序章 ~邂逅
ざざ、ざざ、と笹を揺らして風が渡る。
鬱蒼とした竹藪の、人の訪れない細い道の果てに、小さな石塔があった。
石塔の前にはひとりの少年がうずくまっていた。
細く小さな、華奢な背中をしている。
大人というには少し届かず、けれど、もはや子どもとは呼べないくらいの年ごろに見えた。
竹林の隙間からは、幾筋かの光が差し込んでいた。
その一筋が少年の手元をきらりと光らせた。
かさっ。
風の立てたのではない、ほんのわずかな物音に、少年ははっと振り返った。
視線の先にいたのは、まだ幼い少女だった。
少女は太い竹の後ろに、からだを半分隠すようにしながら、少年の様子を伺っていた。
尼のように切り揃えた髪の先が、はらり、と肩に流れ落ちる。
黒目がちの目はきらきらと清んでいた。
その辺の道端で摘んできたのだろうか。
少女はその手に竜胆を一輪持っていた。
その鮮やかな青い色が、少年の目に焼き付いた。
膝立ちになった少年と、立ったままの少女の目線はちょうど同じ高さだった。
少女は臆する様子もなく、少年の顔をじっと見つめていた。
真っ直ぐに自分に向かってくる視線から、少年は目を逸らせなかった。
気紛れに差し込む光が、少年の顔をゆらゆらと照らしていた。
よく日に焼けた浅黒い肌。
もっそりと量の多い髪は、ふわふわと波打って、背中で無造作に束ねてあった。
瞳の小さな目をいっぱいに見開き、三角に開いた口からちらりと鋭い犬歯が覗いていた。
少年の瞳孔が縦に細長く、つっ、とすぼまった。
ざざざあっと、ひときわ大きな風が吹いてきて、辺りは薄緑の竹の色に一斉に染まった。
その瞬間、世界は凍り付いたようにすべての動きを留めた。
***
「どう、したの?」
先に沈黙を破ったのは少女だった。
隠れていた竹を回り込むと、ゆっくりと少年のほうへ近づいてきた。
少年は弾かれたように立つと、少女のほうへからだをむけた。
ぱさっ…
どこからともなく現れた花が、突然、少年の足元に転がった。
けれど、少年も少女も、それには気づかなかった。
少女は少年の顔を真っ直ぐに見つめたまま、歩み寄ってきた。
少年は、不思議そうに少女を見つめた。
「僕のこと、怖くないの?」
「怖くないよ。」
間髪入れずに返ってきた答えに、少年は目を丸くした。
「えっ?怖く、ないの?」
「怖く、ないよ。」
同じことを繰り返されて、少女は訝し気に眉をひそめたけれど、同じように答えた。
少年は少女を凝視したまま、ごくっ、と音をさせて唾を呑み込んだ。
「本当に、僕のこと、怖くない、の?」
「だから、怖くない、って。」
同じことを三たび尋ねられて、少女は少々倦んだように答えた。
少年は目をぱちぱちさせてから、いきなり、ははっ、と気の抜けたように笑った。
その少年に、今度は少女が尋ねた。
「泣いて、いるの?」
「え?
いや、泣いてなんかいない。
泣くなんて、絶対にするもんか。」
少年は強く否定した。ぶんぶんと首を振った。
涙を流すなど屈辱だ。
泣くなんて、弱いやつのすることだ。
少年の頭の中に、叱責の幻聴が響き渡った。
声を振り払うように少年は首を振った。
それを見て、少女はふわりと微笑んだ。
「泣いてもいいんだよ?」
「え…?」
そのとき感じたものは、いうなれば、とてつもない、解放感。
ほんの一瞬のうちに、それが、少年の胸の裡を満たしていた。
その瞬間少年は、囚われていた何もかもから、解き放たれた気がした。
胸の奥深くまで、一度息を吸った。
少年の瞳にみるみる涙が盛り上がり、一筋、つつっと流れて落ちた。
「…あ…」
自分の涙に驚いたように、少年は慌てて顔を赤くなるまでごしごしとこすった。
「っっっ!
こ、これは!
な、涙じゃ、ない!」
少女はゆっくりと首を傾げた。
「じゃあ、何?」
「!!!?
