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花咲鬼  作者: 村野夜市
11/42

第八章 ~求婚

初めてのお役目は、ふたつ、傷を残した。

享悟の心とリンの肩に。


傷はいつしか癒えるものだ。

リンの肩の傷は、それと知って見なければ、もうほとんど分からなくなっていた。

けれど、享悟の心についた傷は、誰の目にも見えないけれど、とても深かった。


井戸の水を飲んでも、護法になれる者は少ない。

だから護法には、休む暇もなくお役目がくる。

けれど、リンが守護としてお役目に出ることは、その後一切なくなった。


享悟はお役目にリンを伴うことをしなくなった。

享悟自身は変わらずにお役目を果たしていた。

守護は、どんなときも護法のお役目に付き従うのが務めだけれど。

リンはいつも島に置いてきぼりだった。


早ければ日帰り。

長くてもせいぜい十日。

月立の月の満ちる前に。

満ちた月の去る前に。

享悟は必ず帰ってきた。


「お腹すいたよ、リン。」


帰ってくると、享悟はいつも必ず真っ先にリンのところに来る。

夜中になることもあった。

帰ってきた享悟はいつもお腹をすかせている。

そして、どんなご馳走より、リンのおにぎりが食べたいと言う。


リンはせめて、享悟の不在の間は、いつもおにぎりを用意しておくようにしていた。

いつ帰ってくるか分からないから、いつ帰ってきてもいいように。

守護としてできることは、それしかなかった。

こんなことでは、お務めを果たしているとは言えないと、誰より自分自身思うけれど。

享悟はリンにはもう、それしかさせてくれなかった。

だからリンは、いつもおにぎりを用意して待っていた。


護法の帰還は、前もって報せてくるのが習いだった。

なのに、享悟は、まったく帰りを報せてこない。

黙ってひょっこりと帰ってくる。

早馬より、自分の足のほうが早い。

報せない理由を尋ねると、享悟はそう答えた。

そんな暇があったら、一刻も早くリンのところへ帰りたい。

出迎えなんかいらない。ただ、リンがいるところにいたい。

寝ててもいいよ。寝顔でも、リンの元気な顔を見ると、ほっとするから。

一目、顔だけ見たら帰るから。

迷惑かな?とひどく悲し気な顔をされては、ダメだなんてとても言えない。

そもそも、迷惑だなんて、リンはこれっぽっちも思わなかった。


護法には、お役目の後に、多少の寄り道をして遊ぶことは、暗黙の了解になっていた。

花街へ行って、お役目よりも長い日数を過ごす護法もいる。

けれど、享悟は、お役目が終わったら、どこにも寄らず、その足でそのまま帰ってくる。


護法は辛いお役目を担って、命をかけて島の人々のために働いている。

だから、島の人々は精一杯の労いを用意する。

けれど、享悟の帰還を祝う宴は、いつも帰還してから、大慌てで開かれる。

せめて、帰還くらいは報せてほしい。

何度も島の人々は享悟にそう頼んだけれど、享悟は、淡々と、いらない、とだけ答える。

折角の宴も、ちらっと挨拶だけして、すぐに逃げ帰ってくる。

リンがいつもいるところにいてくれれば、それでいい。

それ以外の余計なことは、何もいらない。

島のために働く護法だからこそ、享悟がそれを強く望めば、それに誰も否とは言えなかった。


お役目に守護を連れて行かないことは、あちこちから非難を浴びた。

護法の魂を護らない守護など、守護とは言えない。

リンもそんなお叱りを何度も受けた。

