだって手に入れる。

不可能も可能にしてみせよう。


そのとき、そこには一抹の幸福感があった。

否定しても否定しても、享悟の心はそれを消し去れなかった。


そのことは、この後もずっと享悟の心に重くのしかかった。

なにより大事なリンの不幸を心の底では喜んでいたなんて。

この自分はやっぱり鬼だ。

その思いに享悟はずっと苦しむことになった。









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