……」
少年の目が泳ぐ。
そして、答えをひねり出した。
「…は、鼻水?」
「目から鼻水は出ないよ?
お兄ちゃん、面白いね!」
少女は明るい声を立てて笑い出した。
そのときだった。
ふわり
ふわ、ふわ…
少年の周りにはいつの間にかたくさんの花が転がっていた。
青い、青い、竜胆の花だった。
流石に、今度は少女もそれに気づいた。
不思議そうに辺りを見回している。
少年の口は、あ、の形をしたまま、凍り付いていた。
「…、いや、これは、その…」
今さらごまかすように、少年は焦って足で花を蹴散らそうとした。
「だめ!」
突然響いた少女の制止の声に、少年は上げかけた足を慌てて下ろした。
少女は急いで駆け寄ると、少年の足に踏まれないように、花たちをかき集めた。
「すごい!
お花がこんなにいっぱい!」
両手いっぱいに花を抱えた少女は、嬉しそうに少年を見上げた。
少年は、けれど、そんな少女から目を逸らせた。
「…そんなもの、何の役にも立たない。幻だよ。すぐに消える。」
どこか諦めたような冷たい声で少年は言った。
けれど、少女は少年の言葉など聞こえなかったように、その花を石塔に供えた。
そんな作法をどこかで教わったのか、小さな両手を合わせると、目を瞑って、ナムナム、と唱えた。
「…そんなことしたって、無駄なのに…」
少女の背中に少年は呟いた。
けれど、少女は振り返ろうとしなかった。
少年は、小さなため息を吐くと、そのまま背中をむけて行こうとした。
けれども、少し離れたところまで行って、振り返った。
少女はまだ、手を合わせ続けていた。
さぁぁぁぁっ、とまた、風が渡っていった。
風に混じって、どこかから、獣の鳴き声のようなものが聞こえた気がした。
いや、と少年は何かを振り切るように頭を振った。
そのまま行こうとして、少年は、けれども、もう一度、振り返った。
人気のない竹林に、年端もいかぬ幼子がひとり。
恐ろしい獣や、野盗、狐狸妖怪の類の想像が少年の頭を過った。
少女が、悪党にさらわれるところまで、しっかり想像してから、慌てて頭を振った。
いやいや。自分だって、そういう連中と、そう大して変わらない…
自分に誰かの役に立つことなんか、できるわけがない。
そうだ。
自分にできるのは、ただ、誰の邪魔にもならないように…
そのときだった。
ああっ、という少女の小さな悲鳴が聞こえた。
考える暇もなく、からだが動いていた。
少年は、石塔の前で立ち尽くしている少女の元へと駆け付けていた。
「お花が!消えてしまったの!」
少女は、少年を見上げると、とても悲しそうに訴えた。
安堵して、少年はからだから力が抜けていくのを感じた。
だから、そう言ったのに、という言葉を少年は口から出る寸前で呑み込んだ。
そう言ってしまうには、あまりにも少女は悲し気だった。
少年は仕方なさそうに短く何か念じると、さっと指で宙を摘まむようにした。
その指先には、さっきまではなかった花が一輪、現れていた。
「…これも、すぐに消えるけど…」
少年はそう言いながら、腰を屈めて、花を少女に手渡そうとした。
少女は嬉しそうに花に手を伸ばした。
けれど、花と一緒に握られていたものに気づいて、ぎょっとしたように手を引っ込めた。
「あ。」
少年の手には抜き身のままの小刀が握られていた。
少女が来る前から手に握っていたものだった。
鞘はさっき投げ捨ててしまった。
少年は慌てて手を引っ込めると、小刀を背中に隠した。
ぱさり、と花は地面に落ちた。
「…それ…」
少女は少年のほうを指さした。
少年は小さく舌打ちをした。
「驚かせてごめん。
でも、これは、その…君を傷つけるためのものじゃない。」
少女を怖がらせるつもりはなかった。
ただ、うっかりそのまま、手に握っていただけだった。
「そっか。」
少女はあっさりそう頷くと、少年の取り落とした花を拾った。
青い青い竜胆の花だ。
そうしてそれを、石塔の前に供えに行った。
その間に、少年は慌てて辺りの地面を目で探した。
探し物はすぐに見つかった。
さっき投げ捨てた鞘だ。
急いで鞘を拾って小刀をしまうと、そのまま懐に押し込もうとした。
その手に、少女は引き留めるように飛びついてきた。
「ねえ!それ、とっても、キレイ!