リンは、何度も享悟に、お役目に連れて行ってほしいと頼み込んだ。

それでも、享悟は頑として、聞き入れてはくれなかった。

他のことなら大抵は叶えてくれる享悟なのに、それだけはどうしても叶えてはくれなかった。


護法の意向は、最終的には、他の誰の意志より優先される。

護法は、人生を島のために捧げるのだから。

何人の島の人から言われようと。

たとえ、島の長老から言われようと。

享悟が否と言えば、それを覆せる人はいなかった。


護法としての享悟は、とてつもなく優秀だった。

享悟は自ら望んで、難易度の高いお役目ばかり果たしていった。

無謀だと、不可能だと、誰もが思うようなお役目を進んで引き受け、そして、見事に成し遂げた。

最初のうちは、享悟に対して批判的だった人々も、やがて、何も言わなくなった。

否。その素晴らしい数々の功績の前では、誰もが賞賛以外の言葉は持ち得なかった。

享悟は何人もの要人を窮地から救い出し、幾度も、絶望的な戦況をひっくり返してみせた。

享悟の評判はうなぎ上りに上る一方だった。


けれど、それはまた同時に、何人もの敵を滅ぼしたということだった。

救ったことよりも滅ぼしたことのほうが、享吾の心には、より重く残っていた。

そして、それは知らず知らずのうちに、重荷のように積み重なっていった。

お役目を果たせば果たすほどに、享吾のなかには澱のように黒い澱みが溜まっていく。

けれど、その澱みを、享吾は誰にも、リンにさえも、気づかせなかった。


享悟はリンにはお役目の話は一切しなかった。

島にいる間は、毎日会いに来てくれた。

リンの傍にいるときの享吾は、前のまま、少しぼんやりした享吾のままだった。

ふたりは、何をするでもなく、ただ一緒にいて、何気ない日常を過ごしていた。

それは、リンが幼いころから数えきれないくらい過ごしてきたのと、同じ日々だった。


戦場に現れる白銀の鬼は、味方からは信望を、敵からは恐怖を一身に集めていた。

三日あれば、天下をもひっくり返す。

白銀の鬼はそんなふうに言われていた。

望めば天下も獲れるだろう。

ただ、享悟は、天下にはまったく興味はなかった。


享悟が関心を持っているのはリンのことだけだった。

リンの平穏な日々を護るために、享悟はお役目を果たし続けた。


いつの間にか、面と向かって享悟に意見できる人など、島にはひとりもいなくなっていた。

そんな享悟の守護だったおかげで、リンにも、誰も何も言わなくなった。


リンはまた高倉の爺婆の家で暮らしていた。

守護になる前から続いていたのと、それは一見変わりのない暮らしだった。

家事をして、畑の世話をする。

それから、享悟とふたりで、いつまで経っても魚のかからないウキを、ぼんやりと眺めている。


享悟は、お役目に出るときにも、そのことをリンには教えてくれなかった。

いつも黙ってひょいといなくなり、何日かしてまた戻ってきた。

帰ってくるときには、まるで、どこかへ物見遊山にでも行ってきたかのような顔をしていた。

そして、その手にはいつも、抱えきれないほどたくさんの、土産を抱えてきた。


土産は、どれもこれも見事な品ばかりだった。

ほれぼれするほど見事な装飾品に、珍しい食べ物。

時には、遠い異国から届いたという文物まであった。

護法の報酬は、桁違いに多い、というのは、リンも聞いたことがあった。

それにしてもこのお宝の数々は、あまりにも高価すぎるように感じた。

大事なお給金を、こんなことに使ってもいいの?

リンがそう尋ねたら、享悟は笑って、他に使うこともないからね、と返した。


だけど、リンはもうこれ以上、高価なお土産なんかいらないと思っていた。

享悟の留守の間、リンは来る日も来る日も、海のむこうを眺め続けた。

享悟が、もうこれ以上、心もからだも、傷つきませんように。

祈ることしかできない自分はもどかしかったけれど。それでも祈らずにはいられなかった。

リンにできることは、祈ることだけだ。

それしかさせてもらえないことが、とても悲しかった。

それしかさせてもらえないからこそ、なおのこと、心を込めて祈った。


享悟のことが、ずっと心配だった。

ひとりでお役目に赴くのは、やっぱり危険だと思っていた。

役に立たなくても、足手まといでも、連れて行ってほしかった。

けれど何をどう言っても、享悟はやっぱり、それだけは絶対に譲ってくれなかった。


リンは、享悟の傍にずっといたかった。

でも、自分が享悟の足をひっぱるという自覚はあった。

だから、ダメだときっぱり言われれば、それ以上、しつこくも言えなかった。

あの、初めてのお役目のとき。

リンは享悟にひどく迷惑をかけてしまった。

リンのせいで、享悟は狂いかけたし、お役目にひどく支障も来した。

事態を拗らせ長引かせて、結局は、享悟に力づくで解決してもらうしかなくなってしまった。

真っ白になった享吾の髪を見るたびに、リンはどうしようもなく悲しくなった。

享吾の髪があんなふうになってしまったのは、自分のせいだと思っていた。


せめて、自分がもう少し強かったら。

せめて、何か使える能力があったら。


辛くて悔しくて、からだを鍛えたり、手当たり次第に修行の真似事のようなこともしてみた。

それでも、リンは島の人のように強くも頑丈にもなれなかった。

ある日突然、特別な能力の開花するようなことも、なかった。


それどころか、享悟は、リンが修行の真似事をすることに、あまりいい顔をしなかった。

危険な真似はしないでほしいと、懇々と諭された。

リンが無事に島で待っていてくれるから、僕は安心してお役目を果たせるんだよ。

そんなふうに言われては、リンもそれ以上、自分を押し通すことはできなかった。



***



そうして月日は過ぎて行った。

いつしか、享悟は、護法の歴史に名を遺すほどの、伝説の護法になっていた。


いつの間にか、白銀の鬼、という別名で享吾は呼ばれていた。

別名のつくのは優秀な護法の証拠だった。


護法のお役目は、貴島という島全体で引き受ける。

それをどう解決するか、その裁量は、島にすべて一任されている。

だから、依頼主は、ひとりひとりの護法のことなど知らない。

依頼されたお役目に、どんな護法がどれだけ使われたのかも分からない。

ただ、依頼された内容を完遂すること。

それが島が依頼主に果たす約束だった。


依頼主から護法の名前を指定して依頼をすることは、普通はなかった。

大切な真名をわざわざ自ら名乗る護法もいない。

だから、個人を特定できる名前は、島の外に行けばほとんど知られていなかった。


それでも、本当に有能な護法には、いつの間にかあだ名がつくものだ。

名を得た護法には、その護法を特定した特別な依頼もくる。

もちろん、そんな依頼には、家宝どころか、一国を売り渡すほどの高額の報酬が必要になる。

享悟はいつしかそういう護法になっていた。


享悟の果たすお役目は、いつも鮮やかだった。

これほど着実に、短期間で、被害は最小限に、お役目を遂行する護法は、他にはなかった。