もっと、見せて!」
少女はもっとよく小刀を見ようとするように腕にしがみついてきた。
小刀は柄にも鞘にも見事な細工が施されていた。
彫ってあるのは、遠い異国の花の模様。
ところどころに金箔がはってあって、珍しい石も嵌め込まれている。
それが少女の興味を惹いたようだった。
少女の反応は、少年にとっては予想外だった。
「え?綺麗?
いや…、…あの…
こら!危ない!」
子猿のように遠慮なく、少女は、少年の腕によじ登ろうとした。
少年は思わず大きな声を出してしまっていた。
途端に、少女はぴくりと凍り付いたように、動きを止めた。
そのまま、黙って地面に下り立つと、申し訳なさそうに、上目遣いで少年を見た。
少年は、盛大なため息を吐いた。
少女を怖がらせるつもりはなかった。
「鞘を抜いたらダメだよ?
ちょっと見るだけだよ?」
少年は、仕方なさそうに小刀を少女に手渡した。
少女は満面の笑みになって小刀を受け取った。
思ったより重かったのか、おっとっと、と取り落としそうになる。
それを少年ははらはらしながら見ていた。
両手に持った小刀を矯めつ眇めつしながら、少女は、うわぁ、と歓声を漏らした。
確かにそれは、少女の感心を惹くような意匠だった。
「キレイ…
これ、とっても、キレイね?」
少女は何度もそう繰り返した。
「ヒメギミのモチモノみたいね。」
嬉しそうに見上げる少女に、少年は苦笑して言った。
「母のものだったから。」
「ハハ?」
「お母さん。」
少女の目は少年を尊敬するように見つめた。
「へえ、いいなあ。
お兄ちゃんのお母さんは、キレイなヒメギミなの?」
少女にとって、姫君、というものは、何か特別な存在らしい。
少年は小さく苦笑した。
「…どうかな…
綺麗な人だった、って話しは聞いたことあるけど…」
「へえ、いいなあ。お兄ちゃん、いいなあ。」
少女はそう繰り返しながらいつまでも刀を眺めていた。
気のすむまで、見せてやるか、と少年は諦めてそこに腰を下ろした。
計画は完全に失敗した。
ぼんやりと、石塔の方を眺める。
こうして改めて見ると、綺麗な形をしていたのだなと思った。
あの人に相応しい、のかもしれない。
これも、父の愛、なのだろうか。
誰からも忘れ去られた、荒れ果てた場所を想像していた。
だから、初めてここを訪れたとき、少し驚いた。
石塔は長年の風雪に荒れることもなく、凛として、そこにあった。
こんな人気のない場所なのに、周囲には草もなく、明らかに誰かが手入れをしてくれているらしい。
いったい誰がそんなことをしてくれたのだろう。
けれども、確かに少年は、そのことに少し、救われたのだ…
ここがもし、本当に荒れ果てた場所だったら。
きっと、今頃、こんなふうに石塔を眺めたりはしていなかったに違いない。
気紛れに、手を、合わせてみようかと、思ったのだ。
せめて、手を合わせるくらいは、と。
その少しの時間が、少年の運命を大きく変えるとも知らずに。
あと少し。もう少し。
何かが間違っていたら。
自分はもう、ここにいなかった。
ほんの少し、何かの状況が変わっていたら。
ここを訪れた少女が見つけたのは、少年の亡骸だった。
今、手に持っている小刀で、喉を突き、こと切れた姿だった。
少女にそんな姿を見せずに済んで、よかった、と思った。
あんなふうに笑う少女を、もう笑えなくなるような目に合わせずに済んで、本当によかった。
何年も前から綿密に計画を立てて、ようやくここまで辿り着いた。
その最後の最後に、少女という異分子は入り込んだ。
そして、長年の計画はすべて、台無しになってしまった。
なのに、何故だかそれが、少しも残念ではないのだ。
いや、むしろ、いっそ、失敗してよかったと、清々しい気持ちにさえなっている。
それもこれも…
泣いてもいいんだよ。
少女の言ったさっきの言葉。
あの言葉は、どうしてこんなにも、真っ直ぐに心に入ってきたのだろう。
もしかしたら、もうずっと、自分は、誰かにそう言ってほしかったのだろうか。