白銀の鬼は、皆からの賞賛を一身に集めていた。


享悟が誉められるのは、リンも嬉しかった。

これほどの護法の守護に自分なんかが就いていることに罪悪感も覚えたけれど。

それでも、やっぱり素直に嬉しかった。


ひとりでいるとき、リンはよく崖にいた。

享悟がいないときには、釣りはしなかった。

ただ、ずっと遠くの海を眺めていた。

世界中の海は繋がっているんだよ。

いつか享悟がそう話してくれた。

だから、この海のむこうに、享悟はいるんだと思った。

海を眺めていると、享悟を感じられるような気がした。


淋しくなると、そっと肩の傷に指を触れてみた。

傷はもう目で見てもまったく分からなかった。

指先を触れると、かすかに違和感を感じるくらいだ。


この傷を、享悟は、昏い喜び、と行っていた。

リンも、今はこの傷の残ったことを、心のどこかでよかったと思っている。

享悟との絆は、もうこの傷くらいしかないような気がしていた。


白銀の鬼の名は、ますます世の中に轟いていった。

歴代最強の護法とさえ呼ばれていた。

享悟を雇うには、国さえ買えるほどの法外な報酬を用意しなければならなかった。

それでも、享悟には休む暇もなかった。

享悟を雇いたいという依頼主は、引きも切らなかった。


享悟のおかげで、島は随分、裕福になった。

島の人は、みな享悟の姿を見かけると、両手を合わせて拝んだ。

それをされると、享悟はいつも、ちょっとだけ顔を顰めた。

目を細め、冷たい視線をちらりとだけむける。

享悟がそんな表情をすることがあるのを、リンは初めて知った。

ずっと長く一緒にいるけれど、享悟はそんな顔をリンにむけたことはなかった。

いつも、穏やかに、あるいはちょっと困って、ときには悲しそうに、微笑んでいる人だった。

ただ、それ以上の拒絶は、享悟はしなかった。

だから、島の人々は、あまり気にせずに好きなようにしていた。


島の娘は、みんな享悟に恋をした。

娘だけでなく、赤子も、媼も。

男女の区別すらなく、みな享悟に憧れた。


彼らは、遠くから享悟の姿を見かけただけでも、悲鳴を上げたり、大声で名前を呼んだりした。

享悟は、それに応えることはしない。

聞こえているはずなのに、知らん顔をする。

すると、そんな冷たいところがまたいいと、みな言った。


リンに対しては、享悟は何も変わらなかった。

相変わらず、際限もなく優しい。

他の人がいるときには無表情なことが多いけど、ふたりきりだとよく笑った。

リンが少しでも元気がないと、すぐに気づいて理由を尋ねてくれる。

そうして、口癖のように、僕はリンが大事、と言い続けた。


いつの間にか、リンも、他の人たちのように、享悟に恋をしてしまっていた。

享悟はリンの護法で、リンは享悟の守護だ。

護法にとって、守護を大切にするのは本能なんだと、リンも分かっていたはずなのに。


とうとう思い余って、リンは享悟に思いを告げた。

けれど、返ってきたのは、どこか諦めたような微笑だった。


「リン、護法は恋はしないんだ。」


それが遠まわしな断りだと気づくのに、少し時間がかかった。


「そ、…っか…」


他に言葉も出てこなかった。


予想以上に、リンは動揺していた。

どうして告げてしまったんだろう。

告げれば応えてもらえると、どうして思い込んでいたんだろう。

そんなの、なんの根拠もなかったのに。

苦い後悔だけ、胸のなかに広がっていった。


「そ、う…だよね?

 わたしなんかが、大それたこと言った。

 …ごめん…忘れて…?」


リンは必死に言葉を繋いだ。

涙だけはなんとか堪える。

泣けば、きっと享悟は慰めてくれる。

自分の気持ちは後回しにして、リンに優しくしてくれる。

それが分かっていたから、絶対に泣きたくなかった。

涙だけは、享悟に見せるわけにはいかない。


けれど、堪えているのにも限界があった。

もう逃げるしかない、とリンは背中をむけた。

その背中を、享悟の声が追ってきた。


「忘れない。忘れるものか。

 君の言った言葉を、僕はもう聞いてしまった。

 だから、これはもう、僕のものだよ。

 絶対に、手放しはしない。」


振りむくことはできなかった。

今、享悟の顔を見たら、泣いてしまうのは確実だった。

リンは必死に声を振り絞った。


「そんな、言い方…やめて、ほしい。

 振るなら、きっぱり振って。

 キョウさんは優しい人だけど、こんなときの優しさは、残酷だよ…」


なんとか涙は堪えたけれど、声の震えるのは止められない。

享悟が息を飲む気配を背中に感じた。


「…ごめん。じゃ、わたし、行くから…」


もう限界だった。

それ以上はもう何も言えなかった。

声を出したら、泣いていることを知られてしまう。

リンは、急いでその場を立ち去ろうとした。


その背中に、突然、ふわり、と温かなものが被さった。


「護法は恋はしない。

 してはいけないんだ。

 そういうきまりなんだよ。」


なだめるように、享悟は言った。


「鬼に心はない。

 リンあげられる心が僕にはないんだ。

 鬼には人の気持ちは分からない。

 けど、僕は、リンのことが大切だ。

 誰より、何より。この島より。世界より。

 リンのためなら、なんだって、差し出せる。

 この命も、魂も。

 僕のすべては、とっくの昔から、リンのものだよ。」


リンは思い切って振りむいた。

享悟は今にも泣きそうな顔をして、リンを見下ろしていた。

その瞳をじっと見詰めて、リンは人生最大の勇気を振り絞った。


「なら、お願い。

 わたしを、キョウさんのお嫁さんに、してください。」


崖から海へ飛び込むよりも思い切った。

けれども、享悟は目を瞑って、首を振った。


「ごめん。

 それだけは、駄目だ。

 僕は鬼だ。

 この穢れた手を君に触れるわけにはいかない。」


「キョウさんは穢れてなんかいない。

 鬼なのかもしれないけど、キョウさんが鬼なら、鬼は怖くない。

 わたしは、キョウさんが好き。」


「リン。

 それは堕法の道へ堕ちてしまう。

 大事な君を、そんなところに堕としたくない。」


「わたしは、堕ちたい。

 キョウさんと一緒なら、どこに堕ちてもいい。

 キョウさん、一緒に堕ちてくれないかな?」


いつの間にか、頬に涙が流れていた。

享悟はそんなリンから、目を逸らせた。

それが、享悟の答えだった。

リンは、なんとか涙を飲み込んだ。


「そ、っか…

 キョウさんは、堕ちるわけには、いかないよね?

 みんなの大事な護法様だもの。

 ごめんね、我儘ばっかり言って。

 キョウさんのことまで、引きずり堕とそうとして。」


「…リ、…ン…」


享悟はもう一度リンをじっと見据えた。

その顔はお面のように表情を失っていた。

その瞳に、妖しい光が宿った。


「だ、…めだ…

 だめ、なん、だよ…

 …リン…」


何度もだめだと繰り返す。

追い打ちをかけるような拒絶の連続は、流石にリンも聞いていられなかった。


「分かった。

 ごめん。もう言わない。

 でも、せめて、キョウさんのことは、好きでいさせて?

 そう簡単に、この気持ちは消せないから。

 何も、してくれなくていい。

 ただ、好きでいたい。」


懇願するように言ったら、享悟は固く固く目を閉じた。


「頼むから…リン…

 もう、それ以上は…

 でないと、僕は…」


「好きでいることもダメ?

 何も、望まない。

 高価なお土産も、優しい言葉も。

 何もいらないから、キョウさんのこと好きでいたい…」


「…っ、くっ…!」


享悟は目を閉じたまま俯いて、何かを必死に堪えているようだった。

握った両手の拳が、ぷるぷると震えだす。

そんなに、わたしのことが嫌なんだ。

見ているのも辛すぎて、リンは逃げ出したくなる。

そのとき、何を思ったのか、享悟はいきなり懐からあの守り刀を取り出した。


「怨敵退散!」


鋭い気合と共に鞘を払うと、享悟は力いっぱい守り刀を自分の腿に突き立てた。

刀は柄のところまで、深々と突き刺さっていた。

その根元から、みるみる血が溢れ出す。

とっさに傷を押さえようとするリンの手を、享悟は手で遮った。

そして、リンを見て、にやり、と笑った。


「これ、憶えてる?