ほんのついさっきまで、そんなことは思いもしなかった。
いや、僅かに頭を過ったとしても、絶対に、認めることはなかった。
けれど、今はごく自然に、それを認めてしまっている。
その言葉は、思ったよりも深く、少年の心に突き刺さった。
それは、精魂込めて研ぎ澄ませたあの刃よりも、もっと鋭く、少年の心を突き破った。
そうか、泣いてもいいのか。
ふっと、張りつめていたものが緩むように、そう思った。
そう思った途端に、長い間こだわってきたものが、何もかも、もう、どうでもよくなった。
あんな幼子のたった一言だったのに。
泣くな、愚か者。泣くなど弱い者のすることだ…
歯をくいしばって強くなれ。強い者こそが、この世の正義。
弱い者は、虐げられ、掠め取られ、侮られても、何も言えない。
弱さは悪だ。
ずっと、そう教えられてきた。
故郷に根強く蔓延るその信念は、けれども、少年には理解できなかった。
自分の正しさを押し通すために強くなるのは、何か違う気がしていた。
そんな少年に、周りはあからさまに失望した。
名家の当主である父親の失望は、周りの大人たちに伝わり、そして子どもたちにも伝わっていった。
父だけでなく、周りの大人たちも、そしてその態度を見た子どもたちも。
みんな、遠慮なく、少年を痛めつけた。
まるで誰かが、この少年なら痛めつけてもよいという赦しを、出したかのようだった。
直接的な暴力を受けることはなかった。
名家の嗣子に、流石にそれは憚られたのだろう。
けれども、言葉や態度、それから、密かにむけられる悪意は、暴力と同じに、もしかしたらそれ以上に、少年を傷つけた。
十頭領家の跡継ぎとして恥ずかしい…
やはり、あの母親が悪かったのだ…
余所者の産んだできそこない…
弱虫、役立たず、ごくつぶし…
投げつけられてきた言葉は、少年の心に突き刺さり、そのたびに心は血を流した。
やがて、少年の心は、どす黒い言葉の刃から守るために、硬い鱗で何重にも覆われた。
長年の間に、その鱗は、固くて高い壁になった。
何ものをも、受け容れるまい。何も、感じるまい。
けれど、投げつけられた言葉には、時間をかけて効いてくる毒があった。
冷たく凍り付いた外壁の内側は、やがてどろどろの膿に溶け、腐って落ちた。
もはや、何かを感じる心など、自分にはなくなったと思っていた。
なのに、少女のたった一言が、その壁に穴をあけた。
溢れた膿は、少女の屈託のない笑い声に全て浄化されてしまった。
膿の押し出された後には、痩せて、干からびて、ひねこびた心が、まだ、ちゃんと残っていた。
突然、耳に飛び込んできた笑い声。
哄笑ではない。嘲笑でもない。
誰も、蔑まない。軽んじない。
ただ明るく笑う声。
そんな笑いかたがあることさえ忘れていたのに。
その声は、一気に、少年を、こちら側に引き戻した。
そして、傷ついた心に、柔らかなかさぶたを作った。
痛みはもう、感じなかった。
ただ、傷の名残がほんの少し、じんとするだけだった。
それもいつかきっと、薄れて消える気がした。
不思議だった。
こんなことが、あるものだろうかと思った。
けれども、これは夢ではなく、紛れもない現実だった。
少女はすぐそこにいるし、自分はまだ、ちゃんと息をしていた。
物思いに囚われていた少年は、あっ、という少女の声に我に返った。
少女の足元に、あの小刀が落ちていた。
どうやら、取り落としてしまったらしい。
小刀はいつの間にか鞘が取り払われていた。
抜いてはいけないと言ったのに。
少年の忠告を忘れたのか、それとも、好奇心に勝てなかったのか。
少女は小刀を抜いてしまっていた。
そのときだった。
ぽたり…
少女の手から、赤い血が草の上に落ちた。
はっとした。
一瞬、視界が赤く染まった。
思わず駆け寄ると、少女の手首を握って引き寄せていた。
その掌についた傷を、まじまじと凝視していた。
軽く触れただけでも切れるほどに、刃はよく研いであった。