 昔、君を傷つけた刀だよ?」


享悟は笑いながら、刀を乱暴に引き抜いた。

傷口さえ分からないくらい、どくどくと血が沸き出てくる。

血に濡れた守り刀の刃は、ひどく錆ついていた。

あのときから、一度も手入れをされていないのかもしれない。

そんな刃で傷つけられた傷は、あまりに酷く痛々しかった。


リンは恐ろしさにその場に立ち竦んだ。

享悟はそんなリンに、刀の柄のほうを向けて差し出した。


「どうか、守護さま。

 ご加護を。

 貴女の護法が邪の道に堕ちぬように。

 今、ここで、この命、絶ってください。」


血にまみれた柄を、享悟はリンの手に、無理やり握らせた。

その手の上から、享悟の大きな手が包み込む。

それから、刀の切っ先をぴったりと自分の心臓の位置に合わせた。


「お慈悲を。

 どうか、そのまま、一刺し。

 力は要らない。

 貴女は軽く、一押しするだけでいい。

 あとは、この僕が片をつける。

 どうか、哀れな護法を救ってください。」


リンを見据える瞳は、凪いだ海のように、昏く、静かだった。


「リン。

 殺して?」


享悟は囁くようにそう告げた。

優しい、優しい、声だった。

それから、うっとりと、恍惚の笑みを浮かべた。


「ねえ、リン。今、僕はとっても幸せだ。本当に、幸せなんだ。

 だから。ね?どうか。今。この瞬間に。

 そうすれば、幸せは凍り付いて、永遠にこの手のなかにある。」


享悟の昏い瞳に魅入られて、リンは息を呑んだ。

ほんの少しでも手を動かせば、刃は享悟の心臓に吸い込まれていく。


けれど、それはほんの一瞬のことだった。

魔は忽ちに過ぎ去った。

リンは刃を投げ捨てた。


「僕の願いを、叶えてはくれないの?」


享悟の瞳は絶望に染まった。

リンはそこから必死に目を逸らせた。

そうして、血の溢れる享悟の傷を見た。


「キョウさん、傷の手当、しよう。」


享悟の足はどくどくと血を流していた。

振られたリンの心の傷なんかより、こっちの傷のほうがずっと問題だった。

まずは、この傷をなんとかしよう。

そう決めると、リンの心は不思議にしんとなった。

リンは傷を確かめるために、享悟の足に手を伸ばそうとした。


「リン!」


いきなり厳しく名前を呼ばれて、リンはびくりと手を止めた。

まだ触ってはいないはずだけれど、何かいけないことをしてしまったのだろうか。

急いで目を上げると、享悟はじっとリンを見下ろしていた。

その瞳の厳しさに、リンは、どきり、とした。

享悟は何かに激しく怒っていた。


「怪我、してる。」


享悟はそう言うと、いきなりリンの手を掴んだ。

そのとき初めて、リンは、つきり、とした痛みを感じた。

さっき刀を投げ捨てたときに、掠ったかなにかしたのかもしれなかった。

掌がほんの少しだけ切れていて、血が滲んでいる。

けれど、その血はもう止まっていたし、痛みもほとんど感じない。

享悟の傷に比べたら、まったく、ぜんぜん、大した怪我ではなかった。


「こんなのより、キョウさんの怪我!」


リンは享悟の手を振り払った。

けれど、振り払ったはずの手は、ますます強く掴まれていた。


「小さな怪我を甘くみちゃいけない。

 悪い風でも入ったらどうするんだ?」


その言葉、そっくりそのまま享悟に返したい。


「キョウさんの傷のほうが酷いじゃない。」


「リンの怪我の手当が先に決まっている。」


「いつどこで、決まったのよ、そんなの。」


怪我の程度を考えても、どっちを先にすべきかなんて、言うまでもない。

リンは強引に手当を続けようとした。


「リン。」


享悟は低い声で一言、名前を呼んだ。

さっきまでとは打って変わった、静かな声だった。

リンは、ぴくりとからだを固くした。

逆らうことなど思いつきもしない声だった。

こういうときは、大人しくしたほうがいい。

長年の付き合いから、リンはそれを学習していた。


「僕の傷を心配してくれるならさっさと君の怪我の手当をさせたほうが結果的には僕の手当も早くなると思うんだこんなふうに不毛な言い争いをしているのは一番非合理かつ不経済だそれに僕の怪我は僕自身の手によるもの君は僕のせいで怪我をしたものどっちを優先すべきかなんてそんなの言わなくったって分かるだろう?」


次の瞬間、怒涛のように押し寄せた言葉は、僕の傷、と、分かるだろう、しか聞き取れなかった。

ただ、享悟の言いたいことは伝わった。

とりあえず、リンは降参するしかなかった。


「僕はまた、君を傷つけてしまった…」


リンの手当をしながら、享悟は悲しそうに呟いた。


「なにを大げさな。

 そんな大した怪我じゃないじゃない。」


むっつりと返すと、享悟はこの世の終わりのような悲し気な目をむけてきた。


「どうして君は、そんなに自分のことに無頓着なの?」


その言葉も、またそっくりそのまま、享悟に返したかった。


「このくらい、包丁使ってても、切るよ。」


「包丁だって?そんな危ないことは、君はやらなくていいから。」


「お料理くらいできないと、困るじゃない。」


「困らないようなところへ縁付ける。

 だから、もう二度と、危ないことはしないように。」


「キョウさんは、ちょっと心配しすぎだよ…」


丁寧に丁寧に。丁寧すぎるくらいに丁寧に。

大した怪我でもないのに、痛くないかと、何度も何度も、しつこいくらいに気を遣って。

竹筒の水をかけて傷を洗い、懐から軟膏を取り出すと、鳴れた手つきで傷口に摺り込んだ。


「それ、まだ持ち歩いてたんだ。」


使い込まれた軟膏の入れ物が、リンはちょっと懐かしかった。

転んで膝をすりむいたり、木に登って枝で引っ掻いたり、虫刺されを掻き毟って血を出したり。

小さいころ、そんなことのたびに摺り込まれた軟膏だった。

薬草を磨り潰して、なにやら混ぜ込んだ軟膏は、享悟のお手製だ。

効き目は抜群だけど、ものすごい匂いがする。

久しぶりにたっぷりと塗り込まれた軟膏は、やっぱり、ひどい匂いだった。


薬をつけると、享悟は懐から手拭いを取り出して、器用に歯を使って細く引き裂いた。

それをリンの手に巻き付けていく。

ぐるぐるぐる。ぐるぐるぐる。ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる…


「あの、そんなに巻くと、動かしにくい、よ?」


ちらり、と見上げた享悟の視線に封じられて、その先は口を噤む。

何を言ったところで、また、動かさなくていいだの、用事は全部僕が片付けるだの、返されるだけ。

そんなことを言い争う暇があれば、一刻も早く、享悟の足の傷を手当したい。

そのためにも、今は大人しくしていたほうが賢明だ。

長いつきあいの経験上、それは間違いなかった。


ようやくリンの手当が済んで、リンは享悟の傷の手当を始めようとした。


ところが…


「あ、れ…?」


さっき見たときには、もっと傷は酷いように思った。

けれど、こうして改めて見ると、それほどでもなかった。

いつの間にか、血も止まっている。

いや。

こうして見ている間にも、享悟の傷はみるみる塞がっていった。


「護法のからだは特別製なんだ。

 こんなの怪我のうちにも入らないよ。」


享悟は自分の傷には竹筒の水をかけただけで放置した。

手当も薬もなしに、それはすぐに跡形もなく消え去った。


享悟はお役目に出ても、一度も怪我をしてきたことはなかった。

着物に血のついていたことはあった。

けれど、享悟のからだには、どこにも傷はなかった。

だから、リンはその血を、返り血かなにかかと思っていた。

けれど、もしかしたらそれは、怪我をしなかったのではなく、ただ治っていただけかもしれない。

今、初めてそのことに気づいた。


「護法の能力は、人の持つ本来の力を極端に高めたものなんだ。

 怪我を治す力も、元々、人のからだに備わるもの。

 だから、護法の怪我は、放っておいても、すぐ治る。」


享悟は淡々と説明した。


「ごめんね、リン。

 びくりさせたね?