臆病な自分が万に一つも仕損じないためだった。
けれど、今はそれを後悔した。
取り落とした隙に、その刃は少女の手を傷つけてしまったのだ。
少女の掌には、刃で切った傷が一筋、まっすぐに走っていた。
少年は顔をしかめた。
自分の渡したものが少女を傷つけたことが何より許せなかった。
すっぱりと切れた傷から、ゆっくりと赤い血が滲みだしていた。
指先にたまった血が、赤い玉になって、今にもまた、ぽたりと落ちそうだった。
気が付くと、少年は思わずその指先を、自らの口に咥えていた。
どくん。
心臓が大きく跳ねた。
世界ごと揺らいだ気がした。
はっと我に返った。
それから、慌てて懐から軟膏を取り出すと、傷に丁寧に塗った。
清潔な手拭を細く裂いて、傷を保護するように巻きつけた。
それほど大きな傷ではなかったのは幸いだった。
力を入れて斬りつけたわけではないから、深さもなかった。
少年が手を離すと、少女は手当された自分の手を不思議そうに見た。
巻きつけられた白い布が目に眩しい。
けれどそれよりなにより、軟膏のひどい臭いに顔をしかめた。
「…あれ…?」
ところが、恐る恐る反対の手で傷を押してみても、痛みはもうまったく感じなかった。
このとんでもなく臭い軟膏は、効き目もとんでもないらしかった。
少女が手当してもらった手を観察している間に、少年は、少女の足元に落ちていた小刀を拾うと、少女の手から鞘を取って、しっかりと刀身を収めた。
「…あの、ごめんなさい…」
無表情なままの少年に、少女は恐る恐る謝った。
言われたことを守らずに、刃を抜いてしまったことを思い出したようだった。
少年は、ちらりと少女を見てから、おもむろに、手に持った小刀を、竹藪に向かって放り投げた。
突然のことに少女は驚いて、その場に立ち竦んだ。
「…ごめんなさい…」
少女は泣きそうになりながら、もう一度、小さな声で謝った。
少年は少女を見下ろして冷ややかに言った。
「危険なものを渡してしまったのは僕だ。君は悪くない。
傷は?痛まない?」
「お兄ちゃんに手当してもらったから、もう大丈夫。」
少女は少年のほうへ掌を突き出してみせた。
「あんなものがあるから、いけないんだ。
とっとと捨てておくんだった。」
少年はさっき小刀を放り投げた竹藪を睨んで、怒ったように言った。
「…あれって、お母さんから、借りたものだよね?」
少女は同じ竹藪を見遣りながら、心配そうに言った。
「借りたものは、ちゃんと返さないとダメなんだよ?」
「借りたわけじゃない。
あれは、母が遺した…まあ、一応は、形見、みたいなもので…」
「カタミ?」
「死んだ人の使っていた道具。」
「お兄ちゃん!お母さん、死んじゃったの?」
少女は驚いた声をあげた。
少年は煩わしそうに答えた。
「ああ、もう、ずいぶん前に…」
「それって、大事なものだよね?!」
少女は少年の腕に取りついた。
少年は淡々と返した。
「べつに。もういらないものだよ。」
「ダメだよ。お母さんはいらなくない!」
少女は急いで竹藪に駆けて行った。
投げた小刀を探そうとでも言うのだろうか。
けれど、鬱蒼とした竹藪は、下草もみっちり生えていて、あんな小さなものが見つかるとは到底、思えなかった。
「もう、いいよ。
探さなくていい。」
少年は突き放すように言った。
「…そんなところ探したって、もう、見つからないよ。」
少女は少年を振り返って言い返した。
「ダメだよ。
諦めちゃダメ。」
「いいんだ。もういらないものなんだから。」
「いらなくないよ。
大事なお母さんのカタミ、だよ?」
「探さなくていいって…」
少年は少女と一緒に探す気にはなれなかった。
かと言って、そのまま少女をそこに置き去りにすることもできなかった。
どっちつかずのまま、所在なさげにぼんやりと突っ立って、少女のほうを眺めていた。
すると、その少年にむかって、少女の声が飛んできた。
「お兄ちゃんも、手伝ってよ。」
「はい?