 こんな怪我、すぐに治るから。

 気にしないで。」


だけど、さっきの享悟はとても痛そうだった。

無理やり刀を引き抜いたときは、脂汗を流していた。


「でも、痛くないわけじゃないよね?」


リンの問いに、享悟は、けろっと笑った。


「まあね。けど、痛みは自分を正気に戻すにはいい薬になるから。」


「そんなの、薬じゃない。

 わたしは、キョウさんが痛い思いをするのは嫌だよ。」


リンはさっき享悟の傷のあった辺りをそっと撫でた。

享悟は、ふふ、と笑うと、そのリンの手をそっと握った。


「痛いのは生きてるからだよ。

 痛みを感じるから、からだは傷を治そうとする。」


昔、婆の言ってたのと同じことを享悟は言った。

そうか、享悟もリンと同じ、高倉の爺婆に育てられたのだとリンは思い出した。


「護法にとって痛みは、そこが傷ついているっていうからだからの警告だ。

 そのおかげで、ちゃんとそれに対処した行動を取れる。

 折れた腕では刀を取れないし、血を流したままじゃ、敵に見つかるかもしれない。

 即座に対処すべきことが、痛みになって表れる。

 だからね、痛みは護法の味方でもあるんだ。」


「キョウさんくらい立派な護法さんになると、痛みすら味方になるのかもしれないけど。

 わたしにはやっぱり、痛みなんて、完全に敵だな。」


「もちろん。痛みがリンの敵なら、僕はそれを排除する。

 リンの痛みは、僕にとっても敵だ。

 僕は、自分が傷つくのは、そんなに辛くないんだ。

 けれども、君が傷つくのはとても辛い。

 リンが痛そうにしたり、苦しそうにしていると、胸の辺りが、ぎゅーっと苦しくなるんだ。

 その苦しさは、自分のからだに傷を受けたときの何倍も辛い。

 だから、君の痛みは、僕が全部代わりに引き受ける。

 そのほうが、僕だって辛くないんだよ。」


護法は守護を大切にすると言うけれど、享悟のはちょっと度が過ぎている。

リンはため息を吐いた。


「ねえ、キョウさん。

 他の守護の人たちは、どうやって護法さんのこと好きにならずにいるんだろう。」


「小さいころから、それも修行させられるからね。」


「わたし、せめてその修行だけでもしておけばよかった。」


「ごめんね?」


享悟はちっとも悪びれずに軽く謝った。


「僕は、君の恋人にはなれないんだ。

 だけどそれは、君のことが大事じゃないからじゃない。

 むしろ、僕は誰より何より、君が大事だ。

 けど、僕のこれは、恋ではないし、愛でもない。

 いつか、君にも、守護を降りるときがくる。

 その先で君の知るものこそ、本当の恋だよ。」


享悟はとても優しい目をしてそう言った。

リンは泣きそうになった。

享悟はそれもちゃんと見ていて、そっと胸に抱き寄せてくれる。

小さいころ、泣いたリンを慰めてくれたのと同じ手つきで。


享悟は変わらずに優しい。

これまでも。そして、これからも。

多分、その命のある限り。

それが嬉しいのか悲しいのか、もうリンにも分からない。

ただ、今はもう我慢せずに、享悟の胸で思い切り泣いた。

泣いて泣いて泣きすぎて、もう何で泣いているのか自分でも分からなくなっても。

ただ泣き続けた。

享悟はリンの背中に、ずっと優しく手を当てていてくれた。

その大きな掌の温かさは、いつの間にか辛さを忘れさせてしまうようだった。


「有難う、リン。

 君は、僕の宝物だ。

 恋人にも、お嫁さんにもできないけど、僕は、君のこと、ずっとずっと、大好きだよ。」


享悟は優しい声でそう言った。







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