いや、僕はもう、その小刀はいらない、から…」
少年は嫌そうに顔をしかめた。
「いいから!手伝って!」
強く言われて、少年はしぶしぶ、少女のほうへと歩み寄って行った。
しかし、とてつもない草むらだった。
到底、見つかりそうには思えなかった。
少年はうんざりしたように少女を見た。
「もう、諦めようよ。」
少女は頑として首を振った。
「ダメだよ。
あれはトクベツな小刀なんだよ。」
「もしかして、小刀がほしいの?
だったら、どこかで買ってあげるから…」
「小刀がほしいんじゃないの!
あれが、大事なの!」
少女は分からない相手に言い聞かせるように強く言った。
それから、真剣な目をして、再び辺りを探し始めた。
少年はため息を吐くと、しぶしぶ、再び辺りを探し始めた。
しかし、ふたりがかりでも、小刀はなかなか見つからなかった。
「なんで、そんな大事なもの、投げたのよ?」
見つからないことに倦んできたのか、少女は少年に叱るように言った。
少年は淡々と言い返した。
「危ないから。」
「小刀は危ない道具じゃないよ。
ちゃんと使えば、役に立つ道具だよ。」
親に普段そう言われているのだろうか。
少女は妙に大人びた口をきいた。
少年は思わず同等の相手にするように言い返していた。
「現に君はあれで怪我をしたじゃないか。」
「怪我をしたのは、言いつけを守らなかったリンが悪かったんだよ。
刀のせいじゃない。」
そこは分かってるんだな、と少年は思わず苦笑した。
そのときだった。
気紛れに竹藪に差し込んだ陽光に、きらり、と何かが光った。
「あっ!」
ふたり同時に手を出していた。
それを掴んだのは、少女の手だった。
「この玉が!この玉が光ったんだよ!!」
少女は興奮して、小刀に嵌められた石を指さした。
そうだね、と少年は頷いた。
すると少女は得意気に続けた。
「あのね、この小刀はお兄ちゃんに見つけてほしかったんだよ。
だから、ちゃんと、きらっと光ったの。
自分で場所を知らせたんだよ。」
なるほどね、と少年は適当な相槌を打った。
すると、少女はますます得意気になった。
「大事なものはね、きっと必ず、帰ってくるんだよ。
これは、大事なものなんだよ。」
それから、はい、と力強く、少年に小刀を突き出した。
「この刀はきっとお兄ちゃんを守ってくれるから。
もう捨てたりしないでね?」
少年は跪くと、主君から刀を授かる正式な礼を取って、刀を受け取った。
あえて少女には何も言わなかったが、それは、少女に永遠の忠誠を誓う印だった。
今ここでそんなものを誓ったところで、現実に少女を自らの主君にすることはできないけれど。
長い間の呪縛から自分を解放してくれた少女に対して、せめて礼を尽くしたかったのだ。
誓いを立てると、少年は立ち上がった。
「じゃあ、僕はもう行くよ。」
それだけ言って背中をむけて行こうとした。
その背中にむかって少女が言った。
「リン!」
「は、い?」
少年は驚いて振り返った。
その少年に、少女はもどかしそうに言った。
「キミ、じゃなくて、リン!」
それが少女の名だと少年が気づくのにほんの一瞬の間があった。
少年にとって、名とはそんなにあっさり名乗ってよいものではなかった。
リン、と小さく口のなかで繰り返した。
響きのよい名だと思った。
少女に相応しいと思った。
リンは満足そうに微笑んだ。
「ねえ、お兄ちゃん!
この先にあけびがたくさんなってるんだ!
一緒に取って、食べようよ!」
こんなふうに誰かに誘われた経験は、これまで一度もなかった。
そんな誘いなど、断ろうと思えば、断れたはずだった。
なのに、どうしてなのか。
少年は、いいよ、と答えていた。